vol. 3 さまよう記憶
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――目を開ける。
脳が覚醒し始めるとさっきまでの夢はまるで手のひらをすり抜けていく砂のように消えていってしまう。
そして手の中に残ったのは、
「サエコ・・・」
たった一つの言葉だけ。いつの頃からか、私の脳裏に刻み込まれていた。
それがどこの国のものなのか、どんな意味を持つのか私には判らない。
判らないからこそ、私を魅了してやまないのかもしれない。
一体それが私にとって何なのか。だが、夢の中にその答えを追うのは無駄だった。
目が覚めてしまうと、夢の中のことはまったく思い出せないのだ。そういう体質なのだろう。
思い出そうとしても苛立ちが募るばかり。だから精神衛生上、無駄な努力はしないようにしていた。
「Buenos dias, senor(おはようございます、セニョール)」
ミランダがモーニングコーヒーを運んでくる。
なぜだろう、彼女のはにかんだような笑顔はどこか懐かしさすら感じられる。
それが心を癒すときもあれば、昨日のように胸を締めつけるような思いに駆られるときもある。
彼女とは、それでも7年の付き合いになるが、もっとそれ以前から知っているような――。
「どうしたんですか、セニョール。わたしの方をじっと見たりして」
「いや、目覚めて最初に会ったのが笑顔の君で良かったなと考えてたんだよ」
「一体どうしたんです?口説いたって何も出ませんよ」
そう言って笑う彼女はビルを反射する朝日よりもなお眩しかった。
だからこそ、彼女はこんなところにいるべきではない。ユニオン・テオーペなどに、私の隣に・・・ |
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「俺は愛する者のために何がなんでも生き延びる、それが俺の愛し方だ!」
――愛する者、そう撩があたしのことを呼んでくれた。
あれから冬が過ぎ、春が来た。あたしたちの関係は美樹さんと海坊主さんの結婚式から、
いや、それ以前から全く変わっていなかった。
相変わらず寝汚い撩を叩き起こし、伝言板をチェックし、乗り気じゃない相棒の尻を蹴っ飛ばし仕事に連れて行く日々。
撩のあたしに対する態度も変わったかというとそんなそぶりもない。
相変わらず街往く女性に声をかけ、肘鉄とハンマーを喰らい続ける、そんな毎日。
所詮は種族維持本能、そうなのかもしれない。
命の危機に瀕したとき、無意識の内に異性を求め合う本能――それは別に、撩以外の誰でもいいってわけじゃない。
でもきっと、撩があたしのことを女として見てくれるのは、そんなとき以外にないと思う。
かくいうあたしも、日常に流されてるのかもしれない。
もしここで自分から一歩、今までの距離から踏み出してしまったら、今まで築き上げてきたものが壊れてしまうかもしれない。
こんな日常でも不満がないわけではない。撩が隣にいる、それだけで救われている部分がたくさんあるから。
たとえ彼の眼があたしを向いてくれなくても。先の見えない未来より、見えてる明日。
そう思ってあたしもまたズルズルと不満に蓋をし続ける。
でも、そんな毎日がこれからも続くとは限らない。それはあたしも痛いほどよく判っている。
あの日もいつもと同じ雨の夜、いつもと同じ誕生日だったはずなのに――あんなことが再び起こらないとは限らない。
もし起こったら、あたしはきっとものすごく後悔する、勇気を持ってその一歩を踏み出せなかったことに。
でも、もし拒まれたら・・・?そんな堂々巡りで結局日が暮れてしまう。
そしてあたしは今日もため息を吐く。
――っはあ。
「どうしたの香さん、そんなため息ついちゃって。もしかして冴羽さんのこと?」
「あっ、いや、そんなわけじゃ――」
「香さん、大丈夫?」
慌ててコーヒーをひっくり返してしまう。
あたしは嘘が苦手だ。よくそんなのでスイーパーのアシスタントができるなと思う。
自分に嘘をつくのは、嫌になるほど上手いのに。
「――そのとおりよ、撩のこと。あいつったら相変わらず『男の依頼は受けない』って言い張っちゃってナンパばっかし。
このままじゃ冴羽商事、ほんとに倒産の危機だわ」
「つまり香さんは冴羽さんに異性として見てもらいたいってわけね」
「そ、そんなこと一言も――」
そのとき、目の前にコーヒーカップが差し出された。
「さっきの残りだ」
マスター夫妻のコンビネーションに、反論を封じられてしまった。
「・・・でもね、あたしこのままでもいいかもしれないって思ってる」
「香さん・・・」
「だってあたし、今のままで結構幸せだもの。そりゃ、贅沢言えば限がないわ。
でもあたしは撩が傍にいてくれるだけで充分なの。撩が生きてさえいれば――」
その間にも、海坊主さんは目の前の倒したカップを片づける。
そして、じっとあたしたちの会話に聞き耳を立てているに違いない。
「ほら、『上見て暮らすな下見て暮らせ』って言うでしょ?
