――後悔の日々は
  もう辛い もうCry

香はこんなに小さかっただろうか?

もともと女にしては長身だが、それ以上に伸ばした背筋、物怖じしない態度が
――それはたとえ裏の人間を前にしても――彼女をより大きく見せていた。
しかし目の前にいる香はどうだ。おびえた獣のように身を丸め、自信なさそうに目を伏せていた。
そして色白の頬は紙のように真っ白だった。

香はそんな弱い女じゃない。だからこそ俺は一人送り出してやれたのだ。
しかし何があいつをこれほどまでに臆病に変えてしまったのか――。


vol. 6 失くして気がつく いつでも


香の横では絵梨子さんが肩を抱きかかえるようについていた。

「で、いったい何があったんだ絵梨子さん」
「何があったんだ、じゃないわよ!」

いきなり立ち上がるとグラスが飛び上がるんじゃないかという勢いでテーブルを叩いた。

「いったい香があなたのいない間、どんな思いで恐怖と闘ってきたと思ってるのよ!」

まさか、香が狙われるとは・・・そんな事態を避けるため、
あいつをもうこれ以上血なまぐさい裏の世界に巻き込まないために俺は香を捨てたというのに
それは逆の結果を招いてしまっていた。
今までシティーハンターという強大な楯に護られていたのだ。香を、そして彼女を通して俺を狙う輩も
簡単に手出しはできなかった。しかし俺の庇護を失った香を狙うのは容易いことだった。
最も簡単にシティーハンターに最大限のダメージを与えることができる。
香がもはや俺にとって無価値だというのならともかく――今もなお、最も大切な存在。
だからこそ自分から遠ざけたというのに。

「それで、リハーサルでの件だが最初から香がステージに上がる予定だったのか?」
「いえ、本当だったらモデルが出るはずだったんだけどフィッティングの方が間に合わなくて・・・
だから急遽香に上がってもらったのよ。長谷さんの意見で」
「長谷さん、ねぇ・・・」
「冴羽さん、まさか彼のことを疑ってるんじゃないでしょうね!?長谷さんはただのステージディレクターよ!
そういう世界に関係ある人じゃないってことは私が保証するわ!」
「はいはい、判ったから落ち着いて落ち着いて。それでそのタイミングに香が真下に来るってことは――」
「立ち位置は場ミリで決められてるわ。それにタイミングも、音楽をキューにして大体は」
「じゃあ最初から香を狙ったわけじゃなくても、モデルの誰かの命を奪うなり
怪我を負わせるなりして香を脅迫したとしか――」

すると香はカップを手にしたままわなわなと震えていた。コーヒーの水面が零れ落ちそうなほど揺れる。

「それで冴羽さん、この依頼受けるの!受けないの!」
「依頼っていってもガードするのが香じゃあなぁ・・・。
あ、そうだ。絵梨子さんが紹介料としてもっこり一発払ってくれるなら話はべ――」

商談成立する前に、俺はハンマーでテーブルにめり込まされた。

「か、かおりちゃん・・・?」

ハンマーの下から見上げると、あいつは真っ赤な顔して怒っていた。
それはあのときのままの香だった。思わず安堵の笑みが零れた。

「それじゃあ依頼は成立ということで」

重いハンマーを押しのけ立ち上がる。

「で、来るんだろ?俺の部屋に」
「え・・・?」
「命を狙われているんだ、そっちの方がより安全だろう」

そしてクーパーでの定位置――助手席へと香を迎え入れた。




「納得できませんよ槇村さんっ!」

バンッと勢いよく拳をテーブルに叩きつける。その勢いでカップが横転、報告書がコーヒー浸しとなった。

「あ、すいません」

さっきまでの威勢はどこへやら、やおらハンカチで机の上を掃除にかかる大澤。別に被害は大したことはない。
書いてる途中の報告書だって、あと何分か後には反故紙としてごみ箱行きが決まっているようなものだったし。

「なんで捜査本部が縮小されるんですかっ」
「仕方がないだろう、東京中のヤクザと奴らが勝手に和睦しちまったんだ。当面の危機は回避されたんだから」

上野の組事務所襲撃をはじめとする、謎の外国人集団による一連の暴力団との抗争事件の捜査本部は
規模を縮小されることとなった。終わってしまった事件ではなく現在進行形に連続する事件の捜査という性格上
捜査本部は実質上抗争の警察側対策本部としての役割も持っていたが、
もはやこれ以上の血が流されることはないという確証を得て、本来の捜査のみに当たることになったのだ。

