さつきくんのガードは翌日から始まった。
といっても敵は彼女の身近にいる、いつものように嬉し恥ずかし密着ガードというわけにはいかない。
二人で交代しながら、一人が店の向かいのオープンカフェで彼女の様子を見張り
もう一人が店の周りを見回るという形をとった。さつきくん本人には隠しマイクがつけてある。
これなら店内で何かあってもすぐに駆けつけられるだろう。だが、

vol. 2 endless suspicion

「何かあったか」

交代の時間、テラス席でガラス張りの店内に眼を光らせていた香に声をかける。
ブリーフィングはなるべく手短に、さっきから店の周りをうろついている男と
カフェで粘っている女に関係があると思われてはならない。
だが、お互いに情報を共有できなければ元も子もない。

「ううん、なんにも」

こんなときにでも貧乏性が出るのか、香はそう言うと残ったわずかなカプチーノを飲み干した。

「逆に何も無さすぎるのが怪しいくらいだわ」

それは俺も思っていたことだ。
もうガードを始めて数日が経つのに、敵の動く気配が全くといって無いのだ。
もちろん、奴らは今、俺たちより彼女に近いところにいるというのもあるのかもしれないが。

「それに・・・さつきさんの様子なんだけど」
「どうかしたのか」
「見てて命を狙われてるっていう感じがしないのよ。
もちろん全くの余裕ってわけじゃないわ。でも緊張しなれてるっていうか・・・」

とにかくさつきくんの護衛はいつものように一筋縄ではいかないようだ。それに気になることは他にもある。

「ちょっと待ってろ」

と言うと俺は横断歩道の無い通りを斜めに渡りガラス張りのドアを押し開けた。
あっちが動かないのならこちらから動いてやればいい。交代はしばらく後だ。

店の中は白い壁、白いリノリウムの床の上にオークや竹で作られた、いわゆるアジアンテイストな家具が並んでいた。
その中で白いシャツに黒のボトムス姿の女性スタッフが訪れる客相手に商品を説明している。
それが制服というわけではないだろうが(シャツのデザインは人それぞれだし)

これがおそらく着ている人のセンスというものを表す一番手っ取り早いコーディネートなのだろう。
その似通った格好をしている美人のうち、黒髪のショートヘアが振り返った。

「いらっしゃいま――冴羽さんっ」

驚くさつきくんに、人差し指を口許の前に立てた。

「いいから普通の客が来たふりをして。俺のことがバレたら命が無いんだろ?」

小声で念を押すと、言われたように俺から離れた。

「お客さま、何をお探しでしょうか」
「ん〜、あんまりかさばらない物がいいんだけど」
「だったらこのダストボックスなんてどうでしょう。こちらもバリの職人の一つひとつ手作りで――」

籠編みのごみ箱を取ろうとして突き出たヒップについつい手が伸びる。
これは意識してのことではない、あくまで手が勝手に伸びただけのことだ。しかし、

「何するんですかっ!」

その後に「冴羽さん」が付け加わらなかったのは賢明だった。
そして俺の脳天には展示品の木彫りの人形が振り下ろされていた。これはハンマーの一撃に匹敵する。

「ふ、普通のお客さまにもこんなことするの・・・?」
「セクハラされればそうします!」

その時、ガラスの向こうの男と目が合った――あいつだ。
さっきから、いや、その前からも俺以外に店の周りをうろちょろしている奴がいた。
小柄で気弱そうな、格好からいってサラリーマンか。
でも何でこんな昼間から青山くんだりをうろついてるのか。少なくとも同業者、というわけではなさそうだが。

「もしかして命狙われてる以外にストーカーにも狙われてる?」

木彫りの人形を撤去しようとする彼女に耳打ちする。

「ほら、あのリーマン風のヤツ」

知りません、とさつきくんは口の動きだけで答えた。しかしその視線はわずかばかり揺らいでいた。




警視庁第四方面本部長、という肩書は字面の仰々しさに比べて閑職と言わざるをえなかった。
もちろん警視長相当のこの職が価値の無いものではない。
だが、偉くなればなるほど暇になっていくというのがこの国の官僚制度だ。
仕事といえば上にあがってくる書類の決裁――盲判なら猿にでもできる――と、たまに現場の視察程度だ。
視察といってもスケジュールは決まっており、署長・副署長の歓迎以下、見せられるのは用意された外面ばかり。
予想通りの決まりきった毎日――あの頃は違っていた。
刑事として現場を駆けずり回っていた頃は一日として同じ日は無く、予想どおりにいかなくて、だけど充実した毎日だった。
だが、今同じように働けるかといえば無理だ。正直、無茶がきかない齡になってきたし
あの状態なら結婚も、まして子供なんて考えられなかったのだから。

