帰ってくるなりパパはあたしにパイソンを突きつけた。

「一体いくらでさつきくんを売ったんだ?」

いくらって・・・鮭の卵?

vol. 3 endless cheat

そもそも今夜は久々にパパが家を空けていた。ミックに飲みに誘われたのだ。
いくらボディガードといっても敵さんが現れる気配は無し、来もしない敵に対して神経を尖らせ続けるのも消耗するだけだと
珍しくママが気前よく送り出したのだ。もちろんトラップはいつもよりキツめにしといたし
いざとなったらあたしたちだけでもさつきさんを守れる。

《――なあ、それってただの熱心な北野ユカファンなのか?》
「判んないよそれは。ただ少なくともカタギだってことぐらいは確かだけど」
《カタギ、ねぇ・・・》

リビングのソファに腰掛けながら携帯電話を耳に押し当てる。
受話器の向こうの秀弥の声には、言外に「それはどうだか」が含まれていた。

《怪しい》
「怪しいって、これでも人を見る目には自信あるんだから」

伊達に小さいことから拉致されたり監禁されたり、痛い目を見てきたわけじゃない。

《カタギにせよカタギじゃないにせよ、その女、ロクな女じゃないぞ》

あー聞いてるだけでサブイボ立ってきた。と彼が漏らす。
といっても、秀弥にとってみれば世の中の大多数の女性が「ロクな女じゃない」のだ。
まぁそれも冴子伯母さんはじめ野上家の女衆に小さい頃から
よってたかって「可愛がられて」いたのなら仕方がないのかもしれないが。

「ひかり、もう寝なさい」

彼にとってごく少数の「ロクな女」の代表であるママが声をかけた。

「やだ、パパが帰ってくるまでここで待ってる」

クッションの裏に置いたパイソン――もちろんモデルガン(But違法改造済み)――を手繰りよせる。

「どうせ午前様に決まってるわよ。さつきさんももう寝室に行ったんだし、あんたも早く寝なさい。明日学校あるんでしょ」
《ひかり、まさかお前そいつにペラペラオレたちのこと話してないよな》
「それにひかり、電話の相手秀弥くんでしょ。まさかさつきさんのことペラペラ喋ってないでしょうね」

いきなりステレオでお小言いわれてはたまったもんじゃない。

「あーっ、もう!言ってないに決まってんだろ!!」

少なくとも自分から依頼人のことを喋ってしまうような真似はしていない。
話の展開上、最低必要な情報を、それも話す相手に合わせて取捨選択するぐらいのフィルタリングは一応かけている。
余計なことを知ってしまえばそれだけで事件に巻き込まれる可能性もあるからだ。
ママはあたしの言った内容よりむしろ言葉づかいについてごたごたとお説教を始めていた。
といってもパパや伯父さんからママがあたしぐらいのときのことを聞いているのでその辺は完全黙殺だ。
とりあえずは電話の方に集中することにする。

《それでなんてったっけ?その依頼人の名前は》

すると突然ママのお小言が止まった。聞き慣れた足音が階段を上がってくる。

「あら、ずいぶん早かったじゃない」

そして6階分を昇り終えて我が家へ帰ってくるといきなり――銃口をあたしに突きつけたのだ。

「一体いくらでさつきくんを売ったんだ?」

いくらって・・・。

「なんでミックがさつきくんの店の名前を知ってんだ?
『カノジョの店でオフィスのリフォーム頼もっかな』って言ったんだぞ!」

銃口を覗き込めばシリンダーから弾を抜いてあるのが見てとれた。それでも決していい気はしない。

「なんであいつが俺がさつきくんに投げ飛ばされたことを知ってるんだ?
なんで夜這いが失敗したのを知ってるんだ!?」

簀巻きにされたの見かければ容易に想像がつくだろ、と繋がりっぱなしの電話の向こうから秀弥が冷静に突っ込む。

「ひかり、答えろ。いくらだ?新宿高野のフルーツパフェか?鼎泰豐の小籠包か?」

――さすがあたしの父親、総てお見通しだ。

「すいません、あんみつおごってもらいました」

するとパパは銃を下ろし、糸の切れたマリオネットのようにその場にへたり込んだ。

「たかだかあんみつかよ・・・」
「――それもこれも全部パパが悪いんだろ」

自分でも驚くほどの地を這うような声だった。

「パパがちゃんと稼いで美味しい物食べさせてくれれば食べ物に釣られるようなことにはならなかったんだよ!
それに誘惑に弱いのは間違いなくパパの血筋だろ!?いっつも一銭にもならない美人の依頼ほいほい引き受けてくるくせに!!」

日頃の鬱憤が一気に火を噴いた。
考えてみれば、あたしの人生の不幸は総てこのバカ親父のせいだった。
誘拐されるのもパパのせい、お金が無いのもパパのせい、トラブルに首を突っ込まずにはいられないのもパパのせい――
そして携帯を握り締めたまま立ち尽くした(であろう)秀弥の耳に入ったのは、
ハンマーの轟音とバカ親父の悲鳴と、そのバカが床にめり込む音だった。




東新宿署生活安全課保安係、といっても刑事畑とは違って生活安全課の場合は
細かい係となると、少年係などの身近なところは除いてどういうことを管轄しているのか判りづらいかもしれない。
僕の所属する保安係は風俗営業などを取り締まる、いわば『歌舞伎町の番人』だ。
それを聞くと同期の連中は一様に羨ましがったりするが
ことさら酒と女に眼の無いというわけでもないのでメリットはあまり感じていない。
むしろそういう心づもりで職務に当たろうものなら、したたかな連中に足元をすくわれて
懲戒免職で新聞沙汰になるのがオチだ。それに、たとえ役得など無くてもここで働けるというのは刑事としての夢だったのだ。
なぜなら――

「おーい、山下。課長がお呼びだぞ」

と係長が声をかけた。
元は本庁の四課にいたという係長はどこからどう見てもヤクザにしか見えなかった。
マルボウから生活安全課というと畑違いにも聞こえるが、銃器や薬物の取り締まりはうちの仕事だし
歌舞伎町の店の背後には必ずと言っていいほどヤクザの影がある。
だが、所轄での暴力団対策となるとやはり実権を握っているのは刑事一課だ。
だからことあるごとに係長は連中を目の敵にしているようだ。
今の仕事だって相当気合が入っている。ただ、その気合が空回り気味なのが傍から見ていて気になるのだが・・・。

