――何が○で何が×か
  考える前に感じて頂戴

「はい、これが科捜研の報告書」

その日、俺は冴子にCat'sへと呼び出されていた。

「あの爆弾、結構な威力だったみたいよ。大きな被害は出さなくても、開けた人間は命を落とすか――」
「少なくとも、見るも無残な大怪我を負うか」

嫁入り前の香の顔に傷跡を残すようなことがあれば、あのシスコンの兄バカに
「責任を取れ!」と詰め寄られるのは目に見えている。誰がわざわざ・・・
そんなことになったら、余計あいつの傷が増えるだけだ。

「聞いてなかったわ、香さんがそんな危険な目に遭ってたなんて」
「・・・・・」

冴子が知ればその夫の槇村にも知れる。あの兄バカの耳にだけは入れたくなかった。
それは香の意向であり、俺自身の考えでもあった。

「ねぇ、この事件、本当に警察で処理していいの?」
「ああ、香は表の人間だ。表の真っ当な人間を守るのが警察の仕事だろ?」
「じゃあ撩はこの事件は――」
「任すよ、お前たちに」

誰が香を狙おうと構いやしない、俺の仕事はただ彼女を守ること。そう思っていた、そのときまでは。


vol. 7 眠れるナイフ


香さんが消えた。アパートから忽然と姿を消した。
部屋に荒された形跡はなかった。ただ、テーブルに発信器の付いたボタンを残して。

「あいつの意志で、出て行ったんだな」

その知らせを聞いて私を含む関係者の面々が、約一名を残してアパートへと駆けつけていた。
だが部屋の主はそう力なく呟いた。

「だからといって撩、香さんのことを探さない気!?」
「姉さん落ち着いて!今が一番大事な時期なんだから」
との麗香の制止を振り切って、撩に掴みかかった。

「荷物は何も手をつけてない。ここを出たきり帰ってこないというつもりは無かったはずだ」
「じゃあ、香さんは・・・」

ようやく襟元から手を放す

「ったくあのバカ、また一人でホイホイ呼び出されやがって」
「でもどこへ行ったか判らなきゃ探しようがないじゃないか」

ミックの言う通りだ。
一応、アパートの周りには情報屋を常時置いていたという。しかし彼女は尾行をすべて撒いてしまったとのだから。
だが、

《じゃあ午後2時に、場所はKプラザホテルのロビーで》

撩が小型テープレコーダーの再生ボタンを押した。

「ちょっとそれ、まさか――」
「仕掛けられていた盗聴器のものだ。一応、他のは潰しておいたが全部が不通になると怪しまれるからな。
だからこっちも電波を拾えるようにしておいた」
「それって、撩が香さんを盗聴していたってことじゃない!」

今度は麗香が彼に詰め寄るが、それを制した。

「で、受信機は見つかったの?」
「いや、一応電波を追いかけてみたが、もう始末しちまっただろう」
「じゃあ万事休すね。約束の時間はとうに過ぎてるし」

そう美樹さんがため息をついた。もう時計は3時を過ぎている。

「いや、行くだけ行ってみよう、Kプラザホテルに。誰か目撃者がいるかもしれないし――
こっから先は警察の仕事だろうがな」
「撩、まさか香さん探しからも手を引くっていうんじゃ――」
「いや、俺は周りの情報屋を当たってみる。二方面でやった方が捜査は早いだろう」
「でも・・・警察に任せるっていうことは槇村の耳にもいずれ入るわ」

この場に彼はいなかった。自らの身を守るため裏の世界から距離を置いていた槇村は
たった一人の妹の危機にすら駆けつけることはできなかった。
そして彼は、彼女の身に迫る危険について何も知らされていない。だが、

「ああ。ここにいるはずの香がいなくなったんだ、そうそう隠し通せるもんじゃないだろ」

右頬には痛々しいガーゼ、そしてその眼は確然とした決意に燃えていた。




だが、捜査は難航を極めた。
平日とはいえ人の多いロビーで香の目撃談はほとんど得られなかった。
そして俺の方はというと、香が男と一緒にホテルから出て行ったというタレコミがあったが
その先をたどっていったところでぶち当たったのが、とある情報屋の死体だった。
そこから香の足取りは途絶えた。



そんなときだった、あの男と出会ったのは。

「もう交番の中は血まみれでしたよ。ようやくマグロの刺身が食えるようになったっていうのに」
と若き後輩刑事はコーヒーすら飲み込むのがやっとという様子で口にした。

「つまりは以前の組事務所襲撃と同じ惨状だったわけだ」
「ええ。あんなスプラッター、もう思い出したくもないんすけど」

東口、都庁前、そして歌舞伎町交番で起きた同時爆発を皮切りに、警視庁管内では警察を狙った事件が相次いでいた。
パトロール中の制服警官が相次いで襲われ、交番勤務を増強し単独での巡回を避けるよう通達が出たが
これも本音は現場の警官の身を守るためのものだ。そして、不幸中の幸いにも今まで殉職者は出していなかったが
とうとうこの日、凶悪事件など稀な――だからこそ――住宅地の派出所が襲撃された。

「それで、銃は残ってたのか、それとも――」
「いえ・・・」

大澤は拳を握りしめたきりうつむいていた。

「どうした。まさかスプラッターに怖気づいたのか?」
「そんなんじゃありません!」

がばっと顔を上げるなり食ってかかった。

「前ので一応免疫はつきました!ただ、後から来た連中が・・・」
「――公安、か」
「ええ、おそらくは」

警察を狙った犯行、となると犯人は反体制的なグループという可能性は高い。そうなると彼ら公安部の出番だ。
それだけならまだいい。しかし、そうなると我々刑事畑の人間は、たとえ特捜であっても
彼らの『帳場』から排除されてしまうのだ。いつもしかめ面を浮かべた北方課長の眉間の皺が
最近ますます深くなっているのも、連続警察官襲撃事件の捜査が公安主導で進められていることへの不満からだった。

そしてそれは、香の手がかりにも手が届かなくなるということだった。

今回の手口からいって連続警察官襲撃とヤクザへの襲撃の犯人は同一グループ、そしてやくざを襲撃したグループが
ほぼ同時期に撩にもちょっかいを出していた。となると彼女を呼び出し、誘拐したのも警察、やくざを襲ったのと同じ連中。

