一方、両隊長不在の埋立地。その日の3時半を回った頃、一本の電話がかかってきた。 「はい特車2課」 待機任務中の第一小隊1号機バックス、篠原遊馬が受話器をとった。 「ああ、篠原巡査か、実は――」 「あ、松井刑事ですか。隊長たちなら二人とも出かけてますよ、確か栃木だとか――」 「あすまー、どこから電話?」 パートナーの泉野明が声をかける。 遊馬は受話器を手で押さえ、「捜査一課の松井さん」と言った。 「その隊長さんたちなんだがなあ……」 次の言葉に遊馬は我が耳を疑った。 「えーっ、隊長たちが人質ぃ!?」 その叫び声に部屋中のみんなが遊馬の方を見る。 それに気が付き、遊馬は大きく深呼吸をしてから、松井に言った。 「オレ一瞬、隊長たちのことより犯人の心配しちゃったんですけど……」 まさか自分もそうだと、口が裂けても言えない松井刑事であった。 後藤は銃を突きつけられたまま、しのぶのレジェンドに押し込まれた。 そして男は助手席に乗り込む。 サービスエリアを出られたはいいが、後ろからは依然として高速隊のパトカーが追ってくる。 助手席の男は明らかに苛ついていた。 「パトカー、まきましょうか?」 そう言ったのは後藤であった。 その言葉の真意をしのぶは疑った。 「じゃ、じゃあそうしてくれい」 男がそう言うと、後藤はアクセルをぐっと踏み込んだ。 とたんに後続のパトカーとの距離が広がる。 「しのぶさん、この車、結構スピード出るもんだねえ」 ほとんど普段と変わらない様子で後藤が言う。 半ば楽しんでいるように聞こえるくらいだ。 そういう間に前の車との距離が狭まっていく。 「よっと」 前方の車との距離がギリギリに狭まったところで、後藤が右にハンドルを切った。 車の中全員が右に傾く。 そして左の車を追い抜くと、今度もまたギリギリのところでハンドルを切る。 あれよあれよという間にパトカーとの距離がどんどんと広がっていき、 しまいには小さな点ほどにしか見えなくなった。 (全く後藤さんったら、何で犯人の――) そのときしのぶは気付いた、後藤の行動の本当のわけを。 犯人のライフルの先は彼の頭を向いていたのだ。 むしろ彼は、その恐怖をおくびにも出していなかった。 パトカーをまいたことに安堵したのか、犯人は明らかに冗舌になっていた。 「お前さんたち、何やってんだ?」 「公務員よ」 しのぶがそういった瞬間、運転席から後藤が一瞬後ろを向いた。 それは、いつもの『昼行灯』のものではない、 かつて『カミソリ』と呼ばれていたときと同じものだ。 「公務員っていってもよぉ、いろいろあるじゃねえか」 警戒した様子で男が訊きかえした。 「教師ですよ、中学校の」 後藤がさも本当のことのように言った。 男は納得したように、質問の矛先を変えた。 「で、お前さんら、夫婦け?」 この質問に、さすがのしのぶも言葉を失った。 二人の背後関係を知らないから言える言葉だ。 無知とは本当に恐ろしい。 「ええ、昔おんなじ中学校に勤めてましてねえ、それが縁で」 またも後藤が平然と言った。 「へえ、どこの」 「東京です」 ここで嘘をついてもナンバーを見ればばれるだけだ。 しのぶは覚悟を決め、後藤の引いた虚構のレールに乗ることにした。 「昔は入谷の方にいたんですが、彼女は今は世田谷の方の学校にいるんですよ。 で、おれは湾岸の方、って言えばわかりますかね」 入谷といえば後藤の出身である。 「湾岸って、お台場の方か?」 「ええ、まあお台場には近いですが」 とヒントを並べながらも肝心なところではぐらかしていく。 実際、後藤はこの状況を楽しんでいるかのようだった。 「うちのクラスは大変ですよ、問題児ばっかりで。 ま、学級委員長がしっかりした子で何とかまとまってるんですが。 でも、出来の悪い子ほど可愛いって言うこともありますし。 ところでしのぶさんの学校はどう?」 突然後藤はしのぶに話を振った。 そういや聞いたことないからなあと、彼は事実そうであるかのようにつぶやく。 