「はい、これが科捜研の報告書」 その日、俺は冴子にCat'sへと呼び出されていた。 「あの爆弾、結構な威力だったみたいよ。大きな被害は出さなくても、開けた人間は命を落とすか――」 嫁入り前の香の顔に傷跡を残すようなことがあれば、あのシスコンの兄バカに 「聞いてなかったわ、香さんがそんな危険な目に遭ってたなんて」 冴子が知ればその夫の槇村にも知れる。あの兄バカの耳にだけは入れたくなかった。 「ねぇ、この事件、本当に警察で処理していいの?」 誰が香を狙おうと構いやしない、俺の仕事はただ彼女を守ること。そう思っていた、そのときまでは。 |
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vol. 7 眠れるナイフ |
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香さんが消えた。アパートから忽然と姿を消した。 「あいつの意志で、出て行ったんだな」 その知らせを聞いて私を含む関係者の面々が、約一名を残してアパートへと駆けつけていた。 「だからといって撩、香さんのことを探さない気!?」 「荷物は何も手をつけてない。ここを出たきり帰ってこないというつもりは無かったはずだ」 ようやく襟元から手を放す 「ったくあのバカ、また一人でホイホイ呼び出されやがって」 ミックの言う通りだ。 《じゃあ午後2時に、場所はKプラザホテルのロビーで》 撩が小型テープレコーダーの再生ボタンを押した。 「ちょっとそれ、まさか――」 今度は麗香が彼に詰め寄るが、それを制した。 「で、受信機は見つかったの?」 そう美樹さんがため息をついた。もう時計は3時を過ぎている。 「いや、行くだけ行ってみよう、Kプラザホテルに。誰か目撃者がいるかもしれないし―― この場に彼はいなかった。自らの身を守るため裏の世界から距離を置いていた槇村は 「ああ。ここにいるはずの香がいなくなったんだ、そうそう隠し通せるもんじゃないだろ」 右頬には痛々しいガーゼ、そしてその眼は確然とした決意に燃えていた。 |
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だが、捜査は難航を極めた。 平日とはいえ人の多いロビーで香の目撃談はほとんど得られなかった。 そして俺の方はというと、香が男と一緒にホテルから出て行ったというタレコミがあったが その先をたどっていったところでぶち当たったのが、とある情報屋の死体だった。 そこから香の足取りは途絶えた。 |
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そんなときだった、あの男と出会ったのは。
「もう交番の中は血まみれでしたよ。ようやくマグロの刺身が食えるようになったっていうのに」 「つまりは以前の組事務所襲撃と同じ惨状だったわけだ」 東口、都庁前、そして歌舞伎町交番で起きた同時爆発を皮切りに、警視庁管内では警察を狙った事件が相次いでいた。 「それで、銃は残ってたのか、それとも――」 大澤は拳を握りしめたきりうつむいていた。 「どうした。まさかスプラッターに怖気づいたのか?」 がばっと顔を上げるなり食ってかかった。 「前ので一応免疫はつきました!ただ、後から来た連中が・・・」 警察を狙った犯行、となると犯人は反体制的なグループという可能性は高い。そうなると彼ら公安部の出番だ。 そしてそれは、香の手がかりにも手が届かなくなるということだった。 今回の手口からいって連続警察官襲撃とヤクザへの襲撃の犯人は同一グループ、そしてやくざを襲撃したグループが 香の事件を知り、無力ながらも今まで以上に奴らの動向には注意していたつもりだ。 苛立ちはニコチンの欠乏感という生理的な欲求へとすり替わる。 「先輩、どこ行くんですか」 廊下の自販機のセブンスターのボタンを押している、丁度その時に、 「槇村秀幸警部補ですね」 背中から声がかかった。 「何の用だ」 その男につきあうより取り出し口の煙草を拾う方が先だ。 「妹さんのことでちょっとお耳に入れたいことが」 ようやく腰を上げて男を見た。間違いなく俺たちの商売敵――公安の刑事だった。 「妹さん・・・確か香さん、でしたっけ。被害届が出ていましたよね。 そんな言葉を無視して男は先を進めた。 「もちろん、只でとは言いません」 俺たちの生殺与奪を握っているのは彼らだ。警察を追い出す、 「これはあくまで私とあなたの個人的な取引、公安の総意というわけではありません。 そう言って男はもと来た道を引き返していった。 「そうそう、一つあなたにお教えしましょう」 「品物を多少なりとも見せなければ取引にはなりませんからね。 |