「だからっていいんですか?ドンパチがなければ平和だっていうんですか?」

確かに今のこの状態は血が流れないというだけの極めて消極的な『平和』、
妥協と欺瞞によって作り上げられた偽りの平和、不正義の平和かもしれない。
しかしそれを突き詰めてしまえば正義の戦争というのもありうる理屈になる。それは偏には賛同できない。

「それに奴らだって、今はじっとしてますがまた動き出さないとは限りませんし」

それは自分も同意見だった。だが、俺の結論は刑事と裏の世界での長年の経験から導き出されたものであって
あいつのような駆け出しが直観とはいえそのようなことを口に出すとは思ってもいなかった。

「じゃあ俺たちのやることは一つだ」
「槇村さん・・・」
「いつか動き出す奴らに備えて英気を養うこと。そしてひとたび動き出したら迅速に行動に移すことだ。それと」

デスクの上の書類の山から束をどさっと手渡した。

「事件はそれだけじゃない。下からじゃんじゃん上がってきてるんだ」
「・・・はいっ!」

すると大澤は膨大な書類を抱えて刑事溜りへと戻っていった。
報告書に添えた私見通りに追っていけば、あの山が片付くのに二、三日はかからないだろう。さて、その間、

「一つ本格的に奴らを追ってみるかな」

一つ伸びをすると散らかったデスクを後にした。




なんで依頼人が台所に立ちたがるのか、自分が同じ立場になって初めて判ったような気がする。
食事の支度ならあたしがやるのに、みんな手伝いを申し出るのだ。
中にはレストランのような豪華なメニューが食卓に並び、その度にあたしが肩身の狭い思いをするのだが。
ただ単にあたしたちに気を使っているだけだと思っていた。
しかし、料理という極めて日常的な行為が、命を狙われるという非日常を忘れさせてくれるのだ。

「夕飯の支度ぐらい俺がやるから、お前は大人しくしてろ」
「いいのよ、この方が気が紛れるし。それより撩、あたしがいない間ちゃんとご飯食べてた?」

いつの間にか戻っていたいつものペースに思わず苦笑いにも似た笑みを浮かべる撩。

「それより、今日は飲みに行かないの?」
「ばぁか、お前残して夜遊びできるかよ。命を狙われてるんだぞ、その辺自覚してんのか?」

そうだ。つい今朝まであたしは恐怖に震えていた。
しかしこのアパートに戻ってきた途端、そんなものは全く感じなくなっていた。
住み慣れた雰囲気、何気ない日常、そして撩に守られているという安心感――
普段「男女」「もっこりしない唯一の女」なんて言っていても、いつも撩はあたしのことを守ってくれていた。
それに気がついたのは、口惜しいかな、彼と離れた後だった。
たった一人で恐怖に耐えて夜を過ごすのは心細かった、もう限界だった。

撩がそばにいるだけで、あたしは強くなれる。

今までの依頼人たちがみな最後は撩に縋りつきたくなる気持ちが、ようやく判る気がした。

「ところで、槇村のことなんだが・・・あいつには言ったのか?」

――アニキには心配をかけたくはなかった。あの兄バカで心配性のアニキのことだ、あたしが狙われてるなんて聞いたら、
仕事どころじゃないはずだ。それに、アニキが一番に心配すべきなのはもうこのあたしじゃないのだから。

「アニキには黙っててほしいの」
「でも、俺のところにいるというのは言わなきゃならんし、遅かれ早かれあいつの耳にも入ってくる」
「・・・じゃあさ、あたしたちがよりを戻した、ってのは?」
「えぇっ?」
「何かご不満でも?」
「よりを戻したってのは恋人同士とか夫婦の間に使うもんであって――」

背中の後ろにさりげなくハンマーをちらつかせる。

「ま、いっか。しばらくはそれで通すか」

といってもアニキにとってはむしろこっちの方が心配かもしれないけど。
台所は結構埃がかぶってたり、消耗品がいくつか消えてたり賞味期限が切れてたりしていたが
あたしのいたときとほぼ変わらなかった。
『自分の城』に立ってみて、戻ってきたんだ、という実感が改めてじわじわと湧いてきた。




「おはよーございまーす!」

真新しい壁紙のにおいが鼻につく店内に香の明るい声が響いた。

「やぁ、おはよう香ちゃん」
「心配したんだよ、しばらく顔見なかったからさぁ」

その声にスタッフたちが彼女のもとに駆け寄る。それはショーの演出スタッフだけではなかった。
出演するモデルたちやブティックの関係者、そして内装工事の人間までもが
香の復活に仕事の手を休めて集まってきたのだ。

