香はこんなに小さかっただろうか? もともと女にしては長身だが、それ以上に伸ばした背筋、物怖じしない態度が 香はそんな弱い女じゃない。だからこそ俺は一人送り出してやれたのだ。 |
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vol. 6 失くして気がつく いつでも |
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香の横では絵梨子さんが肩を抱きかかえるようについていた。
「で、いったい何があったんだ絵梨子さん」 いきなり立ち上がるとグラスが飛び上がるんじゃないかという勢いでテーブルを叩いた。 「いったい香があなたのいない間、どんな思いで恐怖と闘ってきたと思ってるのよ!」 まさか、香が狙われるとは・・・そんな事態を避けるため、 「それで、リハーサルでの件だが最初から香がステージに上がる予定だったのか?」 すると香はカップを手にしたままわなわなと震えていた。コーヒーの水面が零れ落ちそうなほど揺れる。 「それで冴羽さん、この依頼受けるの!受けないの!」 商談成立する前に、俺はハンマーでテーブルにめり込まされた。 「か、かおりちゃん・・・?」 ハンマーの下から見上げると、あいつは真っ赤な顔して怒っていた。 「それじゃあ依頼は成立ということで」 重いハンマーを押しのけ立ち上がる。 「で、来るんだろ?俺の部屋に」 そしてクーパーでの定位置――助手席へと香を迎え入れた。 |
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「納得できませんよ槇村さんっ!」
バンッと勢いよく拳をテーブルに叩きつける。その勢いでカップが横転、報告書がコーヒー浸しとなった。 「あ、すいません」 さっきまでの威勢はどこへやら、やおらハンカチで机の上を掃除にかかる大澤。別に被害は大したことはない。 「なんで捜査本部が縮小されるんですかっ」 上野の組事務所襲撃をはじめとする、謎の外国人集団による一連の暴力団との抗争事件の捜査本部は 「だからっていいんですか?ドンパチがなければ平和だっていうんですか?」 確かに今のこの状態は血が流れないというだけの極めて消極的な『平和』、 「それに奴らだって、今はじっとしてますがまた動き出さないとは限りませんし」 それは自分も同意見だった。だが、俺の結論は刑事と裏の世界での長年の経験から導き出されたものであって 「じゃあ俺たちのやることは一つだ」 デスクの上の書類の山から束をどさっと手渡した。 「事件はそれだけじゃない。下からじゃんじゃん上がってきてるんだ」 すると大澤は膨大な書類を抱えて刑事溜りへと戻っていった。 「一つ本格的に奴らを追ってみるかな」 一つ伸びをすると散らかったデスクを後にした。 |
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なんで依頼人が台所に立ちたがるのか、自分が同じ立場になって初めて判ったような気がする。 食事の支度ならあたしがやるのに、みんな手伝いを申し出るのだ。 中にはレストランのような豪華なメニューが食卓に並び、その度にあたしが肩身の狭い思いをするのだが。 ただ単にあたしたちに気を使っているだけだと思っていた。 しかし、料理という極めて日常的な行為が、命を狙われるという非日常を忘れさせてくれるのだ。 「夕飯の支度ぐらい俺がやるから、お前は大人しくしてろ」 いつの間にか戻っていたいつものペースに思わず苦笑いにも似た笑みを浮かべる撩。 「それより、今日は飲みに行かないの?」 そうだ。つい今朝まであたしは恐怖に震えていた。 撩がそばにいるだけで、あたしは強くなれる。 今までの依頼人たちがみな最後は撩に縋りつきたくなる気持ちが、ようやく判る気がした。 「ところで、槇村のことなんだが・・・あいつには言ったのか?」 ――アニキには心配をかけたくはなかった。あの兄バカで心配性のアニキのことだ、あたしが狙われてるなんて聞いたら、 「アニキには黙っててほしいの」 背中の後ろにさりげなくハンマーをちらつかせる。 「ま、いっか。しばらくはそれで通すか」 といってもアニキにとってはむしろこっちの方が心配かもしれないけど。 |
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「おはよーございまーす!」
