vol. 13 裏切り者には死を

気付いたら独房のような部屋に転がされていた。
確か首に何かちくりとした痛みが走ったようだが――触れてみても傷らしいのは感じられない。
さて、ここはどこなんだ。そもそもなんで俺はこんなところに入れられているのか?
思い出そうにも、意識を失う前のことはもやがかかったように霞んでしまう。
意識が冴えていくに従って他の感覚も鋭さを取り戻していく。と、そのとき鼻をついたのはひどい悪臭。

目の前を二人の男が通り過ぎていった。一人はマントを羽織り、義手をつけているのか片腕を隠していた。
もう一人は痩せぎすの初老の男。

「彼らがロータスの被験者か?」
「いかにも、ジェネラル。もっとも成功例はほんの一握り、
ほとんどが記憶とともに自分が人間であったことも忘れてしまっております」
「自らの糞尿にまみれて・・・まるで豚だな、汚らわしい」


辛うじてコンチノ、という単語だけは聞き取れた。スペイン語だろうか。
とにかく、この排泄物の臭いを悪臭だと感じている自分はまだまともなのだと気がついた。

次にこの痩せぎすの男と会ったとき、彼の傍には一人の少女がいた。
赤みを帯びたくせのある髪に大きな瞳。
その表情に別の面影が重なるが、それが誰なのか、思い出そうとすると頭の奥がちりちりと痛んだ。

「教えてくれないか、君はここの人間かい、ここで俺はどうすればいいんだ、
そして――まずこっちを訊かなきゃならなかったな、君は・・・」

しかし彼女の瞳は困惑を映していた。言葉が通じていないのか、傍らに立つ男に何か尋ねていた。彼も何かを耳打つ。
そして、俺に向けられたのは一粒の錠剤だった。飲み込むと痛みも不快感もすっと消えた。

彼女は男に必死に何かを頼んでいるようだった。しかし男は表情を崩さない。
そして俺に向き直って言った。

「お前は我々を敵に回した。今はしがないドブネズミでも、いつか我々の障害となる」
「だから記憶を奪い、ここに閉じ込めた、と?」

鉄格子の隙間から腕を伸ばし、奴の襟首を握り締めた。しかし、その腕から力が抜けていった。

「貴様、何を・・・」
「何もしておらん、ただのシルフの副作用だよ。初めての人間にはきつすぎたようだな」

そのまま脚の力もなくなり、自分の体を支えるのもままならなくなった。
と同時に、敵もドブネズミも障害も、どうでもよくなっていった。これもシルフという薬の効き目なのだろうか。
コンクリートの床に崩れ落ちるその直前、彼女が心配そうな眼をこちらに向けていた。
その目が誰に似ているかということも――。

その後、あの義手の男――ジェネラルの死が告げられ、俺たちは慌しく日本を去った。
その途中でユニオン・テオーペ、エンジェルダスト、そしてサエバリョウという名前を聞いたが、何も思い出すことはなかった。

船に乗せられ連れてこられたのは南米だった。
コカ畑を抜けてジャングルの奥地、その中で突然目の前に開けたのがユニオンの研究所だった。

「ようこそ、私の城へ。君にはここで働いてもらうよ」

俺はこの男――ウィザードの下で働くことになった。
といっても専門知識など何もない自分にできることはこまごまとした雑用ばかり、
まるで丸太を右から左へと運ぶような単純な仕事ばかりだった。
そして、あの少女とはあれ以来一度も顔を合わせたことはなかった。

だが、ようやく言葉にも不自由しなくなったころ――
自分のことについては何も覚えていないのだ、余白が多ければそれだけ早く覚えられる――
彼女が俺の前に現れた。深夜のラボでたった一人、データ入力に追われているときだった。

「こんな遅くまで・・・少しは休憩したらどうですか?」
「心遣いはありがたいけど、このデータをすべて明日の朝までに入力しないと実験に差し障る」
「だったらわたしがやりましょうか?どうせ簡単な仕事なんでしょう」
「そんな、まだ君は――」
「あら、もう17よ。わたしの国ならもう立派な働き手だわ。それにセニョール、見るからに疲れてる」
「いや、そんなことはないよ。むしろ君に会えて疲れも吹き飛んだくらいだ」

