vol. 7 槇村と冴子と、ときどき香

夢を見た。女とキスをしていた。目を開ける。近すぎて顔が見えない。そっと口唇を外して女の顔を見た。
――冴子?
次の瞬間、冴子の顔は香になった。んな馬鹿な!とその途端、意識が急激に浮上した。
そこはアパート近くの路地裏、よく俺が酔いつぶれて眠り込んでいる場所だった。
さっきまでの夢とは思えない生々しい感触に、思わず指先を口唇に当てた――馬鹿馬鹿しい、そんな少女趣味なことを。
だが夢の中の口唇は柔らかく、暖かくて、まるで実際に誰かの口唇に触れていたかのようだった。

冴子の口唇なら知っている、実は。まだ槇村がいたころだった。
あのころの彼女はまだ粋がってるだけの初な女で、慣れないディープキスに俺の胸をどんどん叩いていたっけ。
しかし――香の口唇の感触はまだ知らなかった。額に触れるだけのキスをしただけだ。
一度は未遂に終わったこともある――香じゃない香に、あいつとは気づかない振りをして。
そしてガラス越しのキス――あの時感じたぬくもりは、今朝の夢とはまったくの別物だった。

 

 

槇村と私と、そして撩。私たちが三角関係にあったのは事実だった。
しかし私が撩に惹かれたのは、優しいだけの恋人にはない刺激を求めていただけだったのかもしれない。
そんな私の想いを撩は正面から受け止めることはなかった。
判っていたのだろう、所詮は一時の火遊び、世間知らずのお嬢さんの無いものねだりだと。
あのころの私は今の香さんより若かったのだから。
そして槇村は私たちの前から消えた。私は失ってはじめて、彼の大きさを知った。
いや、消えたのが撩であっても、私は槇村を選んだはずだ。
私の帰るべきところは彼の暖かな腕の中だと判っていたのだから。

香さんが現れ、槇村が消え、私の想いなど鼻であしらった撩はいつの間にか本気で誰かを――香さんを愛することを知り
私は酸いも甘いも噛み分けた、一端の大人の女になっていた。

「・・・頭いた――」

気がついたら自分の部屋のベッドの上だった。

(撩・・・)

まだ槇村がいたころは、撩を部屋に上げたことなんてなかった。
それどころか、彼と二人だけで飲みに行ったことも。
いつも私たちは三人一緒だった。それが私たちの関係だった。
そして槇村がいなくなってもその距離は埋まることはなかった。いつも私たちの間には空席――槇村の席があった。
そしていつの間にか『いい友達』になっていた。

――迎え酒でもあおりたい気分だけれど・・・今日は大事な約束が入っている。
とりあえずはシャワーを浴びてアルコールを抜いてしまおうか。
そう回らない頭で逡巡していると、下からクラシカルなクラクションが聞こえた。今日の『大事な約束』だった。

 

 

「ミランダ・マリノ、24歳。S国の元麻薬取締局長の娘、8年前に兄カルヴァンと共にユニオン・テオーペによって誘拐される。
以後、カルヴァンはユニオン及びシンセミーリャの私兵部隊、通称『Ogre』で戦闘に当たり、
ミランダは中枢において幹部たちの監視下に置かれる――ってのは槇村が言ったのと同じだな」
「槇村じゃないわ、フェルナンド・ミナミよ」

これほどまでにシンセミーリャ内部について詳しい情報が手に入るのは東京、
いや、日本においても教授のところのほかにない。

「ふぉっふぉっふぉっ、ところで二人同時に助け出す伝手はあるんじゃろうな」

そうだ、どちらかがわずかに遅れても、その隙に情報が伝わり、もう片方の命に危険が及ぶ。

「ええ、CIAには南ガルシアのときの伝手がありますので、カルヴァンの方は彼らに任せようと思います」
「伝手っていうより『貸し』だろ?」
と冴羽さんが茶々を入れた。

「ところで撩、あのあと無事に帰れたの?」
「おまえこそ、ぐでんぐでんに酔っ払ってたじゃないか」
「あらそう?ちゃんとベッドで起きられたわよ。撩のことだからきっと路地裏で夜明かししたんでしょ。
香さんに怒られなかった?」
「怒られるっつうか朝から機嫌悪かったけど・・・頭痛ぇんだよな。二日酔いかな」
「二日酔いには梅干がいいんですって」

