vol. 4 他人よりも遠く |
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香さんの気持ち、私も判る気がした。 生きてさえいれば、パートナーとして傍にいられれば、たとえ恋人じゃなくても・・・ それは数年前までの私の気持ちだった。 確かにファルコンと結婚したくて日本まで追いかけてきた。 でも、「パートナーとしてなら」と一緒に生活し、一緒に喫茶店をやっているうちに いつしかそんな小さな幸福に満足している自分がいた。 あの頃――ファルコンを捜し求めていた頃に比べれば、彼が隣にいる今は幸福だと。 どこか諦めにも似た気持ちを変えたのは、彼と冴羽さんとの決闘だった。 いつか決着をつけたい、そしてより強い敵と闘いたい、そんなファルコンの気持ちをやはり傭兵だった私は判らなくもなかった。 でも、私の中にもう一人の、ただの恋する女としての自分がいた。 もう一人の私は、ただただ彼の無事を祈っていた。 そして私は賭けをした。もし彼が生きて帰れたら、そのときは恋する自分に正直になろうと。 だとしたら、二人の距離がさらに一歩近づくのは また二人のうちのどちらかが命の危険にさらされたときなのかもしれない。 皮肉なことだ、幸福になるためにはさらに傷つかなければならないなんて。 確かに私はあの二人が結ばれることを望んでいる。 でも、そのために彼らの小さな幸福が失われるのは何としても避けたかった。 たとえその先に、今以上の幸福が待っていようとも。 ――結局、今のままのほうが幸せなのかも。 そのとき、ドアベルが能天気な音を立てた。 「美っ樹ちゃあ〜ん、撩ちゃんがきましたよぉ〜♪」 常人離れした運動能力を持つこの男はそのバネを(無駄に)活かしてカウンターの内側めがけて飛びかかってくる。 もちろん、いつものようにトレーを身代わりに立てるのは忘れない。 「そ、そんなぁ〜」 「まったく毎度毎度騒がしいやつだ」 そう毎度毎度呆れるのは我が夫。 「いつまでもそんな態度だと、いつか香に愛想尽かされるぞ」 「そうよ、冴羽さんがいつまでも煮え切らないから香さん、ずっと悩んでるんだから」 「香、来てたのか」 そう言うと冴羽さんは隣の席――香さんのいつもの席――に目をやる。 「香のやつ、愛想尽かしてくれたっていいのに」 「冴羽さん!」 「じゃあ美樹ちゃん、もし海坊主が君の両親が生きているってことを伏せてたら、それでもあいつに付いていくかい?」 彼の眼は普段のおちゃらけたものじゃない、真剣そのもの――そしてどこか哀しさを秘めていた。 「もしかして槇村さんが!?」 香さんから聞いていた。確か7年前に亡くなったはずじゃ・・・。 「ああ・・・」 「そういえば槇村によく似た男がこの街に来ているそうだ」 ファルコンが静かに口をはさむ。 「よく似た、ってお前に判るのかよ」 「フンッ、確かに目は見えなくなったが目の代わりをしてくれるやつはごまんといるんでな」 ――居ても立ってもいられない、エプロンを取るのさえもどかしく、私はカウンターを飛び越そうとした。 しかしその腕を掴んだのは夫の巨木のような腕だった。 「ファルコン!」 「お前の出る幕じゃない、これはあの二人が解決すべき問題だ」 目の前では当事者の片割れが悠然とコーヒーカップに口をつけている。 願わくは、香さんが槇村さんに遭いませんように、冴羽さんの嘘に気づきませんように・・・ 私は祈るしかなかった。 もし私がファルコンに同じような仕打ちを受けていたら、今と同じように彼を愛せるか、自分でも判らなかったから。 |
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調整しなおされたローマンを渡されてから、いや、「愛する者」と言ってくれてから 撩はあたしのことをパートナーとして今まで以上に信頼してくれるようになったと思う。 銃のレッスンだって嫌な顔はするけど相手をしてくれるようになったし 情報屋との接触も何人かは任せてくれるようになった。 嬉しい誤算だったのは、それで冴羽商事の経費がわずかばかりながら削減されたこと。 情報屋のみんなはいい人ばかりで、「香ちゃん料金だから」って割引にしてくれることもあるし、 ときどきはタダってこともある。 もちろん好意には甘えていられないけど、撩に任せておくよりはずっと安上がりなはず。 