香の事件を知り、無力ながらも今まで以上に奴らの動向には注意していたつもりだ。
しかし公安が出張ってしまっては、彼らの秘密主義の前には同じ警察とはいえ手も足も出なかった。
まして俺自身も公安に目をつけられている身。下手な真似をして彼らの目を惹けば今まで以上の針の筵になる。
だが、だからといってあのときのように警察を飛び出すことはできない。そうなれば奴らの思う壺、
今の自分の居場所は、いくら籠の鳥とはいえここしかないのだから。
自分が警察という組織の中で無力な存在だということは覚悟していた。
だが、たった一人の妹を救い出すほどの力もないとは――自分の無力さ加減にこれほど苛立ったことはなかった。

苛立ちはニコチンの欠乏感という生理的な欲求へとすり替わる。
冴子の妊娠が判ってから、家では吸わないようにしているし煙草の本数自体を減らす努力はしている。
自分自身、特にヘビースモーカーというわけではない。
ただ、考え事やこのような苛立ちを鎮めるときにはついつい手が伸びてしまう。
だが、ポケットの中を弄っても手に触れるのは握りつぶした空き箱のみ。

「先輩、どこ行くんですか」
「ああ、煙草買ってくるだけだ」

廊下の自販機のセブンスターのボタンを押している、丁度その時に、

「槇村秀幸警部補ですね」

背中から声がかかった。

「何の用だ」

その男につきあうより取り出し口の煙草を拾う方が先だ。

「妹さんのことでちょっとお耳に入れたいことが」

ようやく腰を上げて男を見た。間違いなく俺たちの商売敵――公安の刑事だった。
職場でも帰宅の途でも、この手の雰囲気が常に射程の端にまとわりついているのだ、間違えようがない。
頭をきっちりと七三に分け、メタルフレームの眼鏡、濃いグレーのスーツとまるでどこにでもいるサラリーマンのようだが
だからこそ彼の発するにおいが余計に鼻についた。

「妹さん・・・確か香さん、でしたっけ。被害届が出ていましたよね。
我々ならばお力になれると思いまして」
「お前たちには関係ない」

そんな言葉を無視して男は先を進めた。

「もちろん、只でとは言いません」
「――どういうことだ」
「なぁに、簡単なことですよ。私が香さんの居所について情報を与える。
そして槇村警部補も我々に有益な情報を与える。
ギヴ・アンド・テイク、単純な取引ですよ」
「つまりは公安の犬になれと?」
「そこまでは言いません。もちろんあなたにも断る権利はあります。
ただ、我々公安とは別に北方課長もいろいろ探らせているらしいということを聞きましてね。
かつては『特捜に北方あり』と言われたお人ですからね。その情報をこっちに教えてくださればいいだけのことです」
「もし断ると言ったら」

俺たちの生殺与奪を握っているのは彼らだ。警察を追い出す、
そして犯罪者に仕立て上げることぐらい難しいことではない。だが、

「これはあくまで私とあなたの個人的な取引、公安の総意というわけではありません。
ただ私は特捜の捜査情報を、槇村さんは妹さんの手がかりを得られない、それだけですよ」

そう言って男はもと来た道を引き返していった。

「そうそう、一つあなたにお教えしましょう」
と言って振り返る。

「品物を多少なりとも見せなければ取引にはなりませんからね。
妹さんをさらった連中はナーガの手の者ですよ」




「ナーガだって!?」

海坊主が告げた名は裏の世界で生きている人間なら知らなきゃモグリだ。

「ああ。傭兵時代の知り合いで昔奴らとやりあったのがいて、そいつがその中の一人を見たと言ってた。
その男には戦場で痛い目にあわされて、その顔を覚えていたっていうんだから間違いない」
「それに冴羽さんを取り囲んだのが東南アジア系だったってのが決め手になったわね」

ナーガは東南アジアの某国で共産ゲリラの精鋭を率いていた指揮官だ。
その本名及び経歴は何も知られていない、ただ『ナーガ』、竜というコードネームで知られているだけだ。
その国は長いこと内戦が続いていた。俺の育ったところのように冷戦の代理戦争というだけでなく
東側内部の対立などに巻き込まれて三つ巴、四つ巴のいつ終わるともしれない泥沼になっていった。
クーデター、虐殺、地雷原。
それが国際社会の調停でようやく終結したのがつい最近。
そして、戦場を失った戦うことしか知らないゲリラたちが、この平和な日本に流れ着いてきたというわけか。
でも、なぜ、何のために。

昼下がりのCat's Eye、喫茶店の稼ぎ時だというのに『Closed』の看板を掛けた中は臨時の前線基地となっていた。

「だがおかしいな、ナーガは死んだっていう話じゃないか」
「何ですって?」

ミックの不用意な言葉一つで、美樹をはじめ店の中が騒然となった。

「それは本当なのか?」
「いや、Falcon,こればかりは俺の情報網を――Professorのを拝借しても、噂の域を出ない。
ただ誰もNagaの残党の支配地域に分け入ったヤツはいないからな、確かめようがないわけだ」
「ところでナーガって今はいくつなの?経歴不明っていうけど・・・」

麗香が口をはさむ。

「70年代ごろから指揮官として名を馳せていたんだから若くても当時30代、今は・・・50代か、60ってとこだな」
「だったら死亡説が出てもおかしくはない歳ね」

ふと、(オヤジと同じくらいだな)との考えがよぎった。だが、

「敵の正体が判ったからといって、香がどこにいるか判ったわけじゃない」
「そうね、撩の言う通りだわ」
と冴子がつぶやく。

「そうだな、この国のヤクザならともかく、日本と縁もゆかりもないゲリラの残党じゃアジトも掴めん」
「だけどニッポンにいるってことは、ここの組織とどこかで繋がってるはずだ」

とすっかり記者稼業の染みついたミックは新たな情報を求めてCat'sを飛び出していった。
確かにスイーパーとしての腕は失ったが、それを補って余りあるほど表の、そして裏のネットワークに
日夜磨きをかけているらしい。ミックにとっては命の恩人の、そして伴侶以上に崇敬する女の命が賭かっていた。

「そうね、じゃあ私はもう一度警察の資料を当たってみるわ」
と冴子もしっかりとした足取りで店を後にする。そして

「探偵風情じゃ何の役にも立たないかもしれないけど、情報屋にもう一度訊いてくる」
と麗香も席を立った。

残されたのは俺一人。

「撩・・・」
「冴羽さん・・・」
「判ってるさ。ああ、くそっ!」

拳をカウンターに叩きつけた。その勢いでカップとソーサーが跳ねる。
居ても立ってもいられないのは俺も同じだった。今すぐ駆け出してしまいたい――だが、何処へ?
香の居場所が掴めない限りどうすることもできない。そうこうしている間に刻一刻と時間だけが過ぎてゆく。
そして、時間が経てば経つほど良からぬことばかり考えてしまう。酷い目に逢っていないか、怪我はないか、まさか――
最悪の事態を振り払うように頭を振った。

