まだ警視庁が古い造りだったころだ。世間はまだ60年安保の余波を残していた。

「野上じゃないか」

警視庁の廊下、声を掛けてきたのは同期の一人だった。

「また上申書出したんだって?『日本版FBIの創設』だとか」

それは以前本場FBIでの研修を受けたときから暖め続けていたものだった。
この国が経済発展を遂げていく中、犯罪はむしろ凶悪化、複雑化していくはずだ。
だから都道府県警の枠組みに縛られず難事件を追う専門の組織が必要なのではないか、と繰り返し上司に訴え続けていた。
だが同期の口ぶりには「そんなことは無駄だ」と言わんばかりだった。
その当時、警備公安こそが花形で刑事部など二流と見なされていたのだから。

「お前こそ、毎日デモ警備の訓練で忙しいんだろ」

そう言うと彼は待ってましたとばかりに自分たちの武勇伝をひけらかした。
といっても街に出て直接デモ隊とぶつかるのは機動隊員であって彼らキャリアではないのだが。

「もっとも、難事件を抱えてらっしゃる刑事さまのほうがご多忙かもしれませんが」

彼の言葉には若干の揶揄が込められていたが、事実私も忙しかった。
本庁に連続銀行強盗事件の本部が移されてきて、私がその本部長となったからだ。

すでに警視庁管内で同一犯と見られる銀行強盗が4件発生していた。
帽子に覆面で鼻から下を覆い、窓口に包丁を突きつけて現金を奪い、自動車で逃走。
犯行は速やかで遺留品も残さず、捜査は難航した。そしてもはや各所轄による単独の捜査では解決は困難であるということで
本庁捜査一課に『帳場』を立てて事件を追うこととなった。

会議室にはすでに何十人という刑事たちが集まっていた。
彼らは一課だけでなく、各所轄から選りすぐられた精鋭ぞろいだった。しかも見たところ皆、自分よりも年上ばかりだった。
そんな彼らと向き合って前の席に就くのだ。いくらエリートとはいっても緊張しないわけはない。
一課長に促され訓示を垂れたが、そのとき何と言ったのかは今でも思い出せない。
そして担当班長や配下の刑事から今までの捜査状況が詳しく読み上げられた。

「銀座の事件での犯人の一人の似顔絵と赤坂の似顔絵の特徴が一致しました」
「判った。公開する方向で検討する」
「有楽町の事件に使われたルノーは先月タクシー会社から盗まれた盗難車であることが判明。
渋谷のパブリカも同じく盗難車と思われます」

エリートの自分などよりはるかに経験を積んだ刑事たちが次々と新たな事実を積み上げていく。
私はその勢いに気圧されてしまった。彼らからもたらされる情報から真実を導き出すのが我々の仕事だというのに、
私の頭は膨大な情報を整理することすらできずにいた。

「それでは各自持ち場に着くこと」

私にできることはただ捜査を指揮し、その任をつつがなく全うすること。
私の言葉のあと、担当の班長がそれぞれ部下に指示を飛ばす。
その指示に従い刑事たちは真実を求め、三々五々と会議室を飛び出していった。
あとは夕刻、再び彼らがこの部屋に戻ってくるまでここで留守番をするだけだ。

すると、一人の刑事が『雛壇』の前に立っていた。
まだ若い――私よりは年が上だが、それでもまだ若手の範疇に入るだろう。
一見物静かな、刑事らしからぬ男だったがその眼には正義が燃えていた。

「有楽町のルノーは盗難車だとうかがいましたが」
「ああ、そうだが」
「今、どこにありますか?」
「あ、ああ。所轄に置いてあるが――」
「見せていただけないでしょうか」
「君、名前と所属は!」

一課長の声が飛ぶ。

「淀橋署刑事課所属、槇村巡査です」

それが私と彼との出会いだった。




「多摩川の河川敷に放置されていたルノーは、タクシーであったことを示す表示灯が取り外され、
社名も塗りつぶされていました。おそらく犯人かその仲間のうちに塗装工が関係していると思われます。
また、車内からは指紋等の遺留品は発見できませんでした」

一日の終わりを締めくくる捜査会議で刑事たちは今日の捜査の成果を次々に述べ上げる。
その中でも槇村刑事は温和な顔つきを引き締めて、並みいる刑事たちの、それも捜査一課の敏腕刑事の前でも臆することなく
的確に事実とそこから浮かび上がる真実を並べたてていった。

「それで、鍵はどうだったんだ」
「はい。ドアの鍵もイグニッションキーも目立った損傷は見られず、ただ内部に細かい傷を鑑識が確認しています」

その鋭い着眼点に私を含め、雛壇の上の幹部らは感嘆のため息を漏らした。
それもそのはずで、後から聞いた話だが、槇村刑事は以前本庁の捜査三課に勤務していたとき
主に自動車窃盗を中心に手がけていたそうだ。自動車の台数も決して多くないこの時代
自動車窃盗自体まだ少ない、出始めたばかりの犯罪だった。
だから若い彼が警視庁においてその道の捜査の権威となるのもそう難しいことではなかったのだ。