「皆さんにはいろいろご心配おかけいたしました!」
と90゜に腰を折る。

「でもこのとおりもう大丈夫ですから、オープンまで時間はありませんが、またよろしくお願いします!」
「いやいや、こちらこそ」
「そうそう、香がいない間現場はもう火が消えたみたいだったんだから」
「じゃあ復帰早々お仕事お願いしちゃおっかな」
「はいはい、喜んで♪」

香のガードの初日、いつものボディガードのように依頼人の仕事場までついていく。
俺の許を出ていって、どんな生活を送っているのか、正直心配でもあった。
だが、こうして新しい環境に溶け込んで元気でやっているのなら、何も心配することはなかった。
ガードが終わったら心置きなくまた表の世界に送り出してやれる。

「香、ずいぶん元気になったみたいね」
「なんだ、絵梨子さんか。いいのか、ショー直前だっていうのにアトリエの方放っといて」
「大事な親友を放っとけるわけないでしょ!」
と噛みつく。

「やっぱり冴羽さんがいるだけで違うわね、香」
「えっ?」
「あんなことがあって以来ずっと怯えきってたもの、いつもの香は一体どこに行ったのかって思うくらい。
ここ数日は仕事にも出られなかったし」

Cat'sで久々に会ったときの香の表情を思い出す。真っ白な顔をして恐怖に震えていたあいつはまるで別人だった。

「冴羽さんが側にいるっていうのが心強いのよ、彼女にとって」
「ボディガードが側にいるのが、だろ?」

そう言い捨てるとフロア全体に目を配る。照明に吊り下げ式の大道具、舞台の上というのは意外な凶器に溢れている。
前はスタッフの中に紛れ込んでいたというが、内装工事まで並行して行われている以上、その全員をチェックするのは至難の業だ。

そのフロアの中で一際目立つ男が、俺の方へと視線を向けた。
さっきまで何人ものスタッフに囲まれて指示を出していたが、彼らを残してこっちへ近づく。

「あなたが冴羽さんですね」

おそらくこいつが――

「長谷清秀です」

この場にいるとどちらかといえばモデルに間違えられそうな風貌。背は高く、一般人としては筋肉質だ。
そして――訊かれてもいないのにミックが報告してきたとおり、裏の人間の匂いはしなかった。
さすが世界的なショー・ディレクターだけあって、アングロサクソン風に右手を差し出す。それを拒む理由は無い。
しかし単なる素人相手よりほんの少し力を込めてその手を握った。

「エリから話は聞いてます」

長谷は臆することなく苦笑いを浮かべながら右手をオーバーに振ってみせた。
話は聞いているといっても、どこまで聞いているのか。凄腕のスイーパーということまでか、
それとも香の元パートナーということさえもか。

「早速なんだがあのときの様子を聞かせてくれないか」

知らず知らずのうちに口調が粗雑になる。

「ええ・・・といってもあのときはスタッフ全員気が動転していて、詳しいことははっきりとは覚えてないんですが」
「確か、香の話では照明が落ちてきた直後、外国人らしきスタッフが逃げていったそうだが」
「えっ?」

一瞬、彼の眼が泳いだ。まさか――。

「あ、変な誤解しないで下さい。ただ、
香ちゃ――槇村さんが一番ショックを受けてたのに、そんなことまでよく気がついたなと」
「ああ見えて俺の元・相棒だ。それくらいはできて当然だ。
それより、スタッフにそういう連中が紛れ込む可能性は?」
「照明や音響はそれ専門の業者にお願いしなければいけませんから、こっち側でチェックは――
それに、こういう肉体労働系は最近は人手不足ですから、
不法滞在の外国人でも猫の手も借りたいのが現状でしょう。彼女たちの仕事も
ファッションショーのアシスタント・ディレクターなんていえば聞こえはいいですが、早い話がADですからね」

その香はというと、フロアに散らばるスタッフ全員にコーヒーを配って回っていた。

(まるで雑用係じゃねぇか)

「でもまさか槇村さんがそんな危険の仕事をしてたなんて――
そのことをエリから聞いたのはもう採用を決めた後でしたが、驚きましたよ。
どこからどう見たって彼女は普通の女の子でしたから」

