vol. 2 エイプリルフールの真実 |
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1992.4.1 最上階から見下ろすこの街はおそらく槇村の知る新宿とかけ離れてしまったことだろう。 『新宿副都心』と呼ばれた一帯は今や『新都心』と呼ばれ、その象徴として現在日本一の高さを誇る新都庁がそびえる。 それはまだ彼がこの街にいたときには形もなかったのに――。 「野上署長、お客様ですが」 「いいわ、お通しして」 長かった特捜課勤務を経て、今日私は東新宿署の署長を拝命した。 まだ30を過ぎたばかり、しかしキャリアとしては遅いくらいだ。同期の人間はすでに参事官くらいは行っている。 私が今まで我儘言って現場にこだわってこられたのも、「警視総監の娘」という肩書きあってこそだ。 しかしその神通力ももはやこれまで、といったところか。 署長室に通されたのはもはや白いスーツがトレードマークとなった、金髪の元スイーパーだった。 「あらミックじゃない、何の用?」 「つれないなぁミズ・サエコ、秘書から『ウィークリー・ニューズ誌の取材』って聞いてなかったかい?」 「聞いていたけど・・・まさかあなただなんて」 「どうせなら顔見知りの記者の方が折り入った話が聞けるっていう上の判断でね。 それにこの記事はもしかしたら本国のWeekly News、いや、それだけじゃない、世界中に掲載されることになるかもしれない。 だって、トーキョー一、いや、日本一の歓楽街を抱える最前線署を率いる若き女性エリートなんて それだけでニュースバリュー充分だと思わないかい?」 そう言って微笑むミックの眼はジャーナリストのものというよりむしろ獲物を見つけて北叟笑むハンターのもの、 そして美女を見つけたレディーキラーのそれだった。銃をペンに持ち替えても、相変わらずギラギラしているようだ。 「それに、個人的にキミに言伝てしたいことがあってね」 と耳元でささやいた。そして資料をデスクの上にばら撒く。 「これは・・・?」 「仕事じゃなく、個人的に今まで調べたデータでね」 そこに記されていたのはユニオン崩壊後の幹部たちの去就であった。 「よく短期間の間に、これだけ・・・」 「『ジャノミチハヘビ』って言うだろ?昔の知り合いにいろいろあたってみて、ね。 ユニオンが壊滅したとはいえ死んだのは長老(メイヨール)・カイバラたった一人だ。 その他の幹部は健在だが、カイバラの死後早々と空中分解してしまったらしい。 逆に言えばバラバラだった幹部たちを一つにまとめていたのがカイバラのカリスマだったわけだ。 その後、短い間に奴らは跡目争いを繰り広げ、弱小組織はより大きいものへ飲み込まれていった。 現在ユニオンの残党組織はいくつかあるが、その中で最大なのは『シンセミーリャ』、 ここはヨーロッパと南米という一大消費地と供給源の両方を抑えている。 そしてそのトップに君臨するのが『公爵(デューク)』と『魔術師(ウィザード)』、 この二人がそれぞれヨーロッパと南米を支配するという両頭体制をひいている。 ウィザードはユニオンではPCPをはじめとする麻薬の開発研究に当たっていたらしい」 ミックの説明に合わせて資料をめくる。次のページに私の目は釘付けになった。 「彼はウィザードの右腕といわれる男、フェルナンド・ミナミだ。コロンビア生まれの日系3世らしい」 「――フェルナンド、って、彼は槇村よ!」 そう、見間違えるはずがない。 たとえあのボサボサだった髪が多少すっきりとしていても、眼鏡のフレームが変わっていても、 私のかつてのパートナー、そして愛した男を見間違えるはずがなかった。 「そう、マキムラは生きている。何の事情があったか知らないが、ユニオンの残党の一人として」 「そんな筈がないわ!彼が麻薬組織に身を置くわけないもの」 「でも冷静に考えてご覧、ミズ・サエコ。彼が消息を絶ったのはユニオンの手の中でだ。 その後彼が奴らに捕らわれたとしてもおかしくはないだろう?」 「嘘よ・・・どうか嘘だと言って!!」 手の中から資料がこぼれ落ちた。 「エイプリルフールだというのならまた明日出直そう。そしてまた同じことを言うだろう、マキムラは生きてるとね。 それに、今のキミにはインタビューは無理そうだから――」 そう言うと資料を残してミックは去っていった。 彼の後ろ姿を見送ると、私は力なくソファに座り込んだ。 頭が再び回転しだすのに、しばしの時間を要した。 明日の午後は確か空いているはずだ。しかしその後にもう一つの予定が入っていた。 |