真新しい壁紙のにおいが鼻につく店内に香の明るい声が響いた。 「やぁ、おはよう香ちゃん」 その声にスタッフたちが彼女のもとに駆け寄る。それはショーの演出スタッフだけではなかった。 「皆さんにはいろいろご心配おかけいたしました!」 「でもこのとおりもう大丈夫ですから、オープンまで時間はありませんが、またよろしくお願いします!」 香のガードの初日、いつものボディガードのように依頼人の仕事場までついていく。 「香、ずいぶん元気になったみたいね」 「やっぱり冴羽さんがいるだけで違うわね、香」 Cat'sで久々に会ったときの香の表情を思い出す。真っ白な顔をして恐怖に震えていたあいつはまるで別人だった。 「冴羽さんが側にいるっていうのが心強いのよ、彼女にとって」 そう言い捨てるとフロア全体に目を配る。照明に吊り下げ式の大道具、舞台の上というのは意外な凶器に溢れている。 そのフロアの中で一際目立つ男が、俺の方へと視線を向けた。 「あなたが冴羽さんですね」 おそらくこいつが―― 「長谷清秀です」 この場にいるとどちらかといえばモデルに間違えられそうな風貌。背は高く、一般人としては筋肉質だ。 「エリから話は聞いてます」 長谷は臆することなく苦笑いを浮かべながら右手をオーバーに振ってみせた。 「早速なんだがあのときの様子を聞かせてくれないか」 知らず知らずのうちに口調が粗雑になる。 「ええ・・・といってもあのときはスタッフ全員気が動転していて、詳しいことははっきりとは覚えてないんですが」 一瞬、彼の眼が泳いだ。まさか――。 「あ、変な誤解しないで下さい。ただ、 その香はというと、フロアに散らばるスタッフ全員にコーヒーを配って回っていた。 (まるで雑用係じゃねぇか) 「でもまさか槇村さんがそんな危険の仕事をしてたなんて―― 笑顔を振りまきながらコーヒーを手渡すその表情は俺の知っている槇村香だった。 |
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「香さん、撩のところに戻ったそうよ」
訪ねていった東新宿署の署長室でそう聞かされた。もともと仕事なんて有って無きがようなもの、 「麗香が言ってたから間違いないないわ」 一度引き受けたからには途中で投げ出すわけにはいかない。それがあいつの性分だし、そう育ててきたつもりだ。 「ねえ、これで安心した?」 渋い顔は香のせいだけではない。むしろそれと前後して厄介な事件を抱え込んだ方が原因だろう。 「またしかめっ面してる」 冴子が眉間を小突く。 「むしろ俺としてはこれで一安心なんだがな」 すると目の前の妻は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で驚いた。 「おいおい、香だってもう立派な大人なんだ。あいつの選択にとやかくは言わんさ」 俺が記憶を取り戻しこの街に帰ってきたとき、かつて俺が占めていた場所を妹がしっかり占めていた。 確かに、あのもっこり男に妹を任せなければならないというのは正直心苦しかった。 「その香さんのショー、今度の日曜ですって」 冴子の眼が意地悪く笑う。あの頃と同じだ、妹との約束で彼女の誘いを断り続けていた頃と。 「行くわけないだろ、香がショーに出るわけじゃなし」 いや、裏方だから見に行かないというのはあいつの努力を認めないことになる。 窓ガラスを揺るがす轟音。とっさに身重の妻を庇った。 「爆弾?」 うち一つはかなり近い――歌舞伎町近辺か?複数の爆弾をこれだけ同時に爆発させられるとすれば |
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新宿駅東口、都庁前、そして歌舞伎町の三つの交番で起きた爆発事件は数日にわたってニュースのトップを飾った。
「これじゃアニキ、来られないよね」 奴らは明らかに警察を狙ってきた。いくら閑職に追いやられている槇村でも駆り出さざるを得ないだろう。 泣いても笑っても今日がラストの最終チェックは深夜にまで及んだ。 「撩?」 ガキの頃から研ぎ澄ましてきた直感だ、外すことはまずない。 「地下通って麗香のとこに行ってろ」 部屋には物色されたような跡も、他人の臭いすら残ってはいなかった。 客間として使うためにほとんどの荷物は残したままだったが、香がいるのといないのとでは部屋の空気が全く違っていた。 「あいつ、まだこんな写真持ってたのかよ」 だがこいつは見せられなかった。今の香はショーに集中させてやりたかった。 「撩、どうだった?」 俺が入ってくるなり、香が不安そうな表情で訊いてきた。 「いや、何でもなかった。俺の早とちりだ」 ポケットの中にはズタズタの写真。もし香が相棒のままだったら、こんな嘘は吐かなかっただろう。 |
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――撩、起きなさい!