笑顔を振りまきながらコーヒーを手渡すその表情は俺の知っている槇村香だった。




「香さん、撩のところに戻ったそうよ」

訪ねていった東新宿署の署長室でそう聞かされた。もともと仕事なんて有って無きがようなもの、
職場を抜け出し女房のところに顔を出そうがお咎めなしだ。

「麗香が言ってたから間違いないないわ」
「つまり、元の鞘に収まったってことか?」
「ま、そういうことになるわね。ただ、香さん、一人で暮らしていた間、絵梨子さんのショーの手伝いしてたらしいの。
だから本番まではそっちの仕事を続けなきゃならないって」

一度引き受けたからには途中で投げ出すわけにはいかない。それがあいつの性分だし、そう育ててきたつもりだ。

「ねえ、これで安心した?」
「安心って俺は――」
「香さんが出ていってからずっと渋い顔してたわよ。こーんな風に」
と冴子はわざと眉間に皺を寄せてみせる。

渋い顔は香のせいだけではない。むしろそれと前後して厄介な事件を抱え込んだ方が原因だろう。
あれほどの殺戮を繰り返しておきながら、ヤクザたちが平伏した途端、動きを止めたままだ。
東京のアンダーグラウンドの支配権?それだけだったらもっと効率的な方法があるはずだ。

「またしかめっ面してる」
「そうか?」

冴子が眉間を小突く。

「むしろ俺としてはこれで一安心なんだがな」

すると目の前の妻は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で驚いた。

「おいおい、香だってもう立派な大人なんだ。あいつの選択にとやかくは言わんさ」

俺が記憶を取り戻しこの街に帰ってきたとき、かつて俺が占めていた場所を妹がしっかり占めていた。
香はもう立派なシティーハンターのパートナーだった、俺の入り込む隙間の無いほど。
だからこうして警察に復職するほかなかったのだが。

確かに、あのもっこり男に妹を任せなければならないというのは正直心苦しかった。
だが撩は意外なことに香を大切にしてくれていた――あいつに弄ばれてしまうくらいのことは覚悟していたが――。
香も、あんな女好きのパートナーに想いを寄せていれば苦労が絶えないだろう。しかし妹は思ったよりも幸せそうだった。
そして撩も――七年ぶりに逢った相棒はあの頃とは別人だった。
いくらふざけた顔をしていても、あいつの心の奥には氷の壁が余人の侵入を拒んでいた。
だが今の撩はどうだ、香の側では無防備な笑顔を見せている。香が、俺でも溶かせなかったあいつの心を溶かしたのだ。
なら、もし二人が別れてしまったら――撩の心はまた凍てついてしまうだろう。
だから今回のことは兄としてよりむしろ親友として嬉しかった。

「その香さんのショー、今度の日曜ですって」

冴子の眼が意地悪く笑う。あの頃と同じだ、妹との約束で彼女の誘いを断り続けていた頃と。

「行くわけないだろ、香がショーに出るわけじゃなし」
「でも毎日頑張ってるらしいわよ」

いや、裏方だから見に行かないというのはあいつの努力を認めないことになる。
たとえ華やかなスポットライトを浴びなくても、香が懸命に作り上げてきたものをこの目で見てやらねば――
どうせ休日出勤しなければならないほどの身分ではない。そう思ったそのとき――

窓ガラスを揺るがす轟音。とっさに身重の妻を庇った。

「爆弾?」
「かどうかは判らないが少なくとも二、三発同時だな」

うち一つはかなり近い――歌舞伎町近辺か?複数の爆弾をこれだけ同時に爆発させられるとすれば
敵はそれなりの規模の組織――おそらくは“奴ら”。
これで日曜日はショーを見に行けないな、と冷静さを取り戻した頭で計算をめぐらせた。




新宿駅東口、都庁前、そして歌舞伎町の三つの交番で起きた爆発事件は数日にわたってニュースのトップを飾った。

「これじゃアニキ、来られないよね」

奴らは明らかに警察を狙ってきた。いくら閑職に追いやられている槇村でも駆り出さざるを得ないだろう。
ショーの前日だというのに犯人の目星もついていないのだから。

泣いても笑っても今日がラストの最終チェックは深夜にまで及んだ。
といっても新宿ではまだまだ宵の口の帰り道、ガレージに車を入れるとどことなく感じる違和感。

「撩?」

ガキの頃から研ぎ澄ましてきた直感だ、外すことはまずない。

「地下通って麗香のとこに行ってろ」
と言って階段を一歩一歩慎重に登っていった。

部屋には物色されたような跡も、他人の臭いすら残ってはいなかった。
だがそれが却って不自然だった。そこにあって然るべきの香や俺の気配すら希薄になっていたのだから。
だが、痕跡が無い以上、一つひとつ確かめなければならない。リビング、キッチンを時間をかけて調べたが
危険なものは何も見つからなかった。となると俺の部屋――いや、その前に香の部屋だ。

