vol. 9 決戦の金曜日
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08:23
モーニングコールはカリプソからだった。
《Buenas dias, Fernando. いよいよ今夜ね》
「ああ・・・」
《少しは感謝の言葉はないの?今回の客は私の紹介なんだから》
「判っている。Muchas gracias, Senora」
《唔使客気(どういたしまして)。私はウィザードに、そしてあなたに期待してるのよ》
シンセミーリャの覇権を握るのはあなたたちだって」
その艶めかしい声にまるで耳介を舐られるような気がして、思わず受話器を離した。
「これを機に日本を手中に収めればデュークを出し抜けるだろうな」
心にもないことを言う。ウィザードがデュークの上に立とうと自分の身がどうなろうと関係ない。
今夜はただ、ミランダが自由になれればそれで成功なのだから。
《成功を祈っているわ。外は生憎の雨みたいだけどね》
生憎の雨、その言葉で初めて外を見た。土砂降りとは言わないまでも
ドブネズミのような色をした空から絶え間なく雨粒が落ちてきていた。
ぐらり、と平衡感覚が狂う。しかしそれは予兆に過ぎなかった。
頭を鈍器で殴られたような、いや、銃で撃ち抜かれたような痛みが襲った。
その痛みは徐々に全身に波及していく。体温が急激に奪われる。震えが止まらない。
ミランダが起こしに来たときにはすでにベッドの上で胸を掻き毟って悶えていた。
「ミ・・・ランダ・・・シルフを・・・はや・・・く・・・」
差し出された錠剤を水で飲み込むのもまどろっこしく、そのまま飲んだ。
「セニョール、病院に行かれた方が・・・」
「いや、原因は判っている」
この街だ。このシンジュクが私を苦しめるのだ。
「それに今日は大事な取引きがある。判っているだろう」
「はい、でもセニョール・・・」
彼女の目から雨粒が――涙が一粒流れた。その顔に、見知らぬ誰かが重なって、そして消えた。
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10:06
いつもは叩き起こさなければ起きてこない撩が、珍しく自分から起きてきた。
久しぶりの二人での朝食、なのに差し向かいに座ったまま、黙々と箸を運んでいた。
「ねぇ撩――」
「ケガ、大丈夫か?」
彼の目はシャツの袖に覆われているはずの右腕の包帯を捉えていた。
ミックをかばってケガをしてからもう数日経つ。
もともとかすり傷で大したこともなかったが、撩に言われるまま教授のところに通っていた。
「見せてみろ」
「大丈夫だって」
毎日診てもらっているんだから心配することは何もない。
なのに撩はあたしの隣に腰をおろすと、袖のボタンを外しするすると捲り上げていった。
「緩んでるじゃないか、包帯」
「後でやってもらうから――」
「今日一日は家にいろ」
そう言うと結び目を器用に解く。ただ締め直すはずが、ガーゼが露わになった。
「傷口は・・・もう乾いてるな」
かすり傷とはいえ、銃弾は皮膚をえぐっていた。
それを目にするたびに撩に対していたたまれないような気持ちでいっぱいになってしまう。
彼は薬箱から消毒液を取り出すと、それをそっと傷口に垂らしていった。
「しみるか?」
「ううん、大丈夫」
「ガーゼも取り替えた方がいいな、包帯も」
「ねぇ撩、本当に出かけちゃだめ?」
「ああ」
「教授のところも」
「ああ」
「伝言板も?」
「ああ」
そう短く返事をする間にも、慣れた手つきで包帯を巻いていく。
普段とは逆だ。いつもは撩のかすり傷にあたしが大げさに騒いで、こんな泣きそうな顔をして手当てをしているのに。
「はい、おしまい」
撩の巻いてくれた包帯は思ったより綺麗だった。
「当たり前だろ?傷の手当てなんて日常茶飯だったんだからな」
「今日でしょ?ミランダさん・・・だっけ、助けに行くの」
「ああ、そうだ」
「今日じゃなくちゃだめなの?」
「香・・・?」
キッチンが静寂に包まれる。不安の理由はその静寂が教えてくれるだろう。
外の雨音が絶え間なく続いていた。
「香ちゃんは心配性だな」
今までぎゅっと眉をしかめていた顔がふっと緩む。それであたしの不安も少しだけほぐれた。
その笑みがあたしを宥めるための作りものだと判っていても。