そう、それは本音だった。ここで慣れない日々に追われているときも、絶えず彼女のことが頭に浮かんでいた。
だがそれは恋心というよりむしろ――。

「君の顔を見ていると、どこかほっとするんだ。懐かしいというか・・・その懐かしさが胸を刺すときもあるけど」
「ちゃんとお薬飲んでる?」
「シルフかい?ああ、飲んでるよ。大分慣れてきたようだ、飲んでもふらつかなくなったし。
ところで、cual es tu nombre(君の名前は)?」
「Me llamo Miranda(わたしはミランダ)」

そう言ってミランダは微笑んだ。
そして気がついた、自分には彼女に教えられる名前がないことを。

最初はウィザードの目を盗んで、俺だけがオフィスで仕事をしているところを会いに来ていたりしていたのだが
次第にミランダとは頻繁に顔を合わすようになった。そのころには自分も研究所のことを一通り判るようになっていた。
今ウィザードたちが研究しているのは新型のエンジェルダスト、今までよりも洗脳作用をより高めたものらしい。
エンジェルダスト、フェンシクリジン――20発の銃弾を打ち込まれても倒れることのない、死をも忘れる狂人を生み出す悪魔の薬。
しかしそれによって作り出されるのは飼い主と敵の区別のつかない猛獣だ。それでは商品にならない。
だからこそ『従順な猛獣』を作り出す新型の開発が急がれているのだ。
顧客は各国の軍や反政府勢力、中には敵対する勢力の双方に薬を卸すこともある。
まさに死の商人。そんな非人間的な日々にも少しずつ麻痺していった。
それは日々与えられるシルフの作用なのか、それとも人間の惰性というものなのだろうか。

ある日、『モルモット』として一人の大男が研究所に運ばれてきた。
CIA指揮下の部隊に所属する兵士だったらしい。歴戦の兵らしく、その片目は傷つき眼帯で覆われていた。
エンジェルダストの力で彼を屈服させ、ユニオンの手駒にする。それが実験の目標だった。
しかし、未完成の新型エンジェルダストは被験者を選んだ。自分に投与されたロータスのように。
そしてこの片目には新型の効果は薄かった。生み出されたのは凶暴な手負いの野獣だった。
鉄格子を捻じ曲げ、研究所内を破壊して回る悪魔にもちろん銃弾は通じない。
もともと非戦闘員だらけの研究所はパニックに襲われた。逃げ惑う研究員たち、
その人波に小さな赤毛が揺れていた。

「ミランダ!」

その波に飲み込まれ、足を取られ崩れ落ちる。
この狡猾な野獣は最も弱いものを嗅覚ともいうべきもので感じ取っていた。
人波が引いていった後も床にうずくまるミランダを標的に据えた。
今自分の手元にある武器は――ポケットの中のペンだけ。これでも使いようによっては立派な凶器となりえる。
渾身の力でその先を露わになっている片目に投げつけた。
眼球にペン先が突き刺さる。
突然視界を奪われた猛獣はのた打ち回り、倒れた。
その後、動けなくなったところをショットガンで頭をザクロにされて、片目は息絶えた。

ミランダを守るためとはいえ、貴重なモルモットを一つ駄目にしてしまった。当然お咎めは下るはずだ。
しかし、一体誰がやったと報告するのだ。まさか名無しの権兵衛というわけにはいくまい。
そんな折、長老(メイヨール)――ユニオン・テオーペの最高権力者がこの研究所を訪れるとの知らせが入った。
おそらくその場で俺のやったことに対する裁きが下るだろう。

初めてメイヨールの前に立ったとき、再び懐かしさのようなものを感じた。
この男の発する人を惹きつけずにはいられないオーラが、かつてどこかで会った誰かとよく似ているように思えたのだ。

「Hola, senor Fernando Minami(やあ、フェルナンド・ミナミ君)」

そう名を呼ばれた。自分の名はフェルナンド・ミナミかもしれないしそうじゃないかもしれない。
しかし、目の前のこの男にそう呼ばれて、不思議とそれが自分の名だと感じたのだ。