客間として使うためにほとんどの荷物は残したままだったが、香がいるのといないのとでは部屋の空気が全く違っていた。
その隅々、引き出しの中までも眼を光らす。丁寧に畳まれた下着に心惹かれるが、今はそれどころではない。
ベッド脇のサイドテーブル、引き出しを開けた一番上にはフレームに収められた槇村と香の写真があった。
兄の不在の間、何度もその写真に向かって語りかけていた香の姿が眼に浮かぶ。
その下に何枚かの写真が無造作に重ねられていたが、一番下のは見るも無惨なものだった。
それは最初からひどいものだった。そこには十年以上も前に、どこかのシュガーボーイが撮った
緩みきった顔の俺が写っていたのだから。だが、さらにひどいことに
その緩みきった顔が刃物で滅茶苦茶に切り裂かれていたのだ。

「あいつ、まだこんな写真持ってたのかよ」

だがこいつは見せられなかった。今の香はショーに集中させてやりたかった。
もう深夜だというのに麗香は香をカフェインレスのコーヒーでもてなしていた。

「撩、どうだった?」

俺が入ってくるなり、香が不安そうな表情で訊いてきた。

「いや、何でもなかった。俺の早とちりだ」
「ふーん、撩でもそういうことってあるんだ」

ポケットの中にはズタズタの写真。もし香が相棒のままだったら、こんな嘘は吐かなかっただろう。




――撩、起きなさい!

わぁってる、あと5分だけ。二日酔いの頭に怒鳴り声がハンマーのように響きやがる。

――本当に5分経ったら起きてくるんでしょうね。起きてこなかったらハンマーだからね!

その上本物のハンマーを喰らったらたまったもんじゃない。約束の5分に大分残して寝室から降りてくる。
階段から鼻腔をくすぐるのは朝食と、香り高いコーヒーの匂い。そして俺を待っているであろう香の笑顔。ついつい歩速が早まる。
しかし、二日酔いの寝ぼけ眼で階段を駆け下りようとすると・・・足を踏み外すわけで。

「撩!?」

気がついたら香が驚いて俺の顔を覗き込んでいた。ということは本当に階段から落ちたのか。
昨夜は念のために香を麗香のところに預けて、俺は奴らの手がかりを探りに夜の街へ――のはずが
あいつに対して「ボディガードと依頼人」という距離を縮められない自分に嫌気がさしてのヤケ酒にいつしかなっていた。
結局、アパートに戻ってきたのは何時だっただろうか。

だが香はそんな俺にはお構いなしに、このアパートに戻って朝食の支度をしていたわけだ。

「今日がショー本番なんだからね。それが、『ボディガードが寝坊して遅刻しました』じゃ済まされないじゃない」
「へぇへぇ」

香がいたころは、朝に限らずコーヒーはいつもインスタントではない、挽きたてのペーパードリップだった。
サーバーの上のドリッパーにセットされたフィルターに、手動のミルから中挽きの豆を入れる。
そして先の細まったやかんで器用に円を描きながらお湯を注ぎこんでいった。
まずはコーヒー豆を湿らす程度に。豆を蒸らしたら今度はドリッパーに並々と。
するとガラスのサーバーに一滴ずつ琥珀色の滴がしたたり落ちていく。
今までそんなものに目を向けてきただろうか、そんなありふれた光景に。だが今は、そんなものが途轍もなく愛おしかった。
ずっと飢えてきたのだ――コーヒーの匂い、他愛もない会話、そして、香のいる日常。
これこそが俺の求めていたものだった。

馬鹿馬鹿しい。香はただの依頼人、敵の正体が明らかになりそいつらを一網打尽にできればここにいる理由は無くなる。
そして、こんなおままごとのような日常は終わりを告げるのだ。
また俺は独りきり――それが俺にとっての“日常”なのだから。




「大道具入りまーす」
「マイクどこいったー?」

本番当日ともなれば舞台裏は慌ただしさを極める。
まして、ブティック内でのショーはオープンまでに総ての準備を終えなければならない。
それまでにやはり準備を終えたい店側のスタッフとの声が交錯する。