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「ナーガだって!?」
海坊主が告げた名は裏の世界で生きている人間なら知らなきゃモグリだ。 「ああ。傭兵時代の知り合いで昔奴らとやりあったのがいて、そいつがその中の一人を見たと言ってた。 ナーガは東南アジアの某国で共産ゲリラの精鋭を率いていた指揮官だ。 昼下がりのCat's Eye、喫茶店の稼ぎ時だというのに『Closed』の看板を掛けた中は臨時の前線基地となっていた。 「だがおかしいな、ナーガは死んだっていう話じゃないか」 ミックの不用意な言葉一つで、美樹をはじめ店の中が騒然となった。 「それは本当なのか?」 麗香が口をはさむ。 「70年代ごろから指揮官として名を馳せていたんだから若くても当時30代、今は・・・50代か、60ってとこだな」 ふと、(オヤジと同じくらいだな)との考えがよぎった。だが、 「敵の正体が判ったからといって、香がどこにいるか判ったわけじゃない」 「そうだな、この国のヤクザならともかく、日本と縁もゆかりもないゲリラの残党じゃアジトも掴めん」 とすっかり記者稼業の染みついたミックは新たな情報を求めてCat'sを飛び出していった。 「そうね、じゃあ私はもう一度警察の資料を当たってみるわ」 「探偵風情じゃ何の役にも立たないかもしれないけど、情報屋にもう一度訊いてくる」 残されたのは俺一人。 「撩・・・」 拳をカウンターに叩きつけた。その勢いでカップとソーサーが跳ねる。 香が目の前から消えて、初めて気がついた。これこそが偽らざる本心だと。 |
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拉致され誘拐されたからには、コンクリート張りの部屋に押し込められて手足の自由を奪われて食事もコンビニ弁当で・・・ というのを長年の経験から予想していた。だからこそこの現状は快適ながら違和感を覚えてしまう。 東京湾を望むオーシャンビューのスイートで軟禁状態。 ホテルのロビーで会った男は声の通りまだ若かった。撩と変わらないくらいだろうか。 部屋の中では自由に動けるけれど、もちろん監視が付いている。サブマシンガンを持った東南アジア系の外国人だ。 「あなたは誰?」 そう流暢な日本語で男が言った。 「不自由かもしれないがしばらくここで過ごしてくれ。足りないものがあれば何だってこっちで用意する 一目で外国人と判った。 「私は隣の部屋にいる。呼んでくれればいつでも来よう」 そう言って彼は部屋を出て行った。 だが、監視の腕は確からしい、もちろんあたし以上に。 今、自分がどこにいるかも判る。敵の顔も。だがそれすら撩に伝えられない自分が歯痒かった。 「やぁ、大人しくしてたかい?」 男がどこかから帰ってきた。 「部屋が暑いから窓を開けてって言ったのに聞いてくれなかったわ」 そうなのだ。だが、こんな至れり尽くせりの状況に置かれれば、自ずと緊張感も薄れてしまう。 彼は配下たちの母国語で一言二言伝えると、要望通り部屋の窓が開けられた。そして、東京湾から涼しい風が入ってくる。 「それにしても冴羽も無能だな、まだここが突き止められないとは」 そう言われると、捨てたはずのパートナーでもカチンとくる。 「撩は・・・ここには来ないわ」 それはあたしの希望だった。 「君は自分の本当の価値に気がついていない。奴は君を助けるためならどんな危険も顧みないはずだ」 そう笑み男は笑みを浮かべた。 「そのかわり、警察がやかましく動いているらしい」 警察が動いている、それは撩があたしを見捨てた証拠。 ――撩、助けに来ないで・・・。 そう願ったのは生まれて初めてだった。 |
