今年初めて、雪の降った夜
 

 ――何の夢を見ていたのだろう。

ただ覚えているのはこの身を包み込むような甘い芳しさと冷たさ、

そしてただただ一面を埋め尽くす白――。

 

後藤喜一は周りの空気の微妙な違いに目を覚ました。

周りの様子は普段と何も変わらない、そこはいつもと同じ殺風景な、四十男の一人住まいだった。

昨夜帰ってから開いた夕刊が、こたつの上にそのまま広がっている。

ただ、空気がいつもよりひんやりとしていた。いつものわびしい独り暮らし以上に。

思い立って、枕元の目覚し時計を見る。午前2時。

 

「草木も眠る丑三つ時、か」

 

確かに辺りは静寂に包まれていた。

この時間、冬の真夜中に訪れる者のいない公団住宅の一角。

ただ聞こえるものは遠くを走る車の音か、野良犬の遠吠えばかり。

しかし、今夜はそれすらも聞こえない。

まるで、全ての音という音が消えてしまったかのような静寂。

 

後藤は窓を開けた。

そこには、真夜中というのにかすかな、しかし異様な眩しさがあった。

空は厚い雲に覆われ、月も、星ひとつ出てはいない。

だが、地面は一面雪に覆われ、それが街灯などのかすかな明かりを乱反射させていた。

全ての音という音を吸い取って。

 

「雪、か・・・」

 

それは彼に、否応無しに1年前の雪の日を思い出させた。

雪の降りしきる中、運河で男に銃を向けた彼女。

あの雪の埋立地で、自分を置いて永遠に去ってしまった女(ひと)。

この雪景色が、まるで時空を越えてあの雪の日にまで続いているような錯覚さえ覚えた。

街灯のスポットライトの向こうの闇から、彼女が現れるのではないか――。

 

しかし、そんな妄想はこの1年嫌というほど見続けてきた。

そしてそれが叶わぬ夢だということも、痛いほど実感していた。

もはや、そうと分かっても傷つかないほどに。

 

「うー、寒ぃや」

 

と言うと彼は窓を閉めた。

いや違う。本当に寒いのは、自分の胸の中なのに。

 

そのとき、階段を上がる足音が、雪の静寂の中静かに響いた。

こつ、こつ、こつ。

女物の靴だ。それは次第に後藤の部屋へと近づいてくる。

 

(誰だろう、こんな真夜中に)

 

そのときふと、いつか聞いた雪女の話が頭をよぎった。

この際、雪女でも誰でもいい。

この、すきま風吹く心を、ほんの一時でも埋めてくれるのなら――。

 

足音がドアの前で止まる。

しかし、主は何を躊躇するのか、そこで止まってしまった。

再び辺りを包む静寂。

その静寂の中、後藤は身動き一つせず、じっとドアを見つめていた。

何者が入ってくるのか、見極めてやろうというように。

 

長いような短いような空白ののち、玄関のドアがきしんだ音を立てて開いた。

そこに現れた訪れ人を、一瞬彼は雪女と錯覚した。

白いコートに身を包んだ、見慣れた顔の雪女。

それは、南雲しのぶであった。

 

「――お久しぶり」

 

後藤は立ち上がり玄関そばにたつと、最初の一言をさんざん探した挙句にこう言った。

 

「ええ、お久しぶり」

 

1年ぶりということを感じさせずに彼女が返す。

 

至近距離から見た彼女の肩に、うっすらと雪が積もっていた。

とっさに彼はそれを払おうとする、が、ぎりぎりのところで手が止まった。

彼女に触れることはできなかった。

するとしのぶは彼の手と表情を交互に見比べたあと、自ら肩の雪を払った。

 

「あっ、今、お茶入れるから」

「いいわ、お気遣いなく」

「そんな他人行儀なこと言わないでよ。あ、それともコーヒーがいい?」

 

あえてあの頃と変わらない口調で声をかける。

しかし、他人行儀なのはむしろ自分なのかもしれない。

 

しのぶは勧められるままにコートを脱ぎ、こたつに入った。

しかし、さっきスイッチを入れたばかりなのでまだ少し冷たい。

そのまま彼女は、台所の後藤に背を向けるように、外の雪を眺めていた。

 

それにしても、彼女の頬は雪のように白かった。

もともと、どちらかといえば色白な方だっただろう。

しかし、この寒空の下、紅も差してない顔は青白いほどだった。

 

顔色だけではない。

コートの中に着てきたのは、普段着であろう、着古して毛羽立った生成のセーター。

そして、流行おくれのベージュのロングスカート。

そういえば髪もどこか無造作なままだ。

かつての凛としたたたずまいの彼女とはかけ離れていた。

 

