vol. 12 アルキオノスの娘

声が聞こえる。私の名を呼ぶ声が。
――いや、違う。これは私の名前じゃない。フェルナンド・ミナミではない。
しかし、そう呼びかけられて無視することはできない。なぜならそれが私の名前なのだから。
甘く、艶やかな、しかし媚のない声。芯の強さを秘めているがそれは脆さと紙一重。その声が切なく私の名を呼ぶ。
まるで音楽のように。

――ら・・・
――きむら・・・
――槇村・・・

それが――俺の名?

「Fernando!」

もう一つの名で唐突に起こされた。

「カリプソ・・・」
「Buenos dias, Fernando」

彼女のやけに甘ったるい――ガトーショコラにモラセスをたっぷりぶちまけたような――声は
とてもよく似た、しかし根本的に全く違うあの声を掻き消してしまう。
あの声は・・・脳裏にあのときの光景が浮かぶ。
銃口を突きつけられ、真っ赤な口唇が声もなく動く。その動きに夢の中の声がはっきり重なった。
あの声の、あの口唇の持ち主は・・・
意識が冴えてくるにしたがって、夢の中の声は次第に曖昧とした闇に薄れていった。

 

 

「槇村・・・」

朝目覚めたら枕が濡れていた。夢の中でも泣いていたのに、

「まさか本当に泣いてたなんて――」

弱みを晒しては、涙を見せてはいけない。それが自分に課したルールだった。
弱いからこそ、弱みを見せれば付け込まれる。だからどんな理不尽にも唇を噛み締めて耐えた。動じぬ振りを装った。
涙を堪えている間に、本当に泣けない女になってしまった。
泣けない私が涙を見せられるのは夢の中の槇村の前だけ。そしていつも彼は何も言わず微笑んでくれていた。
またいつか、彼の胸の中で思い切り泣ける日が来ると信じていた。
しかし、その期待は儚くも裏切られてしまった。彼自身の、槇村の手によって。

枕元に並べられた写真立て、そのうちの一つは同僚たちと写ったものだった。
私と槇村が同じフレームに収まっている唯一の写真。
しかしそれは収まっているとは名ばかりで、中心の私から離れた端の方に彼が写り込んでいるだけだった。
そんな写真を、まるで純情な女学生がするように後生大事に額に入れて、語りかけることもあった。
だが、もう二度とそんなことはしない。
額から台紙を剥がすと写真を取り出し、びりびりに破り捨てた。
皮肉なことだがこれで私は槇村を捨てられる。槇村が私を捨ててしまったように。
そして、彼の知らない男のもとに嫁いでいける。そこがきっと、私の新しい泣き場所になるのだから。

 

 

恥ずかしい話だが、空腹で目が覚めた。

「昨日は飯抜きだったもんなぁ」

基礎代謝が人より桁違いに高い(相棒に言わせれば「燃費の悪いアメ車並み」の)俺にとって
一食抜かれるというのは女断ちの次に堪える。
もっとも、昔は一日3食まともに食える保障はなかったのだが、そして3食まともに取ってなどいなかったのだが
いつの間にか規則正しい生活とやらにすっかり染められてしまったらしい。

飯抜きになった原因は溜まり溜まった飲み屋のツケで、それが一斉に来たもんだからたまったもんじゃない。
あれは俺を困らすために歌舞伎町商店街ご一行様が結託して謀ったに違いない。
ここ最近、情報収集で経費がかさむんだよ。
通常営業そっちのけだから帳簿は火の車なのは判っている。だが経費で落としてくれたっていいんじゃないの香ちゃん。

もっとも、あいつが容赦なく俺にお仕置きできるのもまたいい兆候には違いない。
ここ最近、あいつの怪我やら俺の怪我やらで文字通り腫れ物に触るような関係だったのだから。
これでまた、いつもの日常に戻れる。
ナンパとハンマーに明け暮れ、本音と向き合う暇もないような騒がしい日々に――。

枕元の時計はまだ早朝と呼ばれる時間を指していた。
俺にしてみりゃこれから夢の第2幕、だが腹が減っては何とやら。
まるで冬眠明けのクマのようにのっそりと台所へと降りていった。
だが、やけに静かだ。この時間帯、眠らない街が一瞬の静寂に包まれる。
その静寂がいっそう些細な物音を際立たせるのだ。
香がまだ寝ていても――典型的な夜型人間の俺ほどではないが、まだあいつも寝てる時間だ――
小さな寝息を俺の耳が捕えるはずなのに。

