これでいいんだ、これでよかったんだ。 「ねえ、香は長谷さんのことをどう思ってるの?」 そう絵梨子に聞かれたのは彼のアシスタントという仕事にも大分慣れてきた頃のことだった。 「どう・・・って」 こっちを睨みつけるように眉をしかめる絵梨子。暫しの沈黙の後、 「これは香には言わないつもりだったんだけど、長谷さん、わざわざあなたのことを指名してきたんだから。 昔から異性には好感を持たれる方だった、ただしあくまで女扱いしないで済む友人として。 「香!あなたもうちょっと女性として自信持ってもいいんじゃない? 確かにあの撩がどうしようもないバカ男だってのは認める。 「今もそう言われてムカつくほど冴羽さんのことを想ってるのはわたしだって判ってる。 でもそれって結局、誰かの代わりってことじゃないの? 「最初はね、代わりでも何でもいいのよ。それでちゃんと前を向けるようになれれば。 胸の、隙間・・・。あのとき、アニキを失ったとき、 |
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vol. 5 私が愛したスイーパー |
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あれからもってますますナンパがうまくいかない。 声をかけてもあと一歩のところで逃げられ、そうこうしてるうちに上玉の美人には声をかけそびれる。 そんなことをしていても、いまいち乗り気にはなれないのだ。 こんなときはさっさと家に帰って雑誌のもっこりちゃんを眺めるに限る。 そう思って通りを立ち去ろうと思ったら、轍が目配せしてきた。 「何だよ」 まださほど汚れていない靴を足乗せ台に置いた。 「香ちゃんのことだけど、アパートの周りを怪しい奴がうろついてるそうだ」 ファンクラブ、ねぇ。そういや香はこういう情報屋だの、裏稼業の周りにうろうろしている連中に受けが良かった。 ――バレてハンマー喰らうのはこの俺なんだぞ。 「それがな、見てきた若い衆の言うことにゃ、どうやら堅気じゃねぇって話らしい。 堅気じゃない、となると原因は槇村か・・・もしくは、この俺。 |
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鏡の中に映る槇村香――あたし。ときどきこれが本当にあたしなのかと思うことがある。 ちょっと凝ったデザインのブラウスに、ジーンズもブランド物。 絵梨子に「似合う」と言われ握らされるように貰った口紅は普段の唇よりも明るいピンク色だった。 あたしはこんなのじゃない。もっと地味で、垢抜けなくて、化粧っ気が無くて――おっと、ここにきた目的を忘れるとこだった。 ポーチの中からじゃらじゃらと化粧道具を取り出す。メイクを保つためにはこうやってこまめに化粧直しをしなくちゃならない。 そして、誰もあたしの心の中には右頬のように傷跡が残っているとは誰も思わないだろう。 「やぁ香ちゃん、今日も元気そうだね」 長身に――それでも撩の方が上だが――シンプルなスーツを無造作に羽織る。 (やっぱり高い物着てるからかな・・・) なら撩も高級なスーツ――例えば前に絵梨子が着せたようなもの――を着れば 「タカシにエツコにタカボーにユキも、全員ちゅうもーく」 この『ハセ・キヨヒデ・オフィス』は少人数ゆえかアットホームな雰囲気でスタッフ同志はもちろん、 「みんなには秋冬コレクションに引き続き そう締めくくるとみんな手に持った書類や小道具を放り上げそうな勢いで喚声を上げた。 「あ、香ちゃん帰っちゃうの?」 タカボーと呼ばれてるスタッフの一人――いかにも業界人というノリだが仕事はできる――が声をかける。 「そうよぉ、香の歓迎会やってなかったじゃないのぉ」 他のスタッフが引きとめようとするのをすり抜ける。だが、 「香ちゃん、ちょっと話、いい?」 長谷さんに呼び止められた。 「そろそろ仕事にも慣れた?」 それはどういう意味なのか、一瞬泡を食ってしまった。 「いや、変な意味じゃないんだ。ただ5月であっちの方で大きい仕事がある。 じゃあ、考えといてくれと彼はあっさりあたしを送り出した。 だがそんな喜びは、電車が代々木上原に着いた途端に消えうせてしまった。 できるだけ足音を立てないように階段を上り、鍵穴にキーを入れてその手応えにほっとする。 テーブルの上には置いたはずのない紙が置かれていた。 |