「山下巡査、只今参りました!」
「もうちょっと楽にしていいんだがなぁ」

東新宿署生活安全課課長、槇村秀幸警部。警察官になって以来、この人の下で働きたいとずっと思っていた。
10年以上にわたる潜入捜査の末に巨大麻薬シンジゲート・シンセミーリャを壊滅に追い込んだ立役者。
その後第一線に復帰し、特捜課では班長にまで上り詰め、優秀な若き刑事たちを率いて様々な難事件を解決に導き、
また難攻不落と思われた犯罪組織を次々と潰していった。
そしていつしか特捜課槇村班には『警視庁のアンタッチャブル』との異名がついた。

その伝説の名刑事の下で働けるのだ。

だが――いつも思うのだが、何も知らない初対面の相手では、これがあの警視庁の生ける伝説なのかと訝しむだろう。
まず猫背。シャツにはアイロンがかけられているようだが、いつも第一ボタンを外してネクタイを緩めている。
そのネクタイも剣先はボタンとボタンの間に押し込まれている。そして両腕は無造作に捲くり上げられていた。
髪は「ふさふさとした」というより「もっさり」という形容詞の方が似合う。眼鏡のフレームも流行遅れ。
一見したところは「うだつの上がらない」や「くたびれた」という枕詞のつくような中年サラリーマンだ。
椅子の背にかけられた背広――ジャケット、というよりこっちの方がなぜかしっくりくる――も実は高級ブランドのものだ、
以前ちらっとラベルを見つけて驚いたのだが。おそらくは奥様のセレクトだろう。
だが、この人が袖を通すと吊るしの安物に見えてしまうのはなぜなんだろう。

だがその「うだつの上がらない」「くたびれた」中年刑事が、ひとたび難事件ともなれば猫背を伸ばして
明晰な頭脳と鋭敏な観察眼で真相を見抜き、的確な指揮で解決へと導くのだ。
人は見かけによらないもの、「見た目が9割」なんて言う者もいるが、おそらく課長は残り1割のうちの一人なのだろう。

「なんでしょうか」
「例の件なんだが」
と声をひそめる。

「ああ、例の件ですね」

思わず前のめりになり、課長に顔を近づけた。こればかりは誰にも知られてはいけない
署長をはじめ上はおろか、課内の刑事でも一握りしか知らないトップシークレットなのだ。
その秘密を憧れの槇村課長と分かち合えるなんて、僕は警視庁一の幸せ者だった。




「ごめんなさいね、みっともないとこ見せちゃって」

さつきさんが休日シフトなのを利用して今日は彼女の着替えを取りに来ていた。
いつもの仕事ならもっと早く片がついていた。賊が来たところを返り討ちに一網打尽、それがルーティーンだった。
なのに今回ばかりはいつの間にかじりじりするような――半ば開き直り交じりの消耗戦になっていた。
そしてここ数日の好天続きでそろそろ夏物も必要になってきた。

「いーえ、逆に面白いもの見せてもらいましたよ。やっぱスイーパーの家庭ってああなんですか、いつも?」
「そんなこと――」

ないわよと言いかけて、思えば撩と一緒に暮らし始めて20年以上、ひかりが生まれて13年、
すっかりそんな生活に慣れてしまった身にはそれが普通ではないと言い切れなかった。

代々木八幡のマンションは青山の店にも、そして新宿にも意外と近かった。
あたしとさつきさんがクーパーから降りようとすると、運転席のドアが開いた。

「撩、あんたは車に残って周囲の監視」
「やだ〜っ、撩ちゃんも行く〜!」

猫にかつぶし撩に下着、ランジェリーを目の前にしたら下手な暗殺者よりもよっぽど危険だ。
もちろんそんな反応もいつものこと、用意しておいた手錠をハンドルにかけた。もう片方はもちろん撩の手首に。

「こら〜、外せ〜!ハンドル引っこ抜いていいんだな〜?」
と車内から悪態をつくがいちいち気にしていられない。
それにいくらハンドルを壊してもそれは撩の車、あたしはちっとも困らないのだから。

「おい、話を聞けって」

自由な方のもう片手で引き止められた。

「一昨日の晩の彼女、何か引っかからないか?」

確かに一人でいた間の行動が気になる。それに微かに不審なことがあった。

「さつきさん、煙草の匂いしなかったわよね」

撩が頷く。最近の煙草、特に女性用のものはかなり匂いを抑えてあるからそのせいかとも思ったけど
あたしなんかよりよっぽど嗅覚の鋭い撩も同意見なら間違いない。

「それに外階段を調べてみたんだが、吸い殻が無かった」

そういえばさつきさん、携帯灰皿を持ってなかった。
もちろんポケットに入れておいたという可能性はある。
だが、アリバイを主張するためわざとらしく煙草の箱とライターを見せびらかせてみせたが
ノンスモーカーゆえ灰皿までは考えが至らなかったという方が自然だ。

「ともかく彼女のことを一概に信用するのは危険だな。
だから彼女の護衛にはやっぱり俺がついていった方が――」
「あんたはそこで見張っとれ!」

マンションの前では手を振るさつきさんの姿。
撩の言葉を胸に刻みながらも出てこられないようにこんぺいとうで重石をしておく。
そんな撩を残してあたしたちはエントランスをくぐっていった。
そこにはもう一つ入口があり、暗証番号を押さなければ中に入れないようになっている。セキュリティはなかなか厳重だ。

「そういえばカブショウって知ってます?『歌舞伎町少年少女探偵団』」
「ええ、唯香ちゃ――北野ユカの小説でしょ」

今までさんざんあたしたちや実姉をネタにしてきた彼女が今度は甥っ子とその友人をモデルに書いているシリーズだ。
当然そのモデルにはうちの娘も含まれるわけで、今は彼女が発売日に憤慨しながら新刊を買ってきていた。
あたしたちもチェックはさせてもらうけど。