「またかよ・・・」

だが心配はしない。どこにいるかは知らないが何をしているかは把握済みだ。
傷が大分よくなってから、香は早朝トレーニングをはじめた。
一にも二にもまず体力、そのためには走り込みから、というのがいかにも香らしい。
そしてこの時間――繁華街の喧騒が止む一瞬を見計らって新宿の街を走り回っているらしい。
早朝なら通りで出会うのはゴミ出しの人間くらいだ。それに、俺の仲間に会う心配も少ないと踏んでいるようだ。
だがな、俺のネットワークはCNN並みに24時間年中無休なんだぜ、
ましてお前に関するニュースなら瞬時に速報が入る。
さて、これからどうするか。まずはあいつのコースを把握しなければ。
そのためには香に張らせる情報屋を増やしておく必要があるな、あいつにばれない程度に。
そこまで計画を立てておいてふと、あのときの香の表情が目に浮かんだ。
何も言わずに信じていると言ったときの、困惑の表情を浮かべながら兄の変貌を受け入れたときの。

――結局、香を一番信頼していないのは俺じゃないか。

でも、その手を緩めるわけにはいかなかった。
香を守る、それがまず信頼に応える最大の方法なのだから。

 

 

「いいかげん帰れ、ミック」

目の前の客はたった1杯のアメリカンで夕方まで粘っていた。
店に来たのは昼過ぎだから、かれこれ3時間はいるだろうか。

「いくら待っても待ち人は現れんぞ。そろそろ諦めたらどうだ」

彼は一体誰を待っているのか。いつものように香さんが来て口説き文句すれすれの世間話をして
それを後から来た冴羽さんに見咎められいつものように貶し文句の応酬になって
結局二人が帰っても彼はここに居座ったままだ。
もともと顔見知りの常連客ばかりの喫茶店、いつもの面々はすでに行って帰ってしまったけれど。

そのとき、控えめにドアベルがカランと鳴った。

「Bingo!」

そう言ってミックはカップに残っていた最後の一口を飲み干した。
しかし彼のふてぶてしいほどの晴れ晴れとした顔とは対照的に、入ってきた客はその先客に困惑の表情を隠せなかった。

「やあ、偶然だねミズ・サエコ」
「何の用なの、ミック」
「いやぁ、逢ったついでに興味深いことを聞いたんだけど。ミセス・アサクラについて」

その名を聞いて冴子さんの顔色が変わった。

「彼女は夫の巻添えをくって麻薬組織に殺された、それはキミも知ってるよね」
「ええ・・・」
「その犯人については?」
「さぁ・・・麻薬組織って判明してるんだから、おそらく捕まってそこから判ったんでしょうよ」
「そう、彼らは捕まった。だが殺された」
「何ですって?」
「護送車が襲われたそうだ。爆弾が仕掛けられていたらしい。監視役の警察官もろとも、whoomp!」
「フン、奪還するつもりが監視もろとも、か。プロのやることじゃないな」

その道のプロが口を挟む。

「それか、口封じか、だ」
「何のために?」
「さぁね、今となってはそれすらも判らないな。
もしかしたら奴らが殺すよう命じられたのはICPOの捜査官とその家族じゃなかったのかも」
「それって・・・どういうことよ」
「当然のことながら彼らの属していた組織はICPOに摘発された。その中心にいたのはもちろんアサクラだ。
もう一つのこの話にはおまけがあってね、彼らの護送ルートはフランス警察内部でも極秘だったそうだ。
それを知りえたのは警察幹部とICPOの――」
「何が言いたいのミック?はっきり言いなさいよ!」

彼女はテーブルに手を叩きつけて立ち上がった。

「これ以上はまだ言えないよ、journalistとしてね。不確かなことが多すぎる」
「そこまでしてわたしと朝倉の仲を引き裂きたいの?何のために?
これだったらまだ彼に女がいたって方が信じられるわよ!」
「オンナ、ねぇ・・・」
「それでもわたしは彼と結婚するわ、正式にプロポーズを受けるわ!」

