部屋には数枚の写真が飾られていた。

その中には結婚式の記念写真があった。

今より少し若い私と後藤さん、それぞれ花嫁、花婿の衣装に身を包んでいる。

周りを固めるのは特車2課の面々。

第2小隊と整備班ばかりが前を固めていて、

我が第1小隊は後ろのほうに追いやられていた。

二人だけの写真、そのうちに子供も加わって、

多喜だけの、そして三人の写真が私の知らないこの家の歴史を語っていた。

 

アルバムはより詳細に過去を物語っていた。

新婚旅行であろう、ニューヨークの写真。

CLATの隊員、もちろん香貫花もフレームに収まっていた。

それ以外にも二人で行った見知らぬ場所の写真、そして見慣れた場所の写真。

泉さんや篠原君ら、見慣れた人々もみな幸せそうに写っていた。

『状況』がなかったら――。

あの日以来思い浮かべていたifの答えを今見た思いがした。

 

そしてやはりここでも、私は律義に日記などつけていた。

それは4年間の自分の身の回りと、世の中の変遷を克明に記録していた。

それによると私たちは2年半前に結婚、

その後私は本庁に戻り、今は育児休暇中らしい。

一方世の中はというと、臨界事故やら少年犯罪やら物騒なことが起き、

そのたびに警察官として思うことを二言三言書き添えていた。

 

昨年の9月11日の日記だけ筆跡が違っていた。

それはたぶん彼のものだった。

しかし普段書類で目にする彼の字とは違う。

きっとできる限り丁寧に書こうとしたのだろう。

そこにはこう記されていた。

 

しのぶ、おめでとう。

でも、あの日おれは君の喜ぶ顔を素直に喜ぶことができなかった。

というのもどうしてもあの日のことが頭をよぎってしまったからだ。

もちろんしのぶと彼女は違う。

そう分かっていても、今さらながらあの日の傷の痛みが癒えてないことを、

まざまざと思い知らされた。

だけど、しのぶはいつも笑顔を絶やさずいてくれた。

そして不安がるおれを勇気付けてくれた。

仕事との両立も大変だったと思うけど、

一度こうと言ったら聞かない君だったから、最後までやりぬいた。

もちろん辛いときもあっただろうけど、

そんな表情はおれの前ではみじんも見せなかった。

その姿に、自分の中の不安も次第に消えていった。

そして今日この日、おれは素直にしのぶに言ってやることができた。

おめでとう、

そして、心からありがとう。

ページを読むたびにになぜか涙があふれてきた。

あの人にここまで愛されてる自分を幸せに思えた。

そして、この言葉の裏側に隠された彼の不幸を思わざるをえなかった。

十月十日の間、彼は何度過去の悪夢に怯えたのだろうか。

再び運命が妻と子を一度に奪ってしまうのを、何度恐れたのだろうか。

そして、何度神に祈ったのだろうか。

彼は私以上に耐えつづけたのだ。

そしてとうとう宝物を手にすることができたのだ。

一度はその手からこぼれ落ちた宝物を。

 

その宝物が目を覚ました。

けたたましい泣き声も私が抱き上げるとすぐにおさまる。

この子は私が母親だとわかっているのだ。

自分のことなど覚えていないこの私が。

あやしているうちに窓の向こうの公園が目に入った。

桜の花が満開だ。

窓を開けて外に出ると初春とは思えないほどの暖かさだ。

私は多喜を抱いて公園に行った。

 

公団住宅の前にある小さな公園では、

同じくらいか、それより少し大きな子供を持つ母親たちが、

我が子を連れて外に出ていた。

その道すがら、母親たちや他の住人に、「あら、後藤さんの奥さん」と声をかけられる。

そのたびにこそばゆさを感じながら、私は会釈を返していった。

ある人は多喜を抱き上げては大きくなったねえと声をかける。

その言葉にある種の晴れがましさを感じるのは、私が母親だからだろうか。

 

ベンチで私は何をするでもなく座っていた。

多喜は腕の中ですやすやと眠っている。

側にある桜の木が少し早めの春風に揺れるたび、枝からはらはらと薄紅色の花びらがこぼれていった。

 

「もう桜も終わりですかねえ、まだ3月だというのに」

 

やはりここの住人だろう、老婦人がベンチに腰を下ろすなり、私に向かって言った。

 

「ええ、暖かいですからね、今日なんて」

「今年は暖冬でしたから、雪なんて降らなかったし」

 

老婦人は多喜の寝顔をにこにこと眺めている。

しかし私はその笑顔に笑顔で応えることができなかった。

あの日、あの冬の日、間違いなく雪は降っていたのに――。

突然のめまいが襲う。

ではここは何処、いや、何時なのだろうか――。

 

どれだけ私はベンチに座っていたのだろうか。

春風は相変わらず花びらを落としてゆく。

その花吹雪の向こうに人影が見えた。

人影は次第に近づき、あいまいな輪郭は明確になっていく。

そしてそれは声をかけた。

 

「しのぶ、なにやってんだい?」

 

その声に私はあたりを見回した。

 

「大丈夫、日なんて傾いちゃいないよ。早退してきたんだ、無理言って」

 

彼はそう言うと多喜を抱き上げた。

 

「でも仕事は――」

「いいんだよ。なんか朝から変だったから、お前が」

 

私はベンチから立ち上がり、彼のやや後ろを歩く。

 

「そういえば仕事、どう?最近」

「そうだな、6月にワールドカップがあるだろ?それの警備にうちも出ることになっちゃってさ」

 

そういえば今年はサッカーのワールドカップが開催されるはずだ。

しかしカウントダウン記事もみな『状況』一色に塗りつぶされ、

このような治安状態ではと、一時は開催返上さえ議論に上がったほどだ。

到底、あのような状態ではそんなことを楽しみにできる余裕はなかった。

 

「そう、それじゃ大変ね」

 

階段に差し掛かったとき、彼は突然私の横に手を付くと、

壁に追い詰めるように顔を近づけた。

 

「しのぶ、おれが誰だか分かってるよな?」

 

それは真顔の後藤だった。

朝見せた家族の前での無防備さはかけらもない。

私はその迫力に一瞬気おされた。

 

「後藤さん、でしょ?」

 

その言葉に彼は手を離した。

そして自分ひとりで納得したように、口元に小さい笑みを浮かべた。

私のよく知っている彼の表情。

真意を分け合おうとはしない後藤の姿。

 

「そうか、そういうことだったのか」

 

 

 

 

 

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“Patlabor”