そう言って私は二人に緑茶を差し出した。「なのかなぁ」と彼は頭をさすっている。

彼と香さんのやり取りを見ていると、今さらながらあの間に割って入れないと実感させられてしまうが、
この二人の間にもまた余人が付け入る隙のない関係が見てとれる。
だから、香さんが彼らの一緒にいるところを見て嫉妬を焼くのも無理はないと思う。
男と女、というものとは少し違うかもしれないけれど、やっぱり冴羽さんと冴子さんの間には何かあるように感じられるから。

「では失礼します」

そう言って書斎を後にしようとしたとき
「待って、かずえさん」
と冴子さんが追ってきた。そして、後ろ手で廊下のドアを閉めた。

「一体どうしたんですか?」
「いえね、一度かずえさんに訊きたいと思ってて。
どうやって昔の恋人のことを思い切ったのか、そしてなんでミックと一緒になろうと思ったのか」

冴子さんが結婚するかもしれない――それは教授のネットワークからすでに入っていた情報だった。
もちろん、彼女には槇村さん――香さんのお兄さん――という恋人がいて、彼が長い間行方不明だということも知っている。
そして、その彼が今、新宿にいるかもしれないということも。
だから私とは状況が違う。私のあの人は、いくら復讐を果たしても帰ってくることはなかったのだから。
それでも、この人は恋人を思い切ろうとしてるのだ。

「――冴羽さんがいなければ、わたしはずっと過去に縛られていたかもしれません。
だって、あのときはただ彼の、フィアンセの復讐をすることしか考えていませんでしたから」

そう、復讐のために偽りの花嫁衣裳に身を包んだ。女の夢も幸福も総て捨てる覚悟だった。
そして、その先のことなんて何も考えられなかった。

「でも冴羽さんは過去を想い出にする機会を与えてくれた。それでやっと、未来に目を向けることができたんです」

あのとき――研究室に仕掛けられた爆弾のスイッチを押したとき、彼の言うとおり私の過去は炎と共に終わったのだ。
人には誰も過去を終わらせるための何かが必要なのかもしれない。儀式といってもいい。
それを通して人は過去に区切りをつけ、明日へ向かってまた歩き出すのだ。
生きている限り、歩みを止めることはできないのだから。

しかし、冴子さんの場合は今まで区切りをつけることができなかったのではないか?
生きているか、もしかしたら死んでしまったのではないか、判らないまま宙吊りにされた状態。
それが彼女の7年間だったのかもしれない。
死んでしまった人ならともかく、生きている人を思い切ってしまうというのは残酷な行為だ。
しかし冴子さんはこの救出作戦を一つの区切りとして、恋人を過去のものにしようとしているのだ。

「そう・・・わたしもやっと、未来に目を向けることができるかしら、槇村を忘れて――
もっとも彼はわたしのことなんて忘れてしまったみたいなんだけどね」
「忘れてしまった――もしかしたら、あれが完成していたというのか・・・?」

そして書斎のドアが開いた。

「教授!」
「撩!」
「すまんな、立ち聞きなどするつもりはなかったんじゃが」

そう言って教授は私たちを再び書斎に招きいれた。

「通称『ロータス』、ユニオンが研究しておったもう一つの悪魔の薬じゃ。
逆行性健忘、つまり記憶喪失を人為的に引き起こすことができる。おそらく槇村くんもこれを打たれたのじゃろう」
「それで・・・彼の記憶を取り戻すことができるんですか!?」

冴子さんが掴みかからんばかりに詰め寄る。

「こればかりは・・・わしにも何とも言えん。
普通の記憶喪失と同じように、ふとしたきっかけで戻ることもあるじゃろうし一生戻らんこともありうる。
ただ・・・」
「ただ?」
「彼は自分のことをフェルナンド・ミナミだと言っておるんじゃろう?『ロータス』は洗脳の補助薬としても使われるからの。
しかしこの街には、槇村秀幸だったころの記憶がごろごろしておる。
おそらく、今の彼にとってはフェルナンドであり続けることは苦痛に違いない。
それを紛らわすためには何らかの薬物か――」