香が目の前から消えて、初めて気がついた。これこそが偽らざる本心だと。
香に指一本でも触れてみろ。八つ裂きにしたところでまだ飽き足らない。




拉致され誘拐されたからには、コンクリート張りの部屋に押し込められて手足の自由を奪われて食事もコンビニ弁当で・・・
というのを長年の経験から予想していた。だからこそこの現状は快適ながら違和感を覚えてしまう。

東京湾を望むオーシャンビューのスイートで軟禁状態。

ホテルのロビーで会った男は声の通りまだ若かった。撩と変わらないくらいだろうか。
人の好いことに、当然そこで何らかの話し合いがなされるものだと思った。
だが彼は逢ってすぐさま、あたしを外の車へと連れ出した。目隠しもされずに。
だから今度は取引はその先でだろうと思っていた。そして彼はあたしを連れてこの部屋へ。
気がついたときにはここに囚われていたのだ。

部屋の中では自由に動けるけれど、もちろん監視が付いている。サブマシンガンを持った東南アジア系の外国人だ。

「あなたは誰?」
「私の名はナーガ」
「ナーガ・・・」

そう流暢な日本語で男が言った。

「不自由かもしれないがしばらくここで過ごしてくれ。足りないものがあれば何だってこっちで用意する
だが用があるときは直接私に言ってほしい」
「なんで」
「彼らには日本語が通じないんだ」

一目で外国人と判った。

「私は隣の部屋にいる。呼んでくれればいつでも来よう」

そう言って彼は部屋を出て行った。
その日のうちに着替えが用意された。食事もルームサービスだ――直接頼むことはできないが
部屋の電話線が切られているから。未だかつて味わったことのない、この上なく快適な監禁生活。
これが快適なのか不快なのか、考えるだけで眩暈がした。

だが、監視の腕は確からしい、もちろんあたし以上に。
一度、ルームサービスの客室係のポケットにメモを忍ばそうとしたが
そのときはメイドもろとも銃口に取り囲まれてしまったのだから。彼らの眼は細かいことさえも見逃してはくれなかった。

今、自分がどこにいるかも判る。敵の顔も。だがそれすら撩に伝えられない自分が歯痒かった。

「やぁ、大人しくしてたかい?」

男がどこかから帰ってきた。

「部屋が暑いから窓を開けてって言ったのに聞いてくれなかったわ」
「そりゃ随分と贅沢になったな。君は人質だというのに」

そうなのだ。だが、こんな至れり尽くせりの状況に置かれれば、自ずと緊張感も薄れてしまう。
あとはその場の空気に流されていくだけだ。今あたしが着ている服も、絵梨子のブティックにあったような高級品ばかり。

彼は配下たちの母国語で一言二言伝えると、要望通り部屋の窓が開けられた。そして、東京湾から涼しい風が入ってくる。

「それにしても冴羽も無能だな、まだここが突き止められないとは」

そう言われると、捨てたはずのパートナーでもカチンとくる。

「撩は・・・ここには来ないわ」

それはあたしの希望だった。
あたしを人質にした時点で、彼らの目当ては囮に使うためというのは判っていた。
だから、撩がもしあたしを助けに来なければ、もうこれ以上彼に危害が及ばない。
あたしにはそれだけの危険を冒すだけの価値なんてないのだから。

「君は自分の本当の価値に気がついていない。奴は君を助けるためならどんな危険も顧みないはずだ」
「それは・・・あたしが依頼人だからよ。
シティーハンターが依頼人を守り切れなかったなんて知れたらお笑い草だわ。
だから助けに来る、あたしのためじゃなく自分自身のメンツのために。それだけよ」
「さぁ、どうかな?」

そう笑み男は笑みを浮かべた。

「そのかわり、警察がやかましく動いているらしい」

警察が動いている、それは撩があたしを見捨てた証拠。
警察には「裏の世界の争いには関わらない」という不文律がある。
どちらかが勝てばどちらかが敗れ、社会のゴミが一つ減ることになる。共倒れてくれれば儲けもの。
彼らの仕事は法と秩序を守る善良な一般市民を守ること。
そして、撩にとって今のあたしは善良な市民であり表の人間であり、もはやシティーハンターのパートナーではないのだ。
その事実にほっと胸をなでおろした。

――撩、助けに来ないで・・・。

そう願ったのは生まれて初めてだった。




公安主導の捜査本部とは別に北方課長が動いている、というのは勘づいていた。
だが、勘の域を出なかったのは自分が直接そこにタッチできる身の上ではなかったからだ。
今の仕事は特捜課に上がってくる調書読み、他の刑事たちのように手がかりを求めて現場を動き回るようなことはできない。
それはつまり、たとえ香を捜すためであっても自由には動けないということだった。

心が揺れる。
あの公安の男の申し出を受ければ香の手がかりを得ることができる。
一刻も早く奴らの魔の手から妹を救い出すことができるのだ。
しかし、その見返りを考えれば迂闊に飛びつけない。
公安に特捜の捜査情報を渡す。それは仲間を裏切ることになる――彼らが窓際の俺を仲間と思っているのかは別だが。
それ以上に、公安に味方するというのが生理的に受け付けられないのだ。
奴らは俺たちの敵、俺や冴子を終始監視し、いつボロを出さないかと虎視眈々と窺っている。
それに乗じて俺たちを警察から、社会から亡き者にするために。奴らの味方となればその危険はとりあえず回避できるだろう。
だがそれは、悪魔に魂を売ることに他ならない。
ようやく高い代償とともに贖ったこの魂を、またも売り渡すことは決してできなかった。

「槇村主任」

今日もまたこの後輩がひょこひょこやって来た。捜査の現場に出ることはできない。
しかしこのお人好しの若い刑事を通してなら、いくらでも捜査情報は手に入れることができそうだ。

「ああ、大澤か。どうなんだ、捜査の方は」

見返りは一杯のコーヒーと、ほんの少しのアドバイス。それでお釣りがあり余るほどの話が聞ける。

「それがさっぱりですよ。捜査本部の方は公安が仕切ってますし、先輩方の話では
東南アジア系の密航組織もここ半年ぐらい大きな動きはないみたいです」

あれだけの頭数を一度に運んだとなれば、警察が気づかないはずがない。というと、正々堂々正面からか。

「入管を洗ってみた方がいいな。東南アジア国籍の怪しいパスポート、それと偽造屋にもだ」

そう助言をしてやれば、この人のいい青年はすぐさまその通りに動き、結果を持ち帰ってくれるはずだ。
人を顎で使っているようで気が引けるが、香のために自分ができることといったらこの程度だ。