「え、香さんも知ってるんですか?」

そうだ、あれは小中学生向けのシリーズ、大人で読んでいるのはさつきさんみたいな一握りのファンだけだ。

「題名だけね。ひかりが読んでるみたいだけど」
「昨日の見てて、それ思い出しちゃったんです。ヒカルって女の子が出てくるんですけど、その子がやっぱり強いんですよ」

あ、そういえばひかりちゃんとヒカルちゃんって名前も似てるな、と独りごちながらオートロックを開けた。

さつきさんの部屋はインテリア関係の仕事をしているわりには――というより若い女性のわりには物が少なく殺風景だった。
装飾といえるようなのはテレビの横に並べられたCDと、数本のマニキュアと
しばらく水をやっていないであろう小さなサボテンぐらいだ。
ここ1週間近く帰ってきていないというのもあるだろうが、それ以前からも帰って寝るだけだったというのが窺えた。
そして彼女は剥き出しに置かれた押入れ用衣裳ケースから着替えをバッグに詰めはじめた。

「実はまだ一ヶ月なんですよ、この仕事始めて」
と彼女が言った。

「本当はお店の家具とかいろいろ買わなきゃいけないのにお金も貯まらなくって、社員割引でも結構高いし」
「でも勤めて一ヶ月で内部告発なんて」

するとさつきさんの手が止まった。

「まだまだ仕事に慣れなくて、店長さんにはいろいろお世話になったんです。だからどうしてもその仇を討ちたいんです」

そう言う彼女の背中は微かに震えていた。そのとき、オートロックのドアが開いた。

「撩、まさか車から抜け出してきたんじゃないでしょうね――」

だがそれは撩ではなかった。
外は初夏の陽気だというのに長袖に手袋、顔には目出し帽、そして右手には銃を持っていた。
もちろんローマンは身につけている。だがご近所の目と耳のある以上、迂闊に銃爪を引くわけにはいかない。
懐に飛び込むには距離がありすぎる。
背中にさつきさんをかばいながらテレビの横に手を伸ばした。指先にチクリとした感覚が走る。
それを手にすると男に向かって投げつけた。
サボテンなら当たっただけでかなりのダメージになるだろう。
小さな鉢植えは狙いを過たず、ちょうど右手の袖口と手袋のわずかな隙間にヒットした。
その痛みに思わず銃を取りこぼした。
それを足で蹴り払って、彼女の腕を取って男の脇をすり抜けた。
玄関までもう一歩のところで、

「香さんっ」

賊の方割れが玄関脇のバスルームに潜んでいた。
奴もまた銃を手にしており、その銃口は彼女のこめかみに押しつけられていた。

「リョオっ!」

あいつに届くはずがない、届いたところで間に合うはずもない。だがとっさにあたしはパートナーの名を叫んでいた。
次の瞬間、あたしの横を弾丸が駆け抜けていった。
振り向けばそこにはパイソンを構えた彼の姿があった。片手の手錠は鎖がちぎれていた。

「間に合ったみたいだな」

357マグナムは突きつけられた銃を撃ち落としていた。
すると彼女は空いた男の片手を掴むとそのまま強引にひねり上げ、胴を床へと叩きつけた。
ヒュウっ、と撩の口から口笛が漏れた。




怪しげな連中がマンションへと入っていくのが見えたから手錠を引きちぎってその後を追ったのだが・・・
もしかしたらその必要はなかったのかもしれない。

「実は合気道習ってるんですよ」

とさつきくんは言った。ということはこの間俺がぶん投げられたのも単なる偶然じゃなかったということか。

「だが敵は思ったよりも厄介かもしれん」

奴らはご丁寧にエントランスの暗証番号を押して中に入っていった。
しかもおそらく彼女の部屋の鍵を用意していたようだ。となるとかなり用意周到だ。

「じゃあ奴らはあたしたちがさつきさんの部屋に来るのをずっと待ち構えていたってこと?」
「ああ、おそらくそうだろうな」

しかも実行犯は最近流行りの闇サイトで拾ってきた、いわば裏の日雇いだ。
だから連中を締め上げたところでその黒幕までは吐かせられないだろう。
ともかく、敵は俺たちが思っているより大掛かりな人数であろうことは確かだ。

「もしかしたら尾けられてるかもしれない」

あれだけ周到な敵さんだ、たとえ襲撃に失敗しても彼女の居場所が判れば万々歳だろう。

「それじゃあ撩・・・」
「とりあえず寄り道でもしましょうか。あ、何ならさつきさん、お茶してく?」
「撩っ!」
「もちろん、東京で一番安全な喫茶店で」

というとここ以外知らないのだが。

「まったくお前は面倒以外ここに持ち込まんな」

入ってくるなり事情を説明していないというのに、タコ坊主の先制パンチを喰らった。

「なんだよ、せっかく新規の客連れて来たっていうのに」
「フンっ、お前が客を紹介したところで寄りついた試しがあったか?」

と言いつつも、さつきくんの前にそのゴツい手でCat’sオリジナルブレンドを差し出した。
この店なら連中が押し寄せてきても安全だろう。こう見えて店のガラスは総て防弾だし、いざとなればタコも美樹ちゃんも――

「あれ、美樹ちゃんは?」
「買い物だ」
「なぁんだ、つまんないのぉ。お前の顔を見ててもマズいコーヒーがますますマズくなるだけだしぃ」
「――美味しい」

さつきくんのカップを持つ手が止まった。

「なんでこんなに美味しいのにお客が寄りつかないんですか?」
「それはだな」
と言うと海坊主はフンっ、と咳払いよろしく鼻息を鳴らすとおもむろに話し始めた。

「撩たちが生きているのは日の当たらない裏の世界だ。一方あんたは表の世界の住人だ。
二つの道は交わることはなかった。だが、何の因果か知らないがあんたはこうして撩にガードを頼むことになった。
ガードが終われば奴らとの接点も無くなる。そしてあんたは表の、奴らは裏の世界で
またそれぞれの道を歩むことになるだろう。もう二度と交わることのない道をな」