「花散らしの雨っていうだろ?この時期は雨が降るもんなの。
梅雨だからって毎日縁起でもないことが起きるわけじゃないだろ?」
「うん・・・そうだけど――」
「んな顔すんな。大丈夫だ、ちゃんと帰ってくる。
約束しただろ?『愛する者のために何が何でも生き延びる』って」
「撩・・・」
何が何でも愛する者のために生き延びるし、何が何でも愛するものを守り抜く。
何も変わらない日常の中、そしてそれすら忘れてしまうほどの大きな渦の中で忘れそうになっていたその誓い。
その言葉が撩から再び聞けただけで充分だった、はずだった。
「じゃあごっそさん、まぁまぁだったぜ」
それでも、安心してはいけない、と雨音が胸を叩き続けていた。
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13:22
「もう行くの?」
「ああ。現場に行く前に本社に寄っていかないと」
「本当に、行かなきゃならないの?」
そう言う私の目は涙に潤んでいただろう。
「Sorry, Kazue」
そう彼は小さく――聞き取れるか聞き取れないかくらい小さく、呟いた。
「これはキミのためでもあるんだ、カズエ」
ミックは私の目を真っ直ぐ捉えていた。
「今のこのオレの手じゃキミを守ってやるどころか、自分の身すら守れない。
だけど未だにこの世の中じゃオレを恨んでる奴は山ほどいる。7人どころの話じゃない。その筆頭がユニオンの残党だ」
「ミック・・・」
「その中の最大勢力、シンセミーリャを叩ければ他の連中は手出しはできなくなる。
オレにも、当然キミにも。そうしたら晴れて――」
「――あっちの方の準備もできたみたいじゃぞ」
「Professer・・・」
ミックが苦い顔をして私の背後・・・にすっぽりと隠れていた教授を睨んだ。
「CIAの方は準備万端だと冴子くんに伝えてやってくれんか?
こっちの時間で9時に、撩たちと同時刻に兄の方の救出作戦を始めると」
「判りました、教授」
「ミック、お願いだから――」
「当然じゃないか」
と言って彼はわたしの目に溜まった涙を拭うと、瞼にキスを落とした。
彼の明るい声。
でも、明るく振舞うときはいつも絶体絶命の崖っぷちにいるときだと、私もようやく気づき始めていた。
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16:27
Cat's Eyeには『営業中』との看板が掛かっていた。
「仕事熱心なこったねぇ、こんな日にも店開けるなんて」
「フンッ、わざわざ店閉めたら決行は今日だって言いふらしてることになるだろ」
「美樹ちゃんは?」
「買い物だ」
つまんねぇの、とつぶやいていつものをオーダーする。雨はまだ降り止まない。
「本当に信用できるんだろうな、フェルナンドって奴は」
今回は海坊主の手も借りることになっている。
いくら警備が手薄になっているだろうとはいえ、シンセミーリャが1フロア借り切った中をたった一人で突破するのは
死にに行くようなものだ。まして今回は香は連れて行かないのだから。
「ああ、あいつの話は信用できる」
「何をもって信用できるというんだ?お前の元相棒に似ているからか?」
「似ているんじゃない、あいつは槇村だ」
「そうだという確証はあるのか?」
確証・・・客観的な証拠はまだ何もなかった。
ただ俺が、香が、冴子があいつを見間違うはずはない、それだけが彼を槇村だと言い張る根拠だった。
まして海坊主はまだ逢っていない、フェルナンドにも、そして槇村にも。
「撩、考えてもみろ。俺たちはシンセミーリャにとって、そしてユニオンの残党総てにとって不倶戴天の仇だ。
これを期に俺たちを一網打尽にしようと企んでもおかしくはない」
「フェルナンドが・・・俺をハメるだと?」
「お前にしては今回はずいぶんと人が好すぎるじゃないか。
万が一の可能性にも備えてこそ百戦錬磨の戦士だ。お前も俺も、そうやって今まで生き延びてきたんだろうが」
そのときドアベルの音が鳴った。
「ファルコンただいま〜。あら、冴羽さんいらっしゃ――」
「美っ樹ちゃんお帰り〜〜〜」
そのあと、俺がCat'sの床に叩きつけられたのは言うまでもない。
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18:53