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公安主導の捜査本部とは別に北方課長が動いている、というのは勘づいていた。 だが、勘の域を出なかったのは自分が直接そこにタッチできる身の上ではなかったからだ。 今の仕事は特捜課に上がってくる調書読み、他の刑事たちのように手がかりを求めて現場を動き回るようなことはできない。 それはつまり、たとえ香を捜すためであっても自由には動けないということだった。 心が揺れる。 「槇村主任」 今日もまたこの後輩がひょこひょこやって来た。捜査の現場に出ることはできない。 「ああ、大澤か。どうなんだ、捜査の方は」 見返りは一杯のコーヒーと、ほんの少しのアドバイス。それでお釣りがあり余るほどの話が聞ける。 「それがさっぱりですよ。捜査本部の方は公安が仕切ってますし、先輩方の話では あれだけの頭数を一度に運んだとなれば、警察が気づかないはずがない。というと、正々堂々正面からか。 「入管を洗ってみた方がいいな。東南アジア国籍の怪しいパスポート、それと偽造屋にもだ」 そう助言をしてやれば、この人のいい青年はすぐさまその通りに動き、結果を持ち帰ってくれるはずだ。 「そういえば主任って妹さん、いらっしゃるんですよね」 大澤が唐突に訊いてきた。 「あ、ああ。誰から聞いたんだ?」 まだ顔と名前が一致しないもんで、と頭に手をやる。 「随分と大事にされてるそうじゃないですか。ねぇ、美人なんですか、年はいくつなんですか?」 未だにそんな噂が生き残っていたとは・・・俺が一遍警察辞めて、もう何年が経ってるというのだ。 (そういえば・・・) 大澤もおそらく香と同じくらいの歳だろう。まだ頼りない新入りだが、なかなか筋はいいし、誠実そうな好青年だ。 「ねぇ、一度会わせてくださいよぉ」 ぴしゃりと跳ねのける。そもそもその妹は行方知れずなのだから。 「やっぱり、噂は本当だったんだ」 きまり悪そうに顔を伏せた。 「そうだな、お前が一人前の刑事になったら、そのときは妹に紹介してやる」 未だ顔も見たことのないくせに、大澤は瞳をきらきらと輝かせてかぶりついてきた。 |
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ガンオイルを浸みこませたパッチをクリーニング・ロッドの先端に付け、銃身に通す。シリンダーももちろん忘れない。 そして、ブラシで内側にこびりついたカーボンをこそげ落とす。 リボルバーはオートマチックと違い、こまめに清掃する必要はない。ときどきこうやってカーボンを落としてやればいいだけだ。 とはいえ、いつこいつが必要になるか判らない状況だ、手入れできる余裕があるときにしておくに越したことはない。 というのは言い訳だった。何かしていなければどうにかなってしまいそうだ。 残ったカーボンをクリーニング液に浸したパッチで落とす。あとは空拭きして油を拭き取ればいいだけのところで、ミックが来た。 「Hey, Ryo!」 部屋に飛び込んでくるなり、一瞬ミックが後ずさった。 「What's happened, guy(何の用だ)?」 「内戦からの復興事業で日本への留学生を受け入れている団体がある。 留学生という身分で奴らはこの日本に入り込んできたというのか。 「だが、復興事業っていうんならその団体は新政府の息がかかってるんだろ?」 となるとナーガの旧敵ということになる。 「だがそいつのあちら側の理事ってのの中に、国連PKOで反政府ゲリラの武装解除の担当官だった奴がいたんだ。 理事という立場なら、その中にナーガの残党を押し込むのも難しいことではない。 「じゃあ奴ならナーガの今の居場所も知ってるかもしれないんだな」 そりゃ好都合だ。手入れの済んだパイソンのシリンダーに銃弾を押し込むと、片手で元に戻した。 |
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その疑惑の団体はここ新宿からさほど遠くない四谷のビルの一室にあった。 オレだって一刻も早く踏み込みたい、他の誰でもないカオリのためだ。だが、その理事様の在室を確かめるのが先だ。 目指す当人がビルにいなければ無駄足になる。 「なあリョウ、お前、カオリを取り戻したらどうするつもりだ?」 クーパーの後部座席――助手席に乗り込もうとしたら当然のごとく後ろへ追いやられた――から 「まさかいつかみたいに『カオリを助け出す、そしてsay goodbye』なんて言わないだろうな」 以前カズエからそんなセリフを聞いたことがあった。まだまだカオリを手放そうとしていたくらい昔の話だ。 「今は香を助け出す、ただそれだけだ」 そうあいつは言い切った。 「そこから先のことは助けてからだ。今は目の前のことに全力を尽くす、それしかないだろう」 その通りだ。