一方、とある公団住宅の台所。
エプロン姿の女性が電話の受話器を肩に挟みながら、何やら包丁を握っていた。 年のころは30前後か。
「ええ、そうなのよ。なんかうまくいかなくて。
これぐらいのこと、なんとかなるだろうと思ったんだけどね。
で、お母さんに教えてもらおうと思って」
左手に持っているのはジャガイモだろうか。
電話を落とさないよう、肩の周りに集中していたら、肝心の手元がおろそかになるだろうに・・・。
「あっ」
「どうしたの?」
返事がない。
母親と思しき女性が電話の向こうから必死に名を呼ぶ。
ただ、聞こえてくるのは「・・・ったた・・・」という小さなうめき声だ。
「しのぶ、一体どうしたの!?」
「・・・ごめんなさい、指切っちゃった」
まったくもうという声が電話口から聞こえた。
しかしその声には安堵が混じっていた。
「電話にばかり気を取られていたでしょ」
「ええ、まったくその通り」
「もう、あなたの悪い癖ね。集中してると周りのことなんて見えなくなるんだから」
でもそれがまた長所であるんだけど、と母は付け加えた。
こんな様子じゃ、居間の充電器に置かれた携帯電話がなっているのにも気付くわけがない。
メモリーに記録された音声が流れて、携帯電話は切られてしまった。
それでも未練たらしく電話に耳を当てる後藤。
しかし、そんな余韻は後続からのクラクションにかき消されてしまった。
車の列が動き始めたのだ。
彼は携帯を切ると、後ろにせかされるまま車を動き出させた。
夕方、都心の道路はまるでねっとりとした液体のように動いていた。
それを時々信号が気まぐれに寸断する。
その中、ドライバーたちはみな苛立ちを煮立たせているだろう。
行楽帰りのミニバンの中では妻子皆が寝てしまった後、
父親だけが独り目の前に広がる、いつ果てるとも知れぬ車の列を眺める。
デート帰りのカップルはもう何も話すことがなくなってしまった後、
会話の空白を音楽だけが埋めているのだろう。
ビルの谷間から夕日が差し込む中、車の波そのものがまるで煮詰まったソースのようだった。
一方、こっちには煮立たせて焦げ付かせてしまった鍋が並ぶ。
お世辞にもつまみ食いしたいとは思わないような料理、
いや、料理と呼ぶもおこがましい失敗作の山、山、山。
中には、余りにも失敗続きだったので試しにまず少量でやってみようと思ったのか、
しかし、その試みが仇となり、小鍋の中身は真っ黒に焦げ付いていた。
カメラを後退させるように視野を広げると、
ダイニングテーブルの上にはスーパーの袋がほとんどそのまま、
たぶん今やっている料理の材料だけを抜いて後はそのままおいてあった。
白い袋の隙間からは刺身が見える。
早く冷蔵庫にしまわなきゃ・・・。
さっきよりは少しスピードを増したであろうか。
少なくとも車の波は、人の歩く速さよりは速く動いていた。
渋滞の足枷に捕らわれた車たちが、鞭打たれる奴隷の列のように交差点を通過していく。
しかし、まず歩行者信号が点滅しだした。
車はさらに鞭を打たれたように加速して交差点を次々と渡りきっていった。
歩行者信号が赤になり、目の前の信号も黄色に変わる。
(なんとか渡れるだろ)
との警察官らしからぬ焦りが禁物だったのだろうか、
まるでギロチンの刃のように、赤信号が見えざる手で車の流れを制止した。
後藤の車はブレーキが間に合わず、横断歩道にボンネットをやや乗り上げていた。
端に押しやられた歩行者たちが、怪訝そうな目で運転席の彼を睨む。
後藤は、もはや煙草に手を伸ばそうとはしなかった。
ふと外に目をやると、小さな雑居ビルが彼の眼に飛び込んだ。
付近のビル群に埋没してしまいそうな、都心だったらよくある普通のビルだ。
それは、隣の建物と同じように、ならんで西日を受けていた。
次の瞬間、記憶の断片がフラッシュバックのように鮮明に蘇った。
西日を浴びてオレンジ色に染まった廊下、公衆電話がカードを吐き出す音、その向こうの声。
「そう、今日も帰れそうにないの。今晩は肉じゃがだったのに」
しかし、その回想は長くは続かなかった。
