どうやら彼は、私が結婚する前頃からの記憶を失っていると勘違いしたようだった。

むしろ勘違いしてくれたほうが私にとって楽だった。

本当は記憶がないどころか、その代わりに全く異なる数年間の記憶を持っているのだから。

 

部屋に散らかりっぱなしのアルバムが、彼の誤解に確信を与えていた。

 

「結婚式のときな」

 

簡単な昼食を食べたあと、彼はアルバムの写真を指差しながら言った。

 

「誰がブーケ受け取ったと思う?」

「さあ……泉さん、かしら」

「そうなんだよ」

 

彼は満足したように笑う。

こんな顔、今まで私に見せたことがあっただろうか。

 

「昔バスケやってたって言ってたけど、

タッパは小さいのに並み居るライバルを蹴落としてさ、

うちの真帆子とか、熊耳も珍しく目の色変えてたけど、

リバウンドの要領でしっかりゲットしちゃってたもんなぁ。パンプス履きだったのに」

「そういえば泉さんたち、どうしてる?」

「ああ、今は出向で篠原重工に行ってる。

警察の新型レイバーのテストパイロットやってるんだとさ。もちろん篠原も一緒さ」

 

もっとも、今でも月に何回か顔を合わせているらしい。

 

かつての部下たちのことを話す彼の眼は、あの頃と全く変わっていない。

いかにも彼らがかわいくてならないという眼。

いつかきっと、その眼で息子のことを語るのだろう。

 

「まあ、向こうでうまくやってるらしい。そのうち仲人の依頼が来るかもしれないな」

 

そう半分ジョークで、半分本気で言う。

 

どうやら第2小隊解散後の彼らの動向は、私の知っているものと変わらないらしい。

太田巡査は巡査部長に昇進、レイバー専門校の教官、

熊耳巡査部長は香港の日本大使館に出向。

ただ一つ変わったことは、あのことが彼らの運命を狂わせなかったこと。

たとえ不問にされても、それが彼らの人生のこれからに大きな影を残すのは否めない。

彼らを、そして彼を巻き込んでしまったことに私は心を痛めた。

これは、私ひとりで抱え込むべき問題だったのだ――。

 

「で、これが新婚旅行」

 

彼の声にはっとした。

指差した写真は自由の女神やマンハッタンの高層ビル群を背景に二人が写っているものだった。

 

「香貫花がさ、招待してくれたんだよ。

いろいろ案内してくれてね、CLATまで連れまわされちゃったけど。

でね、これはフェリーから撮ったやつ。あいつが撮ってくれたんだわ、香貫花が」

 

写真の中で二人は、幸せそうな新婚カップルのように満面の笑みを浮かべていた。

 

「でももうないんだよな、ツインタワー」

 

彼が小さくつぶやく。

そういえば93年に一度自爆テロが起きたけど――。

胸騒ぎがする、そしてめまいも。

彼は私の小さな変化を見逃さなかった。

 

「しのぶ、多喜が生まれた日のことを覚えてるか?」

 

私はかぶりを振る。

 

2001911日の10時過ぎだよ。

お前が急に産気づいたんで、おれは持てるもんだけ持って病院に連れてった。

予定日よりも1週間以上早かったからな。

その後も結構難産らしく、時間ばっか経ってった。

やっと生まれたのが明け方近くなってからだ。

その後おれはうちに帰ってそのままバタンキューだよ。

で、昼ごろ起き出してやっと知ったんだ。

世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んだのを」

 

動悸が止まらない、なんだか息苦しい。

フラッシュバックするあの日の光景、全ての始まりとなったもの、

ベイブリッジに飛び込む戦闘機――。

倒れそうになる私を彼は腕の中に抱き寄せた。

 

「大丈夫か?」

 

彼の腕の中はとても暖かく感じられた。

これこそが今の自分の求めているものかもしれない――。

 

「ええ、さっきよりは、よくなったような気がする」

 

実際、魔法のように動悸も息苦しさも、彼の腕の中ですうっと引いていった。

 

「そうか、よかった」

 

彼は少し腕を緩め、そのまま話しつづけた。

 

「だからさ、こんな日に生まれたのも何かの因果かもしれないし、

せめてこの子には喜びの多い人生を歩んでいってもらいたいなって、

すっとこの名前が浮かんだんだよ。

今までさんざ苦労して何も思い浮かばなかったのに」

 

ほら、それにおれはこんな名前なもんで幸薄い男になっちゃったからね、

と冗談めかして笑った。

その笑顔の裏には、つらい過去を乗り越えて今の幸せをつかむまでの苦難があった。

 

「そういえば昨夜からお前変だよ」

 

何気なく彼が言う。

 

「ニュースでさ、あの瞬間の映像見た瞬間気ぃ失って、そのまま目が覚めたらこうだからなぁ」

「昨夜って、何の映像を見て――」

「だから飛行機が突っ込む瞬間だよ、ツインタワーに」

 

彼の言葉に私は奇妙な整合性を感じた。

そうだ、私が倒れたのはレインボー・ブリッジに小型飛行機が衝突するのを見て。

こっちの私が倒れたのも――。

 

再びめまいに襲われた私に、彼は大丈夫かと声をかける。

でもこっちの私は守られている、彼に、愛する夫に。

私は歯がゆさを感じていた。

彼の腕の中で守られるべきは、この私じゃない。

別の、私。  

 

 

 

 

 

BackNext

     

Patlabor”