今は余計なことを考える余裕なんて無かった。双眼鏡に目を凝らすと、 「Gotcha!」 お目当ての理事が応接室のソファにふんぞり返っていた。 「何でついてくんだよ、昔のお前ならともかく」 そう言い合いながら非常階段を駆け上っていった。 「ちょっとお話があるんですがMr. Trustee?」 あくまで口調はいつものアポなし取材のようににこやかに。 「何だね君は、いきなり失敬な」 名刺交換は社会人の基本。 「それでは、単刀直入に申しましょうか。ナーガの今の居場所をご存じありませんか?」 とっさにガチャガチャと響く金属音。振り返れば厳ついボディガードがぐるりと俺たちに銃口を向けていた。 「Heavens!スコーピオンにAK47!たしか新政府軍は米軍の支援を受けてるはずじゃなかったっけか?」 リョウが背中合わせに立ちボディガードを牽制する。 「ボロが出ましたねMr. Trustee。ということはこいつらもナーガの同志」 苦渋の表情を浮かべた理事はデスクの引き出しから銃――こっちはコルト・ガバメント――を取り出そうとした。 「うがっ、指が・・・親指がっ!」 血まみれの右手を抱えてうずくまった。 「余計なことはしない方が身のためだ。 その眼は凍えるほどの冷たさを湛えていた。かつての『Grim Reaper(死神)』と呼ばれた眼―― 「・・・我々を殺せば、ナーガの手がかりは得られないぞ」 その情報を持ってきた奴が聞いたら殴りかかりたくなるようなセリフを吐き捨てた。 「お前を殺しても俺は何の得にもならないかわりに損もしない。 彼らの母国語でカウントダウンを始める。そして、 「ソーン(ゼロ)」 ほぼ同時だった。そしてそれ以外の音は無かった、銃声さえも。 「じゃあ用件は済んだな」 |
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時計を確かめる。 PM9:06、残業帰りとしては普通の時間だろう。 だが、窓際刑事に残業など無い。たとえ、周囲が連続警官襲撃事件に追われようとも。 ただ、毎日定時帰宅では怪しまれるのでときどき居残ってすぐ出す当てもない報告書を書いたり それすらないときは溜まっていた雑誌に目を通したりしていた。 「ただいま」 独身の頃のように名字だと他人行儀だし、かといって呼び捨てだと馴れ馴れしすぎる。 「先に食べててもよかったのに」 ――いつの間に「野上」が「冴子」となったのだろうか。 「今日も仕事?」 テーブルから立ち上がると、甲斐甲斐しく背広を脱がす。 「――嘘」 妻の目は容疑者に向けられる眼だった。 「判ってるのよ、あなたの今置かれている状況ぐらい。これでも今も特捜課にはソース(情報源)がいるんだから」 そして、平手が飛んだ。 「それを覚悟で一緒になったんじゃない!あなたの人生の半分を私に背負わせて、って。過去も、未来も、総て」 そういうと泣きじゃくりながら腕の中に飛び込んだ。 「だからお願い、隠し事なんてしないで。あなたの力になりたいの。仕事の愚痴だって、何でもいい」 仕事の、愚痴・・・やはり刑事だった父の後ろ姿が瞼に浮かぶ。 「それは・・・できない」 職場で捜査に追われ、そのうえ家に帰っても捜査では気の休まる時間は無いじゃないか。 「ええ、そうよ」 と言いきった。 「――わたしね、撩と香さんが羨ましかった。 事実、短い間であったが俺と冴子は警視庁内で知らぬ者はいない名コンビだった。 「だからわたしはあなたの妻である前にパートナーでいたいの! 生涯のパートナーでありたい、その思いは同じだった。 「それに・・・わたし、秀幸さんにいっぱい愚痴聞いてもらうつもりだったんだから」 そう冴子は涙を浮かべながら微笑んだ。 「だからあなたもその分いっぱい愚痴こぼしていいのよ」 確かに彼女は頼れる相棒だった。ただの妻や母親に縛りつけておくのは勿体なかった。 「今は・・・君にも言えない」 だが――俺は一人じゃない――そうはっきりと確信が持てた。 |