これでもパートナーとして前より信頼してくれてるみたいだし、射撃だってちゃんと教えてくれるようになったし、
前と比べればずいぶん認めてくれるようになったもの」
パートナーとして認めてくれるのと、恋人としては別。そんなこと、あたしだって判ってる。
でも論理をすり替えてでも自分を納得させなきゃならなかった。
「あっ、そろそろ伝言板見てこなきゃ!早くしないと消されちゃう」
コインをカウンターに置くと、逃げるように店を後にした。 |

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「Hola, Fernando(やあ、フェルナンド)」
とにこやかに手を挙げるゴンザレスの姿は、どこからどう見ても善良なコロンビア人だろう。
エグゼクティヴ・スイートの仮執務室に彼がやってきたのはまだ午前中のことだった。
「やあ、セニョール・ゴンザレス。ずいぶんと早いお出ましで」
「いやいや、ちょっと小耳に入れておきたいことがありましてね。『公爵(デューク)』様のことで」
「デュークが?」
「ええ、何でも彼も配下を日本に送り込んでいるらしい」
「デュークも独自に日本進出を企てていると?」
「そういうことになるでしょうな」
確かに日本への進出は、流通と供給を束ねるデュークのビジネスだろう。
しかし日本に拠点を置き、組織での東洋におけるマネーロンダリングを一手に引き受けるゴンザレスはウィザードの配下であり
この件に関して彼は『シンセミーリャ』の先鋒を任されたはずだった。
「セニョール・ゴンザレス、あなたは『魔術師(ウィザード)』様から直々にこの任務を仰せつかったはず」
「そのとおりです、セニョール・ミナミ」
「ではデュークの動きは彼の独断専行、ということになりますね。もちろんウィザード様には何の断りもなく」
「まったく、そのとおり」
「つまり、デュークはウィザード様に対して反旗を翻した、と」
反旗を翻す、という言い方はおかしいかもしれない。ウィザードとデュークはあくまで対等な関係なのだから。
だがウィザードの右腕として、彼の動きは看過できるものではなかった。
「セニョール・ゴンザレス、情報収集と監視を強めていただきたい。警察や敵対組織だけでなく、デューク側の動きに対しても」
「もちろんですとも。それでは私も“仕事”がありますので。もうすぐ大切なパーティも控えておりますし」
彼の表の顔は中南米産の宝石を扱う宝石商だ。そう言って彼は席を辞した。
「そうそう、セニョール・ミナミ。今晩の予定はお有りですかな?」
「いえ・・・」
とミランダが急いで手帳をめくる。
「何か、内密な話でも・・・?」
「いや、このシンジュクは日本のビジネスの中枢であると同時に
世界最大級の歓楽街ですのでね。ぜひとも歓迎の宴をば」
何だ、そういうことか。デュークの動向に気をとられていた私はすっかり拍子抜けしてしまった。
「いや、遠慮しておこう。日本に来たばかりでまだ体調も優れない。
コロンビアとはずいぶん気候も違うのでね」
ゴンザレスはラテン系らしく大げさにがっかりしてみせた。
「セニョール・ミナミ、やっぱりあなたは骨の髄までハポネス(日本人)だ」
彼もまた「女性を見たら口説くのが礼儀」な典型的なラテン気質の持ち主らしい。
「そうなのかな、生まれも育ちもコロンビアなんだがな」
「ヤマトナデシコの美しさを教えられないのが残念ですな、セニョール。
もっとも、日系人のあなたには『キリストに説教』ですが」
と日本のことわざなのか、よく判らない喩えを飛ばす。
「セニョール・ゴンザレス、あなたは日本のことをよくご存知のようだ。日本女性の美しさも」
「いかにも」
「では一つお聞きしたいのだが、『サエコ』という言葉をご存知でしょうか?」
サエコ、サエコねぇとつぶやいていたが、
「ああ、女性の名前ですよ。セニョールもなかなか隅に置けませんなぁ。『サエ』というのは“sharpness”の意味で――」
というゴンザレスの説明など私の耳に入らなかった。
――女性の、名前?
