vol. 5 Adios, my yesterday

処女を相手にするときは横っ面を一発ひっぱたいてやればいい、と言った男がいた。
その隙に挿れちまえばどっちが痛いんだか判らない、と男は下卑た笑いを浮かべていた。
処女なんて七面倒なもの相手にすることもないだろう、と聞き流していたが
(今や奴のアドバイスを真剣に傾聴しなければならない瀬戸際に追い込まれようとしてるのもまた事実で)
ひょんな形でその正しさを実証することができた。

アパートの居間でマグカップを両手に抱えて、やっと落ち着きを取り戻した香が口を開いた。

「あたしのためなんだよね、アニキが生きてるってことを伏せてたのは」
「ああ・・・」
「あたしがこれ以上危険に深入りしないように、ってことでしょ」
「・・・そうだ」
「そう、ならいいの」

聞けば、一足先にトクさんに会って槇村(らしき男)が滞在しているというホテルを聞き出したのだという。
そこを張っていたら、冴子に出くわしたのだ。
俺が肝心なことに嘘をついていた以上に、冴子が見知らぬ男と一緒にいたということにショックを受けているようだった。
あいつの元には日々見合い話が舞い込んでいるんだろうし、あれから7年も経つ。
生死の判らない一人の男にずっと縛りつけられるのも可哀想な話だ。
あのお人好しな親友のこと、そんな冴子を見るに見かねて「俺のことは忘れて幸せになれ」とも言うだろう。
まあ、今のあいつがどう思うかは俺にも判らないが。
でも香は違う。香にとって冴子は我が冴羽商事の常連客でありよき友人であると同時に、兄の恋人であった女性なのだ。
いつまでも槇村一人のものであってほしいというのはエゴかもしれないが、香の偽らざる本心なのだろう。
まして今、彼が生きているかもしれないというときに他の男と親しげに腕を組む冴子の姿は裏切り以外の何ものでもない。
しかし、

「ずっと引っかかってたんだ、アニキの葬式から。
なんで顔を見ちゃいけないのか、なんであたしと撩しかいなかったのか。
あのとき、アニキの棺桶が空だったって考えれば総て納得がいく。
でも訊けなかった、考えもできなかった。もしそうしてたら――」

総てが壊れてしまうから。

気丈にも香はあのとき目にした光景には一言も触れなかった。
判っていたのだろう、冴子にだって幸せになる権利があるということを、槇村を忘れて――。
無理に物判りのいい振りをしようとする、そんな相棒が途轍もなくいじらしかった。

 

 

「で、そこを抱きしめてsmack!と」
と茶々を入れるのは我が悪友。

「んなわけねぇだろ。相変わらずお前も趣味悪いよな」
「そんなカオリが『イジラシイ』んだろ?『イトオシイ』んだろ?だったら行動あるのみ、感情表現あるのみ!」
「あのな、大和民族はお前らヤンキーと違って繊細なの、奥ゆかしいの。そんなに単純じゃねぇんだよ物事は」
「大体なんでその日の夜にこうやって飲みに出かけてるんだよ。オレだったら一晩中カオリを放さないのに。
Oh, my sweetheart〜!」
「香はお前のもんじゃねぇっ」

だが、ミックの言うとおりだ。
俺は真実を知らされ誰を信じればいいのか迷っているであろう香を残し、こうしてこのエロ天使とハシゴ酒に興じていた。
こうでもしなきゃこっちがやっていられなかった、今まで香を欺き続けていた自己嫌悪を酒で晴らさずには。
そして、俺に向けて疑いの眼と、それでも必死でオレを信じようという眼を向けてくるあいつを直視できなかった。
でも俺はいい、こうやって飲んで騒いで姐ちゃんの胸でも揉んでれば一時でも目の前の現実を忘れられる。
(しかしその後の請求書に現実を思い出し、香のハンマーを喰らうのだが)
しかし香は、たった一人でいきなり突きつけられたこの乗り越えがたい現実に立ち向かわなければならない。
そのとき、傍についていてやるべきはこの俺なのに――。

「そもそもお前こそどうなんだよ。いつまでかずえちゃんを待たせる気だ?」

こいつの、そして自分の良心の集中砲火がこちらに向けられる前にターゲットを変えた。
ミックとかずえくんはいわば『婚約者』同士、すでにうちの向かいのマンションで生活を共にしている。
どこからどう見ても幸せなカップル、結婚も秒読み段階だ。
しかし同棲を始めてもう半年以上経つのに、次の一歩への踏ん切りがつかないように見えた。
俺のように入れるべき籍も無いわけではないのに。