「それでは手口から自動車窃盗の前科者リストを洗い出すように」
「――はい、判りました」

自分とさほど年の変わらない刑事が堂々と発言しているさまを見て、現場を知らない私はただただ羨望するしかなかった。

それ以後槇村刑事はその他の犯行車両を見て回っているようだ。
他の車両が見つかったのはそれぞれ多摩川の河川敷や下町の空き地で
発見当初は「これで犯人のヤサが割れるか」と捜査陣は息巻いたが、
それからバラバラのところで見つかったので犯人たちのアジトを突き止めるのは事実上失敗した、そうだ。
いずれの犯行車両も1ヶ月以上前に盗難届が出されており、元の色とは違う色を塗り重ねられていた。
そして鍵は一見すると合鍵で開けられたかのように巧妙にこじ開けられていた。
その犯行の鮮やかさからおそらくプロの仕業、過去の自動車窃盗事件から
犯人を特定するのもさほど難しいことではないと考えられた。

そんな折だった。残り一つの犯行車両が見つかったという知らせが捜査本部にもたらされた。
槇村刑事はもう一人の刑事を連れて発見現場に急行しようとしていた。勢いよく廊下に飛び出した彼を私は呼び止めた。

「槇村刑事、だったね。すまないが私も連れて行ってくれないか」
「本部長・・・」
「実は捜査本部を預かるのは初めてでね、一度きちんと現場を見ておきたいと思っていたんだ。
現場のことを知らなければ捜査の指揮も取れないだろうから」
「現場を知らないで捜査を指揮している幹部なんていくらでもいますよ」
「捜査の邪魔はしないつもりだ、頼む」
「・・・犯行車両の発見現場とはいえ、事件現場と同じくらい重要ですよ」

とは言いつつも、その表情は苦笑にも似た笑みがあった。




羽田の飛行場に程近い空き地に、紺色のコロナが放置されていた。
その周りを制服警官と、所轄の刑事だろうか、何人かの背広の男たちが取り囲んでいた。
時折り上空を轟音を立ててジェット機が飛び交う下で、槇村刑事はじっと車のそこかしこを見つめていた。
彼の人当たりのいい雰囲気はどこか刑事らしくない、警察官らしくないものだったが
こうして猟犬のように真実を追い求めるさまは紛れもなく精悍な刑事の顔だった。

「1ヶ月ほど前に世田谷で盗難届が出されていました」
と所轄の刑事が言った。

「ナンバーは?」
「照会しましたが別物でした。これと同じナンバープレートをつけたミゼットが築地の魚河岸で使われてるそうです」

ということは偽造ナンバーか。

「中に指紋は残っていませんでした。それと遺留品も。
おそらく犯人は終始手袋をしていたか、乗り捨てる直前にきれいに指紋を拭ったかだと思います」

我々に少し遅れて到着した本庁の鑑識課員が報告した。

「それにしても、いくらアシが付かないようにとはいえ
こんな立派な車をおいそれと乗り捨てるなんて、随分勿体ないことだな」

当時、まだまだ自家用車は庶民の憧れだった。
何とか手を伸ばせば届くところにまでは下りてきたが、それでも実際に車を買うというのは一大決心だった頃だ。

「俺だってまだ持ってないんだぞ、マイカー」

思わず本音がこぼれる。すると槇村巡査は顔を上げた。

「本部長ほどの方が、まだお持ちじゃないんですか?」
「ああ。子どもも大きくなってそろそろとは思っているんだが、いざ買うとなると今度はどれがいいのか、それで迷うんだな」
「ちなみに、何と何をお考えで?」
「うーん、コロナかクラウン、それともブルーバードか?」
「やっぱりエリートは違いますね。うちは『てんとう虫』すら買えるかどうかですよ」

そう軽口を叩く表情は温和そのものだった。しかし、その表情が一変する。
鑑識から手渡された拡大鏡で鍵穴を覗き込んだ槇村刑事の眼が鋭さを帯びた。

「――あいつだ」

その呟きを私だけは聞き逃さなかった。だがその声音にはどこか哀しさが見え隠れしていた。

「本部長、急用を思い出しましたので失礼させていただきます」

そういうと槇村刑事はもう一人の本庁の刑事を現場に残したままパトカーに乗り込もうとした。
捜査員は常に二人一組、それが捜査のルールと教え込まれた。
だとしたら彼の単独行動はルール違反だ、上司として止めなければならない。とっさに私はパトカーの助手席に乗り込んだ。