だから依頼が片づけばもはや他人同士だ。表の世界の人間がいつまでも裏の世界と関わりあってはならない。
さもなければ、彼女自身の身が危険にさらされることになるのだから。

「もしこの店が気に入ってここに来たいといっても、迷惑なことに撩はここの常連だ。
(「何が迷惑だよ、閑古鳥の鳴いてる店にせっかく来てやってんのに」と俺)
もし店で見かけても他人のふりができるのか?名前も知らない、ただの同じ店の常連同士になれるのか?」

ならば最初から顔を合わせない方がいい。
そうしてこの店に連れてきた依頼人はみな二度とCat’sに寄りつかなくなってしまう。マスターが憤るのも当然の話だ。
さつきくんはうつむいたままだ。そのとき、

「ただいまファルコン。あら、冴羽さんに香さん、いらっしゃ――」
「美っ樹ちゅあ〜〜〜ん♪」

こればっかりは条件反射だ、依頼人が目の前にいてもいなくても。そしていつものようにエコバッグで叩き落とされた。
そんなさまをさつきくんは目を見開いて注視していた。無理もない、あのスキンヘッドの大男の妻がこんな美人なのだから。
そしてカウンターの中に何かを見つけたようだ。

「これ、北野ユカのサインですよね?」

それはあいつが長年の迷惑料がわりにと押しつけたものだが、明らかにその損害を満たしてはいなかった。

「ええ、そうだけど・・・」
「まさかお二人って元傭兵とかじゃないでしょうね・・・?」

元傭兵で今は喫茶店を営む夫婦と、そこに次々と厄介事を持ち込む常連たちの物語『美女と野獣の喫茶店』は
北野ユカこと唯香のシリーズものの一つだった。もちろんその名のとおり元傭兵の夫婦は
夫はスキンヘッドにサングラスの天を衝くような大男、そしてその妻は夫とは不似合いなくらいの美人という設定だ
(だが編集者のアイディアで、ダンナの方は海兵隊あがりの黒人ということになったが)。
そんな取り合わせの、しかも喫茶店の店主夫婦となるとごく稀だろう。
だから小説のモデルなのかと訊かれたことはこれが初めてではない。そして答えはいつもこうだ。

「そんなわけないわよ。ただ、彼の風貌があまりにも強面だから
そういうアイディアが思いついたのかもしれないわね」

普通はそれで引き下がるのだが、熱烈な北野ユカファンだとそうはいかない。
まるでそこが作中の店であるかのように、しげしげと店の細部を眺めていた。そこに、

「Hi, Miki!今日もキレイだね」

――またロクでもない客が来やがった。奴はカウンターに見慣れぬ顔があることに気づくと、

「やあ、キミがサツキだね。Nice to meet you!キミのことはリョウから聞いてるよ」
と馴れ馴れしく両手を取った。すると、

「ニック・ザ・エンジェル・・・」

呆然とした面持ちで呟いた。
Nick the Angel、本名ニコラス・ガブリエルもまた唯香の生み出したキャラクターの一人、
もちろん元スイーパーのジャーナリストだ。彼と恋人である医師の和美との
北野ユカ作品中最甘と言われるハーレクイン並みの歯の浮くようなやり取りがこのシリーズの名物となっていた。

時計を見上げる。まずい、この時間は――途端にドアベルが乱雑に鳴り響き
閑古鳥の鳴き声が似合いそうなこの店がざわめきに包まれた。

「Dad, who is that girl?マムに言いつけるよ!」
「父さん、母さん、ただいま。何か手伝おうか?」
「Jake, you misunderstand(誤解だよ)!カノジョはリョウの依頼人で――」
「おかえり、鴻人。じゃあ食器の後片づけしてもらおうかしら」
「うげ、なんでパパがいるんだよ」
「秀弥くんはどうしたの?」
「あいつなら伯父さんとこ。ちょっと訊いときたいことがあるんだってさ」

その間さつきくんはこいつらのやりとりを注意深く眺めていた。そしてまるで頭上に電球が点いたかのような表情を浮かべた。

「あー、やっぱり!」
「やっぱりって、何が?」
「だからカブショウですよ!『歌舞伎町少年少女探偵団』に出てくる親って
北野ユカ作品の他の主人公にどっか似てるなぁと思ったら、実際の彼らの子供たちがモデルだったんですね!」

とまるで世紀の大発見でもしでかしたように満足そうにしきりにうなずいていた。

相変わらず彼女の正体は掴めない。ただ一つ判明したことは
さつきくんは俺たちの予想をはるかに超える唯香のファンであるということだった。




「うぅぅ・・・僕には荷が重いっすよ」

こないだ課長に極秘任務を仰せつかって以来、僕の肩には文字通り重荷が乗っかったような重量感がのしかかっていた。
確かに事の詳細を知っているのは課長と係長と僕と、もう一人の当事者であるコンビを組む先輩だけだ。
だからといって、今まで係長が担っていたミッションを僕がやらなければならないというのは・・・あまりにも役不足だ、
というのは確か日本語の誤用だったような気がする。

「どうやら接触しているところを見られてしまったらしい。あいつから連絡があった。
まだ敵に見られたわけじゃないのが不幸中の幸いだが」

そう課長は言った。

「だったらこのまま――」
「いや、これは敵はおろか味方にも知られてはならない極秘捜査だ。どこからそれが明らかになるか判らない、
だから念には念を入れなければならない。判るな、山下」

そうは言っても・・・確かに今まで係長のサポートは僕の仕事だった。
だけどいきなり僕が今度係長の任務で、係長がサポートに回るなんて・・・いや、無理だ、絶対。
そもそも何で課長は僕みたいな若輩者にこんな重大な任務を――いや、あの課長のことだ。
何か考えがあって僕にこの仕事を任せたのだ。つまり僕は期待されているのだ、あの槇村課長に。
目を覚ませ山下ヒロユキ、お前にはできる!お前の知らない自分を発揮しろっ!