「Tu llamas Fernando Minami, verdad(君はフェルナンド・ミナミだ、そうだろう)?」

そうだ、俺はこのとき初めてフェルナンド・ミナミとなったのだ。
生まれてこの方ずっとそうだったわけじゃない。その前は――

 

 

おぼろげな視界の中、赤銅色の髪が揺れる。ああ、眼鏡をどこかに置き忘れてしまったようだ。
呼びかけようとして、この口から発せられたのは違う名前だった。

「かおり?」
「アニキ!?」

彼女はがばっと立ち上がると俺の顔を覗き込んだ。その目には涙が浮かんでいた。

「アニキ、なんだね・・・」

その眼に惹きつけられ、じわじわとそれ以前のことを思い出していった。
俺は槇村秀幸、彼女の――香のたった一人の兄、シティーハンター・冴羽撩の相棒で
あの日シルキィクラブに呼び出され・・・。
あれからもう7年が経っていたのか。
ミランダに抱いた感情も今なら説明できる。あれは彼女を香と重ね合わせていただけ、
兄が妹に寄せる慈愛に過ぎなかっのだ。彼女には悪いことをしたかもしれない。

それにしても顔を見ない間に香はずいぶんと大人びていた。
もう27なのだから当たり前なのだろうが、いつも俺の後を追いかけて回っていたあの香が
いつの間にかしっかりと成長していた。今までどうしていたのだろうか、もしかしたら撩と――。

「あっ、撩に知らせてこなきゃ」

そう言って香は涙を拭いながら病室を飛び出していった。
まるでこの7年間、夢を見ていたような気がする。それは、もしかしたら悪夢かもしれなかった。

 

 

「あの2日間も眠っておる患者について、いい知らせと悪い知らせがある。どちらから聞きたいかの、撩」

教授はいつものように好々爺の仮面の下に悪戯小僧の笑みを浮かべていた。

「とりあえずいい知らせからお聞きしましょうか」
「彼は槇村くんじゃ、間違いない。彼の指紋とサンプルが一致した」
「では悪いニュースというのは」
「彼のジャケットの中からこんなのが見つかったんじゃ」
と言って手渡されたのは錠剤のシート。

「チルフルジアゼパム・・・世間ではシルフと呼ばれとる。ベンゾジアゼピン系抗不安薬の一種じゃ。
血中濃度を見てみたらすでに依存症の域に達しておった」
「それじゃあ槇村は・・・」
「おそらく槇村秀幸としての記憶を封じるために服用しておったのじゃろう。
治療とリハビリは大変じゃろうが、エンジェルダストの比ではあるまい」

そのとき香が息せき切って飛び込んできた。

「撩っ、アニキの意識が戻ったわ!」

 

 

今日は親父殿に呼び出された。用件は相も変わらずプライベートなこと、
やれ朝倉君とのことはどうなった、返事はまだか。
でもこれで父の心配もなくなるだろう。今夜、彼に正式に返事をするのだから。

噂をすれば彼だった。

「やあ野上さん」
「あら、お久しぶり・・・ってわけでもないけど」
「いや、こっちにしてみればお久しぶりさ。先日、西麻布のレストランで発砲事件が起きただろう?」
「ええ、死傷者がかなり出たって」

あの一件以来、管轄外の事件にはできるだけ首を突っ込まないようにしていた。
見ざる聞かざる言わざる、それが警察官としての処世術だと知った。

「それがどうやらシンセミーリャ絡みらしい。
おそらくは取引きのもつれだろうが、こっちとしても全力で犯人を追っていて、ほぼ本庁に泊り込みだ。
その犯人というのが店の人間に目撃されているんだが、眼鏡をかけた猫背気味の男だそうだ」

眼鏡の猫背気味の男・・・そう言われて浮かぶのはたった一人だった。
でも、何で彼が――いや、それはもう私には関係ないことだ。彼が人を殺そうと警察に追われようと。

しかし朝倉の様子が変だ。右脚に松葉杖をついていた。

「ところでその脚、一体どうしたの?」
「実はこの間、友人たちと食事に行ったあと、自宅の階段で挫いてしまってね。
本当はこんな大袈裟にしたくはなかったんだが」
「そう、お大事に・・・これじゃあ今夜は無理そうね」
「とんでもない!万難を排してでも行くよ」
「じゃあ、いつもの店で」