「どこへ行くんだ?」
「現場のことです、本部長には関係ありません」
「相棒にも黙って行かなきゃならない場所なのか」
「・・・・・」
「車を出せ」
「本部長――」
「これは命令だ!」

こうなったらもう梃子でも動くまい。自分の頑固さ加減には自信があった。
諦めたのか呆れたのか、槇村刑事はエンジンを入れた。
我々を乗せたパトカーは品川、渋谷を経て中野のあたりで止まった。そこは何の変哲もない、小さな自動車整備工場だった。

「本部長はここで待っててください」
と言い含めて槇村は車を降り、工場で整備を行っている従業員に声をかけた。

「白井さん、元気そうじゃないですか」

助手席の窓を開けて、彼らのやりとりに聞き耳を立てる。
従業員は三輪トラックの下にもぐりこんでいたが、槇村が声をかけるとそこから這い出して帽子を取って頭を下げた。
人の好さそうな丸顔の男だった。どうやら彼とは顔見知りのようだ。

「真面目にがんばってるみたいじゃないですか」
「はい、おかげさまで。せっかく槇村さんに世話してもらった仕事ですから」
「その様子だと、仕事も順調みたいですね」
「そう・・・見えますかね?」
「せっかくいい腕してるんですから、それを正しく生かさなきゃ宝の持ち腐れですよ。
ところで、まさか昔の仲間と付き合ってる、なんてことはないでしょうね?」
「まさか!これからは清く正しく、生きていくつもりです。女房や子供のためにも。ところで槇村さん、一体何のご用で?」
「いや、たまたま近くに来たもんだから、白井さんの顔を見てこようと思いまして」

そう淀みなく答える。

「じゃあ自分は社長とちょっと話ししてから帰りますので」

そう槇村が言うと白井は再び帽子を取ってぺこぺこと頭を下げた。

「一体あの男は」

しばらくして車に帰ってくるなり、私は槇村刑事を問い詰めた。
彼はしばらく口をつぐんでいたが、仕方ないと言うように切り出した。

「彼は3年前、自分が逮捕した男です。腕利きの自動車ドロでした」
「彼の犯行手口と今回の犯行車両の特徴が一致した、というのか?」
「・・・ええ。彼は傷らしい傷をつけずに鍵をこじ開ける腕を持ってます。
そんな泥棒、この東京に、いや日本に二人としていませんよ」
「なら今回も奴が――」
「奴はやってません!」

振り上げた拳がクラクションにぶつかる。気圧されたのはその音にだけではなかった。

「――彼には女房がいます。よくできた女(ひと)ですよ、
懲役の間も愛想を尽かさず、ずっと亭主の帰りを待っていた。小さな子供を抱えて・・・
だからよく言って諭したんです。かみさんのためにも足を洗って、幸せにしてやらなきゃならないと。
だから今は、真面目に働いているんです」
「だが車の鍵は?前科者リストを洗っていけばいつか奴にたどり着く」

彼は私に向き直って言った。

「――この件は内密に願います」
「だが、君は刑事だろう」
「はい、もちろん捜査には全力を尽くします。そして、白井が犯人だという可能性を一つずつ潰していきたいんです」

それは逆見込み捜査といえるものだった。そんなことが現場の刑事に許されるはずがない。
だが彼の眼は真剣だった。あの虫も殺さなさそうな槇村刑事がときどき垣間見せる鋭い視線、それを真っ直ぐ私に向けてきていた。

「――判った、捜査を許可する」
「ありがとうございます」
「ただ、単独行動は職務上何かと問題だろう」
「は?」
「私も連れて行ってくれないか、槇村刑事」

一瞬、真剣な表情がきょとんとしたが、再びあの穏やかな笑顔に戻った。

「判りました。でも『槇村刑事』ってのはちょっとよそよそしすぎやしないですか?」
「だからといって呼び捨てもまずかろう。一応上司とはいえ君の方が年上だし、経験も私よりずっと積んでいるのだから」
「年上っていったって、私と大して変わらないんじゃないですか、本部長。
それに本部長は私が一生かかってもなれないような雲の上のお方なんですから」
「その本部長っていうのもやめてくれ。一応、コンビを組むのだから」
「では、何とお呼びすれば・・・」

そのとき、私はろくな自己紹介もしていないことに気がついた。

「野上だ」
「それでは、よろしくお願いします、野上さん」
「こちらこそ、槇村君」

そして私たちは手を握り合った。


>1960年代のキャリア・システム
当然判りません。一応、自称・警察マニアですが。
ご存知の方がおりましたら、「ここが間違ってる」とご指摘いただければ幸いです。
プロットに関係しないレベルでしたらちゃっちゃと訂正いたしますので。
ああ、せめて『砂の器』なんかで当時の刑事さんの様子を予習しとくんだった【涙】

former/next

City Hunter