しかし、未だモデルはおろかヘアメイクもスタイリストも来ていない楽屋はそんな喧騒とは無縁だった。

「いいのかよ、表の手伝いしてこなくても」

香はそこで一人コーヒーなどの準備をしていた。

「だって、あたしみたい半人前があんな修羅場にいても足手まといになるだけでしょ。それに――」

あれだけの混雑の中、奴らが入り込むのは難しいことではない。そして、その中で狙われた場合、周りにも被害が及ぶ。
だったら裏で自らを隔離した方がいい、というのが元・シティーハンターのパートナーの香の計算なのだろう。

「ところで撩、いつまでここにいる気?」

香の表情が険を帯びたものに変わっていた。

「ここは女性モデルの控え室よ。まさか撩、あたしのボディガードにかこつけて――」
「そりゃあもちろん撩ちゃんも一緒にモデルさんのお手伝いしないと♪」
「おんどりゃ自分の仕事をわきまえとんのかぁーっ!」
と特大『勤労意欲注入』ハンマーで楽屋から追い出された。

前言撤回、あいつは自分が狙われてるのをわきまえてるのかよ。しょうがない、
表に不審人物がいないかでもチェックしてくるか。長谷から渡されたインカムのイヤホンを耳に挿した、その途端、

ガリガリガリガリッ!

まるで頭蓋骨を下ろし金ですり下ろしたかのようなノイズが鼓膜に響いた。
何事かと表にすっ飛んでみたら、やはりそこも混乱に包まれていた。

「一体どうしたんだ?」
「あっ、冴羽さん」

スタッフたちが長谷の周りを十重二十重に囲んでいる。そして彼は専門外の音響ブースにしがみついていた。

「さっきからインカムが通じないんですよ。だから音響担当の人に機材を見てもらってるんですが――」
「機材には異常は無いですね」
と音響オペレーターが言う。

「おそらく妨害電波だろう。このフロアのどこかに発生装置があるはずだ」

フロア全体に効率よく電波を飛ばすなら…ステージ真上のキャットウォークを見上げた。
絵梨子さんのブティックは中心に広くスペースが空いていて、今回はそこをショーの会場にしようというのだ。

仮設の梯子を昇り、その名の通り猫しか通れないような狭い通路を歩く。高所恐怖症なら足がすくむところだ。
あった。それは逃げも隠れもせず、通路の真ん中に堂々と鎮座していた。
ナイフの先でねじを開け、中のコードを切断する。試しにインカムを耳に当てた。もう雑音はしなかった。

ようやく一息つくと、下の様子が目に入ってきた。相変わらず長谷の周りをスタッフたちが取り巻いている。
インカムが使えなければ直接指示を聞くしかないし、そうでなくても物見高い連中は仕事の手を休めて集まってくる。
おそらく、長谷の部下はほとんどじゃないか?ほぼ毎日一緒に働いていれば(美人を中心に)顔も覚える。
ということは・・・香は楽屋に独りきり!奴らはスタッフ全員をステージに集めるためにわざわざインカムを――。

次の瞬間、俺は狭いキャットウォークの上を走り出した。

「冴羽さーん、さっきからステージの方が騒がしいんだけど・・・」
「絵梨子さん、妨害電波の装置はバラした!」
と言って黒い箱の残骸を押しつけた。

――香、無事でいてくれ!




コーヒーとお菓子のセッティングは終わった、モデルさんたちはまだ来ない。途端に退屈に襲われてしまう。
表の手伝いができればいいのだけど、自分の身も守れないあたしに何ができるだろうか、
みんなの足を引っ張って迷惑になってしまうだけだ。だったらしばらくここにいるしかない。
すでにショー用の衣装は楽屋の隅のハンガー掛けに吊るされていた。今回はブティックのオープン記念ということで
基本的にこのお店に置いてある物をいかに最先端モードにふさわしく着こなすか、がテーマである。
だから新作コレクションのような突飛な衣装は無いけれど、それでもあたしには手の届かないような服ばかりだ。
値札のゼロを数えた時点でこっそり戻してしまうような。

(でも・・・ちょっとだけなら、いいよね?)

ハンガーに掛けたまま、大きな姿見で合わせてみる。一応はモデルに合わせてフィッティングが施されてあるので
あたしでも少々袖丈が長かったりウエストが細すぎたりはするのだが、

「なかなか似合うじゃない」

そして見る目の無い約一名のバカを鼻で笑ってみたり。そのとき、

「すいマせーん、トカゲバイク便でース」

まるで密やかな楽しみに気づかれたかのように、急いでさっきまで合わせていたドレスを元に戻す。

「はーい」
「小道具を忘れテしまったトいうのデ、お届けニあがリましタ」
と言って小さな包みを手渡された。

大事な小道具を忘れるなんて、絵梨子らしくもない。
今日の衣装がハンガーに掛かっているあたりに、靴はその下に整然と並べられており、その他のアクセサリーも
それぞれの持ち場についていた。だが今手渡された包みは万が一のことが無いように厳重に包まれていた。
だったら出してすぐ身につけられるように並べてやった方がいいんじゃないか。