そう言うなり冴子さんは大股で店を飛び出していった。
周囲が反対するほど意固地になる、それはわたしも経験があった。
意固地になったからこそ彼を追いかけて日本まで来て、そしてとうとう捕まえてしまったのだから。
だけど今の彼女は余りにも頑なになりすぎて周りが見えていない。
忠告すればするほど反発して破滅への道を突き進んでしまう。自分にはその先が見えないからなおさら。
何があったのかは知らないけれど、普段の冴子さんでは考えられないほどに冷静な判断力を欠いていた。

「ファルコン、領収書切ってもらえるかい?Weekly Newsの名前で」
「たった1杯でも経費で落とすつもりか?」

そう言いながらも小さな領収書に名前と金額を書き込んでいる。
帳簿から切られた領収書を渡されるなり、それをひったくるようにして
「Thanks a lot!」
と店を出て行った。

「ツケで何杯も飲み食いしていく冴羽さんと、どっちがいやな客かしら」
「美樹、あとで塩撒いておけ」

 

 

西麻布のイタリアン・レストラン、そこがデュークとヤクザの接点だった。
ここの個室で彼らは会食し、宙に浮いたままのコカインの取引を着々と進めているらしい。
もともとユニオン・テオーペは既存組織との取引を嫌っていた。
新興勢力ゆえ、既存の勢力に牛耳られ、乗っ取られることを恐れたのだろう。
全世界に張り巡らされたネットワークは栽培・製造から供給を総て自らの手に握っていた。
ユニオンの衣鉢を受け継ぐ我がシンセミーリャもまた既存組織との取引は禁じられている。
それを組織のトップ自ら破る、それだけでも万死に値する背信行為だ。

「お客様、申し訳ありませんがここから先はご遠慮願います」
「Pardone(すみません)」

逃走ルートの下見も済んだ。あとは当日、現場を押さえてデュークの鼻先に拳銃を突きつけてやればいい。
相手のヤクザもその用心棒も一人残らず片づける。
レストランは血の惨劇になるだろうが、その隙に裏口から逃げればいい。
車も手配してある。計画通りやれば決してし損ねることはないはずだ。
しかしまだ不安が残る。自分に人が殺せるのか――
鼻先に銃を突きつけられ、無様に命乞いするデュークに一欠けらの憐憫の情もなく銃弾を撃ち込めるのか。

すでにひとり人を殺し損ねていた。
野上冴子。最初から殺す気はなかった。しかし・・・それでも、殺せなかった。
銃を向けられた彼女の眼は余りにも痛々しく震えていた。
それは俺の知っている凛とした冴子とは懸け離れたものだった。
――俺の知っている、冴子?
自分が野上冴子の何を知っているというんだ。
彼女とは単にビジネス上のパートナー、その信頼関係も今となってはぷっつりと切れてしまったではないか。
あのとき、アサクラとの関係を問い詰めたとき、彼女はとっさに答えられなかった。
ただの上司と部下ではないと確信した。おそらくは・・・男と女。
馬鹿馬鹿しい、それこそ彼女が誰と付き合おうと誰と寝ようと私には何の関係もないこと。
たとえその男のために地獄のどん底に突き落とされようと、手を差し伸べる義務などない。

私がすべきことはデュークを始末すること、ミランダのために。
そう、もし私が怯めば、その隙に返り討ちにされようものなら彼女は二度と自由になれない。
彼女のために私は悪魔にならねばならないのだ。
己の阻む者を皆殺しにできる悪魔に、そしてこの手を血で染めながら善良なる天使の仮面をかぶり続ける悪魔に。

「ありがとうございました、またのお越しを」

店員の表情を目で追う。私は天使の仮面をかぶれているだろうか?
だが、‘Talk of the devil and he will appear.(悪魔の話をすると悪魔が出る)’とはよく言ったものだ。
夜の闇の中から、目の前に本物の悪魔が現れた。善良とは言えないまでも、凡夫の姿をした悪魔が。
City Hunter――これでもアンダーワールドでは世界一と畏れられているスイーパー、殺し屋だ。
一体彼は何を思いながら銃爪を引き、這いつくばる敵に止めを刺してきたのだろうか。
ご教授を乞いたい気もするが、もはや彼とは敵だ。今もシンセミーリャに忠誠を誓う者として。