そんな平穏かつ退屈な日常を打ち破るかのように電話が鳴り響いた。それも本部長室の固定電話
――滅多に自分で取ることはない。この国では直接電話に出ないのも権力の証なのだから――ではなく携帯電話が。
ということはいつも面倒な頼み事ばかりしてくる悪友の一人からだろうか。
まぁいい、私もまた彼らには面倒をかけているのだから。

「もしもし」
《Hello Ms. Saeko》

かけてきたのは悪友の中でも文字どおり毛色の違う一人だった。

「何の用なの?今仕事中よ」

《ちょっとキミの耳に入れておきたいことがあってね。キミのハズの過去を調べてるヤツがいるんだ》
「槇村の過去?」

夫の槇村にはユニオン・テオーペの一員という決して明かせぬ過去がある。
たとえそのとき記憶を――かつては刑事でありシティーハンターの相棒だったということも――失っていたとはいえ
現在、東新宿署生活安全課課長という職務にある者にとってはあってはならない過去だった。
それでもなお私ともども今の地位にいられるのは、それ以上に警察幹部たちにとって公に知られてはならない秘密を
私たちが握っているからだ。もし彼の過去を明かそうものなら刺し違えるのを覚悟しなければならない。
それゆえ上層部には私たち夫婦を疎んじている者も多い。奴らは事あらば私たちを追い落とそうと必死なのだ。
もし槇村の秘密がマスコミに知れれば、奴らはこの機に乗じるに違いない。それだけは避けなければ。

《26年前、何があったか覚えてるかい?》

26年前?その時はまだ槇村は刑事で、私の相棒だった。

《「26年前、捜査の失敗の責任を取って警察を辞めた刑事がいる。
なのにその彼が現在警察官としてのうのうと生きている」》

ミックの言うことはある意味事実であった。何も知らない人間が見ればそう映るだろう。
だが槇村が警察に復職して、その後順調に昇進し続けているのは
そのような危険人物を組織の中で囲っておこうという魂胆だ。しかし彼らはそれを明かすことはできない。

《Don’t worry, Saeko.もちろんそんなネタが持ち込まれてもボクが潰しておくさ》

おそらくは携帯電話片手にウィンクしていることだろう。とりあえずは彼の友情という名のギブアンドテイクに感謝する。

《You’re welcome!困った時はお互い様だよ》

そう言うと通話が切れた。これでとりあえずは一安心だろう。
あれでも彼にはマスコミの内外とのコネクションがある。テレビで顔を売っているのも半分はそのコネ作りなのだから。
その彼なら、厄介な連中に知られる前に何とかできるはずだ。
液晶画面に目を落とすと、デジタルの時刻表示がもうすぐ5時を指そうとしていた。そろそろ退勤時間だ。
わざわざ居残って片付けなければならない仕事も無い以上は遠慮なしに帰ることができる。
この職場で一番偉いのは私なんだし。――昔は退勤時間なんて有って無きがようなものだった。
もちろんあの頃の日々を懐かしく思うことはある。
だが、今の私――妻であり母であり、熟女と呼ばれる年齢の女性――にとっては、9時5時で働けることの方が幸福なのだ。

帰りはデパ地下で何を買っていこうか、それともたまには自分で腕を揮ってみせようか。
そんな事を考えている私は野上冴子警視長というより、すっかり兼業主婦の顔に違いないだろう。




「ふぅ、これでよし、と」

通話終了のボタンを押すと、誰に言うでもなく呟いていた。

このネタを持ち込んできたインフォーマントは、オフィスのスタッフによれば
ずいぶん前からここに通い詰めていたらしい。だがオレもこう見えて取材やらテレビ出演やらで忙しい身だ、
それでなかなか掴まらないまま今日になってしまったというわけだ。
その彼も可哀そうに、まさかネタを持ち込んだ先が告発相手と繋がっていたとは。それもどっぷりと。
確かにオレは日本人のジャーナリストとは違っていろいろシガラミが無い分、今まで思い切った記事を書いてきた。
だけど名前どおりの聖人君子というわけでもなければ『天使』というわけでもない。
あの二人にはイリーガルすれすれのところを何度も助けてもらった借りもあるし
それが無くてもオレにとって大事な友人だ。サエコも、もちろんマキムラも。