「お前にゃ関係ないだろ」
「いいや、関係大ありだ。婚約破棄ってことになったらかずえちゃんに手ぇ出し放題だもんね〜」
「って早くオレに身を固めてもらわないとカオリが心配なだけだろ?」
と言ってニヤリと笑うが、眼が笑っていない。

「オレが結婚するのはカズエを守れるようになったらだ」

カウンターにはドライ・マティーニ。これを飲んでいるときのミックは真剣だ、少なくとも嘘はつかない。
だが、グラスを持つ手の白い手袋の下は醜く焼け爛れている。
今もリハビリを続けているが、もう二度と“ハンドキャノン”、デザートイーグルをその手に握れるようにはなれないだろう。

「そんな手でどうやって――」
「The pen is mightier than the sword.(ペンは剣よりも強し)」

そう呟く。

「それを残りの人生かけて実証していくってのも悪くないだろ?」
「・・・壮大な実験だな」

ミックは仕事とは別に、独力でユニオン・テオーペの残党を追っていた。槇村の情報もその結果としてもたらされたものだ。
彼の得た情報でその手から銃を奪った連中に復讐を下すこともできるだろう。
現に、中小の残党組織を壊滅に追い込むだけのスクープを挙げたこともある。
しかしそれはよりいっそうミックを、そしてかずえを危険に追い込むことでもある。
身を守る術をもたない彼にとって、この復讐は危険な賭けでもあった。

 

 

彼に呼び出されたのはいつもの公園。

「ハイ撩、これが頼まれてた捜査資料」
「いつも悪いな、冴子。特捜課から外れたから資料持ち出すのもキツくなったんじゃないか?」
「そんなことないわよ。今も後輩がいるし、彼らに頼めばすぐに持ってきてくれるわ。
だから、これで貸し引いといてね」
「その貸しもそろそろ清算してもらわなきゃならないな」

そう言ってベンチに座ったまま私を見上げた。
彼の眼はピンホールショットの照準のように真っ直ぐ私の目に、そして心に合わせられていた。
その眼に射抜かれて嘘をつき通せた人間が今までいただろうか。
見抜かれれば見えない銃弾が心臓に撃ち込まれるだろう。

「結婚、するんだってな」
「あら、お見合いしただけよ」

今まで散々嘘をついてきた。捜査のため、この男を守るため、堂々と嘘をつき通してきた。
しかし今、この男の前ではそんなものは通用しない。脈が上がる、冷や汗が流れる。
それでもなお、体裁を取り繕うとしてもこの男にはお見通しだ。

「香が昨夜、その見合い相手とやらと一緒にいるお前を見たそうだ」
「香さんが!?」

一番見られたくない相手に見られてしまった。
私が愛した男、槇村の妹。
撩がその親友の妹を守り続けてきたように、私も彼女をまるで妹のように見守り続けてきた。
もし私が槇村以外の男と結婚するのなら、それは彼女との関係を自ら断ち切ってしまうこと――。

「まぁお前もいい齢だし、そろそろ結婚焦り出してるのも判らなくもない」
「余計なお世話よ!」
「でもいつまでも槇村に操立てることないぜ。たとえあいつが生きてようとな」
「撩・・・」

祝福、してくれるの?

「だがもし結婚するのなら、香にはもう二度と近づくな」
「・・・そうね、彼女にとってわたしはいつまでも『兄の恋人』でなければならなかったものね」
「そして俺とももう縁を切った方がいいな」

その一言で、私は予期せずして奈落の底へと叩き込まれた。

「釣り書き、麗香に聞かせてもらったぜ。警察庁のキャリア官僚だっていうじゃないか。
今まではお前の不始末はお前一人で被りゃあよかったが、今度からは旦那も火の粉を被ることになる。
それにお前、署長程度でキャリア終えるつもりはないだろ?」
「まぁ、ええ・・・」
「だったら今のポストが最後の現場勤めになるわけだ。
これ以上上に行ったら俺たちの手を借りる必要ももうなくなる」

