そう、それは真っ白な雪の中だった。 一面に広がる雪景色の中、おれはたった一人立ちつくしていた。 いや、一人ではない。 それは最初、雪と見紛うほどだった。 雪のような真っ白な着物に、それと同じくらい白い肌。 彼女が、雪の彼方から現れた。 彼女は、雪の中を何かを探すようにさまよい歩いていた。 しかし、あたりは一面の雪景色、おれたち二人以外何もない。 それでも彼女の眼は必死に何かを、誰かを捜し求めていた。 黒い髪が、雪原を吹き抜ける風になびく。 その風が降り積もった粉雪を再び空に舞い上げた。 雪女だ。そう思った。 そしておれは振り向いた。 振り向いた視線の先に、彼女の姿があった。 しかし彼女は目を伏せた。 探していたのはおれではないと言うかのように。 それでもおれは彼女に駆け寄った。膝まである雪の中を。 もう既に、雪女に魅入られてしまったのかもしれない。 その雪女はまるで誰かを待っているように立ちすくんでいた。 おれは彼女を抱きしめた。 しかし、雪女は哀しい笑みを浮かべたあと、すっと消えてしまった。 まるで淡雪のように、 腕の中に冷たいぬくもりを残して・・・。
後藤喜一は周りの空気の微妙な違いに目を覚ました。 肌にまとわりつく冷たさと、眩しいまでの明るさ。 ああ、雪が降っていたんだ。窓の外を見るまでもなく、そのことを思い出した。 そして、彼はほとんど何も身につけていなかった。 それは、居間にひかれた客用布団の中だった。 だとしたら、あれは夢だったのか。 いや違う。そのぬくもりは今も腕の中に残っている。 しかし、まるであの夢のように、淡雪のごとく消えてしまったのだとしたら・・・。 後藤は脱ぎ散らかされた自分のパジャマを身につけると、布団から跳ね起きた。 居間から見える台所の奥で、しのぶが包丁を握っていた。
「あ、後藤さん、目が覚めた?」
後朝の朝らしからぬ何気なさで彼女が声をかけた。 そのあまりの何気なさに、今まで非日常の世界にいた後藤はしばし面食らっていた。
「お鍋の中に残り物があったから、温めなおして朝ごはんにしようと思ったんだけど」 「あ、ああ・・・おれがやったのに」 「いいのよ、泊めてもらっちゃったんだし。そうそう、雪、もう止んだみたいね」
しのぶの言葉に外を見る。朝日が雪を照りつけていた。
彼女に促されるまま、後藤はこたつの席についた。 そこにはもう朝食の準備が整えられていた。
「いただきます」
言葉少なく、しかし雰囲気よく二人は箸をつつきあった。 昨夜の残り物のほかに、彼女が作った卵焼きはこんがりときつね色になっていた。
「なんだかさぁ・・・」
その卵焼きを箸で切りながら後藤が言った。
「夫婦みたいだね、おれたち」 「そうね」
しのぶは静かに微笑んだ。
「しのぶさん、今日は送ってくよ」 「えっ、そんなわざわざ・・・」 「いいよ、一夜を共にしちゃったんだし、おれなりのけじめってことで。 それに、しのぶさんと一緒に行きたいとこがあるからさ」
そういうわけで、後藤がしのぶの車のハンドルを握ることになった。 しかし車は西に向かおうとせず、真っ直ぐ南を指していた。
「後藤さん、どこへ行くの?」
訝しがるような口調でしのぶが尋ねる。しかし後藤は何も答えなかった。
「さ、しのぶさん、着いたよ」
そこは見慣れた場所の、見慣れない風景だった。 セイタカアワダチソウは雪に覆われ、針金で囲われた土地はただ白一色だった。
「ほんとに何もなくなっちゃったねぇ」
二人がここで最後に見たものは、廃墟となった特車2課分署だった。それすらも今はない。
「ちょっと、入ってみようよ」
そう言うと後藤は、針金の周りを歩くと、入れるような場所があったのか、しのぶに手招きした。
「いいの、勝手に入っちゃって」
柵を越えて突き進む後藤の背中に問い掛けた。しかし、答えはない。
「一応不法侵入でしょ。警察官がこんなことしていいの?」 「何も足跡のついてない雪の上を歩くのって、楽しくなかった?」
後藤が振り返った。しのぶもつられたように振りかえる。 そこには、2列の歩幅の違う足跡があった。
「この足跡も、雪が溶ければ消えてしまうわ」
雪の上を風が吹き抜ける。その風はしのぶの髪を揺らした。
「でも、おれたちの目の前にはまだ真っ白な地面がある」
後藤は再び前を向いた。 そこには一面の雪景色が広がっていた。何者にも汚されない純白の世界。 そこに過去という廃墟はなかった。 あるのはただ未来だけであった。
しのぶが後藤のもとに駆け寄る。まるで同じ未来を見ようというように。
「そういえばこの辺が入り口だったっけ」
彼はしのぶのことなどお構いなしに、ずんずんと雪の中を進んでいった。 雪に足を取られながら彼女はその跡を追いかけていった。
「そしてこの辺の2階が隊長室」
彼が立ち止まる。しのぶも少し遅れて、かつての隊長室に入っていった。 二人はその小さい空間を歩き回りながら、机の位置などを確かめていた。 二人の足跡が交錯する。 そのとき、後藤はしのぶを抱き寄せた。 コート越しから確かなぬくもりが伝わってきた。 それは、夢の中で感じたうつろなものではない。 決して淡雪のように消え去りはしないもの。
「しのぶさん」 「ん?」 「あったかい」
気が付けばしのぶも、彼の胸にしがみついていた。
「いいの?ここまでで」
車の外から後藤が訊いた。
「ええ、あとは大丈夫だから。 それに、後藤さんと一緒にここに来れて、良かった」
そう言うとしのぶはウィンドウを閉めた。 そして車は、雪の上に轍を残して去っていった。 その後姿を見送ると、彼は寂寥としたバス停の看板の横に立った。 バスの時間まではだいぶ時間がある。 その間後藤はじっと足跡の残ったかつての職場を眺めていた。 足跡はいつか消える。そしてその後に現れるのは荒涼たる埋立地の風景だけだ。 しかし、腕の中に残るぬくもりは決して消えることなく、記憶の中にあり続けるだろう。
チェーンの音を立てながらバスが近づく。 日曜の早朝のバスは後藤以外誰もいなかった。 バスは再びじゃりじゃりという音を響かせながら埋立地を去っていく。 曇ったガラスを手のひらで拭いて、その向こうに映る雪景色をじっと眺めていた。 たとえ何度春が来ても、この風景は、ずっと二人の心の同じ位置を占め続けるであろう。 ここで、二人の足跡は再び交わったのだから。
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