「そういえば主任って妹さん、いらっしゃるんですよね」

大澤が唐突に訊いてきた。

「あ、ああ。誰から聞いたんだ?」
「ええと、先輩の・・・」

まだ顔と名前が一致しないもんで、と頭に手をやる。

「随分と大事にされてるそうじゃないですか。ねぇ、美人なんですか、年はいくつなんですか?」

未だにそんな噂が生き残っていたとは・・・俺が一遍警察辞めて、もう何年が経ってるというのだ。
おそらく古株の連中から聞いたのだろう。

(そういえば・・・)

大澤もおそらく香と同じくらいの歳だろう。まだ頼りない新入りだが、なかなか筋はいいし、誠実そうな好青年だ。
少なくとも女を不幸にするようなタイプじゃない、あいつと違って。
だが――脳裏に浮かんだ妹は、「撩じゃなくちゃいやだ」と涙を浮かべていた。
まぁいいさ、香が誰を選ぼうが、それはあいつの決めることだ。

「ねぇ、一度会わせてくださいよぉ」
「駄目だ」

ぴしゃりと跳ねのける。そもそもその妹は行方知れずなのだから。

「やっぱり、噂は本当だったんだ」
「何だって?」
「いえ・・・」

きまり悪そうに顔を伏せた。

「そうだな、お前が一人前の刑事になったら、そのときは妹に紹介してやる」
「本当ですか?」

未だ顔も見たことのないくせに、大澤は瞳をきらきらと輝かせてかぶりついてきた。
――大澤が持ってきた情報を公安に流すということは、この純朴な青年を裏切ることだ。
未だ打ち解けることのない特捜課において、彼だけが唯一仲間と呼ぶことができた。
他の刑事たちを裏切れても、大澤だけは裏切りたくはなかった。




ガンオイルを浸みこませたパッチをクリーニング・ロッドの先端に付け、銃身に通す。シリンダーももちろん忘れない。
そして、ブラシで内側にこびりついたカーボンをこそげ落とす。
リボルバーはオートマチックと違い、こまめに清掃する必要はない。ときどきこうやってカーボンを落としてやればいいだけだ。
とはいえ、いつこいつが必要になるか判らない状況だ、手入れできる余裕があるときにしておくに越したことはない。

というのは言い訳だった。何かしていなければどうにかなってしまいそうだ。
居ても立ってもいられない、でもどうすることもできない、その焦燥感が歯痒かった。
ただ、気持ちだけが香を求めて四方八方へと飛び散っていく。その勢いにこの身もまたバラバラにはちきれてしまいそうだ。

残ったカーボンをクリーニング液に浸したパッチで落とす。あとは空拭きして油を拭き取ればいいだけのところで、ミックが来た。

「Hey, Ryo!」

部屋に飛び込んでくるなり、一瞬ミックが後ずさった。
前にやはり銃の手入れ中にやって来て、迂闊なことを言って壁越しに撃たれたときのことを思い出したのか。

「What's happened, guy(何の用だ)?」
「カオリに繋がるかもしれない重要な手がかりだ」
と言うとテーブルに置かれていた俺のコーヒー――またインスタントに逆戻りだ――で喉を潤す。

「内戦からの復興事業で日本への留学生を受け入れている団体がある。
そこでの今年度の4月付の受け入れ人数が跳ね上がってる」

留学生という身分で奴らはこの日本に入り込んできたというのか。

「だが、復興事業っていうんならその団体は新政府の息がかかってるんだろ?」

となるとナーガの旧敵ということになる。

「だがそいつのあちら側の理事ってのの中に、国連PKOで反政府ゲリラの武装解除の担当官だった奴がいたんだ。
もちろんその対象にはナーガの配下も含まれている。そのときに丸め込まれたのか」
「脅されたのか」
「とにかく、武装解除後のゲリラの再教育が彼らにとって最大の課題の一つだ。
その中で優秀な人材には海外留学の機会も与えられているそうだ」

理事という立場なら、その中にナーガの残党を押し込むのも難しいことではない。

「じゃあ奴ならナーガの今の居場所も知ってるかもしれないんだな」
「ああ。好都合なことにそのギワクの理事が今日本に来てるんだ」

そりゃ好都合だ。手入れの済んだパイソンのシリンダーに銃弾を押し込むと、片手で元に戻した。
展開によってはこいつに役に立ってもらうことになるかもしれない。




その疑惑の団体はここ新宿からさほど遠くない四谷のビルの一室にあった。
オレだって一刻も早く踏み込みたい、他の誰でもないカオリのためだ。だが、その理事様の在室を確かめるのが先だ。
目指す当人がビルにいなければ無駄足になる。

「なあリョウ、お前、カオリを取り戻したらどうするつもりだ?」

クーパーの後部座席――助手席に乗り込もうとしたら当然のごとく後ろへ追いやられた――から
双眼鏡でビルを覗きながら尋ねる。

「まさかいつかみたいに『カオリを助け出す、そしてsay goodbye』なんて言わないだろうな」

以前カズエからそんなセリフを聞いたことがあった。まだまだカオリを手放そうとしていたくらい昔の話だ。
だが今のリョウはそんな昔に逆戻りしてしまったかのようだ。
そのころ結局できなかったことを今になってしでかしてしまったのだから。だが、

「今は香を助け出す、ただそれだけだ」

そうあいつは言い切った。

「そこから先のことは助けてからだ。今は目の前のことに全力を尽くす、それしかないだろう」

その通りだ。今は余計なことを考える余裕なんて無かった。双眼鏡に目を凝らすと、

「Gotcha!」

お目当ての理事が応接室のソファにふんぞり返っていた。
それを確かめるとリョウは勢いよくクーパーを飛び出していった。急いでその後を追う。

「何でついてくんだよ、昔のお前ならともかく」
「カレキもヤマのニギワイっていうだろ?頭数はあった方がいいだろ」
「しょーがねーな。言っとくが野郎助ける趣味はねーからな!」