そのとき、彼の口元がかすかに歪んだのに私は気づかなかった。

 

 

「冴子はまだ捕まらないのか?」

苛ついているのは我が隣人、そして私の(片想いだけど)最愛の男。

「署には電話かけたんだけど、総監から呼び出されて本庁に行ってるらしいわ。とりあえず伝言は残しておいたけど」

一応、裏稼業の撩が直接署長室に電話するのも憚られるので妹の私が連絡を入れたんだけれど
それでもこの肝心なときに姉には繋がらなかった。

「ところで槇村先輩は?」
「今は疲れて眠ってるわ。さっきまで香さんと話し込んでいたみたいだけど」
と教授自慢の美人助手が言った。

「そりゃ7年間の積もる話があるんだもんなぁ」
「撩は会ったの?」
「いや、まだ顔見てねぇや」

だって俺の悪口言ってるところに出くわしたら居場所ないだろ、と彼は言うけど、
内心では一刻も早く直接会って、それこそ積もる話をしてみたいのだろう。
いや、男と男の場合は話すことなどなくとも通じ合えるのかもしれない。

私と槇村先輩は直接の面識はない。私が刑事になったのは彼が警察を辞めた後だったから。
ただ、姉から何度も彼のことは聞いていた。
女としてはともかく刑事としては尊敬する姉の、尊敬する先輩だ。だから勝手に友村刑事と並んで私淑していた。
そして、もしもできることなら直接会って話を聞いてみたいと思っていた。
もちろん、そんなことは叶わないと思っていた・・・数週間前まで。

そのとき、玄関の戸が開く音がした。

「アネキかも」

しかし入ってきたのは、
「Hello, everyone. Hi, カズエ。今日も綺麗だね」

斜向かいの金髪ジャーナリストが挨拶もそこそこに、息を切らせて資料を応接テーブルにぶちまけた。

「これは・・・」
「ちょっと時間がかかったけど、それだけの価値のあるcream of the cream(上物)さ。
こっちはICPO時代のアサクラの絡んだ事件の資料、そしてこっちは・・・ユニオン・テオーペの内部資料」

確かにそれは上物だ、一ジャーナリストではなかなか手に入れられるものではない。
情報を売り買いするといえば同じような商売だ。その価値に思わず生唾を飲み込んだ。

「主に当時のユニオンと敵対組織との攻防についての記録だが、こっちを付き合わせてみてくれ」
「まさか――」
「そう、そのunlikely(まさか)だ。アサクラはICPOの捜査官という地位を利用して
敵対組織を次々と潰していたんだ、それも合法的にね」
「じゃあ、この間の内通者も」
「ああ、おそらくはアサクラが情報を流していたんだろう。
組織を守るため、なおかつ同じ組織内の敵対勢力に泥を塗るために」
「でも、それで警察が黙ってるわけないじゃないの。これだけの証拠があるんだから――」
「いや、to make bad things worse(更に悪いことに)、日本の警察もバカじゃない、おそらくは知っていただろうさ」
「じゃあなぜ?」
「アサクラを告発するのと、彼を泳がして麻薬組織を潰してくれるのと、どちらが彼らにとって割が合うかい?」
「でもこれじゃ結局ほかの組織は全部潰れても、朝倉のところだけは残るわ」
「しかし警察とすれば、自分の息のかかった組織が麻薬市場を牛耳ってくれれば安心なんじゃないか。
もっとも、警察の方が逆に奴等に牛耳られているとも知らずにな」

そう撩が呟いた。

「しかし、これではっきりした。朝倉こそがおそらくシンセミーリャの両巨頭の一人、デュークだということがね」
「じゃあ姉さんは!?」

思わず私はミックに掴みかかっていた。

「・・・だから忠告したんだ、アサクラと別れろって」
「でも冴子のやつ、まだあいつの正体に気付いていないみたいだな。まったく、珍しく浮かれやがって。
それが救いといっちゃ唯一の救いだ」
「でも、これからどうなるのよ!彼がデュークだって知れたら、いいえ、姉さんがそれを知ったら・・・」