それがなぜ、私にとってさも忘れてはならないもののように付きまとうのか、それが判らなかった。 |

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『自主的パトロール』途中の書店の店先で目に付いたのは少女小説コーナーの平積みされた新刊だった。
『警視庁の女豹サヨコ・最新刊!!』
ついつい手にとってめくってしまう。あくまで当事者の事後検閲、と自分に言い聞かせて。
唯香もネタにさせてもらってるのだから一冊進呈するくらいのことはして当たり前のはずだが
読まれると雷が落ちるのが判ってるからか、結局こうして自腹を切って買わなければならない。
その売上が印税としてあの子の懐に入っているかと思うと・・・
「後でいくらか請求したっていいわよね」
“Don’t Disturb”とドアに掛け誰にも邪魔をされないようにした署長室で『事後検閲』に勤しんでいると
見落とせない箇所に行き当たった。
「一体どういうことなの!?」
麗香の事務所に唯香を呼び出したのはその日の午後だった。
「何よこれ、槇村が生きてるって!」
「槇村じゃないわよ、『槇原』よ」
どっちにしたって、モデルは彼に違いない。
「だから、なんで彼が生きてるって設定にしたのかって訊いてるのよ!彼はとっくの昔に死んでるはずでしょ?」
サヨコのかつての恋人、槇原は直接登場することはなくてもストーリーの中で重要な位置を占める人物だ。
男勝りで女の色香すら利用することを厭わないサヨコがふと垣間見せる弱さ、それが亡くなった彼を思い続ける一途な女心だ。
おそらく槇村のことは麗香から聞いたのだろう。
恋愛要素が必須条件の少女小説にとっては仕方がないと、恋人を利用されるのを苦々しく思いながら黙認はしてきた。
しかし、
「だって・・・これはあたしのアイデアじゃないの。だから文句だったら編集者の人に言ってよ」
神妙そうにソファに座って、上目遣いでこちらを伺う。
下に双子の妹がいるにもかかわらず、まだ末っ子根性が抜けてないようだ。
「編集さんが言うには、そろそろサヨコシリーズも梃入れしなきゃならないって。ラストに向けて。
ほら、ほかの出版社で書いてる新シリーズが好評だからあっちとしても新作が欲しいのよ。だからぁ・・・」
「にしても無茶苦茶な設定じゃない、死んでたはずの人間が生きてるなんて。昔々のメロドラマじゃあるまいし。
考えたのは編集者でも最終的に決める権利があったのはあなたでしょ?」
そうだ、まるでメロドラマじゃないか。今の自分の置かれている状況は。
だからこそ余計苛つくのだ。まるで、自分自身の混乱した内心をのぞき見られているようで。
「だって・・・」
「だってもヘチマもないわよ!」
「せめて小説の中でくらいお姉ちゃんに幸せになってほしかったんだもん。お見合い、受けるんでしょ?」
「まさか、麗香!あなた唯香に――」
「ううん、パパが嬉しそうに言いふらしてたの。
でも冴子姉ぇが今まで見合いの話を断ってたのは槇村さんのことがあるからって聞いてたから――」
まさか、唯香にまで同情されてたなんて・・・。
泣きそうになりながら釈明する妹の肩をそっと抱いた。
「別に今まで見合いを断り続けたのは彼のせいじゃないわ、ただわたしより弱い男と結婚する気がなかっただけ。
それに今回の話だって、別に嫌々ってわけじゃないの」
「うん・・・」
「それに、これはわたしだけじゃなくて香さんも見るのよ。彼女がこれ読んでどう思うか、考えたかしら」
「うん・・・ごめんなさい。でももう出ちゃった話だからこのまま書くしかないけど」
「ええ、楽しみにしてるわ。あなたがどんな風にサヨコを幸せにしてくれるか」
唯香の目から涙が零れ落ちた。
彼女はべそをかきながら、「次回作の打ち合わせがあるから」と麗香の事務所を出て行った。
「姉さん」
それまでずっと事の推移を見守っていた麗香が初めて口を開いた。
「あたしも唯香の小説読んで、槇村さんのことについてちょっと調べてたんだけど――」
そう言って応接テーブルの上に資料を広げた。
「香さんは『亡くなった』って言ってたけど死亡届が出されてないのよ。
つまり書類上はまだ生きてるってことでしょ。そうよね?」
彼女はこれでも元刑事で、今や腕の立つ探偵だ。これくらいのことを調べるのなど朝飯前だ、
半日あればこれくらいは揃えられる。
「7年前何があったの?彼はまだ生きてるの?生きてるんだったらどうして香さんに――」
「麗香?」
「・・・何よ」
「そのこと、香さんに絶対言っちゃだめよ」
「・・・判ったわ」
気押されたようにうなずいた。知らないうちに有無を言わさぬ雰囲気を放っていたらしい。
私も麗香の事務所を後にすると、踊り場で唯香の本を開いた。
――サヨコが幸せになってくれるのだから、わたしは彼を忘れられる。
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ラノベの定石にもれず、『警視庁の女豹』もいつの間にかシリーズ化されてます。
ちなみに“槇原”の仇は『赤いペガサス』【笑】
冴子姐さん、結構いいお姉さんしてます。
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