そう言い合いながら非常階段を駆け上っていった。
ノックも無しに上がりこんだらイカツイ背広姿の男たちが睨みつける。オリエンタルでも日本人とは肌の風合いが違う。

「ちょっとお話があるんですがMr. Trustee?」

あくまで口調はいつものアポなし取材のようににこやかに。

「何だね君は、いきなり失敬な」
「ああ、自己紹介が遅れまして。ワタクシ、こういう者です」

名刺交換は社会人の基本。

「それでは、単刀直入に申しましょうか。ナーガの今の居場所をご存じありませんか?」
「ナーガ・・・はて、何で私が反政府ゲリラの首魁を知っていると?」
と言って理事が手にした煙草の箱にダーツが突き刺さった。

とっさにガチャガチャと響く金属音。振り返れば厳ついボディガードがぐるりと俺たちに銃口を向けていた。

「Heavens!スコーピオンにAK47!たしか新政府軍は米軍の支援を受けてるはずじゃなかったっけか?」
「だったらウージーかせめてMAC10だな」

リョウが背中合わせに立ちボディガードを牽制する。

「ボロが出ましたねMr. Trustee。ということはこいつらもナーガの同志」

苦渋の表情を浮かべた理事はデスクの引き出しから銃――こっちはコルト・ガバメント――を取り出そうとした。
その手にダーツが刺さるよりも早く、

「うがっ、指が・・・親指がっ!」

血まみれの右手を抱えてうずくまった。
机の上には千切れ飛んだ右親指が転がる。これではもう二度と撃鉄に指をかけられまい。

「余計なことはしない方が身のためだ。
こっちはあんたらみたいにこの部屋を血の海にしようってわけじゃない。
ただナーガって奴の居場所が知りたいだけだ。そいつさえ教えてくれれば命は取らない。
だが・・・俺たちを消そうとするなら、そのときは容赦なく殺す」

その眼は凍えるほどの冷たさを湛えていた。かつての『Grim Reaper(死神)』と呼ばれた眼――
いや、その奥には燃えるものがちらついていた。赤より熱い青い炎、それはカオリへの想い。
今目の前にいるこの男は、彼女のためならどんな残忍なことでもやってのけた。

「・・・我々を殺せば、ナーガの手がかりは得られないぞ」
「そのときはそのときだ、また一から当たればいい」

その情報を持ってきた奴が聞いたら殴りかかりたくなるようなセリフを吐き捨てた。
そしてパイソンの撃鉄に指をかける。その銃口は奴の眉間を狙っていた。

「お前を殺しても俺は何の得にもならないかわりに損もしない。
だが、殺されるのは大損だろ?さあ、プラム、ヴォン、ヴァイ、ピー、ムォン」

彼らの母国語でカウントダウンを始める。そして、

「ソーン(ゼロ)」
「有明のホテルパンパシフィック東京ベイの最上階だ!」

ほぼ同時だった。そしてそれ以外の音は無かった、銃声さえも。

「じゃあ用件は済んだな」
と言うとリョウは踵を返して部屋を後にした。

その背後では理事が座り心地のよさそうな椅子の上に崩れ落ちていた。
どこかで水音がしていたが、はて、この部屋に蛇口はあっただろうか。ともかく、さっさと出ていった方が身のためだ。




時計を確かめる。
PM9:06、残業帰りとしては普通の時間だろう。
だが、窓際刑事に残業など無い。たとえ、周囲が連続警官襲撃事件に追われようとも。
ただ、毎日定時帰宅では怪しまれるのでときどき居残ってすぐ出す当てもない報告書を書いたり
それすらないときは溜まっていた雑誌に目を通したりしていた。

「ただいま」
「お帰りなさい、秀幸さん」
「その呼ばれ方はまだ慣れないな」

独身の頃のように名字だと他人行儀だし、かといって呼び捨てだと馴れ馴れしすぎる。
若いの同士ならともかく、ある程度の年齢になってからくっつくとこういうところで困る。
とはいえ職場ではまだ「野上」を名乗ってる彼女は、仕事上では今も「槇村」と呼ぶ。そして俺の方は・・・

「先に食べててもよかったのに」
「一人で食べてても味気ないもの」
「冴子、お前ひとりの体じゃないんだから」

――いつの間に「野上」が「冴子」となったのだろうか。

「今日も仕事?」
「ああ、捜査本部は公安主導だが、特捜の方も独自で動いてるからな」

テーブルから立ち上がると、甲斐甲斐しく背広を脱がす。
かつての彼女を知る身としては意外だが、おそらく母親がこうしている姿を見て育ったのだろう。

「――嘘」
「おいおい、じゃあ残業のふりしてどこか寄り道してると――」
「判ってるのよ、全部」

妻の目は容疑者に向けられる眼だった。

「判ってるのよ、あなたの今置かれている状況ぐらい。これでも今も特捜課にはソース(情報源)がいるんだから」
「・・・君にこれ以上迷惑をかけたくなかった。こんな俺と一緒になって、自分一人が泥をかぶればいいものを君にまで――」
「何言ってるのよ!」

そして、平手が飛んだ。

「それを覚悟で一緒になったんじゃない!あなたの人生の半分を私に背負わせて、って。過去も、未来も、総て」

そういうと泣きじゃくりながら腕の中に飛び込んだ。

「だからお願い、隠し事なんてしないで。あなたの力になりたいの。仕事の愚痴だって、何でもいい」

仕事の、愚痴・・・やはり刑事だった父の後ろ姿が瞼に浮かぶ。
父は仕事で何があろうとも、それを家庭に持ち込むような人ではなかった。
そして、刑事たるものそうあるべきだとずっと心に掲げていた。

「それは・・・できない」
「なんで?わたしだったら槇村の苦悩を一番よく判ってあげられる。一番いいアドバイスだってしてあげられるわ」
「ここ(家庭)を捜査本部にするつもりか!」

職場で捜査に追われ、そのうえ家に帰っても捜査では気の休まる時間は無いじゃないか。
しかし冴子は、

「ええ、そうよ」

と言いきった。

「――わたしね、撩と香さんが羨ましかった。
確かに傍目から見たら、男と女としては決して満たされた関係ではないかもしれない。
でもパートナーとしては・・・誰にも入り込めない信頼関係がそこにはあった。
そして思ったわ、わたしも槇村とこれぐらい信じあえる関係でいたかったって」

事実、短い間であったが俺と冴子は警視庁内で知らぬ者はいない名コンビだった。
しかし、警察という組織ではそれすら永続的な、確約されたものではない。
俺が刑事を辞めずとも、いつか離ればなれになってしまっていただろう。

「だからわたしはあなたの妻である前にパートナーでいたいの!
刑事と刑事であるならいつかバラバラになってしまうけど、
夫と妻ならどちらかが嫌気がささない限りずっと組んでいられる。ねぇそうでしょ!?」