残りの言葉は嗚咽に飲まれてしまった。

「Miss Reika, que sera, sera. なるようにしかならないさ」

私が聞きたいのはそんな答えなんかじゃない。しかし、それ以外他に何と言えばいいのだろうか。
泣き崩れた私を抱き寄せたのは撩だった。この男は優しすぎる、こういうときばっかり――。

「リョウっ!」

その声に彼は私を突き飛ばすように遠ざけた。そして彼女の声の方――槇村さんの病室へと駆け出していった。その後を追う。
病室のドアを開けた瞬間、目に入ったのは空のベッドと開け放たれた窓、
そしてその横で呆然と立ち尽くす香さんの姿だった。

「どうしたんだ、香?」
「あたしが部屋を空けた隙に、アニキが・・・」

香さんは涙を流すことはなかった。撩もただ彼女の頭に軽く手を置いただけだ。
しかし彼女の眼は全身全霊で撩にすがりついていた。そして彼の眼は力強く彼女を見つめていた。

  

 

「Fernando....」

気がつくといつも窓の外を見つめていた。いつも彼がそうしていたように。

「彼のことが心配かい?」
「ウィザード様・・・」

わたしはあのあと、追っ手に捕えられウィザード様のところに連れてこられた。
あの方はこう言われた、これからは私をフェルナンドと思って仕えるようにと。
そして「彼が与えていただけの自由を与えてやるつもりだ」と。
しかしそれは鳥籠の中の自由、籠の中にいる限り日々の糧と身の安全は保障される。自由に飛び回ることもできる、
籠の中だけならば。今のわたしはそんな籠の鳥だった。そして彼も――。

フェルナンド・ミナミ。それが彼の本当の名前ではないことなど知っていた。
自分のことを看守だと言っていたが、彼もまた囚われ人だった。
きっとわたしと初めて逢ったときのことは忘れてしまっただろう、あのとき彼はまだフェルナンドではなかったのだから。
だが、彼が本当は何という名なのかなどわたしにはどうでもよかった。
わたしの目の前にいるのはフェルナンド以外の何者でもなかったのだから。
そんな彼を、最初は遠く離れた兄の代わりぐらいにしか思っていなかった。
でも、いつの間にかそれ以上の感情を抱いていた。
わたしにとって男の人は父と兄とウィザード様しか知らなかったから。それ以上に想った男性は彼が初めてだった。
しかし恐れていた、彼のわたしを見る眼がやはり誰かの代わりではないかと。
わたしの向こうに誰か別の面影を見ているんじゃないかと、薬によって忘れさせられた誰かを。
そしてうなされるたびに「サエコ」と呟いた、痛々しいほど切ない声で。
おそらくはわたしの向こうに見ている誰か――愛しむような視線を向ける誰かとは違う名前。
もっと違う・・・切実に、その名を求めているようだった。おそらくは恋人。
怖かった、フェルナンドではない彼が。だからわたしにポケットには常にシルフのシートが何枚も入っていた。
しかしそれももう用無しだ。

「おや、やっと揃ったようだな」

新宿の街を見下ろすビルの一室にはシンセミーリャの幹部たちが揃っていた。
そしてドアが開き、最後の一人が入ってきた。デュークだった。
右脚をけがしているのか、右腕には松葉杖、そして――拳銃。

「何の真似だ、デューク」
「何の真似だ、ですって?それはこっちの台詞ですよ、ウィザード。
この間、知人と食事をしていましたら賊に襲われましてね。その顔をよく覚えてますよ。
彼はそう・・・あなたの右腕によく似てましたよ、フェルナンド・ミナミとかいう男に」
「フェルナンド!?」

