「で、異常はなかったのか?」 「はい、ありませんでした」
どこか上の空の相馬を差し置いて佐野が答える。 しかし相馬の脳裏には昨夜の幻の業火が広がっていた。
「本当に何もなかったんだな?」
土御門の糸目の奥に、怪しい光が揺れる。その言葉で目の前の現実に引き戻された。 あの眼は少なくとも佐野のような節穴ではない、相馬の嘘、少なくとも沈黙の真意を見抜いているはずだ。 昨夜のような雷も覚悟した。 しかし土御門の反応は相馬の予想とかけ離れていた。
「そっか、じゃあ今夜も泊り込みだな。まぁとりあえず睡眠とっとけ。仮眠室使っていいから」 とだけ言うとくるりと椅子を回してそのままふんぞり返った。どうやら自分も睡眠を取るらしい。
二人はその場を辞すと部屋を出て行った。それと入れ替わるように室長席の前に立つ猿島。
「頭(かしら)」 と土御門を呼ぶ。 閉じられていたはずの土御門の目がうっすらと、しかし強い光をもって開かれた。
「あぁ、判ってる。あのビルの方、引き続き調査を頼む。 それと事故の件、もう一度洗いなおしてくれねぇかな」
そして、 「よかったな、何も言われなくて」
仮眠室へと向かう道すがら、そう相馬は佐野に話し掛けた。
「お前が言ってるほど鬼じゃないよな」 「まだまだ甘いな」 と言うと佐野は階段を下りていく。仮眠室は3階、この上だ。
「おい、どこ行くんだよ」 「家帰って寝る。午後からまた説明会なんだよ」 とだけ言うと、振り返りもせずに階段の死角に消えていった。仕方なく上の仮眠室へと向かう。
「ちきしょー、キャップの奴・・・」
そこはベッドというより棚と言ったほうがいいものが並ぶ、薄暗い一室だった。 もちろん引かれてるのはどれも薄っぺらな煎餅布団、幅も寝返りすら打てないほどだ。 いくら昨夜の疲れがあるとはいえ、ここで寝ろというのは至難の業だった。 それでも何とか体育会系の意地で気合で寝ようとしたが、ただ悶々と眠れぬ時間が過ぎていった。 眠いのに眠れない、これは辛い。 諦めると起き上がって、医務室へ向かう(当然ある)。 そこには病人用の寝心地のいいベッドが待ってるはずだ。 医務室には、保健室の先生に相当するような白衣の看護婦がいた。
「ちょっと気持ち悪くって、寝てていいですか?」
そのとき相馬の顔は、寝不足の疲労感で本当に病人のようだった。
「いいですけど・・・そこ、キャップの特等席ですよ」
そんなのもうどうでもいい。一応の許可が出るとするすると毛布に包まった。 あっという間に眠りに落ちていく。 それからどれくらい経ったのだろうか。眠りのリズムがちょうど浅くなってきたのか、 周囲の物音が聞こえだした。
「あぁ、武市ぃ。相馬来てる?」
土御門の声だ。 眠りながらも、相馬はこっそり特等席を占めていることで雷が落ちやしないかと内心ひやひやしていた。 あいつ仮眠室にもいねぇんだよなぁ、との声が次第に近づく。 そして足音がベッド周りのカーテンの内側へと迫る。 そのときにはもう相馬の意識は目覚めていた。毛布の中で身を硬くして、がくがくと震えている。
「おう、相馬ぁ。やっぱしここにいたか」
毛布をひんまくられる。しかし上司の態度は彼が予想したものとは違っていた。
「話があるんだ。ちょっと詰所まで来いや」
詰所に呼び出されると、そこには佐野も来ていた。
「あの幽霊ビルの件だがなぁ、調べてみればものすごい曰くがあった」 と土御門がさらっと言った。
「古くは江戸時代には下野糠田藩2万石松平美作守の藩邸があったが、 その殿様というのがえらい放蕩好きでな、吉原の花魁に入れ揚げるわ何わで 家老がこれじゃいかんと殿様の失脚を画策して、 また別の派閥がそれを阻止しようとしつつ殿様を何とか真っ当にしようとするんだけどこれがダメで、 しかも反殿様派の陰謀を聞いてついに刀持って殴りこみ、で自分も切腹しちゃうの」 「先代萩と伊勢音頭を足して2で割ったようだな」 とつぶやく佐野。それがどういう意味だかは自分で調べてください。
「もちろんその結果お家取り潰し、で責任取らされたのは殿様派の家老たち」 「そんな!」
相馬が思わず叫ぶ。