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一日のクールダウンを置いたのが良かったのか、翌日のミックのインタビューには冷静に答えることができた。そして、 「ごめんなさい、ちょっと遅くなるわ・・・ええ、取材が押しちゃって」 電話の先は、13人目の見合い相手。しかし今回ばかりは都合が違った。 普段なら父が「これは」と見込みのある警察官や他省庁の官僚やらを押しつけてくる。 どうせ父が選んだ相手だから、こっちも断るのは楽だった。 しかし、父の見合い攻勢の噂を聞きつけた警察族の大物が持ちかけた話が彼だった。 朝倉貴之、昨年までリヨンのICPOに出向していた警察キャリア。警察族のドンと呼ばれる大物議員の甥に当たる。 「ほんの腰掛けのつもりだったんですが、意外と居心地が良かったので 我儘を言ってずるずると出向を延ばしてもらっているうちに、いつの間にか同期には置いてかれましたよ」 父の総監としての任期もあとわずか、『第二の人生』を考える上で、ここでこの大物の心象を悪くすることがあってはならない。 「父は父、私は私」と言い切ることもできるかもしれないが、 学閥と縁故が物を言う官僚社会において父の失態はそのまま私の失態となる。今まで七光りで通してきたツケだ。 そして、経歴になんて多少傷がついてもいいと思ってきたが、これまで無傷で通してきたとなれば今さら傷がつくのも怖い。 何だかんだ言って、自分もしょせん官僚に過ぎないのだ。小心者で事なかれ主義の。 だから断りの連絡を入れることもなく、今日もまたずるずると彼に会いに行く。 でも、それだけだろうか?立場上、断るに断れないだからだろうか? 「やぁ、野上君」 待ち合わせ場所のホテルのロビーで彼が手を挙げた。 「ここは職場じゃないんだから、名前で呼んでくださらない?」 「じゃあ・・・冴子さん?」 ――進んで彼に媚を売る自分がいる。どこか自分と同じ匂いを感じるのだ。 私より少し年上、結婚歴があるが滞欧中に先妻を失っている。 見合いから一度目の席でそれを口にした彼に、「この人ならわたしの胸の痛みを判ってくれる」と確信した。 (そういえば彼、槇村と同い年なのよね) そうふと思うと、次の瞬間それを振り払おうとした。 どうせ断りきれない相手なのだから、それに決して嫌な相手ではない。 ならば彼を選ぶのも現実的な選択とはいえないだろうか?妥協と言ってもいい。自分を貫けるほどもう若くはないはずだ。 しかし――槇村はまだ生きていると言い切った、その自分が心の中から彼を葬り去ろうとしているのではないか? いっそはっきり、彼の死が告げられたのなら私は次のステップへと歩いていける、槇村を卒業できるのに。 生死が曖昧なまま、私の心も宙ぶらりん。時間が、7年前で止まっているのかもしれない。 「どうしました、冴子さん?」 「あ、いえ・・・別に・・・」 「今日こそ腕を組んでくださると思ってたのですが、やはり無理のようですね」 |
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――チェックインを済ませ、ボーイの案内で客室に向かう。 そのとき、男と連れ立って歩く一人の女性に眼が留まった。 さらさらと音を立てて流れるような黒髪は肩より少し上で切り揃えられ、それがまた刃物のような鋭利さを醸し出す。 美しい脚線美の裏に凶器を隠してあるのも見逃さなかった。 ‘Ella esta(彼女は)...?’ |
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西新宿の、都庁に程近い高級ホテルは外資系ということもあって海外からの宿泊客も多い。 最上階にあるバーは、舌の肥えた外国人客に鍛えられたバーテンダーの腕は一級品だと彼が言った。 「ねぇ、朝倉さんは奥様に悪いと思ってないの?こうやってわたしと一緒にいて」 このバーのもう一つの売りは何といっても新宿の夜景だ。 その宝石箱のような光景を目の前に、私と朝倉はグラスを傾けていた。 彼の手には『マンハッタン』、私の手には『ブロードウェイ・サースト』。 暗赤色とオレンジのグラスが夜景の灯の中に溶け合う。 「そうだね・・・心の中ではいつもどこか罪悪感を覚えているかもしれない。 でももう3年も経つ、周囲からも新たな人生を探すようにとせっつかれているし―― でもそれと、君の事情はまた別かもしれない。君の場合は生死すらはっきりしないのだから」 「あら、ご存知だったの」 「職業柄、ね。聞いたよ、かつての同僚だったそうじゃないか、それも名コンビと謳われた。でも何で彼は警察を――」 彼の口の前にそっと人差し指を立てた。 「あなたがわたしのことを知っているなら、朝倉さんも教えてほしいの、奥様のこと」 「そうだね・・・もういい頃合いだろう。 