眠らない町、歌舞伎町が動き始めるにはまだ早い。
だが、ディスコ『エルドラド』にはすでに人が集まり始めていた。その大部分が刑事たちだ。
「本当に今夜来るんでしょうね?」
数少ない例外であるフェルナンド・ミナミに問いただした。
「ああ、ここを指定してきたのは連中だ。ここのVIPルームに21時、それがアポイントメントだ」
「にしちゃずいぶんと早い時間から周り固めてるんじゃないか?」
ともう一人の例外、ミック・エンジェルが声をかけた。
彼は今回は撩たちの方にはつかず、こっちでウィークリー・ニューズ特派員としての任務を全うするつもりのようだ。
「警察の考えそうなことね。ほら、あの連中なんてディスコに来る格好じゃないわ」
指差したところにはいかにも堅物そうなスーツ姿の男が所在なさげに立っていた。
せめて風俗取締りの捜査官を連れてくれば、金曜の夜の喧騒の中に紛れ込むことができるのに。
ここまできて心配になってしまった。
しかし、今回の作戦は是が非でも成功させなければならない。
それはシンセミーリャ壊滅というだけでなく、ここにいるフェルナンドのためにも。
ここで奴らを引きつけておかなければならないのだから。
「でも、先手を打っておいて正解だったようだ」
そう言って彼が指差した先、入り口からだいぶ離れた通りの端に黒塗りのメルセデスが止まっていた。
見れば反対側にも。前の通りを固めて、敵対する連中が入ってこられないようにする気だ。
おそらく警察すら平気で足止めを食らわすだろう。確かに、馬鹿みたいに早く来ておいて正解だったようだ。
「おそらく店の中にも紛れ込ませるつもりだろうから、警備は相当な人数になるだろう」
「だったら撩の方は大丈夫ね」
「ああ」
そうは言いながらも、フェルナンドの眼には安堵の表情は見られなかった。
今の彼と同じ眼をした槇村を、前に見たことがある。それはいつも妹――香さんを案じる眼だった。
私には「大丈夫だ、関係ない」といいながらも、眼はそう言っていなかった。
ねぇフェルナンド、あなたにとってミランダさんは可愛い妹なの?それとも――。
「野上署長、そろそろ開店です」
そう声をかけたのは本庁保安二課の若い管理官。そう、私はここで現場の指揮一切を任されているのだ。
「では総員配置につけ」
幕は開いたのだ、今さら引っ込むわけにはいかなかった。
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19:28
RX‐7の後部座席は狭い。スポーツカーなんてもともと2人乗りが基本だ、後ろなんておまけに過ぎない。
ましてその足元にうずくまっているのなら・・・。
じっと身を屈めていたので背中がバキバキに痛む。でも背伸びをすることもできない。
「はぁ、腰いた・・・」
ぼやきが思わず口をついてしまった。
「誰!?」
運転席に座っていた彼女がとっさに銃を向けた。あたしはホールドアップするしかない。
「香さん・・・」
「へへへ、ついてきちゃった」
目の前にそびえるのは西新宿の高層ホテル――撩と海坊主さんがあの中にいる。
「中には入れられないわよ」
そう美樹さんが言った。
「今回のミッションはあまりにも危険すぎるわ。
あたしだって今日は単なる運転手役、ミランダさんをファルコンの山小屋まで連れて行くだけだもの」
だからいつものジムニーじゃなく、スポーツカーを調達してきたわけだ。
「判ってる。ただ撩の側にいたいだけ」
あたし一人だけ、アパートで帰りを待っているだけなんてとても耐えられそうになかった。
嫌でもあのときの夜を思い出してしまいそうだから。
だから側にいたかった。この目で見届けたかった。一緒にいられないなら、できるだけ近くに・・・。
「判ったわ。でも、足を引っ張るようならいつでも車から放り出すわよ」
そういえば昔、同じようなことをやったっけ――と思い出しながら、あたしは大きく肯いた。
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21:32
「まだ来ないの?」
約束の時間からすでに30分以上経っている。
いくら最近の若者は時間にルーズとはいえ、麻薬取引もまたビジネスだ。ビジネスに遅刻は厳禁のはず。