生涯のパートナーでありたい、その思いは同じだった。
一度は刑事を辞めて撩を相棒に選んだ。しかし冴子とは刑事と殺し屋という立場を超えて同志であり
撩とは違う意味で相棒だとずっと思っていた、あのときまで。

「それに・・・わたし、秀幸さんにいっぱい愚痴聞いてもらうつもりだったんだから」

そう冴子は涙を浮かべながら微笑んだ。

「だからあなたもその分いっぱい愚痴こぼしていいのよ」

確かに彼女は頼れる相棒だった。ただの妻や母親に縛りつけておくのは勿体なかった。
だが・・・これだけは相棒にも言えない。自分でも心が決まってない以上は。

「今は・・・君にも言えない」
「そう・・・じゃあ、待ってるわ。あなたが言えるようになるまで」

だが――俺は一人じゃない――そうはっきりと確信が持てた。
俺には冴子という何びとにも代えがたいパートナーがいるのだから。




あの男に二度目に会ったのは、警視庁の屋上だった。
南に日比谷公園、北に皇居の緑を望む東京とは思えないこのロケーションは、現実逃避にはうってつけの場所だった。
あのような煙草と血なまぐさい事件のにおいしかしない空間では鬱々とした閉塞感だけがつのっていく――
そして、実の妹に対して何もしてやれない焦燥感。
今はまだ一課の特殊班――誘拐事件専門のプロ――の扱いだから表だって動けない。
だが何の動きもない以上、特捜課に上がってくるのも時間の問題だ。だが、今の俺では・・・。

空を見上げれば五月晴れという名にふさわしい澄み切った青。
雑念を払いのけて今自分が一番に考えなければならないことを追求するにはうってつけだった。
だが、その最優先事項が近づいてきた。

「槇村警部補、考えていただけましたか?」

前は薄暗い廊下でだったが、太陽の下でさえこの小柄な男はどこかうすら寒い影を帯びていた。

「あなたも刑事なら誘拐捜査の鉄則をご存じのはず。時間が経てば経つほど人質の生存率も下がる一方。
もうぐずぐずしてはいられないんじゃないですか?」
「いや、それにしても名前も知らない相手とは取引きできないんでね」

それに香はまだ無事だとの確信があった。奴らの目当ては彼女自身ではないのだから。

「いやぁ、それは失敬。まだあなたにお名前を明かしておりませんでしたね。
落合といいます、公安一課の」

そう言った男の容貌を改めて確かめる。確かに落合という感じもするし、その名が不似合いな感じもする。
その厚かましい押しの強さはどこか同姓の野球選手に近い気さえする。
そもそも公安捜査は秘匿が原則、偽名を操るのも当然のことなのだろう。
だが――公安一課と言ったな、この男は。

「何で外事でもないあんたがナーガを追ってるんだ?」

公安一課は主に国内の過激派の取り締まりに当たる。ナーガのような国外のテロリストは同じ公安部でも外事の仕事だ。
知らず知らずに不審の眼が向く。

「――しょうがない、そこまで言うんだったら教えて差し上げましょう。これはサービスです」
と釘を刺す。

「ナーガは日本人です。本名は生島竜一、60年代から70年代にかけて学生運動、後に反政府極左ゲリラの活動家でした。
しかし運動が下火になり国内の組織も次々と崩壊していく中で、あるセクトは海外に逃れた。
ある者はヨーロッパ、ある者は中東、そして彼――生島は内戦下の東南アジアへと身を投じていった」

そこから先は世界中の知るところだ。彼は現地の共産主義勢力の中で頭角を現し
ナーガ――竜――と呼ばれ恐れられるほどになった、どの勢力にも如くもののいない残虐さで。
これでとりあえずは公安とナーガとが繋がった。

「それで、彼はなぜ日本へ?」

さあ、と落合は大げさに肩をすくめた。

「ただ、奴もだいぶ歳ですからね。故郷が恋しくなったんでしょう」

その答えに未だ釈然としないものが残る。

「これで判断材料はそろったはずです。槇村警部補、いいお返事を待ってますよ」
と言うと彼は背中を向けた。

「あっ、そうそう。義弟さんによろしくお伝えください」

弟・・・?
そう辛うじて呼べる男はたった一人しかいなかった。奴は撩のこともすべて知っているというのか。
より一層追い詰められているのは事実だ。だがますます彼らの手には乗りたくなかった。




部屋に戻ると出ていったときより騒がしくなっていた。

「ああ、槇村」

声をかけたのは北方課長だった。

「丸の内署がやられた」
「丸の内署が!?」

そこは警視庁内の所轄署の筆頭、つまり日本の警察署の中心といえる署だった。
そこを狙われるとは、日本警察の中枢を狙ったということだ。

「小包の中に爆弾が仕掛けられてあったそうだ。
まぁ、開ける前に気づいて爆発物処理班が出てくる騒ぎになったが、これでいい物笑いの種だ」
「それで、爆弾のタイプは――」
「なぁ槇村、ちょっと来いや」

そう手首を掴まれて連れてこられたのは取調室だった。身に覚えがあるだけに内心落ち着かない。

「心配するな。人払いができる場所っていったらこの辺しか思いつかなかっただけだ」
と言って煙草に火をつける。

「それで、人払いするほどの要件とは?」
「お前、公安と会ってるだろう」

単刀直入だった。そう切り込まれては隠しだてはするだけ無駄だ。

「ええ、そうです」
「その話、受けろ」

それは意外な命令だった。

「俺たちとしても公安の情報は喉から手が出るほど欲しい。
その見返りとしてこっちの捜査情報を渡しても安いくらいだ」
「じゃあ課長は私に二重スパイになれと?」

それは俺にとってあまりにも危険すぎる。
もしそのことが露見したら?今度こそ警察内でかなり危うい立場に立たされることになる、冴子もろとも。

「お前ならできる」

そう課長は意味深な眼差しを向ける。

「捜査のためだ、あっちにとっても損は無いはずだ」
と肩を軽く叩くとそのまま煙草をくゆらせたまま、取調室を後にしていった。




香の無事を取るか、それとも自分自身の信念――魂、といってもいい――を取るか、

――まるで8年前じゃないか。

あのときは妹を選び、その引き換えに記憶と7年という歳月を犠牲にした。
今度も迷わず香を選べばいい――とはいかなかった。
一度は悪魔に売り渡しながらも取り戻したこの『魂』だ、再び売り渡すのが惜しくないと言えば嘘になる。
それに、あのときは香のためなら総てを投げ出す覚悟はできていた。
だが今は違う。彼女以外に、彼女以上に守らなければならない存在があるのだから。