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あの男に二度目に会ったのは、警視庁の屋上だった。 南に日比谷公園、北に皇居の緑を望む東京とは思えないこのロケーションは、現実逃避にはうってつけの場所だった。 あのような煙草と血なまぐさい事件のにおいしかしない空間では鬱々とした閉塞感だけがつのっていく―― そして、実の妹に対して何もしてやれない焦燥感。 今はまだ一課の特殊班――誘拐事件専門のプロ――の扱いだから表だって動けない。 だが何の動きもない以上、特捜課に上がってくるのも時間の問題だ。だが、今の俺では・・・。 空を見上げれば五月晴れという名にふさわしい澄み切った青。 「槇村警部補、考えていただけましたか?」 前は薄暗い廊下でだったが、太陽の下でさえこの小柄な男はどこかうすら寒い影を帯びていた。 「あなたも刑事なら誘拐捜査の鉄則をご存じのはず。時間が経てば経つほど人質の生存率も下がる一方。 それに香はまだ無事だとの確信があった。奴らの目当ては彼女自身ではないのだから。 「いやぁ、それは失敬。まだあなたにお名前を明かしておりませんでしたね。 そう言った男の容貌を改めて確かめる。確かに落合という感じもするし、その名が不似合いな感じもする。 「何で外事でもないあんたがナーガを追ってるんだ?」 公安一課は主に国内の過激派の取り締まりに当たる。ナーガのような国外のテロリストは同じ公安部でも外事の仕事だ。 「――しょうがない、そこまで言うんだったら教えて差し上げましょう。これはサービスです」 「ナーガは日本人です。本名は生島竜一、60年代から70年代にかけて学生運動、後に反政府極左ゲリラの活動家でした。 そこから先は世界中の知るところだ。彼は現地の共産主義勢力の中で頭角を現し 「それで、彼はなぜ日本へ?」 さあ、と落合は大げさに肩をすくめた。 「ただ、奴もだいぶ歳ですからね。故郷が恋しくなったんでしょう」 その答えに未だ釈然としないものが残る。 「これで判断材料はそろったはずです。槇村警部補、いいお返事を待ってますよ」 「あっ、そうそう。義弟さんによろしくお伝えください」 弟・・・? |
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部屋に戻ると出ていったときより騒がしくなっていた。
「ああ、槇村」 声をかけたのは北方課長だった。 「丸の内署がやられた」 そこは警視庁内の所轄署の筆頭、つまり日本の警察署の中心といえる署だった。 「小包の中に爆弾が仕掛けられてあったそうだ。 そう手首を掴まれて連れてこられたのは取調室だった。身に覚えがあるだけに内心落ち着かない。 「心配するな。人払いができる場所っていったらこの辺しか思いつかなかっただけだ」 「それで、人払いするほどの要件とは?」 単刀直入だった。そう切り込まれては隠しだてはするだけ無駄だ。 「ええ、そうです」 それは意外な命令だった。 「俺たちとしても公安の情報は喉から手が出るほど欲しい。 それは俺にとってあまりにも危険すぎる。 「お前ならできる」 そう課長は意味深な眼差しを向ける。 「捜査のためだ、あっちにとっても損は無いはずだ」 |
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香の無事を取るか、それとも自分自身の信念――魂、といってもいい――を取るか、
――まるで8年前じゃないか。 あのときは妹を選び、その引き換えに記憶と7年という歳月を犠牲にした。 だが、だからといって香を見殺しにはできない。でも一体俺はどうすれば―― 帰宅途中の足は家ではなく、いつの間にかその店へと向かっていた。 「いらっしゃいませ」 古い馴染み――俺がかつてこの街から姿を消す以前から――のバーテンダーが、視線だけで店の奥を指した。 「珍しいじゃないか、撩。お前がこの店に来るなんて」 ここに寄りつくのは俺に会うときぐらいだ。 「何となくな、お前が来るような気がしてたんだよ」 そう言ってすでに大分薄まっていたロックに口をつけた。 「香をさらった奴らについて、公安が動いている。連続警官襲撃事件の犯人としてな」 殺されることはまずないだろう。しかしそれ以外の可能性なら軽く一ダースは悲観できた。 「なあ撩、どうすれば――」 北方課長と同じことを言った。 「はっきり言って俺には公安と特捜の確執がどうとかお前の警察内での立場とか、そんなことはどうでもいい。 今まで散々迷ってきたくせに、彼の口から出ると優先順位がクリアになる。 「それに、お前十年前に言ってただろ?刑事辞めて俺のとこに押し掛けてきたとき、 目の前に緑色のカクテルが差し出された。その色は回想の色。 「そう言ってた槇村秀幸は一体どこに行っちまったんだ?」 確かに一度はそう言った。でも当時と今では事情が違う。 「俺たちみたいな裏の人間にしかできないことがあるように、警察にしかできないことがある。 麻薬組織シンセミーリャの大幹部・デュークこと朝倉参事官はICPOという立場を利用して 「もうお前は警察の大義なんて信じちゃいないんだろ? なおも割り切れない俺の背中を、撩の言葉が押した。 「お前が公安を恐れている以上に、公安はお前たちのことを恐れているんだ」 ふっと目から鱗が二、三枚まとめて落ちた。 ごちそーさん、といって撩が席を立った。 |