VIPルームにはフェルナンドと彼の部下、そして私たちはVIPルーム専用の黒服の控え室を占拠していた。
そこを出入りする黒服も当然警察官。
彼らはここ、東新宿署防犯課で風俗取締りを専門に行っている刑事だ。夜の世界に紛れるのならお手のものだ。
今のところフェルナンド以外、彼らの正体には気づいていないようだ。
そして店の中にも大勢の刑事が所轄、本庁入り混じって警備を固めていた。
一番避けたいのは同じように店を占拠しているシンセミーリャの警備陣との衝突だが
今のところ心配するような事態は起きていないらしい。
「彼らから連絡はないの?」
隠しインカムを通じてフェルナンドに尋ねてみた。
《電話一つ掛かってきやしない。本気で取引きに応じる気があるのやら》
「ミズ・サエコ!」
この部屋にたった一人だけの部外者、ミックがモニターを見ながら叫んだ。
ここには監視カメラの映像が引っ張ってきてあった。
「シンセミーリャの用心棒たちが一斉に出払っていった」
見ればモニターのあちこちで、いかつい男たちがほぼ同時にフロアを後にしていったのだ。
まだ金曜の夜は長い、店を引き上げるにはまだ早いはずだ。
「まさかっ!」
そう言うと私は部屋を駆け出していた。
部下たちが一瞬怯む中、ミックだけがその後を追う。
そしてさらにVIPルームからフェルナンドが飛び出した。
「連中は西新宿に戻る気だ!」
フェルナンドが叫ぶ。裏口の傍にはポルシェが横付けしてある。
運転席に乗り込むと助手席にミックが、そして彼を押しのけるようにして後部座席にフェルナンドが乗り込んだ。
もちろんこの通りもシンセミーリャに押さえられている。
メルセデスが狭い道をふさぐように横を向く。
しかしその狭い隙間に無理やりポルシェをねじ込んだ。
黒服の男たちが降りてきてマシンガンを向けるが、
「捕まってて!」
銃爪を引くより早く射程距離から抜け出した。
「それと気になる点が一つある」
と後部座席からフェルナンドが言った。
「ここにいる用心棒のほとんどはデュークの部下だ」
「ということはホテルでリョウたちとドンパチやってるのは」
「おそらく我々の仲間――」
今はシンセミーリャ内部の権力争いなんて関係ない。
今私たちがすべきことは、一刻も早く撩たちの下に向かうことだった。
私たちが行ったところで、何ができるかはたかが知れているが・・・。
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22:06
ミランダさんがいるというエグゼクティヴ・フロアはそこだけ電気が消え
まるで黒い帯がホテルを取り巻いているかのようだった。
その中を時おり爆発らしい光が点滅する。その度にあたしはぎゅっと拳を握り締めた。
――撩が無事でいますように。
作戦開始からすでに1時間、あからさまにてこずっているのが目に見えていた。
「警備の人数が思ったより多かったのかしら」
美樹さんの眼もまた夫の無事を祈っていた。
しかし、撩と海坊主さんをもってしてもこれほどまでに時間ばかりが過ぎていくとは――
もしかしたら、騙された・・・?あらぬ考えが頭をよぎる。
誰に・・・フェルナンドさんに、アニキに。
なぜ・・・なぜ、アニキが。
でもアニキはあたしたちのことなど覚えていない。
彼はシンセミーリャの幹部――撩の、敵。
撩が信用していることすら利用するかも――
そこまで考えて頭をぶんぶんと振った。よからぬ考えを振り払うように。
そんなはずはない、アニキはアニキだもの。
じゃなきゃミランダさんをわざわざ逃がそうなんて思わない、自分の立場が致命的に悪くなっても。
あの人が・・・あたしに、似てるから。
そのとき、
丸々1フロアの窓が火を噴いた。
「撩っ!」
「ファルコン!」
あたしたちの叫びは、爆発の轟音にかき消された。雨はまだ止まなかった。 |

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アクションシーンから・・・逃げました。
包帯を取り替えるシーン、ナニをするわけじゃなくてもエロチックに感じたのは
書いてる店主だけでしょうか?
Former/Next
City Hunter
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