応接用のガラステーブルの上には口のつけられていないコーヒー。
――憐れなものよ、救いを求めて縋りついた天使がまさか堕天使だったとは。
二杯目のコーヒー ――もちろん役目を果たせなかった来客用のもの――に手を伸ばしながら
さっきまでそこにいたその憐れな男のことを思い出していた。

年齢はオレなんかと同じくらいだったろうか。だが年齢以上の疲弊が見てとれた。
多かれ少なかれ、ジャーナリストの元に駆け込む手合いは誰しもそれなりの事情を抱えている。
役所や警察を当てにできないからこそオレたちに助けを求めているのだし。

「なかなかお会いできなくて申し訳ありません。最近は忙しいもので」

日本人並の腰の低さで挨拶したことは覚えている。こっちにももうかなり長い。
そして名前を訊いたはずだが覚えていない。
次の瞬間、これは聞くべき話ではない――むしろ聞き入ってはならないと判ったからだ。

「お忙しいようなので本題から入らせていただきます」

と言ってガラステーブルに差し出された一枚の写真。
隠し撮りらしいその写真は雑踏の中の一人の男にピントが合わされていた。
季節はまだ冬だろうか、よれよれのコート姿のその男はカメラの存在には気づいていないものの
おびただしい人の波の中、彼一人だけが気を張り詰めさせているのが見てとれた――間違いない。

「槇村秀幸警部、東新宿署の生活安全課長です。この男を告発したいのです」

――目の前の男の真意が読めなかった。
オレがマキムラの『身内』だと知った上で依頼しているのか、彼を排除したい警察上層部のマワシモノなのか。
息子の教科書に載っていた、踏み絵に臨む隠れキリシタンはおそらく同じ思いを抱いたことだろう。

「彼は一度警察を辞めています。いや、辞めさせられています。捜査の失敗の責任を取って。
しかしいつの間にか何事も無かったように復職し、その後はとんとん拍子に出世を重ねているのです」

彼が辞職に追い込まれた経緯はカオリやサエコから聞いているし、復職となると自分もその事態の当事者の一人だった。
だがそれを目の前で憤っている男に教えるわけにはいかなかった。

同じく差し出された資料には、公表している範囲の事実はほぼ網羅されていた。
オレがわざわざ取材しなくても、これだけを雑誌に持ち込めば充分記事になるだろう。
しかしそこにはもちろん公表されていない事実が欠けていた。
その事実が明かされれば日本警察の信頼が地に墜ちる。いくら麻薬組織壊滅のためとはいえ
警察がユニオン・テオーペの残党と手を結び、奴ら以外の組織を潰すために協力関係にあったとは。
その事実を握っているマキムラを警察は組織の中に囲い込んで、毎月サラリーという名の口止め料を払っているのだ。
だが彼が連中の手に負えるヤツじゃないというのは、その後上げた実績からも明らかだろう。しかし、

「彼のせいで人が一人死んでるんですよ。それを、もう『禊ぎ』は済んだというんですか!
私は許しませんよ、一生。エンジェルさん、ぜひとも槇村と警察に正義の鉄槌を下してやってください」

エンジェルさん、と来たか。男はソファから立ち上がると、両手でオレの手を握ってきた。
そう呼ばれるのが一番苦手だ、『天使サン』なんてガラじゃない。それに『正義の鉄槌』なんて言われても
オレにとってはマキムラを引きずり落とす方がよっぽど不正義だ。自分の利害のためだけではない。
彼のおかげで解決に導かれた難事件、壊滅に追い込まれた組織は数え切れないのだから。
そもそもオレは『正義』のためにジャーナリストなんてやっているとは思っていない。
もしこの世で『正義の鉄槌』が下せる人間がいるとするならば、それはリョウのナンパ癖にハンマーを下すカオリだけだろう。

「お願いします、エンジェルさん」
と、またその呼び方で念を押された。

そう言われてもこっちには記事にする気は毛頭ない。それよりもこの記事が世に出るのを何としても阻止する義務がある。
記者クラブに所属しているような大手マスコミなら、警視庁出入り禁止を恐れてこのようなネタには飛びつかないだろう。
それより厄介なのは同業者であるフリーランスのジャーナリストだが――オレ以上の命知らずがいただろうか。

