――のぶ、しのぶ―― 誰?私を呼び捨てにするのは。 ――しのぶ、しのぶ―― 母じゃないわ、男の声だもの。 でも父でもない。 でも、聞き覚えのある人――。 「しのぶ、朝だよ」 私はやっと目を覚ました、が、その瞬間仰天した。 私の目の前にはなぜか後藤さんの顔があったからだ。 見覚えのある顔、しかし見たことのない表情。 いつもは隙がないというか、本心が見えがたい顔をしている。 しかし今の表情はそれに比べれば隙だらけであり、無防備と言っても過言ではない。 いったい何がどうなってるやら――。 私は起き上がって天井を見上げた。 どこかで見たことがある。 少しでも多くの手がかりを得ようと周囲を見回してみた。 そうだ、ここは後藤さんの公団住宅。 え、何、まさか――。 「――今日、何日?」 混乱した頭で私は日付を訊いた。 「えっと、2002年3月11日だけど」 彼は今の新聞の日付を読み上げた、ご丁寧に年まで入れて。 今日だ。 枕もとにあった目覚し時計をつかむ。 どういうこと? 戻っている――。 しばらく呆然とする私を尻目に彼は身支度を整えていた。 「朝ごはん待ってたんだけど、今からじゃ間に合わないかな」 「ちょっと、朝食なしで仕事に行く気?」 私はそのまま飛び起きて、パジャマのまま台所に立った。 日頃は家事なんて母任せで包丁など全く握らないのに、 まるで誰かが自分の体を借りてやっているかのように、 糠漬のきゅうりを規則正しく、均等にとんとんと刻んでゆく。 その合間に昨日の残りと味噌汁を温める。 体が勝手に動いているかのように。 突然、その自動運動を何者かが妨げた。 子供の泣き声、まだ赤ん坊だ。 無意識のうちに駆け寄る。 寝室の隅に置かれたベビーベッドの中に、まだ小さな赤ちゃんが泣き声を挙げていた。 「多喜が起きちゃったのか。まあ近くで大声出してたからな」 そのまま彼は空になった台所に入った。 「後はおれがやっとくから、お母さんは多喜のほうの朝ごはんあげなきゃね」 この目の前にいる、私が抱きかかえている赤ちゃん、 名前を多喜というらしいが、どうやら私と後藤さんとの間にできた子供らしい。 ということは当然私たちは結婚しているということだ。 一体どうなってるの? 混乱する頭を抱えながら、それでもなお泣きわめく子供の声にせかされて、 無意識のうちにボタンに手がいった。 乳房を与えると本能的に口に含み、吸い始める。 母乳はまるで尽きせぬ泉のように子供の旺盛な食欲に応えていた。 (不思議なものね) 心の中で、私はこう感じざるをえなかった。 (頭の中は混乱しているのに、体はしっかり母親になってるんだから) 「しのぶの分もよそっといたから」 振り向くと彼はもう食べ終わっていて、これから急いで職場に向かうところであった。 「あ、はい」 おざなりに応えると、彼はやや不満そうな顔で私を手招きする。 子供を抱いたまま玄関に立つと、彼は私の前髪をかき上げ、開いたスペースにキスをした。 「行ってきますのキス、じゃあね」 彼はそのままドアをしめた。その後ろには塩の柱になってしまった私が取り残された。 混乱した頭を抱えながら、私は部屋を見回した。 さて、一体何をすべきなのか。 そんな考えを洗濯機のブザーが中断した。 そのまま条件反射で脱衣所に置かれた洗濯機に向かう。 脱水の住んだ洗濯物をいつもの場所にあるハンガーやらにかけて、ベランダにぶら下げた。 頭の中は混乱しているにもかかわらず、腕は手馴れた手つきで動いていた。 一仕事終えた後、掃除をしなければ、という考えが不意に私の頭を占めた。 押入れから掃除機を取り出し(そのありかはなぜか最初から分かっていた)、 床に散らかった雑多なものをとりあえず炬燵の上にあげて、掃除機をかけ始めた。 子供はお腹がいっぱいになったのか、ベビーベッドですやすやと眠っていた。 しかし、まだ居間の掃除も終わらないうちに、多喜が泣き始めた。 慣れない私はとたんにパニック状態に陥ってしまった。 ええと、どうすればいいのだろう。 お腹がすいているとは思えないし、おむつも濡れていない。 たぶん掃除機の音で目を覚ましてしまったのだ。 私は必死で多喜をあやした。 それでも、いつもとやり方が違うのか、一向に泣き止もうとはしない。 それどころか泣き声はますます大きくなる一方だ。 途方にくれた私の口から、とある歌が漏れた。 歌はすらすらと、まるで私の意を越えたどこかから流れてくるかのようだった。 その歌を聴くうちに、多喜はまた静かな寝息を立てていった。 ところで、あの歌は一体何の歌だったのだろう。 子供を腕に抱いたまま、私はおぼろげな記憶をたどっていった。 それは母が私に歌ってくれた歌だったと思い出すのに、時間はそれほどかからなかった。 そのとき、私は無性に母に会いたくなった。 あのとき、私は母を恨んだ。 しかし今、曲がりなりにも母親である私は、 あのときの彼女の気持ちをごくわずかでも理解することができた。 それにしてもこの子の寝顔の、なんて穏やかなことだろう。 じっと見ているうちに、その顔がふっと父親のそれに重なった。 と思うと次の瞬間、私に似ていると思えてきた。 この子は私と後藤さんの子なんだと、しばしその感慨にふけっていた。 やるべきことをすべてなし終えて、私はやっと落ち着いて周りを見ることができた。 部屋の様子は、以前私が何度か訪ねたことのある後藤さんの部屋とは大分変わっていた。 あの時は殺風景で生活感がなく、帰って寝るだけの部屋であろうことが察しがついた。 しかし今は(やや薹が立っているが) 新婚夫婦と赤ん坊という典型的な公団ファミリーにふさわしい感じになっている。 キッチンで場違いなまま大きな顔をしていた食器棚も、 その場にふさわしいものとしてそこにあった。 華やかさはないが家庭的な雰囲気に満ちているというか、 きっと後藤さんは、そして私も幸せなんだろうなというのが空気から感じられた。 そしてそれは、きっと自分の存在が大きいのかもしれない。 この部屋にある全てのものが私のチョイスによるものでないにせよ、 私がいること自体がこの部屋に温かみを添えているのだろうと思ったのだ。 それは、今の自分には全く無縁のものだった。
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