「――準備、すんだのか?」
「準備って、何の」
「ほら、ベビー用品とか」
「え、それはちょっと早いんじゃないの?」
「だって、早め早めに準備するに越したことはないじゃないか。それにもしものときに――」
「もしものときってどんなとき?」
「――――」
「大丈夫よ、入院の準備くらいはしてあるわ。後は大きいものを買うだけ」
「そうか」
「だから今度のお休みは付き合ってね、買い物」
「わかった。じゃ、体気を付けろよ。最近暑い日が続いてるから」
「うん、大丈夫よ」
「大丈夫じゃない。お前一人の体じゃないんだ」
「・・・はい」
「じゃ、また電話する」
ガチャ。
ピピーッ、ピピーッ、ピピーッ。
公衆電話の上には、うずたかく積まれたテレホンカードの山。
同僚たちから顰蹙(ひんしゅく)を買いながらかき集めたものだった。
西日の当たる階段の踊り場。そう、今日のこの瞬間のように。
しかし、おぼろげな記憶はクラクションにかき消された。
「はいはい、今行きますよ」
どの車も渋滞で気が立っていた。
しかし、こう車が隙間なく行き来していたのでは右折もできやしない。
右に回ればごみごみした都心とはおさらば、知り尽くした下町の裏道に入る。
だが、後続車は大型トラックだ。
後藤の車と喧嘩したのでは、彼には勝ち目がない。
クラクションの音はますます大きくなる。
「そうは言ってもねぇ」
わざとのんびりした様子で口に出す。
そうでもしなければ自分自身もこの焦燥の渦に巻き込まれてしまうのだ。
すると、親切なドライバーが交差点の前で止まった。
あっちも後ろは鈴なり状態だ。
後藤は対向車に軽く手を上げて、右へと曲がっていった。
あたりが闇に包まれ始めた。あと少し、あともう少しで我が家にたどり着く。
行く手を阻むもののない細い裏通りを彼はオーバーなほど飛ばしていった。
この道だったら目をつぶったって行ける。
何せ、子供の頃から知っている道だ。
視界の端に我が家が映る。
もうすぐ、もうすぐ。
彼の焦りを抑えるものはもう何もなかった。
イヤフォンをつけた部下の目の色が変わった。
「後藤さん、8月の15日です。その日に奴等は決行するつもりです」
「そうか。毎年おなじみの反戦集会で警備が手薄になるのを狙って・・・か。
それが分かっただけでも大収穫だな。今夜は久々に帰れるぞ」
そういうや否やおれは階段を駆け下りていった。
もう日は沈み、踊り場には薄暗い照明しかなかった。
――ああ、おれだ。これから帰る。
何度この言葉を口の中で反復しただろうか。
しかし、ついにこの言葉を口に出すことはなかった。
20回、30回、いや、100回鳴らしてもつながらない電話。
「ふう・・・」
キッチンで彼女が大きくため息をついた。
「しのぶ、どう、おいしくできた?」
受話器の向こうの声が尋ねる。
「ええ、まぁ、なんとか。一応、それらしく」
鍋の中身は今までとは雲泥の差だった。
にんじんは鮮やかなオレンジレッド、玉ねぎは黄金色に照り輝いていた。
ジャガイモが少々煮崩れてはいたが、それがかえって家庭料理らしい風情を与えていた。
「さぁて、と」
ガス台の火を止めると、彼女はようやく落ち着いて流しを見た。
山積みになっている鍋、鍋、鍋。
あらかた家中の鍋を犠牲にしてしまった。
これをどうすべきか。
今このうちに洗ってしまうか、それとも食事の後、お皿と一緒にまとめて洗おうか。
受話器をやっと元に戻すと、彼女はこの惨状を前に思案に暮れていた。
ようやく静かになった部屋。
そこに、かすかな足音が響いた。
引きずり気味の歩み。
しかし、それが今日はいつもより幾分、いや、かなり早い。
それが次第に近づく。
そして、この部屋のドアの前で止まった。
しかし、動かない。
一体どうしたのだろう。
彼のはず、夫のはずなのに。
しのぶがノブに手をかけようとした瞬間、きしんだ音を立ててドアが開いた。
そこにいたのは紛れもない夫、後藤だった。
しかし、その目はどこか疲労を漂わせていた。
体が疲れているというのではない。
むしろ心が。
「お帰りなさい、一体どうしたっていうの?そんな疲れた顔して」
「いやぁ、道が込んでてねぇ。休日の夕方だから」
いつもどおりの飄々とした口調で答える。
しかし、背中がいつもより前傾気味だ。
彼の鼻腔を甘じょッぱい匂いがくすぐる。
「あ、今日の夕飯なに?」
「肉じゃがよ」
さりげなくしのぶが答える。
まるでそんなもの作るの造作ないわというように。
「へぇ、そりゃ楽しみだな」
――今晩は肉じゃがだったのに――あの日の言葉が頭をよぎる。
「どうする、まだ夕飯には早いからお風呂にする?もう沸かしてあるから」
「いや、せっかく美味そうなものが目の前にあるんだもの。それにおれ渋滞でお腹ぺこぺこなんだ」
そう言うと後藤は冷蔵庫からビールを取り出して、ダイニングチェアに腰を下ろした。
彼女よりも長い付き合いの椅子。
「他におかずは?」
その言葉にしのぶははっとして、冷蔵庫から刺身のパックを取り出した。
約30分前にやっと気付いて冷蔵庫にしまったものだ。
「ちょっとね、時間がかかって、他のことに手が回らなかったの」
横目で流し台を眺める。
そこには焦げ付いた鍋が山のようになっていた。
その彼の前に、小皿に盛られた肉じゃがが出された。
「お口に合うかちょっと分からないけど」
んじゃ、いただきますと後藤は煮崩れたじゃがいもに箸を突き刺す。
口に入れた瞬間、彼の表情が一瞬曇る。
「どう、やっぱりおいしくない?」
しかし彼は答えない。
神妙な面持ちで一回、二回と噛みしめる。
違うのだ、あのときの味と。
しかし、しのぶに彼女を求めることはできない。
これだって、同じくらい美味いはずだ。
後藤は顔を上げた。
目の前に、妻が彼の顔を覗き込むように立っていた。
「いや、おいしいよ、これ」
次の瞬間、しのぶの表情が晴れわたった。
「そう、母に電話で聞いた甲斐があったわ」
おいおい、もしかして話し中の訳はそれかい。
当の彼女は笑顔を浮かべながら数少ないおかずを机の上に並べていった。
「そうだ、あとで洗い物一緒に手伝うよ」
そんなこと彼女に言ったことがあっただろうか。
そんなことを思いながら後藤はしのぶの差し出すグラスにビールを注いだ。
今日残り、久方ぶりの楽しい休日となりそうだ。
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