それよりも、今一番の関心事は向かいの悪友のもとにやって来た美人の依頼人だ――なんでアイツのとこばっかり。
若い頃のカオリを――もちろん、今もその美しさは変わらないが――彷彿とさせるような
ショートカットの快活そうな彼女は、数日前からヤツのところに泊まり込んでいる。
アイツにばかり美女を独占させてなるものか、ちょっとぐらい紹介してくれたっていいだろうに。

窓の外を見遣ればリョウも、当然その彼女もまだ帰ってきてないようだ。

「まずは歌舞伎町辺りで情報収集かな」

と呟くと、さっと眼を通しただけの資料をシュレッダーに放り込んだ。




ストーカー(?)男が現れた以外は、何事も無いままさつきくんの勤務が終わった。
家に帰れば娘が香の指示で夕飯と風呂の支度を整えていた。今日もメニューはカレーライス。
作り置きができ、時間が経つほど美味くなるが、正直そろそろ違うものも食べたくなってきた。
そのカレーをさつきくんは山盛りをぺろりと平らげた。しかも日に日に盛りが多くなっているようだ。
そりゃ香のカレーは隠し味やらいろいろ凝ってて確かに美味いが(それを素直に伝えたことはないが)
普通命を狙われれば食も進まなくなるようなものを・・・。やはり香の言うように、並の神経じゃねぇ。
今までいろんな依頼人を見てきたひかりも、その食いっぷりに目を丸くしていた。
って、そういうおまぁも攫われたのを連れ戻してきた途端、「おなか空いた」って
ガツガツ香の手料理に食いついてきたのは一度や二度じゃないだろうが。
つまりはそういう神経をしているのはスイーパーの娘のように始終命を狙われ過ぎて感覚がマヒしたヤツぐらいだ。
彼女も平然と仕事をしているように見えたが、その間ずっと周囲に目を配らせていたのはガードしながらでも見てとれた。
――もしかして彼女は堅気ではないのでは?ありえない考えが頭をよぎる。
少なくともさつきくんからは裏の世界の人間特有のものは感じられなかった。

だが、ただのショップ店員とも思えなかった。

「撩ー、コーヒー入ったわよ」

思考を遮ったのは香の声と鼻をくすぐる匂いだった。

「さつきさん、もうすぐお風呂から上がってくるわよ」
「ん」
「行かないの?」
「えっ?」
「覗き。あんたがちょっかい出さないなんて珍しいんじゃない?明日は槍が降るかも」

人を色情魔みたいに言いやがって――確かにその『一面』はあるがそれが『総て』ではない。
たまにはハードボイルドに黄昏れてて何が悪い。

「撩っ」

何なんだよ、しつこいな。

「煙草の灰落ちそうよ」

気がつくと持っている辺りまで灰になっていた。

「冴羽さーん、香さーん、お風呂使わせてもらいましたー」

バスタオルで髪を拭きながらさつきくんが風呂から上がっていた。

「んじゃそろそろ今日の復習といきましょうか」
と、ポケットの中のICレコーダーをテーブルの上に置いた。

さつきくんに付けておいた隠しマイクが拾った音は俺たちのイヤホンに飛ばすだけではなく
こうして記録しておいて会話の一つひとつを確かめるのだ。
贅沢を言えばマイクだけでなく隠しカメラも仕込んでおきたいところだが、それは文字どおり贅沢というものだ。
それに、香も俺も会話の内容さえ聞けば、その相手の顔ぐらい思い出せる。

レコーダーが記録した会話はほとんど普通の客とのものばかりだった。倍速の声に耳をそばだてながら先へ急ぐ。

《ああ、大高くん。展示終わりの家具のことなんだけど――》

聞き慣れない声に一時停止ボタンを押す。

「倉庫部長です。普段は本社にいるんですけど、今日は展示替えの打ち合わせで」

その言葉で、彼女と話していたちょいワル気取りの中年男を思い出した。
他に殊更気に留めるようなことも無く、今日一日の会話が終わった。

「手掛かりは無し、か・・・」
と呟きながら香がスイッチを切った。

敵は社長ら会社の中枢なのだ、店先で客の相手をしている限り奴らの尻尾は掴めない。だが、どうやって・・・。

「あたし、社長とかの様子もっと探ってみます」

そうさつきくんが宣言した。

「さつきさん・・・」
「探るっていっても、率先して来客のお茶出しとかするだけですよ。そりゃあ、少しは盗み聞きくらいはしますけど」
「店長の二の舞になるぞ」
との俺の言葉にも彼女は動じることはなかった。