「槇村」

そう彼は私を呼んだ。歩みが止まる。再び歩き出そうとする。しかし、

「記憶喪失というのにもいろいろ種類があるが、よくあるパターンとして
自分にまつわる記憶はなくしているが、身に付けた技術、知識などはしっかり覚えているということがある」
「What are you saying(何を言ってるんだ)?」
「いわば『想い出』だけどっかに置き忘れちまうってことだ。しかし『記憶』は残っている。
特に体に染み付いてしまっているものなら尚更」
「I can't understand at all(さっぱり判らないな)」
「自分の頭で意識していないからな、そういった動きは。あんた、一体どこで銃を習った?」
「It's nothing to do with you(お前には関係ない)」
「あれは警察式の構え方だった。まぁいい、あんたのインストラクターが元警官、ということもありえる。
だがあのナイフ捌き、あれは俺の知る男にそっくりだった」
「・・・・・」
「ヤツは独学でナイフの技術を身につけた。だから完璧な我流だ。
あいつと同じナイフ捌きをするヤツはこの世に二人といないはずだ」
「Callate la boca(黙れ)!」

しかし彼は言葉を――日本語で語り続けるのを止めなかった。

「言葉というのも知識以前に体に染みついているものだ。総ての知的活動の根幹だからな。
だから俺が今しゃべってることも本当は判っているはずだ。そうだろ、槇村?」
「I cannot understand what you say(お前の言ってることなど判らない)!」

嘘だ。彼の一言一句が総て意味のあるものとして自分の脳に流れ込んでいた。今まではそれに気づかなかっただけだ。
足元が揺らぐ。地面が音を立てて崩れ落ちる。今まで自分が寄って立っていたもの総てが。
では自分はどうすればいいのか、何をすべきなのか?
自分がフェルナンド・ミナミではないとしたらデュークを殺すことも、ミランダを救うことも何の意味もないのではないか?

「Adios, amigo. Suerte(幸運を)」

そう言って彼は去っていった。
今目の前にあるのは命じられた任務だけ。何も考えずに、それだけを果たせばいい。それだけの話だった。

 

 

今日は本庁で会議がある。
シンセミーリャ対策会議は内通者探しが監察に一任された後も、責任の所在で紛糾していた。
単なる擦り付け合いの建設的とは言えない議論に辟易していたが、
ただ彼に会える、それだけで心に浮き立つものを感じてしまう自分がいた。
もはや裏の社会に身を置く友人たちの間には私の居場所はない。
結局、私が身を置く場所はこの本来の居場所しかないのだ。一キャリアとして、その妻として。

「やあ野上さん。全く、相変わらず実りのない会議でしたね」
「こんな様子で本当にシンセミーリャを日本から追い出せるのかしら」
「それは君の手にかかってるんじゃないかな、野上警視正。またの名をユニオン・テオーペ壊滅の立役者」
「そんな・・・わたしはただ」

――そう、私はただ彼らの手柄を独り占めしただけ。
撩や香さん、ファルコンたちの働きがなければユニオンを壊滅に追い込むことはできなかった。
しかし今の私にはその手札はもうない。

「そんなに謙遜しなくても。まぁ、こっちとしても次の手は考えてある」

そういう彼の表情に何かがちらついた。

――もしかしたら奴らが殺すよう命じられたのはICPOの捜査官とその家族じゃなかったのかも。
――彼らの護送ルートはフランス警察内部でも極秘だったそうだ。それを知りえたのは警察幹部とICPOの・・・

この前のミックの言葉が頭をよぎる。そんなはずはない、彼は――

「どうかしたのかい、冴子さん」
「いえ、ただ・・・そういえば返事、まだ正式にしていなかったわよね」
「返事って、プロポーズの」
「それをお伝えしたいの。だから今夜いつもの――」
「いや、今夜はちょっと先約が入っててね。古い友人と食事することになっているんだ。だからまた今度」

ふとよぎるデジャ・ヴ。

――今夜はちょっと先約が入っててね。
「妹の、誕生日なんだ」

だからまた今度、と同じ台詞を残し彼は去っていった。そして、その「今度」は永久に訪れなかった。

「朝倉さん!」

遠ざかりゆく背中に思わず声をかけた。

「なんだい?」
「あの・・・今度っていつ」
「そうだね、金曜じゃどうかな」
「ええ、じゃあ金曜日に」

窓の外には花曇りと呼ぶには余りにも暗い空が広がっていた。

 

 

雨が降り出した。
疎ましいほどの雨足じゃないが天気の崩れが体調に直結する体質らしい。雨の日は持病がひどくなる。
普段だったら薬を掌いっぱい飲み込んでしまえば済むのだが、今は思わぬところで副作用が出ては総てが台無しになる。