妻は、殺されたんだ」 その瞬間、体の芯の部分が凍りつくのを感じた。 「僕はICPOで国際的麻薬組織の捜査に当たっていてね、おそらく彼らの恨みを買ったんだろう。 しかもこの僕じゃなく彼女を狙うなんて・・・今でも覚えている、変わり果てた彼女を胸に掻き抱いた感覚を」 そう言って彼はグラスの中の揺れる水面を見つめる。 彼の目にはグラスの赤があの日の血の色に見えていることだろう。 「許せない、彼らを?」 「ああ、決して。一人残らず地獄に叩き込んでやりたいと思ってる」 その眼は今まで見たことのない、彼の剥き出しの怒りが現れていた。それは私も同じだった。 私から槇村を奪ったユニオン・テオーペに報復を――警察官らしい正義感に包みながらも心の奥底では復讐心がくすぶっていた。 それはユニオンそのものが崩壊した今でも消えない。海原独り消えただけで、まだ幹部たちはのうのうと生きている。 それを許すことができなかった。たとえ警察官として度を超した怒りであっても。 しかし目の前にいるこの男も、キャリアという仮面の下に復讐心を秘めている。奇しくも同じ敵に、愛する者を奪われた。 今宵私たちは、以前にも増して深く判りあえたような気がした。 |
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「お待ちしていましたよ、セニョール・ミナミ」 案内された部屋には客人が待っていた。 「すいませんね、飛行機のトラブルで出発が遅れてしまい、こんなに遅くなってしまいました。 ミランダ、ルームサービスを。セニョール、お待たせしたお詫びに一杯おごりますよ」 「いやいや、コーヒーで結構。できればわが故国の豆で、ね」 彼の名はパブロ・ゴンザレス、コロンビア人の宝石商、というのは表の顔で実は『シンセミーリャ』の日本におけるトップだ。 しかしこの小柄で小太りな初老の男が麻薬組織の幹部だと誰も思いはしないだろう。 犯罪組織とはいえ、悪人ばかりでは組織はまとまらない。 職務に忠実な“能吏“タイプがいなければ組織としての形はなさない。 彼も、そして私自身もそういったテクノクラートを自認している。 「しかしわざわざセニョール・ミナミがおいでになるとは、 ウィザード様も相当この日本という市場に本腰を入れているわけですな」 「ええ、それにここはメイヨールの最期の地、その遺志を継ごうという者ならみな血眼になってここを目指すはずです」 「つまり日本を制した者こそメイヨールの後継者とみなされる、ということですか」 「しかもユニオンの日本進出は一度ならず二度までも失敗している、しかもあの『シティーハンター』たった一人のためだけに!」 思わずサイドテーブルに拳を叩きつけた。ルームサービスのコーヒーの飛沫が上がる。 「セニョール!」 秘書のミランダが急いでナプキンを手に駆け寄った。 「いや、大丈夫だ」 「でも染みになりますよ!」 赤みを帯びた癖のある髪、大きな瞳は齢よりも幼く見せる。 「構わないから下がっていなさい」 「でも・・・判りました、セニョール」 眉根を寄せて哀しげにうつむく、その表情を見た瞬間、発作に襲われた。 激しい動悸と息苦しさ、朦朧とする意識の中胸ポケットを探った。 錠剤のシートから一気に5,6個取り出すとコーヒーで流し込んだ。 「セニョール・ミナミ、大丈夫ですかな?」 「ええ、持病で慣れてますから」 「でも・・・セニョール・ゴンザレス、セニョール・ミナミは空港についてからずっとお気分が悪そうでした」 「長距離フライトで疲れたんだろう、ミランダ。日本は初めてだったからね」 心配そうな顔をしたミランダがなおも食い下がる。しかし、彼女のその表情がよけい私の胸を締め付けた。 「ミランダ・・・もういい、下がってなさい」 「・・・はい、セニョール」 「セニョール・ミナミ、もう今夜はお休みになられた方がいいのでは?」 そう言ってゴンザレスは立ち上がった。 「では後は明日打ち合わせることにしましょう」 そして彼は部屋を後にする。残されたのは私と彼女のみ。 「ミランダ、君も部屋へ帰りなさい。明日も朝は早い」 「判りました。Buenas noches, senor(おやすみなさい、セニョール)」 ――確かに日本へ来てから体調が思わしくない。 以前から鎮静剤が欠かせないが、息苦しさを覚える回数が前よりまして多くなったような気がする。 しかし、父祖の地とはいえここに来たのは初めてだ。 日本にいったい何があるのか、私にはまだ判らなかった。 窓の外には新宿の高層ビル群の夜景。闇の中きらびやかに光るが、昼間見たそれはまるで墓標のようだった。 |
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>朝倉貴之 |