「そういえば泉さんたち、どうしてるかしら」
しのぶの言葉にさっきまでのわだかまりはなかった。
「篠原と仲良くやっとるらしいよ。もっとも、最近は疎遠になっちゃったけど」
彼もまたかつてのようにさらっと返す。
「太田も熊耳も進士も山崎も、新天地でがんばってるらしいからな」
なのに自分だけくすぶったまま。 後藤は机の上に置かれた煙草とライターに手を伸ばすと、一本くわえて火を付けた。 その瞬間、向かいのしのぶと目が会う。
「あ・・・」 「お構いなく。後藤さんのうちなんだから」
しのぶは静かに微笑む。 しかし、好意に甘えるわけにもいかず、後藤は窓際に擦り寄ると、小さく窓を開けて煙を吐いた。
「雪・・・結構ひどくなってきたねぇ」
わずかに開いた窓の隙間から外を眺めながら、後藤が言った。
「外は暗いし、こりゃ朝になってから帰ったほうがいいんじゃないかな」
そのときのしのぶの反応を見て初めて、自分が言っていることに気が付いた。
「あ、布団だったら客用のこっちに引くから。だから何も・・・ あ、しばらく干してないからかび臭いかもしれないけど」 「そんな、気を遣わなくっても――」
しのぶは荷物をまとめながら、立ち上がろうとする後藤の手首をつかんだ。 しかし彼もまた、立ち去ろうとするしのぶを押しとどめようとした。 お互い腕を引っ張り合う中、こたつ布団に足がもつれて そのまま二人ともその場に座り込んでしまった。
「しのぶさん、手、冷たいね。まるで氷みたいだ」
その言葉に、座り込んだまま離そうとしなかった手を引っ込めた。 後藤はさっきまでつかまれていた手首に手をやる。 まるで冷たいぬくもりを感じようというように。
「今お風呂沸かしてくるから」
やはり引きとめようとしたしのぶの手は、今度はむなしく宙を泳いだ。
「あ、それともお湯入れ直そっか?おれが入ったあとじゃいやだよね」
しのぶの追及を逃れて、後藤は風呂場から声をかける。
「いいわよ、わざわざそんな――」 「だって、雪の中いたんでしょ、そんな薄着で。風邪引いちゃうよ」
そんな彼の心遣いが、今の彼女にとっては苦しいくらいだった。
「しのぶさん?」 「――沸かし直しでいいわ」 「ん、分かった」
ゴーッというボイラーの音が、雪の静寂に響く。 湯加減を確かめていたのか、腕まくりを解きながら後藤が戻ってきた。 どっちにせよ、これで風呂が沸くまでしのぶはここにいなければならない。 手持ち無沙汰を紛らわすように、冷めかけた茶に手を出す。 すると後藤がさっと急須を差し出した。
「あ・・・ありがと」 「ん、でももう出がらしになってるかも」
一口すすった茶は確かに渋みを増していた。
「あ、着替え――」
後藤が思い出したように言う。
「いいわ。今あるの着るから」
ぴしゃりと言い放つ。 後藤はただ降る雪を眺めていた。しのぶも外に目をやる。 再びこの場は静寂に支配された。 しかし、今度は二人ともあえて打ち破ろうとしなかった。 ただ二人で雪を眺めていた。まるでかつて隊長室でそうしていたように。
ふと後藤がしのぶの顔に目を向ける。 彼女の眼は、雪の向こうに何かを見ているかのようだった。 気付かれないように視線を戻すと、同じようにじっと雪の向こうを眺めていた、 タイミングを見計らいながら。そしてこう切り出した。
「しのぶさん、柘植から何か言ってきた?」
しのぶは視線を雪の奥から後藤へと移した。彼は上目遣いでしのぶを見遣った。
「いえ、何も。手紙なら送られてきているらしいけど、全部母が処分しているし」
声がかすかに震えていた。地雷を踏んだか、とっさにそう思った。
「あの人のことは、もう、思い出さないようにしているの。 いえ、思い出さないわ。その代わり、思い出すのはいつも後藤さんのこと」
そう言われて、後藤は背筋を上げた。
「不思議なものね、2課で割り食わされたことも、今となってはいい思い出なんだもの」
その言葉の真意を彼は測りかねていた。 過大評価していいのか、それともただ事実を述べたまでか。 いつしか静寂の中響いていたボイラー音も止んでいた。
「あ、風呂沸いたみたいだから」
湯加減を見てくると、そう言って彼はその場を放棄した。
「適温だったよ。ちょっと熱いくらいだけど」
戻ってくると、何事もなかったようにそう言った。
「そう、じゃあ」 とだけ言うと、しのぶは脱衣所へと消えていった。 雪の静寂の中、彼女の衣擦れの音だけが静かに響く。 その中で後藤は彼女の言葉を未だ反芻していた。
「思い出すのはいつも後藤さんのこと、か」
その言葉にうぬぼれていいのか、それだけを悩み続けた。 風呂場からは、彼女が湯を使う音が聞こえてきた。 今となってはいい思い出、思い出だけで終わってしまうのか、それとも・・・。