目の前の青信号が、彼を現実に引き戻した。
後続車両の恨みがましい視線にせかされ、後藤はアクセルを踏み込んだ。
「そう、お肉にはあらかじめ下味をつけておくのね」
電話からのアドバイスを復唱する。
左の肩で受話器を挟み込みながらその手で大さじを持ち、右手に醤油を瓶ごと持つ。
しかし・・・黒い液体はさじの水面を溢れ、そのまま下のボウルへとこぼれていった。
その量は大さじ一杯分を軽く超えている。
「・・・あーあ」
彼女は受話器を持ったまま、台所の床にへたり込んでしまった。
肉を水ですすげばなかったことにできるかもしれない。
しかし、今の彼女にはそうする気力もなかった。
「しのぶ、どうしたのしのぶ」
受話器の向こうから心配した母の声が響く。
いいわ、もったいないけど――でもお肉、これで最後なのよねぇ。
しかし、彼女は気力を振りしぼって立ち上がると、
ボウルの中の肉を勢いよく流しの三角コーナーに放り込んだ。
「ごめんなさい、ちょっと出かけなきゃならなくなったの。じゃあ切るわね」
そう言うと彼女は財布だけを握りしめ、エプロンもつけたまま部屋を飛び出していった。
留守番電話に設定していかず、もちろん携帯など充電器においたままで
――ちゃんと戸締りしていったのかしら。
そういうわけで何度目かの電話は、
いつまでたっても呼び出し音ばかりで、一向に相手が出る気配はなかった。
くそっ、あの時と同じだ。 10回、20回、いや、100回鳴らしてもつながらない電話。
大きい通りに面した、あまりにも赤の長い信号。
しかし、それすらも青に変わり、前の車は待ちくたびれたかのように一斉にアクセルをふかす。
その波に遅れまいと、後藤もまた人並みにアクセルを踏んだ。
どこまでいっても変わることのない、単調な都心の町並み。
その中で後藤の目は、かつての光景をはっきりと捉えていた。
裏通りに面したビルの一室、それを挟んで向かい側の、取り残されたような古いアパート。
こちら側からは男たちが数人、かわるがわる双眼鏡で向かいを覗き込んだり、
雑音交じりのヘッドフォンに耳を押し付けていた。
「どうだ、何かつかめたか」
「いえ、こう雑音が多くっちゃ」
そう言って渡されたヘッドフォンに片耳を当てる。
「・・・れだ・・・うはかえれそ・・・かった、じゃ・・・」
部下の言うとおり、雑音がひどくて内容が聞き取れない。
しかし、この通話の内容が彼らの求めているものとは違うということだけはわかった。
(どこも同じだな)
どこも同じだ。
あそこも、ここも。
そしてあの日も、今日も。
変わったのは自分だけ。
あの日の鋭さを失ったこのおれだけ。
いや、それすらも変わらないのかもしれない。
あの日と同じように、何かに怯えて車を走らせるおれは、少なくとも、あの日のままだ。
そう思うと、自分が怯えていることが何かばからしく思えた。
あの日と今日は違う。
そうだ、彼女としのぶは違う。
片や、自分が守ってやらなければしおれてしまいそうな儚い花。
片や、そのようなものは不要だと背筋を伸ばして、凛として咲き誇る花。
しかし、それすらも、いや、それゆえに脆さを秘めているような気がしてならない。
どうしても最後はそこにたどり着いてしまう。
堂堂巡りの果ての果て。
必死に打ち消そうとしても、だ。
そんな夫の心配もつゆ知らず、彼女は買い物袋を抱えて、靴を脱ぎ散らかしたまま台所へ駆け込んだ。
普段の彼女だったら、いくら忙しくてもしないことだ。
そのまま台所に放っておいた電話機に駆け寄る。
「もしもし、お母さん?しのぶだけど・・・うん、たびたびごめんなさい。
それで、あらかじめ大体の手順教えてくれないかしら。
ええ、メモしておくから。
あ、はい、味付けは野菜が煮えてからね」
母親の話を、聞いてるそばからメモにとっていく。
そんな彼女の耳に、充電器の上でバイブレーション設定になっている携帯電話が立てる
かすかな音は聞こえる由もなかった。
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