ここは『状況』のない世界。 2月分の古新聞を全て引っ張り出しても、そのようなニュースはおろか、 都心ではじゅうぶんニュースになりえる降雪の話題もない。 その代わりあるのは、地球レベルでの大きな不幸。 同時多発テロ、その後引き続いた対テロ戦争。 それでも私は、夫と子供に囲まれ幸せに暮らしている。 窓の向こうは、毎日が小春日和の東京。 あの日の前と同じように、幻の平和をむさぼる大都市(バビロン)。 「夕飯の買い物、まだだろ」 窓の外を眺める私に、彼が後ろから声をかけた。 すでに外は日が傾きかけていた。 「たまには一緒にってのも、いいんじゃないかな」 彼が多喜の乗ったベビーカーを押していく。 平凡だが、幸せな家族の風景。 だが、今の私には居心地のいいものではなかった。 「あの後さぁ」 不意に彼が話し始めた。 「しばらく家には帰って来れなかったんだわ。 こっちでも何かあったら大変だからって、特車2 私は何も言わなかった。 いや、言えなかった。 それでも彼は話しつづけた。 私が聞いているとわかっていたから。 「ああ、これが新しい戦争なんだなって、 海の向こうの出来事だけど痛感しちゃってさ。 なんか他人事とは思えなかったんだよ。 あっちじゃ同業の方がビルの崩壊に巻き込まれて何人も殉職しちゃったし。 もしこっちでも新宿の都庁なりに飛行機突っ込んだらどうなるんだろって、 自分の中でシミュレーションしたこともあった。 あんがい平和なんてあっけないんだなって」 彼が『状況』について知っているはずもなかった。 しかしそれは私が抱く感慨と同じものだった。 スーパーに入ると、彼はベビーカーを畳み、買い物用のカートに多喜を座らせた。 多喜はそこがお気に入りのようで、きゃっきゃと喜んだ。 「そういやおれたちが付き合うようになったきっかけ、覚えてないだろうな」 山積みになったキャベツを一つひとつ選びながら、彼が言った。 私は頭を横に振る。 「ちょうど第2小隊が解散する前、噂があったんだよ。 しのぶさんが第一小隊の隊長を辞めるんじゃないかって」 そういえばそんな噂があった。 後釜にキャリアを入れて、優秀な第1小隊の中で生え抜きのレイバーのエリートを育てるという、 まことしやかな話が。 あのとき私は、たかが噂に振り回されていた。 もちろん、組織にあって命令は絶対であり、 本庁に戻れと言われたら二つ返事で戻らなければならない。 しかし私にとって、埋立地の生活がかけがえのないものになっていたというのも事実だ。 他人は島流しだのと陰口を叩いてはいたが、それでも私は戻りたくなかった。 できるものならずっとここにいたかった。 「それでさ、おれ、どうしても気になって気持ち確かめに行ったの。しのぶ――さんの」 事実彼はそうした。 戻りたいのか、それとも戻りたくないのかと、隊長室で突然詰め寄ったのだ。 そして私はこう言った。 戻りたいも戻りたくないも、それは上の決めること、命令には従うと。 だが――。 「あのときしのぶさんは泣いて言ったんだよ、 本当は戻りたくなんかないって、いれるものならずっとここにいたいって」 それは偽らざる、そして押し殺した本心だった。 「その涙で、おれは分かったんだよ。 なんでわざわざそんなこと訊いたのかって。 おれもいてほしかったんだよ、しのぶさんに。好きだったから」 意外なところで聞いた彼の本心だった。 もちろん私の知る彼もそうだとは言い切れない。 だが、それでも今の私には充分すぎるほどの救いだった。 「でも、しのぶさん臆病だったからなぁ。 それでもしばらくよそよそしかった、噂が根も葉もないデマだって分かった後も。 たぶんあれだと思った、 今まで保ってきた距離とか節度とかいうのを一度とはいえ破ってしまったから」 半分以上入ったカートを押して、レジの列に並ぶ。 「でもおれは言ったんだ、『過去は過去にすぎない』って」 彼の言葉は、言った意味以上のものを持って私の心に入っていった。 