こんなわずかばかりのことでも、それだけでも撩の役に立ててるような気がする。 残念ながら今日も依頼はなし。 世間は春だというのに冴羽商事の財政状況は未だ木枯らしが舞っていた。 仕方ない、依頼がないのは世の中平和な証拠。 帰りに夕飯の買い物して、ついでに情報屋のところに顔を見せていこうか。そう考えると伝言板を後にした。 夕方の歌舞伎町は稼ぎ時を前に早くも活気を見せ始めていた。 喩えるなら・・・学園祭の前日のような。ここは一年365日毎日が祭りなようなもの、 『褻(け)』の空気を忘れたクレイジーさが漂っている、そんな街。 「あ、ちょっと、香さん!」 あたしを呼び止める声がする。名前を知ってるということはナンパじゃないはず。 声をかけたのは客引きの派手な格好をした若い男、撩の使っている情報屋の一人だ。 「あらトオルくん、お久しぶり。もしかして、撩のやつまたツケためこんでるとか?」 「いえいえそんなんじゃ・・・確かにツケはたまってますけどまだまだ許容の範囲内っス。 それよりもまず・・・いや、撩さんに断り入れたほうがいいかなぁ」 「何ぶつくさ言ってんのよ」 「あ、いや・・・いきなり本題入るんスけど、香さんのお兄さん、槇村さんに似た人を見たっていうんで」 「アニキに?」 似たような話は前にもあった。兄によく似た冴子さんの見合い相手。 結局別人だったけど、世の中には似た人が3人いるっていうし。 それに会って顔を見てみない限り何とも言いようがない。 「でもトクさんが槇村さんだって言うんだから――」 「トクさんが・・・」 トクさんは兄が刑事時代から世話になってた古参の情報屋だった。 アニキと付き合いのあったその彼が言ってるんだから・・・でも、アニキは死んだはず。 7年前に、シルキィクラブで、ユニオン・テオーペの手にかかって。 そうよ、アニキは死んだんじゃない。死んだ人を見かけたって言われてはいそうですかって信じられるもんですか。 だけど・・・心は千々に乱れる。 だったらなぜトクさんが兄貴を見かけたって言ったのか。 それに・・・湧き上がる疑問。 7年前、それは奇妙な別れだった。 「見るに耐えない姿だから」と兄の死に顔すら見せてくれなかった。 埋葬もひっそりと、撩とあたし以外に見送る人は無く。 それもあたしたちに縁もゆかりもない教会の墓地に、撩の伝手があったからという理由で。 変だと思った。 突然の別れに打ちひしがれながらも、それでも何かが胸の奥で引っかかっていた。 でも、あたしはその違和感をずっと押し殺してきた。 そうしないと総てが土台から砕け散ってしまうから。 今までの日々も、アニキの不在も、そして撩との関係も――。 「香さん、もしもーし」 目の前には買い物袋を下げたトオルくんの姿。いつの間にか手から零れ落ちていたようだ。 「あのー、大丈夫っスか?」 「あ、うん、大丈夫よ。教えてくれてありがとうね」 あれから・・・どこをどう通って家に着いたのかまったく覚えてなかった。 ただ足だけが、通りなれた道を歩いてきたらしい。 こんな状態じゃ背後を取られてもまったく気づかなかっただろう。シティーハンターのパートナー失格だ。 その間、あたしは結論を出せずにいた。 とりあえず撩の話を聞かなくては、撩の顔を見なくては、答えを出せそうになかった。 玄関には薄汚れた大きなブーツ。 顔を見たかった。顔を見るのが怖かった。 その表情で、その眼で、総てが決まってしまいそうだから。 「ただいまー。撩、帰ってきてたの」 「んあぁ、お帰りー」 撩は相変わらずソファに横になって洋物の雑誌を眺めていた。 その表情はいつもと変わらなかった――なんで、いつもと変わらずにいられるの? 「どうしたんだ、香」 彼の眼は、あたしを見ている。でもあたしを観ていない。 見えてるのは姿かたちだけ。心の奥底など見抜いていなかった。 今のあたしは昨日のあたしと、いや、今朝撩と最後に会ったときのあたしと180度変わってしまったのに 間抜けなこの男は普段のあたしと同じように接してくる。 「おい、外で何かあったのか?」 ――オイ、ソトデナニカアッタノカ? 「何かされたわけじゃないだろうな!」 ――ナニカサレタワケジャナイダロウナ! 撩はあたしの肩を掴んで必死に瞳を見つめる。でも撩の声はあたしには判らなかった。 そして彼の腕を振り払うと、そのまま部屋を、アパートを飛び出した。 |