それでも後藤は彼女を美しいと思った。

たとえ質素な身なりであっても、いや、質素な身なりだからこそ、

彼女の本来持っている美しさが際立っているように思えた。

そして遠くを見遣るうつろな眼は、

かつて完璧なガードで覆い隠していた彼女の『女』を感じさせた。

その眼が見つめる先が、自分でないにしても。

 

薬缶がしゅんしゅんと湯気を立てる。

彼は火を止めると、戸棚からもらい物の高級煎茶を取り出して、湿気てはいないかと振ってみた。

いつも使いの湯飲みと、奥から来客用を取り出して茶を注ぐ。

しのぶの前に差し出すと、彼女はまず湯飲みを両手で包み込むように持った。

 

「あったかい」

 

そんな言葉が、ため息のように漏れる。

 

「しのぶさん、最近どう?」

 

当り障りのない話題から切り出した。

 

「最近って――ええ、まぁ順調よ。忙しすぎて余計なこと考えられないくらい」

 

そう言う彼女の表情に翳りはない。吹っ切れた証拠か。

 

「後藤さんこそ、どうなの?」

「あれ、知らない?忙しすぎてそんなこと聞いてないのかな。毎日ヒマでヒマで」

 

思い出した。確か、噂に聞いたことがある。

彼は今、有り体にいえば『窓際』に回されていると。

毎日仕事というべき仕事もなく、ただ家と職場を往復するだけの毎日。

かつてのカミソリの末路としては、あまりにも惨めすぎる。

 

しのぶは目を伏せた。辺りを包む静寂。それは、雪でいっそう強まった。

その中で彼女は、恐る恐る言葉を発した。

 

「ねえ、後藤さん、仕事辞めようとは思わないの?」

 

しかし、その答えは淡々とした、いつもの後藤のものだった。

 

「おれに警察官以外の何ができるっていうの」

 

そう言うと彼は目の前の茶を一口すすった。

 

「この仕事やって20年、今さらほかに何ができるっていうわけ?」

「そう――訊いて、悪かったわね」

 

言葉の端に後悔が浮かぶ。

 

「いや、こっちも悪かったよ」

 

雪のしじまを埋めるように、後藤はしのぶの茶碗に注ぎ足した。

そして、自分のあまり減っていない湯飲みにも。

しのぶは注がれたばかりの茶を口へと運ぶ。そこに、言葉はなかった。

 

かつてはそうではなかった。

静けさの中に気まずさの流れることは、あの隊長室ではなかった。

たとえ言葉を交わさなくても、互いの存在を空気のように感じることができた。

しかし、今は違う。

何か言わなければ、言葉を交わさなければ、そのまま相手が降る雪の中に消えてしまうような、

そんな強迫観念じみた思いが二人を包む。

だが、皮肉にも探そうとすればするほど、言うべき言葉は見つからない。

浮かんでは消える取り止めのない言葉は全て、小骨のように喉の奥に引っかかった。

 

「あのさ――」

「後藤さ――」

 

静寂を打ち破ろうとする、二人の言葉が交錯する。

そこで言いかけの言葉は途切れ、公団住宅の狭い居間は再び静寂に支配された。

互いに、相手をちらと見遣っては視線をそらす。

言葉を発することを禁じられた中、何とか視線で意図を伝えようとするかのように。

この沈黙の探りあいに痺れを切らして、後藤がおずおずと話しかけた。

 

「あのさ・・・しのぶさん、どうしてここに来たの?」

 

しかししのぶは答えなかった。再びの静寂。彼女はただじっと目を伏せていた。

後藤はその伏せられた目をじっと見つめていた。

彼の様子をうかがうように、ちらりと上げたしのぶの視線が後藤に捕らえられる。

まるで逃れるように彼女は、視線をさらに伏せた。

彼の眼は、その問いが沈黙を埋めるためのただの思いつきでないことを雄弁に物語っていた。

それはあの静寂の中、言い出したくても言えなかった問い。

それでもなおのどの奥から振り絞った問い。

それをおざなりの沈黙で答えることなど、しのぶにはできそうになかった。

 

「――埋立地に、行ってきたの」

 

叱られた子供のように、目を伏せたまま答えた。

 

「雪が降ってきたのを見て、居ても立ってもいられなくて、

それでコートだけ羽織って、行ってこなくちゃって、もうほかに何も考えられなくて――」

 

何かに急かされているかのように早口でまくし立てる。こんな彼女を見たことがなかった。

しかし、短いブレスのあと、平静を取り戻したように彼女は言った。

 

「・・・でも、もう何もなかった。あのボロボロの鉄屑になった建物は、とっくの昔に取り壊されてた。

あとは一面、枯れ果てたセイタカアワダチソウばかり」

「で・・・」

「ここに来たの」

 

しのぶはやっと顔を上げた。

目の前には、包み込むような笑みを浮かべた後藤がいた。

しのぶも、叶う限りの微笑みで返した。

 

 

 

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"Patlabor"