取り留めのない思考を断ち切るかのように、後藤は腰を上げた。
「そうだ、布団引かなきゃ」
わざと口に出して。
風呂場のドアがきしんだ音を立てた。 身支度を整えたあと、しのぶがタオルを肩に下げたまま現れた。
「バスタオル使わせてもらったけど」
先ほど、戸口に現れたときとは違って頬は薄紅色だった。
「あ、タオルぐらい新しいの出しても良かったのに」 「後藤さんの匂いがするわ」 「あんまいい臭いでもないと思うけど」
二人はかつてと変わらぬ応酬を楽しんでいるようだった。 しかし、次の瞬間しのぶの表情が曇る。 後藤は、そのわずかな変化を見逃さなかった。
「どうしたの、しのぶさん」
一転、彼女は神妙な面持ちでその場に腰を下ろした。
「しのぶさん?」 「――相談があるの。後藤さんにしか相談できないと思って。 でも、相談すべきかどうかずっとお風呂の中でも迷ってたんだけど、 ここにきたのも何かの縁だし」
そう落ち着いた様子で話すしのぶに、後藤も居住まいを正した。
「特車2課が再編されるって話、聞いてる?」 「あ、ああ」
閑職に追いやられていると、かえっていろんなことを耳にすることになる。 それじゃなくとも、特車2課がらみの話題は、耳聡い同僚たちがわざわざ後藤の耳に入れてきた。 その反応をみてからかう子供のように。
「たしか、2中隊体制にして第4、第5小隊を新設するとか」 「それで私に、新設の第2中隊長にならないかって打診が来たの」
しのぶはくっと唇を噛みしめた。 彼女は自分を罰しているのだ。そう後藤には分かった。 柘植を止められなかった自分を、女を捨てきれなかった自分を。 そして、自分で自分からレイバーを遠ざけたのだ。 今まで彼女が、警察官としてのキャリアの大半を費やしてきたレイバーを。
「あれから1年経って、もうほとぼりも冷めただろうって」
しかし、彼女の中では冷めていなかった。そして、これからも冷めることはないのだろう。 もともと潔癖な彼女が、そういったなあなあな『みそぎ』を受け入れるはずもない。 語気からは憤りすら感じられた。 しかしそれは、そういった世間に対してではない。行き場のない、むしろ自分自身に対しての。
今の後藤にはそんな彼女がとても痛々しく思えた。 愛する人も、キャリアも失ってそれでもなお自分を律し続けるしのぶを、 抱きしめてやりたいとすら思った。 もうこれ以上無理をすることはない、だって充分無理をし続けてきたのだから。
「でも、しのぶさんにとってレイバーって、そんなに簡単にあきらめられちゃうものなの?」
後藤はきっぱりと、しかし穏やかに言った。 じっとうつむいたままのしのぶ。しかし、その肩はわずかに震えていた。 その表情を覗き込もうとすると、影の中、何かが光っているのが見えた。 そしてそれは固く握りしめた彼女のこぶしの上に落ちた。 かすかな嗚咽が部屋の中に響いた。
それは後藤の前で初めて見せた、しのぶの涙だった。 彼女はまるで糸がぷつんと切れてしまったかのように、大粒の涙を流していた。 その姿に、かつての隊長然とした凛々しい面影はなかった。 ただ、そこにあるのはたった独りで真冬の寒さのような世間にさらされていた、 か弱い女の姿だった。
その姿に、後藤は彼女を抱きしめずにはいられなかった。
「何で今まで、独りで無理してきたのさ。おれだっていたのに」 「何度も後藤さんのことを思い出したわ。 辛いとき、壁にぶつかったとき、後藤さんだったらどうするだろう、 どう言ってくれるだろうって。でも――」
甘えるわけにはいかない。それが彼女の矜持だったのだろう。 自分で自分からレイバーを遠ざけたように。
「でも、何もそこまで・・・」 「独りでやって行けると思ったの。 後藤さんのくれた思い出と、あの人がくれた痛みと。それだけでやっていけると思ってた」
そう、自分もかつてそう思っていた。 しかし、それだけではやっていけないことを彼女に気付かされたのだ。
しのぶは彼の胸に体を預けた。 後藤の胸が涙で濡れる。 しのぶはもう涙をこらえようとしなかった。 後藤は彼女の背中をそっと撫でた。まるで幼い子供をなだめるように。
「しのぶさん、もう独りでやっていこうっていうのが無理なんだよ」
その言葉に、涙に濡れた顔を上げた。
「おれたちはもうお互いを必要とするくらいに側にいすぎたんだよ。 今さら、離ればなれになんてなれっこないんだから」
しのぶの眼は真っ直ぐ彼を向いていた。後藤の眼も彼女をじっと見つめていた。 心が欲していた。体が求めていた。もう言葉は要らなかった。
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