「だって仕方ないわな。責任取ろうにも反殿様派は 殿御自らお手討ちにしちゃったから、他に残ってないもん。 そしてそのあと銀行になって、関東大震災のときには建物半壊して火事になったんだけど、 頭取以下重役連中は地下の金庫室に逃れて無事だったんだけど、その他ヒラ行員らは焼け死んだそうな。 そして戦時中には軍に接収されて――」
そのとき相馬は昨夜の光景をありありと思い出した。 あれはまさに震災時の、無念の死者たちの見た最後の光景だったのだ。
「それに最近では5年前の荒川大水害で避難命令の遅れで3人死んでる」 「まるで馬鹿な上司に殺された無念の霊のオンパレードじゃないですか」 と端で聞いてた北白川が口をはさむ。
「そうだな、これはもう無念が無念を呼んでいるとしか思えんな。 ま、それでも今日も頑張って行ってちょうだい」 と体よく送り出されてしまった。
小川町のスポーツ店街で寝袋とガスストーブ(コンロ)とその他アウトドア炊事用具一式を買い、 ついでにコンビニで夕食と夜食用の食糧を買い込むと、今夜もまた廃ビルへと向かう。 着くや否や、佐野は新品の鍋にミネラルウォーターを入れ、湯を沸かす。 その間に2人分のカップラーメンの準備だ。 3分間の暇つぶしに何か話そうと思ったが、 気づいたらお互いの22年間のいきさつで話してもいいことはほとんど話し尽くされてしまっていた。 不吉な静寂の中、必死にネタを探す二人。そして、相馬が切り出した。
「お前さぁ、キャップのこと鬼だ暴君だって言ってたけど」 「本当のことを言ったまでだ」
話を打ち切ろうとするかのようにきっぱりと言った。
「なんでだよ。そりゃ、人遣いは荒いけどさぁ」 「あいつは俺の親父と同類なんだよ」
そういえば昨夜の与太話の中でも、父親の話題だけは決して触れようとはしなかった。
「親父って――」 「うちが代々続く武道の家系だってことは知ってるだろ?」 「ああ。俵藤太秀郷直系・佐野神弓流師範、だっけ」 「親父は俺に後を継がせようとしている。でも俺は血統の奴隷になるのは御免だ」
血統の・・・奴隷?
「親父はいつも二言目には血筋を絶やすわけにはいかないと言いやがる。 土御門も同じだ。土御門家は代々、始祖・安倍晴明以来、陰陽頭・対策室長の職を継いできた。 あいつも親父と同じ、血筋のためには何でもしかねない男だ。無二の親友を殺すことも」
そのとき相馬ははっと、土御門の机においてあった写真を思い出した。 仲良さそうにフレームに納まる若き日の彼を含む5人の高校生、 その中で彼と肩を組む満面の笑みを浮かべた少年を。
「でも、彼は自殺したって――」 「奴が殺したも同然だろう」
そう言ったところでタイマーが鳴った。無言のままラーメンのふたを開ける。 もはや禍々しいまでの静寂も気にならなかった。 今この、ガスストーブの炎に照らされた空間の方がよっぽど不吉な空気を帯びていた。 急いでスープを飲み干すと、いたたまれないように立ち上がる相馬。
「お前、勤務中に酒なんか飲む気じゃないだろうな」
食料とは別のビニール袋を持ったまま立ち去ろうとする相馬に、佐野が釘を刺す。
「まさか、一応仕事中なんだから」
そのまま大股にこの場を去る相馬。その耳には今日もポケットラジオのイヤホンが。
「道草すんじゃないぞ」 との佐野の注意も置いといて、相馬の向かった先はもちろん今夜もあの屋上であった。
「いやぁ、また来てくれたんだ」 と幽霊に似つかわしくない陽性の笑顔の三宅氏。 生者とはいえしかめっ面を浮かべる相棒より、彼といた方が明らかに心和んだ。
「一応、ここの怪奇現象の原因が突き止められるまで毎晩でも泊り込みですからね」 と疲れた表情を浮かべて見せる相馬。しかしその口調は嬉しそうだ。
「三宅さんもここの幽霊なんだから、心当たりがあったらなんでも教えてくださいよ。あ、これ」 と袋の中から缶ビールを一本取り出した。
「あ、でも私は幽霊なんでビール飲めませんよ」 「いいんです。ほら、お供えってあるじゃないですか」 とプルトップをプシュっと開ける相馬。
「でも・・・物理的には減りませんよ。相馬君は・・・」 「あ、オレは勤務中ですから、一応」