そう叫んで飛び出したわたしを、ウィザード様が制した。

「La muerte para el traidor(裏切り者には死を)、
それがユニオン・テオーペ、そしてシンセミーリャの掟だったはずだ」

デュークは真っ直ぐウィザード様に銃口を向けた。

「部下を差し向け私を消そうとした、それを裏切りと呼ばずして何と呼ぶ?」
「モンテス!シルバ!」

ウィザード様はボディガードの名を呼んだ。即座に山のような男たちが私たちの盾となった。
しかし、デュークの銃弾は彼らの眉間を寸分の狂いなく射抜いた。もはや遮るものは何もない。
ウィザード様は自らを盾にするようにわたしを背中に庇った。
次の瞬間、目の前を脳漿が飛び散った。
そしてどうという音を立ててシンセミーリャの双頭の一人が倒れた。
幹部たちは――みな勝ち馬に乗ってシンセミーリャに集った連中だ、機を見、最も強い者に付くのを常としている連中だ。
誰一人デュークに刃向かう者などいなかった。

「以後、シンセミーリャのカウディヨ(首領)は私一人だ。トップは二人もいらない」

そして私の腕を引きずりあげて言った。

「お前はフェルナンドを釣るための大事な餌なんだ。俺に銃を向けた生意気な男を」

 

 

ベッドの上には患者服が脱ぎ散らかされていた。

「そういやアニキの得意技だった。背広をシャツと一緒に脱ぐから、5秒で着替えができるって」
「刑事って仕事は夜討ち朝駆けだったもんな」

彼の衣服は血の付いたシャツごと消えていた。
香は置き去りにされたその他の私物を手に取ると、部屋を飛び出していこうとした。

「どこへ行くんだ」

その腕を掴む。

「決まってるでしょ!アニキを探しに行くのよ」
「まずどこへ」

その返答次第では香を縛りつけてでもここに置いていくしかない。

「・・・まず、轍さんのところに行くわ」
「判った。待ってろ、車を出してくる」

香に引きずりまわされるままに、新宿中を槇村を探して駆け回る。
この半年近く情報屋との接触を少しずつ任せてきただけあって、香の情報収集に無駄はなかった。
轍はこの新宿で最古参の情報屋の一人というだけでなく、情報屋の元締めでもあった。
東口、西口周辺から三丁目に至るまで張り巡らされた靴磨き兼情報屋のネットワークだけでなく、
歌舞伎町、ゴールデン街の面々、中央公園のホームレスに至るまで彼らから上がってくる情報で
轍の耳に入らないものはなかった。

「そう、判ったわ。ありがとう」

まるで伝言ゲームのような情報をたどりながら、情報屋のもとを転々とする。
しかし、確実にその源に近づいているという手応えがあった。

「ということは、キャッツの近くで見たっていうんだな」
「そうね、念のために行ってみましょう」

確かに香はシティーハンターのパートナーだった。

 

 

確かに悪夢だった。
この手で何人もの命を奪ってしまったのだ。
いや、直接奪っただけではない。ユニオン・テオーペ、そしてシンセミーリャによって生み出された悪魔の薬によって、
それとは一桁も二桁も違う数の人間が殺され、それ以上に死ぬよりも過酷な地獄に突き落とされたのだ。
自分自身、悪魔に魂を売ってしまったのだ。
何であのとき、いっそ殺してくれなかったのだ。
そうすればこの手を汚すことも、そして汚した手を見つめて絶望することもなかったのに――。
香に、撩に、そして冴子に会わす顔はなかった。
今の自分は7年前の自分ではないのだから。
あのときの自分にとって唾棄すべき存在なのだから。

 

 

開店時間は過ぎても客の入ってくる気配はなかった。
しかしそれがどうしたというのだ、これが当たり前になっているのだから。美樹など営業時間中に買出しに行ってしまった。
――ここしばらく、奇跡のように平穏な日々が続いたからか、それとも結婚などしてふやけてしまったからだろうか
視力はますます悪化の一途をたどっていた。もう買い物も彼女に任せるしかない。
それ以外の店の中のことは慣れたもので一通りこなすことはできるが。