だが、だからといって香を見殺しにはできない。でも一体俺はどうすれば――
こんなことは誰にも――もちろん冴子にも打ち明けられなかった。

帰宅途中の足は家ではなく、いつの間にかその店へと向かっていた。

「いらっしゃいませ」

古い馴染み――俺がかつてこの街から姿を消す以前から――のバーテンダーが、視線だけで店の奥を指した。
そこにはやはり昔馴染みの大きな背中。

「珍しいじゃないか、撩。お前がこの店に来るなんて」

ここに寄りつくのは俺に会うときぐらいだ。
それだって、前もって約束を取り付けるわけじゃないから二晩三晩の空振りは覚悟の上だ。

「何となくな、お前が来るような気がしてたんだよ」

そう言ってすでに大分薄まっていたロックに口をつけた。
まるで何もかもをお見通しのようだ。事実、この店に来たのは撩に訊きたかったからだ。

「香をさらった奴らについて、公安が動いている。連続警官襲撃事件の犯人としてな」
「ああ・・・」
「そして公安が俺に接触してきた。香の居所の手がかりを教える、そのかわり特捜で掴んでいる情報を渡せと」
「・・・・・」
「あいつらに協力してやる義理は無い、それどころか願い下げだ。
だが、そうこうしている間に香の身に何かが起こっていたら――」

殺されることはまずないだろう。しかしそれ以外の可能性なら軽く一ダースは悲観できた。

「なあ撩、どうすれば――」
「その話、受けろよ」

北方課長と同じことを言った。

「はっきり言って俺には公安と特捜の確執がどうとかお前の警察内での立場とか、そんなことはどうでもいい。
一番大切なのは香を一刻も早く救い出すことだ。なあ槇村、お前だってそうだろ?」
「ああ・・・」

今まで散々迷ってきたくせに、彼の口から出ると優先順位がクリアになる。

「それに、お前十年前に言ってただろ?刑事辞めて俺のとこに押し掛けてきたとき、
『手段を選んでいたら真の正義は実現できない』って」

目の前に緑色のカクテルが差し出された。その色は回想の色。

「そう言ってた槇村秀幸は一体どこに行っちまったんだ?」

確かに一度はそう言った。でも当時と今では事情が違う。
あのとき飛び出したはずの警察組織に今は絡めとられてしまっているのだから。だが、

「俺たちみたいな裏の人間にしかできないことがあるように、警察にしかできないことがある。
今のお前にはそれを利用する資格があるんじゃないのか?朝倉のときのように」

麻薬組織シンセミーリャの大幹部・デュークこと朝倉参事官はICPOという立場を利用して
次々と敵対組織を警察の力で潰していった。さすがにそこまではする勇気は無いが
警察は社会の暴力機関、一般社会で許されない行為も桜の代紋の力を借りれば可能となる。
スピード違反然り、拳銃の携行然り、ときには人の命を奪うことも。

「もうお前は警察の大義なんて信じちゃいないんだろ?
だったら道具として割り切っちまえばいい、目的じゃなく手段として。なんなら俺も道具にしてかまわない」

なおも割り切れない俺の背中を、撩の言葉が押した。

「お前が公安を恐れている以上に、公安はお前たちのことを恐れているんだ」

ふっと目から鱗が二、三枚まとめて落ちた。
その通りだ、警察の信用を握っているのは俺と冴子の知る真実――朝倉の真の姿
それが明らかになるのを恐れているからこそ公安は俺たちを監視しているのだから。
切り札はこの手にあるのだ。

ごちそーさん、といって撩が席を立った。




ホテルパンパシフィック東京ベイ。

「最上階の部屋ってのはラッキーだったな」

ああ、そうだ。これが普通のフロアなら侵入する際に一悶着あって、思わぬ警察沙汰にもなりかねない。
って
「なんでてめぇがいるんだよ!」

ホテルの屋上には戦力にもなりゃしない金髪の自称・敏腕ジャーナリストが同行していた。

「決まってるだろ、お前の骨を拾いにだ」
「拾う前にお前も一緒に骨にならぁ。
あーいやだね、もっこり美人とならいざ知らずてめぇと一緒に死ぬなんて願い下げだ」
「・・・お前、ホントにハードボイルドに向いてないのな」
と嫌みたっぷりにわざとらしいため息を漏らす。

「ここでフィリップ・マーロウやスペンサーだったら余裕たっぷりにジョークを決めるとこだぜ」
「バーロォ、そんなこと日本でやれば不謹慎呼ばわりされるのが落ちだぞ」

男は黙って、これこそ日本のハードボイルドだ。
そんな冗談を言い合いながらも降下用のロープを準備するのは忘れない、
何だかんだ言って俺たちはプロなのだから。

「それじゃ、good luck」
「ああ」
「って別にお前がやられたってオレは一向に構わないんだがな。
そうすりゃカオリとカズエで両手に花だからな〜♪」

ロープに掴まりながら銃口をミックに向ける。夜の闇の中でもブロンドはよく目立って照準をつけやすい。

「It's a joke, joke! Just a kidding!!」

こっちだって冗談だ。こんなところで無駄弾費やしたら
――香に叱られる。
思わずあいつを思い出した自分に苦笑した。

屋上からロープを垂らして真下が香の監禁されている部屋だ。どの部屋かはミックが何日も監視を続けた結果判っている。
おそらく防弾加工をされていない普通のガラス、勢いよく蹴破れば、
それでも駄目なら銃弾の一発で、簡単に割ることができるだろう。
窓の見当をつけて、壁を蹴った。体は振り子のように壁から離れる。
そして振り子の幅が頂点を極めると、あとは放物線を描いて落下していくだけだ。
その勢いで窓を破った。
と同時に中にいた見張りを二、三人片づけるのは朝飯前だ。
侵入した部屋はリビングらしく、ソファを飛び越えテーブルの向こうにまで飛び降りることができた。
背中から仕留め残した連中の銃弾が飛んでくるが、応戦している暇はない、香を取り戻すのが先だ。


すぐ近くで銃声が聞こえた。この聞き覚えのある357マグナムは
――撩!
そのとき胸を襲ったのは安堵よりも恐れだった。
(なんであたしなんかのことを助けに来たの?助けになんて来なければ無事で済むのに・・・)
「ようやく招待客が来たようだな」
「ぐずぐずしてていいの?この程度の見張り、撩なら5分で片づけるわ」
なのに口から出るのは強気な台詞。
撩の助けを望んでいないのにそれに期待している自分がいる。
「お嬢さん、物事にはタイミングってものがあるんだよ」