わぁってる、あと5分だけ。二日酔いの頭に怒鳴り声がハンマーのように響きやがる。 ――本当に5分経ったら起きてくるんでしょうね。起きてこなかったらハンマーだからね! その上本物のハンマーを喰らったらたまったもんじゃない。約束の5分に大分残して寝室から降りてくる。 「撩!?」 気がついたら香が驚いて俺の顔を覗き込んでいた。ということは本当に階段から落ちたのか。 「今日がショー本番なんだからね。それが、『ボディガードが寝坊して遅刻しました』じゃ済まされないじゃない」 香がいたころは、朝に限らずコーヒーはいつもインスタントではない、挽きたてのペーパードリップだった。 馬鹿馬鹿しい。香はただの依頼人、敵の正体が明らかになりそいつらを一網打尽にできればここにいる理由は無くなる。 |
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「大道具入りまーす」 「マイクどこいったー?」 本番当日ともなれば舞台裏は慌ただしさを極める。 しかし、未だモデルはおろかヘアメイクもスタイリストも来ていない楽屋はそんな喧騒とは無縁だった。 「いいのかよ、表の手伝いしてこなくても」 香はそこで一人コーヒーなどの準備をしていた。 「だって、あたしみたい半人前があんな修羅場にいても足手まといになるだけでしょ。それに――」 あれだけの混雑の中、奴らが入り込むのは難しいことではない。そして、その中で狙われた場合、周りにも被害が及ぶ。 「ところで撩、いつまでここにいる気?」 香の表情が険を帯びたものに変わっていた。 「ここは女性モデルの控え室よ。まさか撩、あたしのボディガードにかこつけて――」 前言撤回、あいつは自分が狙われてるのをわきまえてるのかよ。しょうがない、 ガリガリガリガリッ! まるで頭蓋骨を下ろし金ですり下ろしたかのようなノイズが鼓膜に響いた。 「一体どうしたんだ?」 スタッフたちが長谷の周りを十重二十重に囲んでいる。そして彼は専門外の音響ブースにしがみついていた。 「さっきからインカムが通じないんですよ。だから音響担当の人に機材を見てもらってるんですが――」 「おそらく妨害電波だろう。このフロアのどこかに発生装置があるはずだ」 フロア全体に効率よく電波を飛ばすなら…ステージ真上のキャットウォークを見上げた。 仮設の梯子を昇り、その名の通り猫しか通れないような狭い通路を歩く。高所恐怖症なら足がすくむところだ。 ようやく一息つくと、下の様子が目に入ってきた。相変わらず長谷の周りをスタッフたちが取り巻いている。 次の瞬間、俺は狭いキャットウォークの上を走り出した。 「冴羽さーん、さっきからステージの方が騒がしいんだけど・・・」 ――香、無事でいてくれ! |
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コーヒーとお菓子のセッティングは終わった、モデルさんたちはまだ来ない。途端に退屈に襲われてしまう。 表の手伝いができればいいのだけど、自分の身も守れないあたしに何ができるだろうか、 みんなの足を引っ張って迷惑になってしまうだけだ。だったらしばらくここにいるしかない。 すでにショー用の衣装は楽屋の隅のハンガー掛けに吊るされていた。今回はブティックのオープン記念ということで 基本的にこのお店に置いてある物をいかに最先端モードにふさわしく着こなすか、がテーマである。 だから新作コレクションのような突飛な衣装は無いけれど、それでもあたしには手の届かないような服ばかりだ。 値札のゼロを数えた時点でこっそり戻してしまうような。 (でも・・・ちょっとだけなら、いいよね?) ハンガーに掛けたまま、大きな姿見で合わせてみる。一応はモデルに合わせてフィッティングが施されてあるので 「なかなか似合うじゃない」 そして見る目の無い約一名のバカを鼻で笑ってみたり。そのとき、 「すいマせーん、トカゲバイク便でース」 まるで密やかな楽しみに気づかれたかのように、急いでさっきまで合わせていたドレスを元に戻す。 「はーい」 大事な小道具を忘れるなんて、絵梨子らしくもない。 ――そういえばあのバイク便、日本語が少し変だったような。 そんなことが引っ掛かりつつも包みに手をかけた、そのとき、 「香っ!そいつを開けるなーっ!!」 そう言われたときには既に包装紙を破り、中の箱の蓋を開けていた。 「かおりーっ」 遠くで絵梨子たちがあたしを呼んでいた。 |