その瞬間、冴子さんははっと顔を上げた。

「それじゃあ、記憶は戻るかもしれないんですね!」
「彼にとって苦痛と葛藤を伴うものになるじゃろうがな」

彼女の眼は決意を内に秘めているようだった。
しかし、その決意が悲壮なものだというのは誰より私がよく判っていた。

 

 

プロスペーラ社の日本法人は西新宿の高層ビルの、さらに上層階に位置する。
その中の最上階である社長室からは新宿のビル群だけでなく東京中が見渡せるかのようだ。
それを目にするだけでこの街を、そしてこの国を手に入れたように思えるのも不思議ではない。
その特等席には本来の主であるゴンザレスを差し置いて一人の白髪の老人が座っていた。
長身に細身の体、とがった顎には山羊髭を生やしている。
そしてその目――自らの研究のために悪魔に魂を売り渡したマッドサイエンティストの眼だった。

「お久しぶりです、ウィザード様」
「フェルナンドか。どうだ、計画は進んでいるか?」
「はい、今のところは表立った妨害もなく」

この場にいるのは私とゴンザレス、そしてウィザード様だけではない。
この『シンセミーリャ』のもう一人の巨頭、デュークとチャイナドレスの美女――カリプソが居合わせていた。
ユニオンの幹部たちは実名ではなく『ジェネラル(将軍)』や『ウィザード(魔術師)』といったコードネームで呼ばれていた。
その中でも彼女は自らをギリシア神話に出てくる魔女の名前で呼ばせている。
といっても彼女は我がシンセミーリャの正式な幹部ではない。
表の顔は香港の宝石商、彼女と我々は商売相手という関係に過ぎない。

「そういえばパーティでは綺麗な方とずいぶん親しげにしていた様子」
と彼女は悩ましげな視線を向ける。

私は彼女が嫌いだった。こういう女の武器を剥き出しにする女は好きになれない。
しかし、つい最近新たな理由に気がついた。
彼女が似ているのだ、野上冴子に。
あの艶やかな黒髪、男の目を惹きつけながらぎりぎりで拒む美貌。
しかし一挙手一動足に違いにばかり目がいく。
彼女と会ったのはまだ二回しかないのに――。
いくら精巧にできていても、所詮模造品は模造品。本物に比べれば唾棄すべき存在に過ぎない。

「警視庁東新宿署署長、野上冴子警視正・・・ですね」

そう言って鋭い視線を向けたのはデュークだった。
東洋系のまだ若い男、育ちのよさそうな物腰はおおよそ麻薬組織の領袖とは思えない。
しかしその目もまた、悪魔に魅入られた者の眼だった。

「さすがだなデューク、お前の情報収集能力は」
「いやいや、商品そのものの質がなければそんなものは役に立ちませんよ」

そう一見和やかに言葉を交わしつつも、彼らの視線は鎬を削っていた。

「危険過ぎやしないか、フェルナンド。警察の人間に近づくのは」
「いえ、ウィザード様。むしろ彼らの情勢を探る上で好都合かと」
「そうか・・・内通者、か。しかし、くれぐれも気をつけるようにな。
それで、記念すべき日本での最初の取引きは、どうだ、決まったのか」
「はい。新宿や渋谷の繁華街で若者を相手にソフトドラッグを売りさばいている連中ですが
より強い薬物を捌きたいと接触してきました。
麻薬組織としてはまだまだ駆け出しで、既存の暴力団との関係も希薄なので
将来我々が傀儡として操ることも可能です」

デュークが顔をしかめた。
このビジネスはウィザード様のもの、いくらお前の情報収集能力がずば抜けていたとしても、その手を借りるつもりはない。

「それで、取引きはの時間は」
「一週間後です、ウィザード様」

そして、私としてもこの機を逃すつもりはなかった。
この場にいる全員を敵に回しても私はミランダを救い出さなければならないのだから。

 

 

冴子は池の淵に立っていた。しかし鯉を眺めるでもなく、ただ虚空を見つめるだけだった。

「どうしたんだよ、ずいぶんと晴れ晴れとした顔しちゃってさ」
「撩・・・」
「決心は、ついたのか」
「ええ。『あなたしかいない』なんて言われたら断れるわけないじゃない。
頼まれたからにはやるわよ。ミランダさんを、シンセミーリャから救出する」
「そして槇村の記憶を取り戻す、か。そのあとどうするんだよ。朝倉のプロポーズ、受けるのか」