そのとき、ドアベルと蝶番の軋む音が聞こえた。
どうやらそれは常連ではないらしい。珍しいことだ。連中は最近それどころではないようだが。
足音がおぼつかない。かすかに血の臭い――それはすでに数日経った傷口のものだった。
身を預けるようにスツールに就いた。
その雰囲気は・・・確かに見知った人間のものだった。
この店の常連、いや、それ以上に可愛い弟子であり、この殺伐とした世界で数少ない心を許せる存在――
その彼女と、目の前にいる男が同じ雰囲気を放っているとは。
ということは彼が・・・いや、彼女とは血がつながっていないと聞いていた。
もちろん、人が似るのは血のつながりだけではない。長年連れ添った夫婦が似てくるように、環境というのもまた人を変えさせる。
だが、ここまでよく似ていたとは思わなかった。

「いらっしゃいませ、ご注文は」
「・・・コロンビアを」

彼とは初対面だった。彼が奴と組んでいたころ、俺と奴の仲は今のような馴れ合いの関係ではなかった。
ただ、噂で今度の相棒は元刑事だとは聞いていた。そして半ば押しかけられて組んだらしいとも。
一度そいつの顔を見てみたいと思っていたが、その前に奴に傷つけられた目はどんどん光を失っていった。
今目の前に座っているこの男も、ただ姿が見えるといっただけだ。

「失礼ですが、目が悪いのでは」
「初めてです、お判りになった方は。失明も時間の問題だと言われてます」
「大したものだ、動きにそれをまるで感じさせない」
「ええ、大して不自由は感じません。それに、そのおかげで目の見える方以上にモノが見えることもあります」
「・・・例えば?」
「一度いらしたお客様なら二度目は戸口に立った時点で判りますし、初めての方でもどういう方かは大体」

しかし、この男については皆目見当がつかなかった。
雰囲気からして槇村秀幸――それは判る。
そして彼がこの新宿にいることも、何らかの理由で記憶を失っているらしいということも耳に入っていた。
身にまとっている空気は紛れもなく自分と同じもの、裏の人間の匂い。それは一度染み付いたら容易に離れないものだ。
だがその奥底にあるのは・・・真っ直ぐな正義感、上辺の匂いとは相容れないもの。
それが彼の中で激しく拮抗していた。

「――判りませんか、あなたを以ってしても」
「ええ、一言では言い表せませんね」
「自分でも自分のことが判らない――昨日の自分さえ、今日の自分には許せないのです。
あれは自分ではなかったと言ってみても空しい言い訳だ。
フェルナンド・ミナミとしての記憶、そして銃爪を引き、喉を切り裂いた感触がこの手に残っている。
犯した罪は背負わなければ・・・。
しかし槇村秀幸としての自分は、フェルナンド・ミナミの犯した罪に向き合えそうもない」
「――“こういう”仕事をしていても、ときに心を許しあえる友人に出会えることもあります。
その中の一人は・・・かつて私の敵でした。そしてこの目を傷つけた張本人です」

かたかたとカップを持つ手が震えているのが聞こえた。

「しかし今となってはよき友人です・・・いや、悪友というべきでしょうか。
ですから、いつか――昨日の自分も、それを許せない今日の自分も、明日の自分なら許せるかもしれません」
「ではマスター、あなたは今の自分が気に入ってますか?
かわいい奥さんを貰って、喫茶店の主に納まっている、傭兵だったころの自分からすれば腹を抱えてしまうような自分が」
「・・・ええ、これはこれで結構いいものですよ」
「そう・・・ですか」
と言って槇村は席を立った。まだカップには半分以上残っていた。

「あら、香さん?それに冴羽さんも、どうし――」
「海坊主さん、アニ――」

買い物帰りの美樹を押しのけて、勢いよくドアベルを鳴らして、彼の妹が飛び込んできた。

「槇村なら店を出てった」
「それでどこに!」

撩も息を切らしているようだった。

「さぁな」

あの後彼がどこに行ったのかは知らない。しかし、何らかの答えを出したのは確かだった。

 

 

長年、靴磨きなんてやっていると愚痴交じりにいろんなことを耳にする機会が多くなる。
だから小遣い稼ぎにそうやって仕入れた情報をこそっと教えだしてもう結構な年月になる。
そしていつの間にかどっちが本業だか判らなくなっちまった。