「あれ、山下さんじゃないですか」

自分で自分に気合を入れている瞬間を人に見られることほど恥ずかしいことはない。
たとえそれが中学生相手でも、いや、中学生相手だからこそ――
背後から声をかけてきたのは、その槇村課長の息子さんだった。

「ああ、秀弥くんじゃないか」

そのセリフがなるべくワザとらしくならないよう努めたつもりだ。
彼はまだ中学生だが大人びて見える。背丈も僕と変わらないぐらいだし、それ以上にしっかりしている。
学校で生徒会長をしているというのも頷ける。
僕と秀弥くん、どっちが頼りがいがありそうかと訊かれれば十中八九、彼と答えるだろう。ただ、

「あれ、確か槇村課長のとこの――」
と交通課あたりの女性警官が通り過ぎると不機嫌そうに顔を背けるあたりは、まだまだ年相応に見えるのだが。

「ところで父さんは?」

課長だったらさっきふらりと外出してしまった。
普通、刑事ドラマに出てくる『ボス』と呼ばれるような中間管理職はどっかと自分のデスクに腰を落ち着けているものだが
うちのボスは腰が軽い。ときどきひょいっと署内から消えて、どうやら歌舞伎町などの繁華街あたりを『地回り』しているらしい。
パトロールに出るとしょっちゅう課長のことを話に聞く。だが今は――

(所轄の課長がよその署の管轄をうろついてたらまずいだろうなぁ)

「ふーん、じゃあ山下さんに訊こうかなぁ」
と、秀弥くんは中学生らしからぬ眼をこちらに向けてきた。

ミッションを仰せつかるとき、こうも言われた。「うちの息子にも絶対バラすな」と。
彼はよく署に出入りしている。僕をはじめとする生安の刑事と顔見知りというのも課長はよく知っている。
だけど――署内じゃ母親似という評判の秀弥くんだが(そのお母さん、つまり課長の奥様に逢ったことはないのだけれど)
まっすぐ僕を見据えるその眼は間違いなく課長と同じ眼だった。




生活安全課のあるフロアをうろついてたら、廊下で山下刑事を見かけたのはラッキーだった。
生安の刑事のほとんどとは顔見知りだが、その中で彼は親しみやすい方だった。
こんなんでヤクザまがいの歌舞伎町の住人と渡り合えるのかというほど腰は低いし
オレみたいな中学生にも子供扱いすることはなかった。
むしろ同じ生活安全課でも、少年係の方が向いているんじゃないだろうか。

「そういえばどうしたんですか、相方さん」

刑事はツーマンセルが基本、そうでなくても彼はコンビを組む先輩刑事と
まるで金魚のフンのようにいつも一緒に行動しているのに。

「あ、ああ・・・。休暇とってるんだ」
「とれるんですか、今」
「うん・・・、大きなヤマも抱えてないからね」

なら母さんが心配する必要もなかったってことか?

「でも寂しいんじゃないですか?相棒がいないんじゃ」
「ぜんっぜん。むしろ毎日ひっぱたかれなくてせいせいしてるよ」

山下刑事がパートナーに小突かれている姿は、署の内外でしばしば見受けられる名物だった。
端から見ていれば先輩が後輩をいじめているだけだが、きっと二人にとってそれはある種の愛情表現なのだろう、
香さんが撩をハンマーで叩き潰すように。

「じゃあコーヒーでも飲むかい」
と廊下のベンダーにコインを入れる。

「確か秀弥くんはブラックだったよね」
と両手に持った紙コップの片方を手渡した。もう片方は砂糖MAX、クリームMAXのカフェオレ。

「山下刑事、まさか方面本部長にも極秘の捜査なんてやってないよね」

口をつけようとして思わずむせる。
彼みたいな素直な人間には直球勝負が一番だ。下手に変化球を投げれば振ってこないことがある。

「ま――まさか・・・」

口の周りに飛び散ったカフェオレを袖で拭おうとするから、すかさずハンカチを差し出した。

「そっ、そんなわけないだろう。それってつまり違法捜査ってわけだろ?そんなこと、いくらなんでも・・・」

そうは言っても槇村課長、つまりうちの父親の捜査の一体何割が違法捜査なんだか。
殺し屋なんかにこっそり陰で依頼して、その報酬は警察の裏金。
まぁ表沙汰にできない金だから父さんがこっそり持ち出したところで誰も何も言えないし
警察幹部の飲み食いに消えるよりはよっぽど健全な使い道じゃないだろうか、それで事件が解決するなら。
そうやって彼はおろか、彼を監督する側の野上本部長すら今の地位を築いてきたんだから
いまさら違法捜査っていっても、ねぇ。

「じゃあもし上司が、そうだなぁ、山下さんの尊敬する槇村課長が手を染めてたら?」
「・・・手を貸しません」

そう来たか。組織の建前と一警官としての本音のうまく間隙を突いてきた。

「でも父さ――課長が手を貸せって言ってきたら?」

ほぉら、目を白黒させてきた。ということは山下刑事もグルってわけか。でも、

「じっ、自分はっ、絶対に加わりませんっ!」

・・・善良な若い警官をいたぶるのはやめた。廊下でこう大声で宣言されてしまってはたまったもんじゃない。
まぁいいや、これで少なくとも母さんに言えないような後ろ暗いことをしているという確証は得られた。
この素直極まりない若い刑事まで巻き込んで。
あとは警視庁の女豹にお任せすることにしよう。




「なぁんか昔、こんなことがあったような気がするのよねぇ」

台所で香がそう呟いていた。

「昔っていつだよ」
「それが思い出せたら苦労はしないわよ。この仕事も結構長いんだから」

長いんだったら思い出せるようになれよ。

こうして香と二人で話し込むのも久しぶりのことだった。
依頼人を家に泊めている間は、常にどちらかが彼女の傍にいなければならない。
そうなると二人だけの時間を持つのは物理上不可能だった。
だが、さつきくんに対する疑惑が深まるにつれて、彼女抜きで打ち合わせたいことも出てきた。
一応、リビングには娘を護衛兼話し相手に置いてあるが
幸運にもさつきくんは一度ならず二度までも大の男を組み伏せた格闘美女だ、
何かあってもすぐにどうなるということはないだろう。
キッチンは二人だけで話し合うには格好の場所だった。とはいえここで香の夕食の準備を手伝うつもりはない。
あくまで邪魔をしないように、少し早い晩酌片手に椅子に腰かけているだけだ。