すると冴子は俺に向き直って、そしてこう言った。

「わたしは槇村を取り戻す。そしてさよなら・・・よ」

彼女がかずえから何を聞いたか、詳しいことは知らない。
しかし彼女がかつてそうしたように、冴子もまたこれを期に槇村を過去のものとして捨て去ろうというのだ。

「おいおい、それじゃあいつの気持ちはどうなるんだよ。やっと記憶が戻ったら惚れた女は他人のもの、なんて」
「だって仕方ないじゃない、7年間も放っておかれたんだから・・・
それよりも、どうやって彼女を救い出すかを考えなくちゃ」

そう言う冴子の表情は痛々しいほどさばさばしていた。
そういやここで、強がって同じようなことほざいたバカがいたっけ・・・。

「何がおかしいのよ、撩」
「いんやぁ、別にぃ」

そのとき、
「冴羽さん、ここにいたんですか」
と言ってやって来たのはかずえだった。

「何か新しい情報でも?」
「いえ、ミックのことでお願いがあって・・・」
「あいつがどうかしたのか?」
「彼がシンセミーリャのことについて首を突っ込んでいるというのは知ってますよね。
それで・・・この間、彼のニュースソースの一人が殺されたんです」

おそらくは組織に消されたのだろう、余計なことをしゃべりすぎたがゆえに――。

「冴羽さん、XYZです!次に狙われるのはミックです。どうか、彼を・・・」

彼女の目からは涙が零れ落ちようとしていた。
今のあいつには彼女を、そして自分の身さえ守ることもままならないだろう。
今にも泣き崩れそうなかずえの手を取って言った。

「かずえくんほどの美女の依頼なら大歓迎さ。もちろんその代わり――」
「その代わり・・・?」
「報酬はもっこ――」

次の瞬間、俺は灯篭の下敷きになっていた。

「XYZねぇ・・・」
と冴子がつぶやく。

「あん?」
「ねぇリョオ、わたしもお願いがあるんだけれど・・・」

 

 

こいつが、あのシティーハンターなのだろうか!?
我がユニオン・テオーペの日本進攻を二度までも挫き、そして長老(メイヨール)を海の藻屑とした――。
世界一のスイーパーと元アメリカ一のスイーパー、彼らはもはや二人の浅ましい酔っ払いに過ぎなかった。

「セニョール・ミナミ、彼が冴羽撩。名前くらいは知ってるわよね」

彼と初めて会ったのはホテルのロビー、セニョーラ・サエコに今回の協力者として紹介されたのだ。
冴羽撩――またの名をシティーハンター。この世界に身を置いて、彼の名を知らない者などいないはずだ。
裏社会に君臨するNo.1スイーパー。
しかし彼の戦果が聞かれることは稀で、それゆえ生きながらにして伝説的存在となっている。
だが、目の前のこの男はそんな『生ける伝説』とは程遠かった。
鍛え抜かれた体躯はともかく、その表情は緩みきっていた。

「で、ミックのことはご存知よね」
「なぁ冴子、男の依頼なら俺帰るぜ。俺が受けるのは美女のXYZだけだって判ってるんだろ?」
「もちろんよ撩」
と言って取り出したのはミランダの写真だった。

「さっき教授のとこで見たのは14歳までの写真しかなかったけど」
「・・・・・」
「Oh, she’s so cute!」
と飛びついてきたのはミック・エンジェルの方だった。

「フェルナンド、彼女はこのミック・エンジェルが責任を持って表の世界に帰してあげます!」
「銃も握れないお前に何ができるんだよ」

するとミックが冴羽の首根っこを掴まえて何かひそひそと密談を始めた。

「リョウ、認めろよ。彼女は美人だって」
「ふんっ。確かに美人かもしれないが、少なくとも俺の好みじゃないね!」
「あ、お前彼女がカオリに似てるから素直に反応できなかったんだろ♪」
「どこがだ?あんなもっこりちゃんと香が似てるわけないだろーがっ」


「彼らは、一体・・・」
「オホホホホ、気になさらないで。それじゃあわたしは署の方の仕事があるので、あとは二人にお願いするわ」
と彼女はそそくさとホテルから去っていった。