今日も客の中には足を出すのと同時に、靴磨きには多すぎる大枚を差し出す奴がいる。

「最近、この辺も騒がしいみたいだな」

と当たり触りない世間話を装って何かを聞きだそうという客は間違いなく裏の方の客だ。

「ええ、西新宿でホテルの1フロアが吹っ飛んで以来、西麻布の方でヤクザのドンパチがあったり
つい昨日も青山で香港の宝石商が撃ち殺されたって聞きましたがね」

ここまでは新聞やニュースに出てる話だ。

「その前から何か変わったことはなかったか?」

顔を見ないのは靴磨きとしての自分なりのポリシーってやつだ。
お客が大企業のお偉いさんでも有名人でも、こうやって靴を磨いてもらってる以上客は客、
特別扱いはしないつもりだ。それが情報屋としてであっても。
目の前に差し出された靴は結構上等なものだ。しかしそれが泥と――血で汚れていた。
そして磨り減った靴底はまだ減らしたてらしい。

「これは噂なんですがね、ある人が新宿に帰ってきたってんで一時持ちきりだったんですよ」
「ある人・・・?」
「ええ、アタシも昔から付き合いがあった人なんですがね、いい人でしたよぉ。
曲がったことがでぇ嫌ぇでそれで警察辞めちまったって聞いたんですが
確か妹さんがいて、たいそう妹思いの兄さんだったそうですよ。
それが7年前、麻薬組織にだまし討ちに遭ったっていうんですが」
「死んだ人間が?」

寡黙だが低い、穏やかな声、そしてその声そのままの雰囲気に呑まれて
情報屋とあろう者がついつい話しすぎちまった。

「え、ええ。でも記憶喪失だとか実は他人の空似だとかいろんな噂が流れましてね。実際のところどうなんだか。
だけど、もし生きてるんでしたら帰ってきてもらいたいもんだ。あんなお人はそうはいない」
「――ええ、きっと帰ってくるさ」

そう言ってお客は立ち去っていった。しかし、その後姿を見てやっと気がついた、あの人が――。

「お客さん、伝言だよ!」

客は立ち止まった。しかし振り返ることはなかった。

「妹さんが、香ちゃんがあんたのことを探してたよ!」
「・・・そうか」
「それと、西口でホテルの残飯漁ってるホームレスから聞いたんだけど、
爆発のあった夜、裏口からものすごい勢いで出てきた車にまだ若いお嬢ちゃんが乗ってたんだと!その行き先は――」

最後まで聞かないうちにお客は――槇さんは駆け出していった。

 

 

いつもの店――ホテルのスカイラウンジ、そこで朝倉と逢うのももう結構な回数だった。
しかし今夜はいつもと違っていた。ドアを開け、中に入るのにかなりの決心を要したのだから。
店に入った以上、もう後には引けなかった。

「やあ冴子さん」
「あら、お待たせしてしまったみたいね」
「いいえ、それほどでもありませんよ」

いや、確かにドアの前で長いこと逡巡してしまっていたのだ。それでもこの男はにこやかに微笑む。

「ということはお返事は一つだけ、でよろしいんですね」
「ええ」

父にも言ってしまった以上、もうそれ以外の選択肢は無かった。
この人の妻になる、槇村のことは綺麗さっぱり忘れる、そしてもう裏の世界とは縁を切る、と。

「じゃあ冴子さんの一世一代の決心を祝して、乾杯」

目の前に出されたのはシャンパンベースのミモザ、そして・・・ホテルのキー。

「このすばらしい夜を君と分け合いたいんだ」

判っていた。この人と結婚するということはこういうことなんだと。
ただ、目の前にいるこの男は余りにも紳士で、このようなことをおくびにも出さなかっただけだ。
しかし、キーに伸びた手は宙で止まってしまった。
私は撩にも超えさせなかった一線を彼と超えようとしている。

(槇村・・・!)

心の中で彼の名を叫んだ。しかし届くはずがない、彼の目に私はもう映っていないのだから。
朝倉の手が抱きかかえるように私の背に伸びる。その腕に促されるまま席を立った。


患者が逃げるのはAH以来のお約束【爆】
そしてまたもAHネタやっちまいました。

Former/Next

City Hunter