Cat’sからは尾行対策として、先に香をさつきくんと一緒に帰らせて
俺は後から別ルートで、それぞれ裏道からバラバラに帰ってきた。
彼女たちが帰った後、ミックから先日さつきくんが怪しげな男と会っていたことを聞いた。

「なぁ香、お前はどう思う。彼女はいったい何者だ?何の目的で会社を内部告発しようとしてるんだ?」

すると香は茹であがったジャガイモの皮を剥きながら答えた。
今日はポテトサラダ、サイドメニューながらこれも大量に作り置きができる。

「やっぱりヤクザとつながってるのかしら」
「んで密輸を探る目的は?」
「内部告発じゃないわね。そう見せかけて実際は会社を強請ろうとしてるのよ。あ、撩これお願い」
とポテトマッシャーを手渡された。

「何で俺が手伝わなきゃならねぇんだ」
「芋を潰すのって結構力仕事なのよね。あ、全部潰しきらないでね、お芋のホクホク感が無くなっちゃうから」

と言うなり今度はゆで卵の殻を剥き始めた。仕方がない。手にした缶ビールを脇に置いて芋を潰し始める。
この加減が結構難しい。『半殺し』で芋の固さが残ってもいけないし、かといって『全殺し』にして糊のようになっても不味い。
つまりは「生かさず殺さず」。

「会社がヤクの密輸をやってるっていうからには、それを国内で売るシンジゲートなり暴力団なりがいるってことでしょ」
「ああ」
「彼女がつながってるのは会社側と別の組織ね。で、密輸のことを表沙汰にされたくなければ自分たちにもヤクを卸せって。
最近じゃ運び屋を探すのも一苦労だっていうしね、かなり巧妙に隠さなきゃすぐにバレるし」

芋があらかた潰し終われば今度はゆで卵が投入される。

「でもそれが全くの敵対組織となると今度は厄介だぞ」

ヤクの収益の一部は、今度は銃器の密輸に回るかもしれない。それが相手に牙をむくことになりかねないのだ。
となると彼女の会社は敵の片棒を担ぐことになる。かといって犯罪に加担していることが世間に明らかになることは
何としても避けたいはずだ。結局は内股膏薬の危ない橋を渡ることになるのだろうが。

「イヤよあたしは、またヤクザの抗争に巻き込まれるなんて」

そうだ、この間も新宿を二分して抗争寸前にまでなったヤクザの対立に思わぬ形で絡むことになったのだ。
その一触即発の状況は、意外なことに同じく対立に巻き込まれた(というより自分から飛び込んでいったような)
娘たちの手によって回避できたのだが。しかしこういう、AにつけばBを自ずと敵に回すような構図は
俺にとって一番避けたいところであった。そこに関わり合いにならずにきたからこそこの世界で長生きしてこれたのだから。

「撩、どうすんのよ。あんたが受けてきた依頼でしょ」

卵が潰し終わるとキュウリや玉ねぎなどの野菜や魚肉ソーセージの輪切りが入る。
それらの具をマッシュポテトと満遍なく混ぜるのがまた重労働だ。
そして砂糖と塩コショウ、マヨネーズで味を調える。数度目の味見でOKが出た。

「どうするって言われても・・・依頼を果たすしかないだろ。
密輸の証拠をつかみ、さつきくんを守る」

たとえ彼女の正体がどうであれ、今までと同じように課された役目を果たす。それが一番現実的な対処法だろう。
それが判らない相棒でもないはずだ。
釈然としない表情を浮かべたまま、香は出来上がったポテトサラダを盛りつけた。




その日の夕食後のことだった。
部屋の窓から路地にたたずむ不審人物を最初に見かけたのはこのあたしだった。
たとえ中坊であってもシティーハンターの娘だ、依頼人を我が家で預かっている間は
できるだけことで仕事に貢献しなくちゃならない。もちろんそんなことを両親に言われたことはない。
ただ足手まといにならなきゃそれでいい、ぐらいにしか思ってないのだろう。
だけどそれではあたしの気が済まないのだ。
もちろんできるだけのことといっても、銃も撃たせてもらえない中学生では自ずと限られてくる。
まずは直接危険な目に遭わない見張りくらいからだろうか。

双眼鏡を机の引き出しから取り出すと、自室の窓から路地裏を見下ろした。
本当は家中の窓という窓から見張りたいくらいなのだが、悲しいかな、あたしの持ち場はここだけだ。
だが、ビンゴ!表通りの街灯の光の輪に入るか入らないかのところに何者かが突っ立っていたのだ。
どうせ立つなら明るいところの方がいい、虫に刺される心配ならまだそれほどしなくていいのだし。
それに、そもそもこんな狭い路地に突っ立っていなければならない用事などあるのだろうか?
さっきからずっとそいつを見張っているが――さっきもママから「お風呂が空いたわよ」と声がかかったが軽く無視した――
そこにずっと立ち続けていた。暗くてよく見えないが、時々通る車のヘッドライトで一瞬一瞬照らされた積み重ねからすると
性別は男。どうやらサラリーマン、もしくは公務員、とにかく地味なスーツを着用。
歳はそれほど老けている感じじゃなさそうだ。かといって軽薄まじりの若々しさは見受けられない。
体格としては小柄――といっても、パパを見慣れてしまえば世の男性のほとんどは小柄だが――のひょろひょろ、
おそらくインドア系だろう。玄人っぽいにおいはしないが、このご時世、だからといって安心はできないので監視続行。
そのとき――彼の視線がこっちに向いた。
バレたか?もしかしたらレンズの反射で判ってしまったのかもしれない。ヤツが次の行動を起こす前に手を打たなければ――

「パパ、下に変な奴がいる」

急いでリビングに駆け込んだ。依頼の間はあのバカ親父といえども飲み歩くことは滅多にない。
この時間、リビングで缶ビールを開けているかごろごろしているか、と踏んでいた。
案の定、ビール片手にトーク番組のグラビアアイドルの胸の谷間を注視していたパパは
すかさず立ち上がるとパイソンをジーンズに無造作に差した。
依頼人を家に泊めておいている以上、小さな異常でもおろそかにはできない。顔にも緊張が走る。