そしてこう言った。お前と俺とは住む世界が違うんだ、と。

まさかその台詞が自分に向けられるとは思ってもみなかった。
その台詞が向けられていたのは香さんだった。
彼女は銃を手にしたこともない、まったくの素人で、そして何より裏の世界には向かない真っ直ぐで綺麗な人だった。
血と硝煙に塗れた世界に浸りきった撩にとって彼女は触れるのも畏れ多い存在、
汚されることなく、いつかは日の当たる場所に帰してやらなければと思い続けていた。
だけど撩が彼女の放つ光に惹かれていったのもまた事実で、彼が香さんを二度と手放さないと誓ったのはつい最近のこと。
その決意を私は我がことのように喜んでいたのに・・・。
私は警察官、そして撩は殺し屋。住む世界が違っていたのは最初から判りきっていたことだった。
ただ、今まではお互いの利害が一致していただけ。ただそれが無くなってしまう、それだけのこと。
そう無理やり自分で自分を納得させようとしていると、署長室の電話が鳴った。

「はい、野上――」
《やあミズ・サエコ。ずいぶんと浮かない声をしてるね、また妹さんとケンカでもしたのかい?》

そう明るい声でかけてきたのは金髪のジャーナリストだ。

《だったら丁度いいのがあるんだ、パーティの招待状があるんだけど》
「あいにく、そんな気分じゃないの。かずえさんとでも――」
《プロスペーラ社の日本法人10周年記念パーティ、これでも興味はないかな?》

プロスペーラ社――数日前にミックからもらった資料をひっくり返す・・・
あった!ユニオン・テオーペ、そして今はシンセミーリャと関係があると言われているコロンビアの宝石採掘会社。
おそらくは彼らのマネーロンダリングに一枚噛んでいると思われている。

《そこのsenior vice president――日本語では・・・》
「上級副社長」
《そう、そのジョウキュウなんたらというのに本国から新顔が来るんだよ》
「まさか、それって――」
《フェルナンド・ミナミ》

受話器を持ったまま、その場に立ち尽くした。

《直接彼に会ういい機会だ、ミズ・サエコ。自分自身の眼で彼がマキムラか確かめてくればいい》
「――ええ、判ったわ。それで、そのパーティはいつ?」

ミックの告げた日時、その日は丁度朝倉との予定が入っていた。
しかし迷っている暇はない、この機会を逃せば一生後悔する。たとえ彼と結婚しようとしなかろうと――。

 

 

西新宿の高級ホテル、そこが会場だった。
奇しくもこの日、このパーティさえなければここのバーで朝倉と会う約束だった。
お互いエリートとして忙しい身、私の職場に近いということもあって
このホテルの最上階のバーがいつものデートコースとなっていた。
あのとき香さんに誤解されたかもしれないが、私たちは未だそういう関係ではなかった。
朝倉は常に紳士だった。少なくとも酔い潰して、それが駄目なら多少卑怯な手を使ってでも好きにしようとする
どこの誰かとは大違いだった。

その夜も、私はグラス越しに新宿の夜景を眺めていた。そして物思いに沈んでいた。
この灯のどこかにもしかしたら彼がいるのかもしれない、と。

「――冴子さん?」
「あっ、あぁ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしていたものだから」
「槇村さん、のことですか?」

おそらく顔に出てしまっていただろう。
彼には知られるわけにはいかなかったから、槇村がこの街にいるかもしれない、などということに
かかずらわせるつもりはなかった。それは私自身が解決する問題だった。

「僕も妻のことを考えていたんですよ」

朝倉の顔がふっと翳りを帯びた。
彼の眼もまた、さっきまでの自分のように遠い街の灯の、そのさらに遠くを見つめていた。

「奥様とは、前にもここに?」
「まさか、彼女が生きてた頃はまだここはだいぶ殺風景でしたよ」

その表情は穏やかで、だからこそ余計やるせなく、胸が締め付けられる。

「それがいつの間にかこんなに綺麗になっているんだから、まったく、時が経つのは早いもんだ・・・
いや、この話題は止めましょう。いつまでもあなたの知らない死んだ人間のことを話しても」

そして彼の目が私の目を捉えた。

「でも冴子さん、あなたが槇村さんのことを忘れられなくても構いません。
彼との想い出ごと、僕は君を包んであげたい。
今の君があるのは彼のおかげなんですから」

確かに――今まで私は彼のために槇村を思い切ろうとしていた、忘れようとさえしていた。
しかし槇村と過ごした日々がなければ、刑事として、人間としての今の私はなかったはずだ。
たとえそれが好ましからざるものであっても、誰も過去を否定することはできない。
私は彼の度量に惹かれていた。そして自分の狭量さを恥じた。
彼が遠い眼の先に見たであろう亡き妻に思わず嫉妬してしまったのだから。

しかし今、私は彼とは違う男に――槇村に会うためにここに来ている。
そのことが言いようのない高揚感を与えていた。まるで・・・そう、逢引のような。それははるか昔味わった感覚。