「今までこうだったから、これからもこうだとは誰にも言い切れない。 過去は所詮過去であって、未来を規定するものでもなんでもないんじゃないかって」 「そうよね。過去に縛られたままじゃにっちもさっちも行かなくなるものね」 レジ待ちの行列が少しだけ進む。 私の言葉に彼がこっちを向いた、少し驚いた表情で。 「さ、もうすぐ順番よ。どっちがお財布出すの?」 私の微笑に彼は一瞬戸惑ったが、すぐに微笑で返した。 「安心した、いつも通りのしのぶだ」 私はいつも、こんな風に夫に微笑んでいるのだろう。 この3年足らずの歳月の中でしのぶさんがしのぶになり、 そしてもうすぐお母さんと呼ばれるようになるのだ。 家に帰ると、私は彼の制止を振り切って台所に立った。 きっと、この2年半の兼業主婦生活で体に染み付いているのだろう。 考えずに体だけ動かしていると、体が勝手に夕飯の段取りをこなしていく。 私は毎日同じように夕飯を作り続けているのだろう。 それは私の知らないもう一つの日常だった。 しかし、いったん考え出すとそこで体の自動運動が止まる。 そのときは後ろに立っている彼が包丁を手に取った。 独身生活が長かったので、包丁さばきは本物の私より上手だ。 「結婚したばっかの頃を思い出すなぁ」 味噌汁の具を刻みながら、つぶやくように言った。 「ほら、しのぶはずっと箱入りだったから、家事なんかあんましたことがなかっただろ。 だから最初は時間ばっかかかっちゃって、それでも自分がやるって言い張ったんだよなぁ。 今はいい奥さんだけど」 そうつぶやく彼はなんだかうれしそうだ。 それは私の知らないもうひとりの私。 彼が刻んだ具を煮立った鍋に入れ、火が通ったら味噌とだしを入れる。 量は大体の勘だ。 といっても毎日料理をしてきた者の勘だから狂いはないはず。 でも少し心配だから一応彼にも味見を頼んだ。 「うん、いつもどおり。おいしいよ」 これで大体準備はできた。 リビングテーブル代わりの炬燵の上にセッティングはできていた。 どうやらこれは彼の分担らしい。 共働きらしい生活の一部だ。 布団はまだしまわれてはいなかったが、このところのぽかぽか陽気の中、スイッチは入っていない。 彼は床の上に散らかった新聞の下からリモコンを探し出すと、テレビのスイッチを入れた。 この時間は各局ニュースの時間帯だ。 ちょうどタイミングよくバビロン工区でレイバーの立てこもり事件がおきていて、中継で流れていた。 「お、第1小隊だね」 多喜を膝に乗せながら彼が言った。 テレビでは隊員の顔がよく映らないが、 それでも彼らの顔ぶれはほとんど変わっていないことに気が付いた。 4年前と、そして私が知る彼らと。 「――このように現場ではただいま膠着状態が続いております。 いったんスタジオにお返しします、以上現場からでした」 画面が現場の暗闇から一転、明るいスタジオに戻る。 何か動きがありましたらまた中継でお届けしますとの女性キャスターの声の後、 何もなかったかのようにニュースは次の話題へと移った。 「同時多発テロから半年、世界貿易センタービルでは瓦礫の撤去作業が大詰めを迎えております」 「チャンネル、回そっか?」 口に物を入れたまま、恐る恐る訊いてきた。 しかし私はテレビの一点を見つめていた。 胸騒ぎがする。箸を持つ手も震えていた。 しかし私は画面から目を離せなかった、 何かの抗いがたい力がそこに働いているかのように。 現実を直視しなければならない。 それは私にそう言っているかのようだった。 おまえのいるべき場所はここではないのだから――。 「見るなっ!!」 彼は茶碗も放り投げて私の目を覆った。 高層ビルに飛び込む大型旅客機、おびただしい砂埃を上げ崩れ落ちる摩天楼。 フラッシュバックするあの日の光景、全ての始まりとなったもの――。 私はそのまま倒れこんだ。彼のぬくもりを感じながら。
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