しのぶは男に聞こえないように小さく咳払いをしてから言った。 「うちの生徒は優秀よ、よくやってくれてるわ」 「へえ、さすが成城」 バックミラー越しに後藤の笑みが見える。 あちらは楽しそうだが、付き合ってる方としたらたまったものじゃない。 車内が落ち着いてくるにつれて、 しのぶの中には後藤への恨みつらみが再び沸きあがってきた。 ましてこの状況だって、半分は後藤が招いたと言っても過言ではない。 考えてみれば第2小隊発足以来、しのぶはずっと後藤に振り回されてきた。 いいところはみなイングラムに持っていかれ、第1小隊はといえば常に第2小隊の後片付け。 それも性能の差とあきらめても、新型機が入ってもその関係は変わらなかった。 おまけに今日のこの事態! ミラー越しの表情からは後藤の本心をうかがい知ることはできない。 いつもと同じ、『昼行灯』の仮面。 今までの韜晦されっぱなしの日々の中で、ここまで彼の仮面の下を覗きたいと思った日はなかった。 「しのぶさんって、おめえさんよ、随分他人行儀じゃねえか?」 男が二人の嘘にケチをつけた。 しのぶの表情が一瞬固まる。 「あ、すいませんねえ、新婚なんで、独身の頃の癖が抜け切れてないんですよ」 後藤が楽しそうに言う。 実に楽しそうだ。 「あ、煙草吸わないでくださいよ。臭いが移るってうるさいんですよ」 男がポケットから何かを取り出そうとしているのを見て、後藤がたしなめる。 「家でも、一緒だった頃は職場でもよく言われたもんですよ。 お陰でこっちは居場所がなくて――」 しのぶはミラー越しに後藤をにらみつける。 「おいおい、夫婦喧嘩中かい」 との助手席の男の言葉に、後藤は苦笑せざるを得なかった。 (しのぶさん、こういうときぐらい優しくしてくれたっていいじゃない) 彼の心の声はしのぶには聞こえなかった。 それでも後藤は、助手席の男とあることないことを言っては、 まるで意気投合しているかのようだった。 男の趣味が釣りであることを知って、彼はそっちのほうに話題を移していた。 「へぇ、海釣りにもよく行ってらしたんですか」 「おお、海なし県だけんども、前はよく行ってたなあ。ひたちなかの方とかで、岸壁釣りにさあ」 しのぶはちょうど座席を境に、完全に蚊帳の外だった。 確かに、そうやって相手を油断させるという戦術は同じ警官として分かる。 しかし、それにしても後藤はどこか嬉々として犯人の男と話をあわせている。 この状況をどこか楽しんでいるのか、それともこれが彼一流の韜晦なのか、 長いこと一緒に仕事をしているしのぶにも見抜けない。 しのぶは、ミラー越しに彼の顔をうかがった。 そのとき、後藤もまたバックミラーで後部座席を覗く。 鏡の上で、一瞬、二人の視線が交差する。 その眼はさっきまでの楽しげなものとは違っていた。 どこか相手を気遣うような眼差し、それはまるで本物の夫が妻に見せるようなものだった。 しのぶはあわててミラーから視線をそらす。 (まったく、心配するのも勝手なんだから。 だったら最初からあんなことしでかさなきゃいいのよ) すっかり頑なになっていたしのぶの心は、後藤のそんな視線もはねのけてしまった。 しかし、その後も運転席の彼の様子を見ていると、 ちらちらとミラー越しに後ろの様子を気にしていた。 どこか申し訳なさも混じるその視線に、 しのぶの心の中には一種同情じみたものも芽生え始めていた。 (たしかに、さっきから冷たい態度を取り続けてきたのは悪かったかもしれない。 だって、後藤さんが言ったのは正論には違いないし、 あのまま計画が進んでいたら間違いなく命取りなミスの一つや二つは起きるはず。でも…) だからといって、後藤に優しい言葉をかけるのは彼女のプライドが許さなかった。 それ以上に、状況が状況である。 しのぶは芽生えかけた同情をぐっと押し殺して、ミラーから目をそむけた。
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