「何か掴まないと店長の仇とれませんから」

その眼の力には命を狙われているという恐怖は見られなかった。

「だからそのかわり、今以上に危険な目にあうかもしれませんが、ガードの方よろしくお願いします」
と言ってぺこりと伏せたその顔は、いつもどおりの営業スマイルの仮面だった。




「そういえば今、リョウのところに新しい依頼人が泊まってるだろ、ショートカットの美人の」

そうミックが切り出してきた。言葉どおりに取れば単なる事情の確認。
しかしその言外の意味は「彼女のことを教えてくれ」だろう。

「その人については知らないわよ、何も。冴羽さんも香さんも、最近お店に来てないんだもの」

おかげでここCat’s Eyeは静かな毎日が続いていた。
そう、本当に目指したかったのはこんな店なのよ。
それがいつもお店に揉めごとを持ち込んでくる常連客ぞろいですっかり忘れてしまっていたけど。

するとミックはデミタスカップにわざとらしく鼻を近づけて、

「さっすがプロの入れたエスプレッソは違うね。ウチのマシーンじゃこうはいかないよ」
「おだてたところで何も出んぞ」

ファルコンが釘を刺す。だが、

「あの二人は来なくてもヒカリは来るんだろ?」
「ああ。依頼人がいるから家には居づらいらしい。毎日遅くまで入り浸ってる」
「じゃあ何かヒカリから聞いてるだろ?」
とミックがウィンクした。

・・・語るに落ちた。さすが有名ジャーナリスト、この手で難攻不落の取材相手を数多く陥してきたのだろう。完敗だ。

「でもそんな詮索するようなことはしてないわよ」
「会話の端々にちょろっと出てくる情報でいいんだよ」

そのとき、
「美樹さん、ファルコン、おひさ〜」
と軽快にドアベルを鳴らしながら入ってきたのは、新宿とその周辺を管轄する方面本部長その人だった。

「やあサエコ、突然で悪いんだけど、リョウの依頼人のことで何か知らないかい?」
「さっきからそれでうるさいのよ、何か知ってたら教えてくれって」
「残念だけどわたしも知らないのよ。でも興味あるわね。美樹さん、何か知ってる?」

そう言われても、私がひかりちゃんから聞いたのはさつきさんという名前、青山の輸入家具店で働いていることぐらいだった。
そのくらいのことはミックほどのジャーナリストならすでに仕入れている情報だろう。
なにしろ彼の情報源はCIAから二丁目のママまでとバラエティ豊かなのだから。
でも彼はそんな顔一つせず興味深そうに聴き入っていた。

「ああ、そういえば冴子さん、最近槇村さん忙しいの?」
「え?そんなことはないけど。でも槇村がどうかしたの」
「いえ、大したことじゃないんだけど、最近お店に来ないなぁって」




槇村がCat'sに来ていない?美樹さんの言葉がにわかには信じられなかった。

もともと彼には香さんの兄であり撩の、そして私の元相棒という間接的な繋がりしか
Cat’sの常連である物騒な面々とは持っていなかった。だが彼らはそんな槇村を仲間の一員として受け入れてくれた。
そしてそのネットワークの中にがっちりと組み込んでしまっていたのだ。
一方の槇村もこの店と仲間たちの雰囲気に惚れ込み、今ではすっかり常連の一人だ。
私の今の職場と比べれば彼の職場とCat’s Eyeは目と鼻の先。
そんなわけで仕事の合間を抜け出してしょっちゅう店には顔を出しているようなのだが・・・。

抜けてこられないほど仕事が忙しいのだろうか、美樹さんの言うように――そんなはずはない。
彼は私の夫であると同時に警視庁第四方面本部長・野上冴子の部下にあたるのだ。
彼が今抱えている仕事なら、Cat’sに出られないほどの大きなヤマであれば私の元にも報告が上がってくるはず。
それに家ではそのような忙しいそぶりは見せていない。
いつもの時間に帰ってきては、いつものようにビール片手に野球中継を眺めているのだ。
それとも、上には報告できないような極秘捜査に当たっているとか?それにしたって水臭い。
確かに私は彼の上司であるが物判りの悪い上司ではないつもりだし、それと同時に妻であり『生涯の相棒』であるのだから。

