――のぶ、しのぶ―― 誰? 私を呼び捨てにするのは。 「しのぶさん、しのぶさん」 私はやっと目を覚ました、が、その瞬間仰天した。 私の目の前にはなぜか後藤さんの顔があったからだ。 見覚えのある顔、しかし見たことのない表情。 彼は心配しきった表情でずっと私の名を呼んでいたのだ。 私は起き上がって天井を見上げた。 どこかで見たことがある。 しかしそれは後藤さんの公団住宅ではない。 2 私は布団を引かされ、そこで横になっていたのだ。 「今日、何日?」 「えっと、2002年の3月11日だけど」 「で、今何時になった?」 「もうすぐお昼」 じゃあ、あれから2時間近く倒れていたことになる。 急いで起き上がろうとする私を後藤さんは制した。 めまいがする。 そのまま彼が差し出した腕の中に倒れこむ格好になった。 最後に私が感じたもの。 「だめだよしのぶさん、無理しちゃ。あんなもの見た後なんだから」 変わらない口調。 でもそれは、あのときの彼のものと同じ暖かさだった。 「それと、あれ、事故だって。パイロットの操縦ミス。 レインボー・ブリッジも今通行止めになってるけど、それほど大きなダメージはないって」 私はまだふらつく頭で彼の声を聞いていた。 返事がないので彼は私の顔を覗き込む。 心配と安堵がない交ぜになった表情。 ああ、この人はずっと私のことを見てくれていたんだ。 そのことについては、あっちもこっちもさしたる違いはないはずだ、 たとえ立場が異なろうと。 「しのぶさん」 こう切り出した彼の口調が違っていた。 いつもの軽みはないが、包み込むような暖かさがある。 私を支える腕の力が少しだけ増し、後ろから抱きしめるような形になった。 「過去は過去にすぎないから」 その言葉に私は振り返った。 彼は少しだけ驚いたが、またもとの、暖かな眼つきになった。 「今までこうだったから、これからもこうだとは誰にも言い切れない。 過去は所詮過去であって、未来を規定するものでもなんでもないんじゃないのかな」 「そうね」 私は眼をそらさなかった。 今眼をそらしたら、あの日と同じ過ちを繰り返すことになるから。 「過去に縛られたままじゃ、にっちもさっちも行かなくなるものね」 彼が微笑む。 私も微笑み返す。 それだけでいいのだ。 「安心した、いつも通りのしのぶさんだ」 彼はあの時と同じ台詞を言った。 しかし、私が今までの私ではないことは私自身、そして彼も知っているはずだ。 やっと私は過去と決別するための第一歩を歩み始めた。 今までの、臆病な私は過去が引いたレールを踏み外すことを極端なまでに恐れていた。 昨日と同じ明日よりも、分からない未来を恐れた。 しかし、私はもう恐れない。 たとえ未来がどのようであっても、そこに待ってる人がいるから。
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