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――かおり、香っ。
誰だろう、あたしを呼ぶ声がする。目を開けなきゃいけない。でも開けられない。何で?だって――。 「おい、起きろバカ香」 「あぁ、よかったぁ。目を覚ましたわ」 そこには心配そうにのぞきこむ絵梨子と長谷さんと、その奥の撩の表情は二人に邪魔されてよく見えない。 「やっぱり冴羽さんじゃなきゃだめね。あたしたちがさんざん呼んでもぴくりともしなかったんだから」 とっさに身を起こすと、立ちくらみを起こしたように目の前が真っ暗になる。 「大成功よ。あのあと妨害らしい妨害も無かったし」 そう、それならよかった・・・その途端、全身から力が抜けたようになってしまった。 「おい、大丈夫か?」 撩が後ろからあたしを抱きかかえる。 「香、ショーも無事終わったししばらく休んだら?長谷さんとも話し合ったんだけど どこか、それまでのあたしが否定されたかのように思えた。 「着いたぞ」 ぼんやりとしている間にクーパーは懐かしの冴羽アパートへと到着した。 「あっ、夕飯の支度――」 撩はああ見えて(どこで身につけたのか)料理は得意だ。だが今日は自慢の料理の味も判らなかった。そして 「さっさと風呂入って寝ろ」 と半ば強引に寝室に押し込められた。 撩に会いたい。 「眠れないのか?」 彼はリビングにいた。手にはバーボンのボトルとグラス。 「お昼寝のしすぎかな、香ちゃんは」 そう笑みを浮かべた。その表情にこちらも、多少ぎこちないけど笑顔になる。 「飲むか?」 「お待たせ」 撩が持ってきたのは耐熱ガラスのマグカップと、不似合いなミルクパン。 「これなら飲めるだろ、寝酒にもちょうどいいし」 「・・・おいしい」 体の芯から温かさが広がっていき、胸の奥の恐怖さえもほぐれていきそうな気がした。 ――撩にこんなに優しくされたことは今まであっただろうか。 その眼はあたしに向けられてきたものではなかった。撩の元を通り過ぎていった、数多の依頼人に向けられたもの。 |
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撩の本心に気づいてから、かつて当たり前だった彼との二人暮らしが気の重いものになってしまった。 事件が終われば撩とはお別れ――だとすればこの時間は、二度目の別れへの準備期間なのだ。 最初のときはあまりにも突然だったからどこかに未練が残っていた、あたしも、そして撩も。 でも今度は、いつのことになるかは判らないけど、それまでには時間がある。だからその間に気持ちの整理をつけなければ。 だけど・・・。 頭をよぎるのはあのときの恐怖、そして――自分の不甲斐無さ。 (シティーハンターの相棒になんかふさわしくなかったんだ、最初から) それに、あのショーのときもバイク便に違和感を覚えながらも荷物を受け取り、開けてしまった。 撩の右頬には、爆弾の破片のかすり傷なのか、大きな絆創膏。 (このままじゃ、あたし、きっと撩のことを――) あれ以来あたしを独りにしなかった撩が、今日は珍しく冴子さんに呼ばれて部屋を飛び出していった。 「はい、冴羽商事――」 言いなれた台詞がとっさに口をつく。 まだ若い男の声だった。ねっとりとした、人に警戒感を与える口調は計算済みか、それとも地か。 「――誰?」 背筋が粟立った。 《と言ってもあなたを傷つけるつもりはありませんがね。いや、ちょっとした脅しですよ。 言葉の一つひとつが執拗なほど神経に障る。 「・・・撩?」 これで、撩を救える。 《じゃあ午後2時に、場所は――》 |
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そして、槇村香は冴羽アパートから姿を消した。 | |
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>静かなスローバラード |