慌てて手を振る。そしてイヤホンを抜くとラジオのスイッチを入れた。
「野球、お好きですか?」 「実はドラゴンズファンなんですよ。名古屋支社勤務が長かったもんですから」 「あ、こら参ったな」
そう言いながら袋の中からもう一本、こっちはコーラを取り出して飲む相馬。 アルコールは入ってなくても、都心の夜景と一進一退の行き詰まる攻防、 そして他愛もない会話に相馬は酔いつぶれていた。 ここが幽霊騒ぎで悪名高いビルだということを忘れてしまうほどに。
「そういえば、三宅さんの家族って――」
そう言いかけた途端、三宅の表情にかすかな翳りが見えた。
「いやぁ、単身赴任が長かったから。だからたまに家に帰っても居場所とかなくて」
だからこの世での居場所は、必然的にここになる。皮肉にも彼を切り捨てた会社のなれの果て。
「でも、気になりませんか?こっちに留まってるんなら、家族の顔を一目でも」 「迷惑かけちゃいましたからねぇ、あの一件で。 家族のとこにもとばっちりが行ったでしょ。今さら、どの面下げて戻れるっていうんですか」
そう言う彼の表情に、幽霊らしい煩悶がにじんだ。この世に未練を遺した者の顔だった。
【打ったー、大きい、大きい、入ったー! この広いナゴヤドームの、2階席にまで飛び込んだ。青柳の逆転3ランーっ】
しんみりとした場に不似合いな大絶叫が屋上に鳴り響いた。 相馬は軽く両手を挙げた。
「三宅さん、やったじゃないですか」
三宅は顔を上げ、相馬の意図に気づくとおそるおそる両手を挙げた。 二人は軽く両手を合わせた。 といっても肉体を持たぬ死者と持つ生者の間。 相馬の手が三宅の手をすり抜けてしまわぬように、寸止めのような形になった。 不覚にも二人の間の隔絶を感じさせる。しかし、 「祝杯あげましょ!」 と相馬がもうぬるくなった、ふたの開いたビールを飲み干すと、 もう一本の缶をしゃかしゃかと振って、泡だらけのビールを三宅に浴びせた。 ビールはむなしく虚空を流れ落ちるが、ゴーストアイにはそう映っても 彼の心の眼には泡にまみれて喜ぶ三宅の顔が見えるようだった。 |
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その頃、佐野はたった独り、闇の中にいた。 炎に照らされているとはいえ、静寂を埋めるものは何もない。ただ、 「畜生、土御門の奴、あいつさえ手を出さなきゃ・・・」 という低いつぶやきが闇の中に消えていくだけだった。 その目はじっと揺らぐ炎を見据えていた。 炎の不規則な輝きは、見るものの心をあらぬ方向へ誘うという。 その炎の投げかける光の輪が次第に狭まっていった。 いや、それはまるで周囲の闇に侵食されていた。 |
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結局、相馬はゲームセットまで屋上にい続けた。
「んじゃ、相方が待ってますんで」 「あ、そうなんですか。わざわざお引止めしちゃって」 「そんな、こっちこそ」
そういって重い腰を上げる。 ビルの中は幽霊ビルにふさわしい漆黒の闇が広がる。 その闇の中を、相馬は複雑な思いを抱えながら歩いていった。 自分たちの仕事はここの怪奇現象の原因を探ること、そしてその原因を『処理』、つまり祓うこと。 それはすなわちあの幽霊の三宅氏との対決をも意味する。 祓う側と祓われる側、その立場の違いを彼は今はっきりと意識していた。 そもそも、何が一番あの幽霊氏にとって幸せなことなのか。 エレベーターが1階に着いた。扉が開く。目の前に広がるのは、彼の心と同じ闇。 心の闇ごと照らそうというように相馬はライトを前に向けた。 しかし、光の中に見えたのはコンクリートの床に倒れこんだ同僚の姿だった。
「佐野?おい、どうしたんだ佐野!」
肩をつかんで激しく揺する。その刺激に反応したのか、彼の目が開いた。 しかしその目は、おおよそ人のものではなかった。
「佐野・・・、おい、どうしたってんだよ」