「下のどこだ」
「あたしの部屋の真下、ちょうど街灯の灯りにかかるかかからないかのあたり」

突如あわただしくなったリビングの空気を察知して、ママもエプロンを剥ぎ取りながら加わった。

「じゃあ香はひかりの部屋から見張っててくれ」
と言うとパパはあたしの手から双眼鏡をもぎ取り、ママに手渡した。

「裏から回り込む。通りからだと路地裏に逃げ込まれたらちょっと厄介だからな」

そう言うとジャケットをはおり、リビングを後にしようとする。その背中に、

「あたしも行く!」

これはあたしが見つけた、つまりはあたしの獲物なのだ。
それを親にばかり任せてしまえば、いくら13歳だとはいえ槇村ひかりの名が泣く。するとパパは、

「そうだな、お前には通りの前に立っててもらうか」

と言ってくれたのだ。

「ちょっと待って、だったら見張りをひかりに任せて、あたしが――」
「ばぁか、見張りと指示出しをガキに任せられるかよ」

こうしてフォーメーションは決まった。
パパが路地の方から男に声をかける。もし表通りに逃げだそうとしたら、そのときはあたしが足止めしなくてはならないのだ。
武器といえる武器は渡されたマグライト一本のみ。
でも、これだって顔に向ければ、暗闇に目が慣れた相手ならかなりの目くらましになる。

「こんな時間までストーキングとはご苦労だな。それとも、誰かに頼まれたのかな?」

街灯の輪の外側とはいえ、新宿のど真ん中だ。路地の暗がりをネオンの余光が薄ぼんやりと照らしていた。
そんな中、パパのうすらでかい図体がいきなり現れたのだ。素人さんなら一瞬怯む。
だが次の瞬間、そのストーカーまがいの不審男は踵を返して表通りへと駆け込んだ。

「ひかりっ!」

云われなくても判ってる。あたしは男の顔面にマグライトの閃光を浴びせた。
目をつぶったところで瞼の裏には黄色やら緑やらがちらついているはずだ。
が、それでも男は通りへと突進する――いくらひょろひょろとはいえ、ウェイトはあたしよりも上だ。あっけなく弾き飛ばされた。
すぐさま後を追おうとしたが、

「姫の顔に傷でもつけたら、幽霊になってこの街を出ていくしかないぜ♪」
「ミック!?」

やはりパパ同様うすらでかいお向かいさんが、逃走犯をがっちりと羽交い締めにしていたのだ。

「ちょっと、まさか最初っから――」
「いんや。けどまぁコイツが最近うちの周りをうろちょろしてるってのは織り込み済みだったけどな」

そう答えたのはパパだった。

「ったく、水臭ぇなリョウ。オレに協力してもらいたきゃいつでも力になったのに」
「うるせぇ、誰がてめぇなんかに頭下げるか」

早い話が、あたしのことなど最初から戦力としてカウントされてなかったのだ・・・。




「んで?」

不審男はアパートに連行されると、後ろ手に手錠をかけられて――これが本来正しい使い方のはずだ、
うちでは別の用途もあるようだけど――リビングで尋問にかけられた。
スツールに座らされ、動けないように足をロープでぐるぐると固定してある。
そしてそれをソファから睥睨する関係者+なぜかミック。
スツールに縛りつけるまではやたらとじたばたしていたが、それもパパとミックの二人掛かりで抑え込まれればもう観念するしかない。
そもそも階級が違いすぎるのだ。なので今はおとなしくはしているが、

「刑法第220条、逮捕監禁罪で訴えてやる!懲役3ヶ月から最高で7年、怪我させたら221条の監禁致死傷罪になるぞ!」

と口だけは達者だ。

「そんなこと言ったって出るとこ出なきゃ罪にならないだろ?悪いことしてるのはお互いさまなんだしさぁ」
「刑事にこんなことしていいと思ってんのか!放せ、この犯罪者!」

とさっきからこの調子だ。そうは言ってもこの体格、
それに警察官が持っている威圧感というべきものが彼には備わっていなかった。
というわけで彼の訴えをまともに取り合うことはなかった。
時折り男はなぜかさつきさんの方にすがるような眼差しを向けたが
それに気づいたあたしは視線を遮るように彼女の横に座りなおした。

「で、誰に頼まれたんだ?」

再度パパが尋ねる。だが、

「だから刑事なんだって、信じてくださいよ!ねぇ、先輩も何か言ってくださいよ」

と相変わらず意味不明なことを口にする。
そこまで嘘をつきとおすとはいい度胸だ、思い切って実力行使に出るしかない。
パパはスツールごと横倒しにすると、上着の内ポケットを探ろうとした。
だが、倒されて立ち上がることは叶わないが、丸いスツールと一緒にごろごろと床を転がり激しく抵抗する。
ミックとママが加勢に入ってようやく取り押さえられた。
床をのたうっていたうちにポケットから落ちたのか、床の上の財布をパパは手に取った。
押さえつける人影の合間から男は尚もさつきさんに視線を送るが、彼女はそれから目を背けた。

「山下廣行、昭和56年9月21日――ってことは何歳だ」
「えーと、27かしら、誕生日が来たら。あたしと16違うから」
「こういうとき便利だよなぁ、家族の中に生年月日キリのいいヤツがいると、計算が楽で。
本籍地、東京都練馬区。現住所、東京都中野区野方って、結構近所じゃん」
と中に入っていた免許証の記載事項を読み上げた。なおも3人掛かりのボディチェックは続く。

「ねぇ撩・・・これ見て」

ママの表情が変わった。
内ポケットから黒い財布のようなものが出てきた。だがそれはもちろん財布などではなかった――表についた桜の代紋。
何年か前に二つ折りタイプにモデルチェンジされた警察手帳だということはあたしにも判った。
それを開いてみると、間違いなく制服姿の山下廣行の写真――まるで子供の体のままなのに
学ランを着せられた中1のような――と、その下に『巡査・山下廣行』と書かれていた。