「唔該(ありがとう)」

広東語しか通じない運転役は車を降りると、それきり無表情なまま泥を跳ね上げて雨の夜に消えていった。
仕事が終わる頃には指定された場所にBMWが停まっているはずだ、もし彼女が裏切らなければ。

店は外観だけなら余りにもそっけないコンクリートの箱だ。店名も探さなければ見つからない。
これがコンテンポラリーなモダンというものだろうか。中は一変して磨きぬかれた大理石のフロアの上で
最新のファッションに着飾った若い男女が周囲の注目を浴びながらグラスを傾ける。
そこにはいかがわしさの欠片もない。
まして今、この店の奥でヤクザと麻薬組織の幹部が密会しているなどここの客は夢にも思うまい。

「お客様、こちらにどうぞ」

案内されたのは厨房に近い奥の席、といえば聞こえはいいが
常にウェイターが行ったり来たりを繰り返し、あまり良い席とは言えない。
日本語の通じない東洋人の、男の一人客などこの程度の扱いだろう。しかし、むしろ都合がよかった。
適当にオーダーをしてウェイターが席を離れると周囲を確認する。
トイレにでも立つ振りをして奥の個室へと向かう。
しかし、こつ、こつと響く床が何とも耳障りだ。暗殺者が自分の気配を教えてどうする。
そして、手は知らぬ間に懐へと向かう。この中の存在すら感づかれているのではないだろうか、周囲に。
ワルサーPPKと換えのマガジン、そして念のためにナイフを数本。
人の目、そして耳のある場所だから音もなく殺せる刃物の方がいいときもある。

個室は何室かあったが、目当ての部屋はすぐわかった。まるでゴリラのような用心棒がその前に立っていたからだ。
日本のヤクザだろうが、これでは中に柄の悪い連中がいると教えているようなものだ。

「何の用だ」
「Is Duke here(デュークはいるか)?」
「何だって?」
「Oh, you poor nut! Japanese yakuza has to be a cosmopolitan in these times
(どうしようもないバカだな。この時代、日本のヤクザも国際化しなきゃならんというのに)」
「てめぇ、ごちゃごちゃ抜かしやがって!日本人なら日本語で――」
「Do not judge a man by his face(顔で人を判断するな)」

これ以上騒いだら中にバレる。うるさい喉はナイフで切り裂いた。
返り血がシャツに飛ぶ。この店に恥ずかしくない、おろし立ての一張羅だ。
躊躇はなかった、後悔もなかった。ミランダのためなら悪魔にもなれる。
彼女に指一本触れようものなら――命はない。

「Open the door(開けろ)」

もう一人いた大柄の見張りは、変わり果てた相棒の姿にその大きな体を震え上がらせていた。
恐る恐る開けたドアの隙間に、奴を蹴りこんだ。

「どうした!?」

ヤクザ側の幹部の一人だろう、趣味の悪いイタリアスーツを着込んだ太った禿頭が席を立つ。
イタリアマフィアを決め込んでいるのだろうが、いかんせん顔に合わない。まだ羽織袴で決めていた方が威厳がつくだろうに。
倒れこんだ大男の鳩尾を背中から踏みつけると、ぐうと音を上げて意識を失った。

「Duke, la muerte para el traidor(デューク、裏切り者には死を)」
「Es la regla de...(それは・・・何の掟だ)?」

部屋の一番奥ではデュークが憎憎しい笑みを浮かべていた。
相変わらず麻薬組織の幹部とは思えない、品のいい立ち姿で。

「Es la mia regla(俺の掟だ)!」

次の瞬間、個室の中の用心棒たちが一斉に銃を向けた。
とっさに懐のナイフをまとめて投げつけた。
残りは銃で片付ける。装弾数の少ないPPKだ、ばら撒くわけにはいかない。
その間にヤクザのボスたちは椅子の背に逃げ込んでいた。
情けない、自分の身はボディーガード任せにして助かろうだなんて。
その恰幅のいい体はバリケードからはみ出してがたがた震えていた。