「あの人が抱えてる仕事を探ってみる必要がありそうね」

それならこっちには腕利きのスパイがいる。
ただ彼は油断ならない二重スパイでこっちの意図が向こうに筒抜けになるリスクはあるけど。
だがもたもたしてはいられない。彼にミッションを伝えるべくポルシェのアクセルを踏み込んだ。




通学路に停まっている真っ赤なポルシェを見かけて、それがあたしとは無関係であることを心から願った。
直接あたしと関わり合うことはまずないが、少なくとも面倒な事態に巻き込まれるのは火を見るより明らかだ。
現に、隣のイトコがそわそわし出した。

「いいか、何があっても絶対他人のふりだからな」
とあたしたちいつもの面々に念を押す。だが、

「秀弥ぁ、お帰りぃ〜♪」

と大きく手を振られては無視できない。

なにしろ下校途中の先輩後輩同級生の目が生徒会長に注がれているのだから。
その口調はうちにやって来ては厄介な依頼を押し付けるときの、パパを呼ぶ声そのものだった。

「ひかりちゃんもみんなゴメンね。今日は4シーターだから、全員送っていきたいのはやまやまなんだけど」
「ううん、お構いなく」

障らぬ野上冴子に祟り無し、その辺のとこはあたしたちみんなが心得てる。
面倒なことに関わり合いたくなければこの場を後にするしかないと、たとえ仲間を人身御供に据えても。

「じゃあ秀弥借りてくわね〜」
と彼を助手席に押し込んでポルシェ911は轟音とともに走り去っていった。
あたしたちにできることは、ただただ彼の無事を祈ることだけだった。




平日午後の首都高は渋滞とは言えないまでもそれなりに込み合っていた。
だがその車と車の間に華麗なドライビングテクで真っ赤なポルシェ911をねじ込んでいく。

「ベーエムで来りゃよかっただろーが」

BMWだったらおふくろ+オレたち4人を乗せることもできる。
といってもそっちはほとんど出番が無く、母の日常のアシはあれから数えて数代目のポルシェだが。
その相変わらず真っ赤なポルシェは新宿から環状線を抜けてレインボーブリッジを渡っていた。
そして海浜公園にたたずむ頃にはすっかり夕日に包まれていた。
薄暮の空に新宿の高層ビル群がシルエットとなって映る。
作りものの海岸線沿いには大規模ショッピングモールのカフェテラスが並んでいたが
オレたち母子は公園の砂浜で、ワゴン営業のカフェのエスプレッソ片手に突っ立っていた。

「で、何の用だったんだよ」
「別に。たまには親子水入らずでドライブってのもいいんじゃないかなぁって思って」
「嘘つけ」

まったく、なんて勝手なんだようちの女どもは。
いつもいつも自分の都合ばかり押しつけて他人のことを顧みようとはしない。しかもそれが許されると思い込んでいるときた。
彼女たちのわがまま勝手は父さんら男性陣の海より深い寛容さゆえに成り立っているというのに。
オレの周りの女性陣は揃いも揃ってそんなのばかりだから、世の女性も総てそんなものだと思ってしまっても不思議はない。
香さんのようなタイプは稀有な例外なんじゃないかと。
まだ母さんはそれなりに母親の自覚があるだけまだマシかもしれないけど
その一方で野上家『傍若無人』シスターズの総帥でもあるからなぁ・・・。

「あーあ、あなたがそう言うんじゃしょうがないわね」
と紙コップを持ったまま器用に伸びをする。

「秀弥、最近父さんのところに行ってる?」
「いいや、新入部員が入ってきたりで忙しくて」
「そう。じゃあ父さんの様子も判んないかしら」
「直接訊いてみりゃいいだろ」

とはいうものの、感じのよさそうな顔してるくせに、あれで結構嘘は上手いのだ、うちの親父は。
天下のシティーハンターをペテンにかける女狐さえ平気で引っかけるのだから。
その実力は20年間たった一人の妹に嘘をつき通したことからも折り紙つきだ。