「と、いうわけだフェルナンド」

いつの間にか肩をがっちりと冴羽に掴まれていた。

「何、が・・・?」
「君と俺とは生きるも死ぬも一緒の運命共同体だ。よってお互いをより深く知らなければならない」
「はぁ・・・」
「日本には『ノミニケーション』という言葉がある。『飲み』&『コミュニケーション』、do you understand?」
「Si….」
「一杯の酒を酌み交わす以上に男と男が深く結びつく手段はない。
ゆえに、いざ夜の歌舞伎町へ!
あ、ミック、お前英語のわかるもっこりちゃんのいる店知ってるか?」
「『パラダイス』ってキャバクラにベネズエラ出身のボニータがいるぞ。もちスペイン語ペラペラ」
「で、もっこりボニータ?」
「ボン・キュッ・ボンのnice body」
「よし乗った!」

というわけで私は彼らのハシゴ酒につき合わされていた。
これが、「シティーハンターを消せ」とメイヨールに見込まれるほどの一流スイーパーだった男だろうか。
そしてこれが我が敬愛するメイヨールを殺した男なのだろうか!?
・・・信じたくなかった。信じてしまえばメイヨールがあまりにも哀れだった。
こんな男に殺されたとは、そしてこんな男を我々は仇と追い続けていたとは――。
そんな私の嘆きも知らずに彼らは行く先々で飲んで騒いで、ホステスたちに絡み続けていた。
おかげでこっちはグラスに口をつけるのも忘れるほどだ。
なので、まだ酔いの回りきっていない私が酔いつぶれた大男二人を引き摺るという、何とも不自然な形になってしまった。

「お〜いフェルナンドぉ、次はあの店、行こうぜぇ」

そう言って冴羽が指差したのは地下へ続く階段。
その先にあったのは小さなカウンターだけのバーだった。

「いらっしゃいませ――あっ」

バーテンダーは私の顔を見た途端声を上げた。

‘He’s Fernando, my friend, from Colombia.(彼はフェルナンドといって俺の友人だ、コロンビア生まれの)’
‘Sorry, senor. I was surprised at your likeness to my old customer.
(失礼いたしました。あなたが昔の常連さまと似てらっしゃるもので)’
‘You’re a good English speaker.(英語、お上手ですね)’
‘Yeah, I was trained to be a bartender in U.S..(ええ、アメリカでバーテンダーの修行をしましたから)’

そこは小さい以外は何の変哲もないバーだった。しかし、その雰囲気は懐かしさすら感じさせた。
初めて来たはずなのに、まるで行きつけの店のように落ち着くのだ。

「確か冴羽さんは、前にもあなたによく似た方を連れてきてました」
「そんなこともあったっけか?」
「世の中にはよく似た人が3人いると言いますから、その全員に会ったことになりますね」

あれ、自分に似た人が3人だから合わせて4人か?と独りごちる。

「んじゃシンちゃん、俺ギムレットね」
「オレはマティーニ、うーんとドライなやつ頼むよ」
と彼らは日本語で何やらオーダーを入れていた。
私も英語を併記されたメニューを目でたどるが、その横で冴羽が何やらバーテンダーに耳打ちしていた。

「かしこまりました」
と一礼する。目の前に出されたのは緑色のカクテルグラス。

「『グリーンフィールズ』になります。
昔、あるお客様から『緑茶を使ったカクテルがある』と聞きましてね。
それを何とかものにしよう、メニューに載せられるようにしようと閉店後何度も特訓したものです。
しかしそれを自分のものにできたとき――」
「亡くなられた、のですか?」
「いえ、死んだわけじゃありません。ただ私たちの前から消えてしまったのです」
「しかし、メニューには載っていませんでしたよ」
「はい。だから彼に飲んでいただくくまでは載せるつもりはありません」
「待っているんですね、彼を」
「はい、この街のみんなが同じ気持ちだと思います」
「じゃあなぜ私に?」
「それは・・・」

「――まったく、カクテルまで緑茶だなんてほんと槇村らしいよな」


そう言って、冴羽は私にグラスを勧めた。

‘What about a Japanese flavor? (どうだい、ニッポンのお味は)’

グリーンティーなど今まで飲んだことはないはずなのに――
しかし舌に残る渋味は明らかに郷愁を感じさせるものだった。
日系人としての血がそうさせるのか、それとも・・・いつの間にか私はグラスを強く握り締めていた。

――この街はおかしい。

ここのバーだけではない。この街全体が私をまるで長い旅から帰ってきた旅人のように迎えてくれる。
しかし私はこの街の人間ではないのに――デジャ・ヴ、既視感。懐かしいのに、懐かしむべき過去がないのだ。

――いや、おかしいのは・・・私?