ということは、彼の言うことの半分は当たっていたということだ。
そして、そのもう半分は――全員の視線がさつきさんに向けられた。

「せんぱぁい」

情けない声で山下巡査が呼ぶ。

「・・・てへ、てへへへへへ」

空虚な笑い声がリビングに響きわたった。




「それでさつきさんも刑事だったの?」

カウンターの向こうで美樹さんが目を丸くしていた。

「そっ。その山下って刑事とおんなじ新宿東署の生活安全課の刑事さん。
で、あのインテリアショップに潜入捜査中だったんだけど、協力者だった店長が消されて身の危険を感じてXYZしてきたんだって」

翌日、あたしはCat'sで事の顛末を報告していた。
美樹さんたちも多少なりとも今回の依頼については知っていたので、情報を更新させておかなければ。

「敵を欺くにはまず味方から、なんてよく言うけどねぇ」
「おかげでこっちはいい迷惑。パパもママもしなくていい勘ぐりまでさせられたんだから」

彼女が潜入捜査中の刑事であり、そのためあたしたちにも隠して警察側とたびたび接触していた、
そう判れば今までの不審な点のほとんどは解決する。たとえば夜の単独行動とか。
だけど、いくら捜査のためとはいえ、そんな大事なことを黙っていられてはこっちの仕事に差し障りかねない。
シティーハンターのミッションはお互いの信頼の上で成り立っているのだから。

「さつきさんって、大高さつきのこと?」

テーブル席で受験参考書を広げている秀弥が参戦してきた。

「なんであんたが知ってるのよ」

カップ片手にテーブル席について、ふと気がついた。
そういや新宿東署の生安の課長は伯父さんだ。そして、こいつは中学生ながら、生安の刑事のほとんどと顔見知りだった。

「知ってたんならなんで教えてくれなかったのさ」
「知ってるもなにも、今まで大高刑事の名前が出てこなかったから」

あ、そういえばそうだった。情報にやたらとフィルタリングをかけるのも考えものかもしれない。

「でも、それじゃ唯香ちゃんのファンだっていうのもカモフラージュ?」
と美樹さんが尋ねる。

「ううん、熱狂的北野ユカファンだってのは事実。『警視庁の女豹』に憧れて刑事になったんだってさ」
「おかげでいい迷惑だよ、女豹なんてのは警視庁に一匹いれば充分なんだから」

秀弥がうんざりしたように吐き捨てた。

「依頼の方はどうなるのかしら」
「どうもしないよ。あっちの事情が判って前よりやりやすくなったくらい。
今日もパパとママがさつきさんの潜入捜査に貼りついてるし」
「そう。じゃあとりあえずは一件落着ってとこかしら」

もちろん捜査はまだ続いている、何としても会社が密輸に手を染めている証拠を挙げなければならないのだから。
だが、これで余計な障害が一つ無くなったというのも事実だった。あとは証拠を探し出すのみ――
でも、果してそううまくいくだろうか?根拠のない不安があたしの頭をよぎっていた。




結局、今日も無駄足だった。
6階まで重い脚を引きずるように上がっていき、貧相なスチール製のドアを開けた。
日当たりの悪い部屋は昼も夜も電灯が必要で、当然エレベーターも無い。
山手線の内側となると家賃が一気に跳ね上がる。まして新宿駅に至近となると
こんなおんぼろなワンルームでも5万は払わなければならない。
それでもここは仮の宿、奴を追い詰めるためだけの寝ぐらなのだから。

この部屋唯一の家具らしい家具である折り畳み式の座卓の上に、『売り物』の茶封筒をばさりと置いた。
どこのマスコミもライターも話を聞いただけで、これを開いてみようとはしなかった。
まったく、日本のジャーナリズムも地に墜ちたものだ。不正が行われているのを黙って見過ごしておきながら
誰かの勇気ある告発には便乗して大々的に叩く。つまりは危ない橋を先頭で渡りたくないだけだ。
相手が警察となればなおさら、まずは保身が先に立つ。
だが、それでいいのだろうか?
たとえ石を投げられようと、誰かが立ち上がらなければ現状は変わらないのだ。
自分は決して名声を求めて告発を行おうとしているわけではない。
まして封筒の中身――不正の証拠を高値で売りつけるつもりはない。
ただ、黙って見過ごせないだけだ、責めを負うべき人間が――槇村秀幸が――のうのうとのさばっているのを。

だが、思わぬ収穫があった――薄暗い部屋の壁一面に張られた写真。そのほとんどには、槇村の姿が写り込んでいた。
知らない人間が見たら私のことをストーカーだと思うだろう。実際、ほとんどそのようなものかもしれない。
なにしろ奴の行動を追うためだけにこの部屋を借りているのだから。
もちろん、このマンション付近も彼らの管轄だ。彼自らが繁華街を見回る姿もしばしば見受けられた。
それゆえ、彼の部下の顔を覚えることなど造作ではなかった。

今日、とあるジャーナリストの個人事務所をすげなく追い返された帰りだった。
青山の家具屋のショーウィンドウの内側に彼女がいたのだ、ショートヘアの、東新宿署の女刑事が。
そして、店員面して客に向かって微笑んでいた。
もちろん、彼女が転職したという可能性もある。だが――

(お兄ちゃん・・・)

そう胸の奥から語りかけてくる声がした。妹のためにも、この事実は絶対に明るみに出さなければならないのだ。

確かにマスコミ詣では徒労だったかもしれない。だが、そのおかげで格好の材料を手に入れることができた。
さんざ連中には「証拠が足りない」と言われ続けてきたのだ。その証拠とやらを、これで突きつけてやることができる。
不正は暴かれなければならない。槇村秀幸に、正義の裁きを。


>北野ユカの好評既刊シリーズ【笑】
『美女と野獣の喫茶店』というタイトルはあちこちで見かけたので勝手に拝借【爆】
こっそりAH設定も混ぜてるし(あれはあれでなかなかおいしかったので)
『Nick the Angel』は・・・『都会の始末屋』(仮)でさえシテハン二次創作並みに甘々なんだから
「ティラミスにあんこと黒蜜のせたくらい」げろ甘になるだろうな【笑】

Former/Next

City Hunter