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ホテルパンパシフィック東京ベイ。
「最上階の部屋ってのはラッキーだったな」 ああ、そうだ。これが普通のフロアなら侵入する際に一悶着あって、思わぬ警察沙汰にもなりかねない。 ホテルの屋上には戦力にもなりゃしない金髪の自称・敏腕ジャーナリストが同行していた。 「決まってるだろ、お前の骨を拾いにだ」 「ここでフィリップ・マーロウやスペンサーだったら余裕たっぷりにジョークを決めるとこだぜ」 男は黙って、これこそ日本のハードボイルドだ。 「それじゃ、good luck」 ロープに掴まりながら銃口をミックに向ける。夜の闇の中でもブロンドはよく目立って照準をつけやすい。 「It's a joke, joke! Just a kidding!!」 こっちだって冗談だ。こんなところで無駄弾費やしたら 屋上からロープを垂らして真下が香の監禁されている部屋だ。どの部屋かはミックが何日も監視を続けた結果判っている。
すぐ近くで銃声が聞こえた。この聞き覚えのある357マグナムは ――撩! そのとき胸を襲ったのは安堵よりも恐れだった。 (なんであたしなんかのことを助けに来たの?助けになんて来なければ無事で済むのに・・・) 「ようやく招待客が来たようだな」 なのに口から出るのは強気な台詞。 「お嬢さん、物事にはタイミングってものがあるんだよ」
次の部屋のドアを開けると、またも雑魚が飛び出してきた。 しかしそこに香の姿は無かった。じゃあ残すあと一部屋に・・・! 「撩っ、来ないで!」 次の一歩を踏み出そうとする足を彼女の声が制した。 「香っ!」 そして奴の体が宙に浮いた。その動きに合わせて銃口を上へとずらす。 「無駄だよ。もしお前がその銃爪を引けば――この手を放す。そうすれば彼女はどうなるか、判るだろうね」 奴が香を放せば――地上50mから落下、当然命は無い。 「チッ!武装ヘリか」 ヘリなら銃弾一発で撃ち落とす自信はあるが、香を人質に取られている以上手も足も出なかった。 「リョウ!」 屋上からミックの声が降ってきた。あいつの握力ではロープで体重を支えることも困難だろう。 「カオリは!?」 っ畜生!バルコニーの手すりに拳を叩きつけた。 |
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――警察の大義なんて信じちゃいないんだろ? だったら道具として割り切っちまえばいい、目的じゃなく手段として。 撩の言葉が警察官としての自分を再び目覚めさせてくれた。 しかし、それでも落合からの申し出には二の足を踏んでいた。北方課長の、撩からの後押しがあったにもかかわらず。
先輩刑事は今日も慌ただしく東京中を駆け回っていた。 14:21、主任も課長も外出中で刑事の出払った特捜課は僕を除いて数人だけだった。 「あの・・・特捜課はこちらでしょうか?」 その中でも一番末席なのだから、来客にはまず自分が出なければならない。 「はい、そうですが」 その来客というのはうら若き女性だった。 「兄がいつもお世話になっております。よかったらこれ・・・どうか皆さんで召し上がってください」 兄って、まさか・・・この穏やかな物腰、控え目な口調、もしかして。
警視庁に爆発音が轟いた。 (まさか・・・!) 制服・私服の警官たちの間をすり抜け特捜課へとひた走る。その途中、髪の長い女とすれ違った。 人垣を掻き分け課内に入ると、そこは無残に荒れ果てていた。 お前にはこれからもっと働いてもらうつもりだったのに。 背後には続々と職場の惨状を聞いた同僚たちが駆けつけてきた。 そのとき、覚悟が決まった。 |
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撩に先立って、槇村復活です。 |