「何かあったのかよ」
「ううん、大したことじゃないのよ。ただ、ちょっと気になることがあってね」
「まさか女の影とか?」
「そんなことあるわけないじゃない」

自信たっぷりに言い切った。そりゃ父さんに浮気できるような甲斐性があるとは思えない。
傍から見れば父さんにはもったいなさすぎるような奥方だし、母さんは。
でもそんな世間の眼以上に、二人が夫婦として、そして刑事として互いに強い信頼で結ばれているのは
一番近くでそれを見ているオレが一番よく知っている。
あーあ、妬けちゃうよなぁ。息子のオレですらその間には割って入れないんだから。

「はいはい、じゃあ今度覗いてくりゃいいんだろ?」

空になった紙コップをストライクで屑籠に投げ込む。
空はいつしか群青が濃くなり、新宿のビル群には灯りが点りはじめていた。




そんな灯りの中の一つ。

「ふぅ、極楽極楽」

と、おおよそ10代らしからぬセリフが思わず口をついて出た。
お風呂上がり、濡れてぺしゃんこになったくせっ毛をバスタオルでわしゃわしゃやりながら冷蔵庫のドアを開ける。そして、

「ぷはぁっ」

パックに直接口をつけて牛乳を喉に流し込んだ。もちろんもう片手は腰に、である。
するといつものように食器洗い中のママにたしなめられた。

「行儀が悪いわよ、ひかり。お客さんがいるんだから」
「あれ、そのお客さんは?」
「さつきさんならリビングでパパと一緒だと思うけど」

それって結構危険じゃない?世界一のスイーパーが傍にいるといえば何とも心強いのだけれど
それは油断ならない恐怖のもっこり男が一緒ということでもあるのだから。
――でもさつきさん、パパのこと投げちゃうぐらい強いから平気か。

「さつきさん、お風呂空いた――あれ、さつきさんは?」

リビングに彼女の姿は無かった。ただ、ガードそっちのけで洋モノポルノに涎を垂らしているパパがいるだけだった。

「んあ?トイレにでも行ったんでないの」

気のない返事。当然のごとくトイレの電気は点いていない。
なおも無修正グラビアから視線を外さないエロ親父から件のグラビアを取り上げた。

「パパ、何のためにここにいるか判ってる?」

ガード中とあらばいついかなる時にも護衛対象の一挙手一動足に気を配らねばならない。たとえそれは家の中であってもだ。
なのにエロ本にうつつを抜かした揚句さつきさんがいなくなったのに気づかないとは何たる不覚。

「さつきさんはどこ!?」
「さあな、どこだか」
「一人にしといて何かあったらどうすんの!」
「何かって何もあるわけないだろ。そんなに遠くには行っていないはずだし狙撃もこのアパートに限っては無理だ。
そもそも彼女にどこか行かなきゃならない理由は無いし、自分が狙われてるって自覚ぐらいあるだろうが」
「その自覚があるかどうかが心配なのよ!!」
「一体どうしたのよ」

あまりの剣幕にママがエプロン姿のまま間に入る。

「ママ、ローマン持ってるよね?」

返事を聞く間もなくジーンズのヒップポケットから抜き去った。『仕事中』の時は肌身離さず持ち歩いているのは承知の上だ。

「確か殺気を感じれば爆睡中でも目が覚めるって豪語してたよねぇ」
「ひかり、銃口を人に向けるなって教えただろっ」
「時と場合によって、でしょ?今がその『時と場合』なの」

秀弥によく「やり方が意外と陰険だ」って言われるけど、しかたがないもの。
あの隠れネクラの親父の血を受け継いでるんだから。って隠れてないネクラの秀弥に言われたくないんだけど。

「いくら鋭敏なセンサーをお持ちでも、こういう時に働かなきゃ何の意味も無いじゃない」
「いいから銃を下ろせっ。それよりもさつきくんを捜す方が先だろ?」
「そうよひかり。こんな奴、後でハンマーで伸してやるからっ」

撃鉄に指を掛ける。ローマンはダブルアクションだから撃鉄を上げなくても銃爪が引けるが、こうした方が軽く引ける。
さあ、もう後はトリガーを引くだけとなったとき、

「あれ、どうした――んですか?」

迂闊だった。これではパパのことをとやかく言えない。
彼女が外階段から――やたらと足音の響くそこから上がってきたのをこの場の誰も気づかなかった。
さつきさんはドアのところでおずおずと固まっていた。さすがにこの場に割り込めるほど無神経ではないようだ。
視線が一斉に彼女に向けられる。あたしもゆっくりと顔だけをそっちにやった。
無意識のうちに銃口ごとそちらに向けてしまいそうだったから。