――そういえばあのバイク便、日本語が少し変だったような。

そんなことが引っ掛かりつつも包みに手をかけた、そのとき、

「香っ!そいつを開けるなーっ!!」
「えっ?」

そう言われたときには既に包装紙を破り、中の箱の蓋を開けていた。
その中身は――確かめる前に撩がそれを掴み、とっさに衣装の方へと投げ捨てた。
そしてあたしをコートの中にくるみ、自分の身を楯に床に伏せた。
次の瞬間、襲いかかる爆風。
しかし撩はあたしの顔をぎゅっとその厚い胸に押し当てていた。
彼の上を爆発の衝撃波が駆け抜けていく。そして、

「かおりーっ」
「香ちゃーん!」

遠くで絵梨子たちがあたしを呼んでいた。
でも耳に響くのは早鐘を打つ心臓の音。それは撩のものか、それともあたしのものかは判らない。
ただ判るのは、彼が庇ってくれなければあたしは死んでたということ、命を狙われていたということ。
まさか、そんな――今まで感じたことのない恐怖に、あたしの意識は遠のいていった。




――かおり、香っ。

誰だろう、あたしを呼ぶ声がする。目を開けなきゃいけない。でも開けられない。何で?だって――。

「おい、起きろバカ香」
「誰がバカですって!?」

「あぁ、よかったぁ。目を覚ましたわ」

そこには心配そうにのぞきこむ絵梨子と長谷さんと、その奥の撩の表情は二人に邪魔されてよく見えない。

「やっぱり冴羽さんじゃなきゃだめね。あたしたちがさんざん呼んでもぴくりともしなかったんだから」
「撩じゃなくてもあんなこと言われれば目が覚めるわよ。あっ、そういえばショーは――」

とっさに身を起こすと、立ちくらみを起こしたように目の前が真っ暗になる。
ふらつきそうになるあたしの背中を太い腕が支えた。

「大成功よ。あのあと妨害らしい妨害も無かったし」
「でも衣装・・・」
「あー、あれなら大丈夫だったわ。どれもお店の売り物だし、
それをサイズ調整しなきゃならなかったけど間に合わなかったものは無かったし」

そう、それならよかった・・・その途端、全身から力が抜けたようになってしまった。

「おい、大丈夫か?」

撩が後ろからあたしを抱きかかえる。

「香、ショーも無事終わったししばらく休んだら?長谷さんとも話し合ったんだけど
ただでさえ慣れない仕事だった上に命を狙われてたんだから」

どこか、それまでのあたしが否定されたかのように思えた。
でも今のあたしじゃみんなの迷惑だ。絵梨子の言うように、仕事は休んだ方がいいのかもしれない。
となると・・・四六時中、撩とあのアパートで二人きり。また、あの頃と同じ生活に戻るだけだ。

「着いたぞ」

ぼんやりとしている間にクーパーは懐かしの冴羽アパートへと到着した。

「あっ、夕飯の支度――」
「俺がやる。お前は休んでろ、今日はいろいろあったんだから。なんだったらピザでも頼むか?」

撩はああ見えて(どこで身につけたのか)料理は得意だ。だが今日は自慢の料理の味も判らなかった。そして

「さっさと風呂入って寝ろ」

と半ば強引に寝室に押し込められた。
だが寝ろと言われても昼間の出来事でざわついている神経がそう簡単には鎮まらなかった。
今でも恐怖が体から抜けない。もう危険は目の前には無いというのに、あのときのように動悸が止まらなかった。
見えない何かから身を庇うように、ぎゅっと自分の体を抱きしめた。
――あのときは撩が守ってくれた。あのぬくもり、匂い、胸板の感触までありありと思い出せる。
きっと、数々の依頼人もまた自分を庇う撩の体温を頼もしく思っていただろう。
そして予期せぬ恐怖から救ってくれると固く信じたに違いない。