それはまるで肉食獣が獲物を見据えるときの眼だった。その眼でじっと相馬を見る。 ゴーストアイの左目越しには、彼の周りに怪しげなオーラが漂っているのが見えた。 憑かれた。とっさにそう思った。 なおも佐野の手は相馬に迫り来る。そして首にまで伸びた。馬乗りになって、体重をかけて締め上げる。 しかし、能力を持っていない相馬には佐野に憑いた霊を祓うためにどうしてやることもできない。 できるのはただ一つ。必死に右手をウェストへと伸ばす。 手探りで冷たい物体を手にし、撃鉄を上げる。そして、それを友の額に向けた。 改S&W・M60.38チーフス・スペシャル3inchサイコリボルバー、フライシュッツ。 込められた弾は精神エネルギーだけを放つノンパルス弾、人体そのものには影響を与えない。
「奴が殺したも同然だろう」
もしあの友人を土御門が死に追いやったというのなら、あのとき彼はどう思ったのだろうか。
佐野は光る銃を目にすると、片手で相馬の首を押さえつけながら もう片方の手で銃を握る右手を押さえ込んだ。 銃を奪おうと揉みあいになる。相馬も、これだけは奪われてはならじと力を込める、そのとき、
一発の銃声が鳴り響いた。 それだけであって、壁にも天井にも弾痕は残らなかったが、 銃口から発せられた霊気におののいたのか、佐野は手を緩めて後ずさった。 相馬は銃を納めると今度はナイフを取り出して、牽制するようにちらつかせる。 北斗の配置が刻まれた霊剣の端くれである。 ガスストーブの炎を反射してきらめく光におびえたのか、佐野は近づくことができない。 右手にナイフを持ったまま、左手首の携帯電話を口元に近づけた。 ボイスコマンドで相手を呼び出す。 禍々しいほどの静寂の中で、かすかな呼び出し音だけが聞こえていた。
「相馬か?」 「キャップ、佐野が、佐野がっ」
画面に映った土御門に対して、怒鳴りつけるようにいった。
「そんな大声出さなくても聞こえる。佐野がどうした」
言葉で言うよりこっちのほうが手っ取り早い。 相馬は腕時計型携帯電話を佐野へと向けた。内蔵カメラに彼の狂態が映し出される。
「判った、すぐ行く!いいか、じっとしてろよ。相手は人間じゃない、化けもんだ!」
慌ただしく電話が切れた。なおも佐野は一定の間合いを保ったまま、相馬を睨みつけている。 しかし、いくら土御門がすぐ来るといっても、それまでこのままじゃ埒が明かない。 しかし、相馬にはどうすることもできない。どうすれば、一体どうすれば・・・。
一瞬の隙を見逃さず、佐野が彼めがけて飛び込んできた。 強烈なタックルに吹き飛ばされるか、とそのとき相馬は佐野の腕をつかむと、 突っ込んだ勢いそのままにひねり上げてコンクリの床に叩きつけた。 ドブネズミ色の床が血に濡れる、鼻血でも出たのだろう。
「さぁ、神妙にしろぃ」 と言う余裕も出た。1年にも満たなかったが、警官生活で身についた逮捕術だった。 佐野のズボンからベルトを引く抜くと、それで両手を締め上げる。 と、そのとき佐野が大きく口を開け、相馬の手元に食いつこうとした。 それは人間の行為ではなかった。とっさに手刀を彼の首筋に入れる。すると佐野は力なく倒れた。 遠くでサイレンの音が聞こえる。そしてバタバタという足音が近づいて来つつあった。 それは1つではなく、2つ3つあるようだった。
「相馬、佐野は!?」
やはりぐったりと座り込んだ相馬は、その傍らに倒れている同僚を言葉なく指差した。
「そうか、おーい」 と土御門は後続を手招きする。 彼らはぐったりとした彼を持ち上げると、二人がかりでバンへと運び込んだ。 興奮から覚めた相馬の眼には彼の姿が、さっきまでの怪物というよりもむしろ哀れに見えた。
「おれのせいだ」 と隣で土御門が小さくつぶやいた。
「判っていたんだから、その時点で佐野を任務から外しておけばよかったんだ。 無念が無念を呼んでいるとわかった時点で――」 「キャップ、佐野のことは」 「ああ、判っていたさ。あいつがおれのことを恨んでいたのも。なのになんで――」
もうこれ以上は言葉にならなかった。黙ったまま土御門は相馬をもう一台の車に乗せた。 |
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