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ターゲットが自宅から出てくるのを確認、直ちに尾行に入る。 その表情は硬く、険しいあたかも世界中の不幸を一身に背負っているかのようだ。 だが、だからといってこっちの存在に気づいていないとはいえない。あれでも職業柄、他人の気配には敏感なのだから。 彼は吸い寄せられるように夜の街へ。通りの客引きに捕まっては二言三言会話を交わす。 撩を見張るよう姉から依頼があったのはデリヘル嬢殺しがあってすぐだった。 尾行にかけてはこれでもプロだが、相手は裏の世界でNo.1と呼ばれる男、バレていないとは思えなかった。 「人の後尾けるなんて趣味悪いんでないの、麗香」 いつものように口調は軽かったが、その奥に背筋を凍らせるような何かがあった。 「あら、偶然よ。たまたまこっちの方に用事があったから」 撩の視線は真っ直ぐ私へと向けられていた。その眼をそらさずに嘘を吐き通せる者などいるのだろうか? 「それなら大丈夫、もう会ってきたとこだから」 そして路地の壁際に追い込まれた。 「誰に頼まれた。冴子か、それとも――」 ――あたしが望んでいたのはこんなのじゃない。 撩の眼は私という女を、野上麗香という人間を見てはいなかった。 「ここじゃ嫌っていうのか?」 何かに駆り立てられたように一気に捲し立てた、腹を空かせた猛獣相手に。 ――殺される。 そう本気で覚悟した。 彼の目の前に突きつけられたもの、それは私の瞳に映った撩自身の醜い姿だったのかもしれない。 |
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「自分を愛せない人間が誰かを愛せるわけがない」なんて甘っちょろいことが俺に通用すると思うのか? 誰かを傷つけ、誰かを殺すことでしか生きていけないこの俺が、俺自身を愛せると思ってるのか? 鏡を見る。 それは俺の望んだ姿か? いや、俺は何も望んでなどいなかった。 両親とともに乗っていた飛行機が墜落し、拾われたのは反政府ゲリラにだった。 戦争は終わり、それじゃ俺はどうやって生きていけばいいんだ?闘うことしか、人を殺すしか能のない俺は・・・。 こんな男が自分を愛せるだろうか?愛せるわけがない。 |
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ランウェイには色とりどりの照明が瞬き、会場にはビートの利いた音楽が流れる。 これでステージ上に最新モードに身を包んだモデルたちが並べば エリ・キタハラ銀座店開店記念ファッションショーそのものだったのだが、 「ごめんなさいね長谷さん、肝心の衣装が間に合わなくって」 表参道近くのアトリエを兼ねたブティックをはじめ、すでに何店かの店舗を構えているが ショーの演出プランは絵梨子の承諾を得て決定し、あとはリハーサルを重ねて形にしていくだけだ。 「仕方ない。香ちゃん、ちょっとステージの上を歩いてみてくれないかな」 とっさに周囲を見回してみる。長谷さんのスタッフの中にはあたしぐらいの背丈はざらだ。 ジーンズと動きやすいようにスニーカー履きだが、前に絵梨子のショーで 頭上では下からの指示を受けながら、照明専門のスタッフがライトの角度を微調整している。 「香っ」 ガシャーンという轟音を立ててライトが落下してきた。 「大丈夫?」 ショーのスタッフもそれ以外も、みんな騒然としてステージに駆け寄る。 これまで命を狙われたことは数えきれない。直接銃口を突きつけられたのも、一度や二度ではきかないはずだ。 とっさに逃げたスタッフの顔を確かめる。キャップの下の顔立ちは日本人じゃないようだ。 |
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伝言板を見に行くのが俺の仕事になってもう大分経つ。 依頼の確認と依頼者との接触はアシスタントの仕事、俺は肉体労働専門と長い間役割分担が決まっていた。 それはあいつの兄貴と組んでいたときからだった。 ときどきは女の依頼を断られないようにこっそりと見に行っては勝手に仕事を引き受けることもあったが、 そんなときは当然の如く香のハンマーが飛んだ。俺が美人に鼻の下を伸ばしているのが恨めしかったのではない アシスタントとしての役割を蔑ろにされたのが悔しかったから。こればかりは香にも充分に務められる数少ない仕事だった。 そんな簡単な仕事にすらプライドを持っていたあいつがいじらしくもあった。 そういや香のやつは一日に二度も三度も見に行っていたが、だからといって依頼があるとは限らない。 東京中のヤクザが結集して謎の外国人武装集団に勝負を挑んだが (・・・どっちにしろ今の俺には関係のないことだ) 新宿が火の海になろうとも、自分が命を落とすことになろうとも。 目の前のXYZ――それは本当に目の前にあった。 |
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長くなってしまいましたが、麗香の非難とネガティヴ撩の自問自答、 |