カウンターの奥の鏡に映った自分の顔。私の顔だ、フェルナンド・ミナミの。
いや、私は果たしてフェルナンドなのか?それすらも、自分が拠って立つ場所すらも危うくなる。
眩暈がする。内ポケットからシートを取り出したいところだが、ここではそれも憚られる。
応急手当とばかりに目の前のアルコールを一気に流し込んだ。


 

「こないだは冴子さんでその前はミックとで、一体どこで飲んだくれてるんだか」

と口では強がってみせるが、こんな一人の夜は心細くて胸が押しつぶされそうだ。
昔はそんなことなかったのに――アニキが仕事で遅くなったときも、刑事の仕事を辞めて撩と組んでからも
たった一人で帰りを待てた。待っていればいつかただいまが聞けると信じていたから・・・。
でもあの夜はいつまで経ってもそれが聞けなかった。
その代わりに聞かされたのは撩の声、
――兄貴の形見だ。君へのプレゼントだったらしい・・・。
その夜から、一人が怖くなった。
なのにあいつはあたしをほったらかして夜の街へと消えていく。
きっと判ってるはずなのに、たとえあの言葉が嘘だと判っても、あたしは今もこんな夜が怖くてたまらないということを――。

「それともあたしのことを放っておけても、冴子さんは放っておけないのかよ」

今もあの感触をありありと思い出せるというのに――。
そのとき、ノックの音が聞こえた。玄関からだ。

「お〜い、香ぃ」

撩の声が聞こえる。相当酔っ払ってるに違いない。
鍵を開け、ドアを開ける。酔っ払ってた撩、とミックを担いできたのは――あろうことかアニキだった。
もちろん、生きているというのは知らされていた。つい最近。そしてこの街にいるとも。
しかし、それ以上のことは知らされてなかった。
あたしも訊かなかった。撩が教えてくれないのはそれなりの理由があると判ってたし
最近はそれどころじゃなかったから――撩と、そして冴子さんのことで頭が一杯で
妹失格だけど、アニキのことについてまで頭が回らなかったから。

目の前のアニキはあたしの知っているアニキよりすっきりしていた。
ぼさぼさだった頭もさっぱりしてて、来ている服もあの頃のようなよれよれのスーツじゃない。もっと高そうな、いい服だ。
そういうところだけ見るとアニキというより北尾さん――アニキそっくりの冴子さんの見合い相手――の方が近いかもしれない。
でも目の前にいるのはアニキだった。間違いなくアニキだった。

‘You’re Ryo’s partner, ain’t you? (あなたは撩のパートナー、ですよね)’

アニキの口から出てきたのは、流暢な英語だった。“Ryo’s partner”というのは聞き取れたのでとりあえず肯く。
今まで来た外国からのお客様はみんな日本語が上手だったから困らずにすんだけど、
シティーハンターのパートナーとしてせめて日常会話ぐらいできるようにならなくちゃとは思っている。
じゃなきゃいい物笑いの種だ――ってそんなことを考えてる余裕はない。
気がつくと、彼もあたしの顔をしげしげと見つめていた。

「あ・・・あたしの顔に、何か?」

思わず日本語で言ってしまった。彼に判るはずがない。
頬がかっと熱を帯びる。
そんなあたしに彼は優しい微笑を向けた――それは間違いなくアニキのもの。

‘By the way, is Mick’s room across the street? (ところで、ミックの部屋は通りの向かいかい?)’
と向かいを指差したからあたしは「Yes」と肯く。
すると彼は――アニキは頭一つ自分より大きいミックを引きずるように玄関を後にした。そして

‘Buenas noces, Senorita.’

そう言い残すと階段を下りていった。
玄関には泥酔した撩と、その横で立ち尽くしているあたしだけが取り残された。


>『グリーンフィールズ』というカクテル
正しくは抹茶リキュールを使います。
確かそんなカクテルがなかったかと、懸命にネットを探し回ってしまいました。

アニキがGHじみてきたのは確信犯。

Former/Next

City Hunter