次の部屋のドアを開けると、またも雑魚が飛び出してきた。
その突進をかわし、一人目にエルボーをくらわせ
二人目には銃のグリップを、
そして三人目の脳天に肘をおもいきり叩き下ろした。これで弾を消費せずに済んだ。中は、
「ダイニングルームか」

しかしそこに香の姿は無かった。じゃあ残すあと一部屋に・・・!
とそのとき、開け放した窓から嵐のような暴風が吹きこんできた。
一瞬、腕で顔を覆ったがすぐに次のドアを開け放った。
そこで目に飛び込んできたのは、バルコニーに垂れ下がった縄梯子に掴まりながら、
まるで芝居の怪人のように片手に囚われの美女を抱きかかえる男の姿だった。
おそらく縄梯子はヘリから降りているもの、さっきの爆風もその回転翼によるものだろう。その顔は逆光になっていた。

「撩っ、来ないで!」

次の一歩を踏み出そうとする足を彼女の声が制した。

「香っ!」
「惜しかったなシティーハンター、実に惜しかった、あと一歩だったよ。
もう少し早ければ君のパートナーは取り戻せたかもしれなかったのに」

そして奴の体が宙に浮いた。その動きに合わせて銃口を上へとずらす。

「無駄だよ。もしお前がその銃爪を引けば――この手を放す。そうすれば彼女はどうなるか、判るだろうね」

奴が香を放せば――地上50mから落下、当然命は無い。
銃を下ろす俺を悠然と見下しながら香を乗せたヘリは東京湾へと消えていった。置き土産に機銃掃射を残して。

「チッ!武装ヘリか」

ヘリなら銃弾一発で撃ち落とす自信はあるが、香を人質に取られている以上手も足も出なかった。

「リョウ!」

屋上からミックの声が降ってきた。あいつの握力ではロープで体重を支えることも困難だろう。

「カオリは!?」
「ああ・・・行っちまいやがった」

っ畜生!バルコニーの手すりに拳を叩きつけた。
こんなもんじゃ、こんな痛みじゃ足りない。俺の悔悟を物語るには。




――警察の大義なんて信じちゃいないんだろ?
だったら道具として割り切っちまえばいい、目的じゃなく手段として。

撩の言葉が警察官としての自分を再び目覚めさせてくれた。
それまでは警察の中に身を置く自分に違和感を抱き続けていた。
かつては自分を捨てた、そして自分が捨てた組織。その限界は誰よりも身にしみていた。
その暗部さえも――まざまざと見せつけられた。自分を信頼していない組織のためにいったい何ができるというのだ。
かつては憧れた、そして希望を抱いていた警察官という職務に何も感じられなくなっていた。
だが今は違う。警察の正義を信じられないのなら自分の正義を貫けばいい。
警察なんていうのはそのための道具にすぎない。きわめて強大かつ有効な道具に。
そして、今の自分にとって最大の正義は――妹を、香を救い出すこと。

しかし、それでも落合からの申し出には二の足を踏んでいた。北方課長の、撩からの後押しがあったにもかかわらず。


先輩刑事は今日も慌ただしく東京中を駆け回っていた。
特捜課の刑事には課としてのチームワークの他に、個々の刑事の能力も大いに問われる。
特に警察内外に張り巡らされた情報のネットワークが。
密航組織の動きですら、その刑事がずっと組織を追っていたから手に入れられた情報だった。
自分でもそれなりの実力を買われて特捜に上がってきたつもりだが
所轄を数年と機捜だけではまだまだ情報屋の質・量ともに足りない。せめて主任の――
『生ける伝説』と呼ばれる槇村主任の側にくっついていれば何か掴めるかもしれないとは思っているのだが。
14:21、主任も課長も外出中で刑事の出払った特捜課は僕を除いて数人だけだった。
「あの・・・特捜課はこちらでしょうか?」
その中でも一番末席なのだから、来客にはまず自分が出なければならない。
「はい、そうですが」
その来客というのはうら若き女性だった。
黒のワンピースに帽子を目深にかぶり、そこから長い髪が背中に流れていた。
「兄がいつもお世話になっております。よかったらこれ・・・どうか皆さんで召し上がってください」
兄って、まさか・・・この穏やかな物腰、控え目な口調、もしかして。
ああっ、帽子で顔が見えないのがもどかしい。
だが、そうこうしている間に槇村主任の妹さんは一礼して刑事部屋を後にしてしまった。
残されたのは紙袋に入った箱、その袋には洋菓子店の名前が。
デパートの洋菓子売り場ならどこにでもある、さほど気張らない、差し入れにはもってこいの店だ。
皆さんでどうぞって言ってたし、とりあえず中身を開けてみて。
何せあの主任の、顔も見せないほどの自慢の妹さんからのなのだから――。


警視庁に爆発音が轟いた。

(まさか・・・!)

制服・私服の警官たちの間をすり抜け特捜課へとひた走る。その途中、髪の長い女とすれ違った。
このフロアには珍しい一般人、そして真っ黒のドレスはまるで喪服のよう――。

人垣を掻き分け課内に入ると、そこは無残に荒れ果てていた。
決して被害は大きくはなかった。だが書類は巻き上げられ、机の列は歪み、爆発の威力を物語っていた。
そしてその中心には大澤の、筆舌に尽くしがたいほどの変わり果てた姿があった。
おそらくはピンポイントに開けた人間の命を奪う、香に宛てられたのと同じもの。その物言わぬ亡骸を掻き抱いた。

お前にはこれからもっと働いてもらうつもりだったのに。
何かを教えてやれなくても、思うものを身につけて一人前の刑事になってもらいたかったのに。
そして香に会わせてやりたかったのに。

背後には続々と職場の惨状を聞いた同僚たちが駆けつけてきた。
彼らは皆一様に復讐を誓っていた。――だが、どうやって?
刑事たちの間に漂っていたのは遣り場のない怒りと、そして無力感。それはまるでかつての自分のような。
しかし、この場で自分にだけは奴らに復讐の鉄槌を下すことができる。

そのとき、覚悟が決まった。


撩に先立って、槇村復活です。
でも、『内戦下の東南アジア某国』『そこから帰って来た男』『彼を追う謎のメガネ役人』なんて
それこそ機動警察パトレイバーthe Movie2じゃないですか【爆】

って長!

Former/Next

City Hunter