撩に会いたい。
顔を見ればきっと安心して眠りにつけそうな気がした。

「眠れないのか?」

彼はリビングにいた。手にはバーボンのボトルとグラス。

「お昼寝のしすぎかな、香ちゃんは」

そう笑みを浮かべた。その表情にこちらも、多少ぎこちないけど笑顔になる。

「飲むか?」
とグラスを軽く掲げる。でも、バーボンのストレートじゃあたしには強すぎる。
そのことに気づいたのか、撩は
「ちょっと待ってろ」
と言ってリビングを後にした。立ち去り際にレコードの針をそっと落として。
流れてきたのは静かなスローバラード。バラードに合わせてキッチンで撩が鼻歌を口ずさむ。
その声がレコードのメロディに乗って、まるでたった独りきりのリビングの中、撩の歌声に包まれているような気がした。

「お待たせ」

撩が持ってきたのは耐熱ガラスのマグカップと、不似合いなミルクパン。
マグにさっきのバーボンを入れ、そこに温めた牛乳を注いで軽くかき混ぜた。

「これなら飲めるだろ、寝酒にもちょうどいいし」
とマグカップを差し出した。そのぬくもりが心地よかった。

「・・・おいしい」

体の芯から温かさが広がっていき、胸の奥の恐怖さえもほぐれていきそうな気がした。
目の前では撩が穏やかな表情であたしを見つめていた。

――撩にこんなに優しくされたことは今まであっただろうか。

その眼はあたしに向けられてきたものではなかった。撩の元を通り過ぎていった、数多の依頼人に向けられたもの。
いつか去ってしまうと判っていれば、無責任に優しくできる。
撩の心遣いは嬉しかった。でも、かつての素っ気なさがどこか懐かしかった。




撩の本心に気づいてから、かつて当たり前だった彼との二人暮らしが気の重いものになってしまった。
事件が終われば撩とはお別れ――だとすればこの時間は、二度目の別れへの準備期間なのだ。
最初のときはあまりにも突然だったからどこかに未練が残っていた、あたしも、そして撩も。
でも今度は、いつのことになるかは判らないけど、それまでには時間がある。だからその間に気持ちの整理をつけなければ。
だけど・・・。

頭をよぎるのはあのときの恐怖、そして――自分の不甲斐無さ。
結局あたしは撩の強さにすがりついてしまった。そしてその腕の中で安堵してしまったのだ。数多の依頼人のように。
彼にふさわしいパートナーになりたかった。守られるだけの女にはなりたくなかった。
そして、彼のそばで強くなれたと思ってた。相棒にはなれなくても、独りで生きていけるぐらいには。
だが、あたし自身が強かったんじゃない。撩がいたから・・・撩がいなければ、あたしはこんなに弱い女だったのだ。

(シティーハンターの相棒になんかふさわしくなかったんだ、最初から)

それに、あのショーのときもバイク便に違和感を覚えながらも荷物を受け取り、開けてしまった。
少なくとも開ける前に確かめて――そもそも怪しい荷物なら開けないのが鉄則だったはずだ。
我ながら、撩と離れている間にすっかり勘が鈍ってしまったものだ。

撩の右頬には、爆弾の破片のかすり傷なのか、大きな絆創膏。

(このままじゃ、あたし、きっと撩のことを――)

あれ以来あたしを独りにしなかった撩が、今日は珍しく冴子さんに呼ばれて部屋を飛び出していった。
きっと、あたしには聞かれたくないことなんだろう。
そのとき、電話のベルが鳴った。

「はい、冴羽商事――」

言いなれた台詞がとっさに口をつく。
《槇村…香さん、ですね》

まだ若い男の声だった。ねっとりとした、人に警戒感を与える口調は計算済みか、それとも地か。

「――誰?」
《先日あなたに贈り物をしたものですよ》

背筋が粟立った。

《と言ってもあなたを傷つけるつもりはありませんがね。いや、ちょっとした脅しですよ。
我々の真の狙いが何なのか、頭のいいあなたならお判りのはずですよね》

言葉の一つひとつが執拗なほど神経に障る。

「・・・撩?」
《ええ、いかにも。しかし、あなたが決断していただければ、シティーハンターにはもう手出しをしません》
「で、あたしに何をしろと?」
《なぁに、簡単なことですよ。我々との取引に応じて下さればいいだけの話です》
「――判ったわ」

これで、撩を救える。
ごめんなさい、今にあたしにとってこれがあなたのためにできる唯一のことなのだから。

《じゃあ午後2時に、場所は――》




そして、槇村香は冴羽アパートから姿を消した。

>静かなスローバラード
ここは『LONELY LULLUBY』しかないでしょう!歌詞的にも。
ちなみに撩が香に作ってあげたカクテルは『ホット・カウボーイ』


TVだと30分のシナリオ書けそうなほど長くなってしまいました【爆】

Former/Next

City Hunter