「さつきさん、みんな心配してたのよ」

まず口を開いたのはあたしたちの中ではまだ冷静だったママだった。

「あ・・・ごめんなさい」

早弁がバレたような顔をして頭を下げた。そして手には煙草の箱とライター。

「ちょっと吸いたくなっちゃって・・・一応、お世話になってる間は遠慮しようと思ったんですけど」

・・・つまりは階段でホタル族ですか。あたしたち全員が脱力したのは言うまでもない。

「そんなに気を使わなくていいのよ。撩もここで吸ってるんだし」

とママが灰皿を差し出した。その間にパパがシリンダーを掴みながらローマンを取り上げた。そして、

――パシッ

と乾いた音が無音のリビングに響いた。

「もしかすればこれ以上痛い目に遭ったかもしれない、これ以上ひどい跡が残ったかもしれないんだ」

さつきさんは打たれた頬を押さえながら呆然と突っ立っていた。
パパはあたしの肩からバスタオルを掴むと、彼女の頭にふわりと掛けた。そして、風呂が空いたぞ、と声をかけた。
無言のまま彼女はバスルームに向かう。通り過ぎる彼女の髪からは煙草の匂いがしなかった。




情報収集という名のハシゴ酒も収穫ははかばかしくなかった。
ここ数日歌舞伎町でリョウの今度の依頼人について聞いて回っていたが、街の事情通からも有力な情報は得られなかった。
むしろこっちが逆取材されたぐらいだ。リョウが飲み歩いてくれさえすれば、多少は違ったのだが・・・。
Cat’s同様、依頼を受けてから彼は夜の街に繰り出してはいないようだった。

ああ見えて、仕事については(依頼人にもっこりアタックを繰り返したりはしているが)意外と真面目なのだ、リョウは。
アパートに依頼人と妻子だけを残して外で呑んだくれるような真似はしない。
呑んだくれてくれようものなら、直接顔を合わせなくても、馴染みの店のマスターやらホステスやらから話を聞けたのに。

今夜は河岸を変えてゴールデン街まで足を延ばしてみたがさっぱりだった。
まだ夜は早いがおとなしく帰るか。我が家のすぐ目の前――と同時に悪友のアパートの目の前――に差し掛かると
路地に面した外階段に髪の短い長身の美女が佇んでいた。
といっても悪友のパートナーにして我が愛しのマドンナのような柔らかなくせっ毛という感じではなく
髪の色も彼女よりだいぶ暗い方――サツキだ。
そのシチュエーションはあたかも『ロミオとジュリエット』のかの有名なバルコニーでのシーンができそうな具合だった。
もちろんオレはロミオのように彼女に対して愛を叫んだりはしない。ただひっそりと物陰に身を隠して様子を窺うだけだ。

そこに一人のロミオが現れた――といってもロミオらしからぬ風貌だった。
あのファッションはどこからどう見てもジャパニーズ・ヤクザだ。
そのヤクザ男が階段の真下に立った。サツキはそれに気づくと声の届く高さにまで階段を降りてくる。
そして二言三言を交わすと彼女はカンカンカンと足音を響かせて灯りの点いたフロア
――今頃リョウたちが団欒を繰り広げているであろうリビングへと駆け上がっていった。

あのヤクザ男とサツキが知り合い同士だろうことは確かだ。だが、彼女はただのインテリアショップのスタッフのはずだ。
Why・・・?それまでのリョウの依頼人への興味は純然たる下心によるものだった。
だが今はジャーナリスト魂が沸々と沸き上がってくるのが自分でも感じられた。

取材方針変更、とりあえずもうちょっと身近なとこから攻めてみようか――。


ひかり嬢が思った以上に大暴走してしまいました。
香だったらもっとあっけらかんとハンマーを振るうところですが
やっぱりこの辺がママとの違いになりますかね、撩の血も引いていることだし。
『CHの続編』を企画する上で香と娘の差別化が図れなかったことが
その後のカオリストの悲劇につながったそうなので
きちんと一線を画しておかなくては。

Former/Next

City Hunter