(皮肉なものね)

それでもいそいそとワードローブを広げてドレスを選んだ。朝倉と逢う日よりも熱心に。
いつの間にか槇村の知っている服はほとんどなくなっていた。流行も廃れたし趣味も変わった。
選んだのはお気に入りのダークブルーのロングドレス。
タイトなシルエットに大胆に入ったスリット、シンプルなデザインだが光沢のある生地には余計な装飾はいらない。
それに肘まである同色の手袋を合わせて。
昨年買った物だが、今の自分を一番魅力的に見せてくれるだろう。
そして香水だけはあの頃つけていた物を。普段そういう匂いにいい顔をしなかった槇村が唯一褒めてくれたものだった。
そんな自分を傍から見たら、恋する乙女以外の何者でもあるまい。もうだいぶいい齢をして――。

「Hi, ミズ・サエコ」

エントランスに現れたミックは高級そうなブルーのスーツを彼らしく一分の隙もなく着こなしていた。
撩とさほど体格の変わらない長身に逆三角形の上半身がスーツによく映えた。

「今夜は一段と綺麗だね。こんな美人とアフター5を過ごせるなんて役得ヤクトク」

そう言って彼は腕を差し出す。

「今夜はエスコート役だからね」
「一応仕事でしょ?」
「Oops, sorry」
「でもあなたも今夜は一段と決まってるわ」
「ただの貸衣装さ」

ロビーにはすでに招待客が集まっていた。その中にはテレビなどで見知った顔ぶれも多かったが
皆宝石会社のパーティということもあって、大ぶりの宝石をこれ見よがしに身につけていた。
片やこちらはというと、所詮は公務員の安月給
それなりにジュエリーケースを漁ってはきたが、彼女たちに比べると明らかに見劣りしていた。

「Don’t worry, Saeko. 何十カラットのダイヤよりもキミ自身の方が輝いてるよ」
「そんな台詞、かずえさんに言ってあげたことがあって?」
「Oh, no! ここでカズエの話は出さないでくれ」

そうやり合っているうちに、いつの間にか肩の力が抜けていたのに気づいた。
7年ぶりに槇村と会う、それで知らず知らずのうちに力が入りすぎていたのだろう。
この軽妙な話術と愛嬌のある笑顔でかつては数多くのターゲットの女を、そして今は難攻不落の取材対象を
次々に陥し続けてきたのかと思うとそれも肯ける気がした。

「セニョール・ゴンザレス、こちらセニョーラ・サエコ・ノガミ」

会場に入っても彼の軽妙さは衰えなかった。
ここは表向きは堅気の宝石会社のパーティとはいえ、ユニオンとの、そしてシンセミーリャとのつながりが噂される企業。
ミックや私にとってはまさに敵地に乗り込んでいく格好のはずだった。しかし、

「セニョーラ・サエコはこの若さで警察署長を務めてらっしゃる美人エリートでして」
「おお、それじゃあ是非にその目で確かめていってください。
我がプロスペーラ社が世間で言われているような犯罪者の集まりじゃないことを」

そう言うとプロスペーラ社の日本法人社長、パブロ・ゴンザレスは別の客――チャイナドレスの美女――に
鼻の下を伸ばして挨拶に行った。

「ちょっとミック」
「What’s up?」
「わたしのこと軽々しく警察官だなんてバラしてもいいわけ?」
「Oh,どうせそのうち彼らの情報収集力を以ってすればバレることだって。
それに警察関係者だって知れれば奴だってせっせとキミとワケありの連中を繋ごうとするさ」
「その中に槇村が?」
「Yes. 彼は――フェルナンドはカイバラの傍近くに仕えていたこともあるって話だ。
ワケあり中のワケありじゃないか」

そう、彼は今はフェルナンド・ミナミと名乗ってシンセミーリャの中枢深くにいる。
一体なぜ?あんなに高潔だった彼が悪魔に魂を売るはずがないのに――。

「Hey, I need not introduce her to him! (おい、彼女に奴を紹介する必要なかったじゃないか!)」

「May I help you, Senora?」

そう言ってシャンパングラスを手渡した男を私が見間違えるはずがない。
髪型は幾分こざっぱりしていて、眼鏡のフレームもいつの間にか今風の銀縁になっていたが、彼は槇村だった。


冒頭のたとえは『ロングキス・グッドナイト』より。

オリキャラを書くのは疲れますな。
一生懸命別ジャンルの在庫を引っ掻き回しています。

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City Hunter