「Hay men, you have to die too(あんたたちにも死んでもらわなきゃならない)」

9mmショートは簡単に椅子の座面を貫いた。
もう一人の幹部は這う這うの体で逃げ出そうとするが、その頭を後ろから撃ち抜く。
そして残るはこの血の惨劇の中を涼しい顔で笑っているデュークのみ――
そのとき、脇腹を熱いものが貫いた。
脚が崩れる。
とっさにもう片足を踏ん張り、倒れる直前で体を起こす。
振り返れば彼の手には紫煙を上げるセンチニアルが握られていた。
傷口に触れるとやや滑りを帯びた液体が掌に溢れ出す。
その温度を感じた途端、もう片膝が崩れ落ちる。
テーブルに左手をかける。
渾身の力を振り絞って銃爪を引いた。
上半身が倒れこむにしたがって狙いもずれる。
奴の胸元を狙った弾丸は右腿を貫いた。
結果オーライ、脚を打ち抜けば追ってはこられまい。
だが、肝心の自分がどこまで逃げ切れるのか。
傷口を押さえ、鉛のように重い体を引きずって個室を出た。
そこには喉を切り裂かれた大男が今も血をどくどくと流し続けていた。まだこいつの仲間入りをする気はない。
防音もされていない部屋だ、すぐに店の人間が押し寄せるだろう。その前に、早く――。

裏口には寸分違わぬ位置でBMWが停まっていた。そこに身を押し込んで行き先を告げる。
行き先――失敗したのだ、私は。デュークを殺せなかった。
今さらどの面下げて、おめおめとウィザードの前に出られよう。
もう帰る場所はなくなったのだ、私の居場所は・・・。

「到新宿(新宿まで)」

当てはなかった。しかしそこにしか居場所はなかった。

 

 

早朝の新宿――眠らない街に一瞬だけ訪れる眠りのとき。
昼も夜も変わらぬ喧騒に包まれるこの街に今響くのはカラスの鳴き声とわずかな足音と――何か、水滴のような音。

(どこかで蛇口が開きっぱなしになってるのかしら)

もったいない、と思ってしまったのは非常事態にもかかわらずツケを溜め続ける相棒にほとほと困り果てているからか。
ぴちゃん、ぴちゃんと零れ続ける音はただの水より粘度が強く――

(血だ!)

そして鼻をつく錆びた鉄の臭い。
撩ほどじゃないけどこの臭いには職業柄敏感にならざるを得ない。
そしてあたしが感じられるほど強く臭っているということは出血も相当のものだ。
水音と、かすかな血の臭いを頼りにその元を探る。早朝ランニングは中止だ。

いったいどれほどの間血を流し続けていたのだろう。
路地裏の、壁にもたれた足元にはかなりの血溜まりができていた。そして、

「ざまぁないな、俺らしくもないドジを・・・」

そう呟いて彼は朝日の当たらない路地裏に崩れ落ちた。

「アニキ!?」

間違いなかった。
不似合いな銀縁眼鏡もどこかに行ってしまっていたが、その素顔はあたしの知っているアニキそのものだった。
傷口を押さえた手を除ける。

「銃創――」

一瞬、血の気が引く音が聞こえた。
しかし、今ここでアニキを助けられるのはあたししかいない。でもどうやって・・・。

「ねぇ、そこにいるんでしょ!」

姿の見えない相手に向かって叫んだ。
撩が傍にいないとき、あたしに情報屋を付けているのには気づいていた。
だから今この瞬間も、きっとあたしに気づかないように誰かがあたしを見守っている、そう確信していた。

「お願い、撩に伝えて!車を持ってきて、かずえさん――ううん、教授のところに運んで!早く!!」

路地裏の影で静かな足音が遠ざかっていった。
アニキは意識を失っていた。だけどその手を――血まみれの手をあたしはぎゅっと握り締めた。
死なせはしない。撩のために、あたしのために、そして待ちくたびれた冴子さんのためにも!


>アルキノオス
古代ギリシア、パイアーケスの王。彼の娘がオデュッセウスを助けたナウシカア。
モチーフとしてオデュッセイアを使おうと思ったとき、彼女の役は香に演じてもらおうと思った。
そこはかとなくカップリング臭を放ちながらも決してそうはいかないところがまさに槇村兄妹。
しかし元ネタより派生ブツの方が有名な日本では直接彼女の名前を使いたくなかったのよ。
だけど、こうやって注つけないと意味を為さないタイトルはやっぱ良くないわな。

そして、香が傷ついた槇村を助けるという展開上
だったらAHのあのシーンを使ってしまえというわけで【爆】

Former/Next

City Hunter