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香の心が読めなかった。 あいつの考えてることぐらいいつだって判ってた。あいつくらい判りやすいやつはいなかった。 いや、それ以上に香の一挙手一動足、香の表情、視線に込められた思いはいつも俺の胸に真っ直ぐ飛び込んできた。 だからこそ俺は香を信じられた。そして、同じように香も俺を信じてくれた。 なのに、香の眼は何も映してはいなかった。そこからあいつの思いを読み取ることはできなかった。 それはパートナーの眼じゃなかった。言葉も通じない、他人の眼。 香は俺の腕を振り払うと、荷物を置いて部屋を飛び出していった。 「香っ!」 発作的にあいつの後を追った。 何が愛想尽かしたっていい、だ。結局のところ、俺はこんなにもあいつを求めてるのに――。 どこに行ったかはまったく見当がつかない。何しろ今の俺には香の考えていることが何一つ判らないのだから。 とりあえず、街の情報屋を虱潰しに当たってみるしかなかった。 新宿駅、大通り、行きつけのスーパー、狭い路地裏――あいつの足取りを追って新宿の街を右往左往する。 いつもならどこかに香の気配を感じられるはずなのに、まるで目隠しされて放り出されたようだ。 「あぁ、香ちゃんならトオルのやつと話しこんでたわよ」 「そうか、判った」 とポケットの札を握らせた。生憎、細かいのは切らしていて大枚しかなかったが。 「撩ちゃん、こんなにいらないわよぉ」 「釣りならいらねぇよ!」 もうすっかりネオンが夜の闇に映えていた。 通りを埋めるのはこの街に一夜限りの夢を求めに来た者、そして彼らに幾許かの金を巻き上げる代わりに夢を見させる男と女――。 いた。奴は派手な客引きのハッピ姿でサラリーマンらしき二人連れを半ば強引に店に引きずり込もうとしていた。 「今夜も大漁のようだな」 男たちを店に押し込んだ背中に声をかける。 「あ、冴羽さんじゃないっスか。どうです?新しい子が入ったん――」 「香が世話になったそうだな」 トオルの顔が引きつった。 「な、何のことっスか?」 それでも笑っていられるのは接客の鑑だ。それだけでも褒めてやろう。だがな、 「一体あいつに何を吹き込んだんだ?」 「か、香さんのお兄さん・・・槇村さんによく似た人を見たって・・・」 槇村が?この街にいるというのは海坊主に、そしてそれ以前にミックから聞いていたが、それだけは香の耳に入れたくなかった。 折りを見て、ちゃんと準備ができた上で、俺の口から言ってやらねばならないとは思っていたのに――。 トオルの足が地面から浮いた。 「お前が見たのか?」 「いや・・・トクさんが見たって話を・・・」 「本人から聞いたのか」 「いや、『チェリー』のマリさんが」 おそらくマリも誰かから聞いた話を伝えたのだろう。 トオルもマリも情報屋の中でも『スピーカー』、 つまりあることないことこいつらに吹き込んでおけば新宿中に伝わると、そういう意味で重宝していたのだが 情報源としてはまだまだ三流だ。 「いいかトオル、卑しくも情報屋を名乗るんだったら裏も取ってねぇネタ軽々しく流すんじゃねぇ」 久々にマジ切れしてしまっていたのだろう。 奴は紙のように真っ白い顔で、俺が手を放すとそのまま地面に尻餅をついた。 これで香の行く先は判った。直接情報源に乗り込んでいったのだろう。 トクさんは西新宿の飲み屋街を根城にしている。おそらくあいつもそこで彼の姿を探しているのだろう。 そう見当をつけると、俺の中にもやっと香の姿が戻ってきた。 ビルの谷間、時代に取り残されたような薄汚れた横丁で情報屋を探して駆け回る香の姿がありありと浮かんだ。 でもあいつのことだ、そう簡単に見つけられずに途方にくれてることだろう。 その姿を思い浮かべるだけで、思わず笑みがこぼれる。 しかし香を見つけたのは西新宿の外資系ホテルの真ん前だった。 そこに香は呆然と立ち尽くしていた。 「どうした、香。幽霊でも見たか?」 この場合この喩えは不適切だったかな、と考え直したが、 香は震える指でホテルの中に入ろうとする男女を指差した。 その片割れは、間違いなく冴子だった。 |
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本当は槇村の死を香に伏せておく設定じゃなかったんです。 |