――堕ちてくは楽だけど
  登るのは こりゃしんどい

これでいいんだ、これでよかったんだ。
自分でもあれほどまでにつれない態度を取れるとは思っていなかった。
だけど、そうしなければいつまでも撩を引きずってしまいそうだったから。

「ねえ、香は長谷さんのことをどう思ってるの?」

そう絵梨子に聞かれたのは彼のアシスタントという仕事にも大分慣れてきた頃のことだった。

「どう・・・って」
「だからぁ・・・」

こっちを睨みつけるように眉をしかめる絵梨子。暫しの沈黙の後、

「これは香には言わないつもりだったんだけど、長谷さん、わざわざあなたのことを指名してきたんだから。
あなたみたいな娘と一緒に働けたらって」
「それってあくまで同僚ってことでしょ?」

昔から異性には好感を持たれる方だった、ただしあくまで女扱いしないで済む友人として。
思えば撩とのパートナーシップもその延長上だったのかもしれない。

「香!あなたもうちょっと女性として自信持ってもいいんじゃない?
あなたが魅力的だってことはこの北原エリが保証するんだから。
それによっぽどあのバカ男よりはいいんじゃないの?」
「バカ男って誰のことよ」
「冴羽さんよりはずっと優しいし甲斐性はあるし、それにもちろん服のセンスだって――」

確かにあの撩がどうしようもないバカ男だってのは認める。
だからといってそれを他の誰かにとやかく言われるのは、今となっても神経に触れる。たとえそれが絵梨子であっても。

「今もそう言われてムカつくほど冴羽さんのことを想ってるのはわたしだって判ってる。
でもね、香、昔の恋を忘れる一番手っ取り早い方法は、新しい恋をすることよ♪」
「新しい、恋・・・」

でもそれって結局、誰かの代わりってことじゃないの?

「最初はね、代わりでも何でもいいのよ。それでちゃんと前を向けるようになれれば。
それにね、恋で空いた胸の隙間は恋じゃなきゃ埋まらないの」

胸の、隙間・・・。あのとき、アニキを失ったとき、
あたしの心には埋められそうもないほどの大きな穴が空いていた。
その穴を埋めてくれたのが撩の存在だった。
だとしたら、あたしにとって撩はただアニキの代わりにすぎなかったのかもしれない。
あたしが前を向いて、一人で生きていけるようになるまでの支えでしか。
だったらやっぱりあたしはこの手を放さなきゃならないんだ、撩に繋がれていたこの手を。
たとえこの手を次は誰と繋ぐにせよ。


vol. 5 私が愛したスイーパー


あれからもってますますナンパがうまくいかない。
声をかけてもあと一歩のところで逃げられ、そうこうしてるうちに上玉の美人には声をかけそびれる。
そんなことをしていても、いまいち乗り気にはなれないのだ。
こんなときはさっさと家に帰って雑誌のもっこりちゃんを眺めるに限る。
そう思って通りを立ち去ろうと思ったら、轍が目配せしてきた。

「何だよ」

まださほど汚れていない靴を足乗せ台に置いた。

「香ちゃんのことだけど、アパートの周りを怪しい奴がうろついてるそうだ」
「轍っつぁん、香の監視はもうしなくていいって言ったろ」
「こればっかは撩ちゃんに頼まれてするもんじゃない。香ちゃんファンクラブの活動の一貫さ」

ファンクラブ、ねぇ。そういや香はこういう情報屋だの、裏稼業の周りにうろうろしている連中に受けが良かった。
奴らは表面上は愛想を振り撒いていても、その皮一枚剥げばやるかやられるか
潰されるか潰し返すかの世界だ。裏切りなんてのも日常茶飯事。
そんな中で香の何の裏も無い微笑というのは奴らにとって新鮮だったのかもしれない。だからこそ香にだけは
見返りを求めずに何かと力になろうとするのだ。わざわざ頼まれもしないのに様子を確かめに行ったり。でも、

――バレてハンマー喰らうのはこの俺なんだぞ。

「それがな、見てきた若い衆の言うことにゃ、どうやら堅気じゃねぇって話らしい。
なぁ撩ちゃん、なんとか香ちゃんを助けてあげられねぇのかい?」

堅気じゃない、となると原因は槇村か・・・もしくは、この俺。
だがもう俺と香は赤の他人のはずだった。それに、香自身から冷たく突き放されたこの身だ。
たとえあいつを守ってやりたくても、どうすることもできないのだから。




鏡の中に映る槇村香――あたし。ときどきこれが本当にあたしなのかと思うことがある。
ちょっと凝ったデザインのブラウスに、ジーンズもブランド物。
絵梨子に「似合う」と言われ握らされるように貰った口紅は普段の唇よりも明るいピンク色だった。
あたしはこんなのじゃない。もっと地味で、垢抜けなくて、化粧っ気が無くて――おっと、ここにきた目的を忘れるとこだった。

ポーチの中からじゃらじゃらと化粧道具を取り出す。メイクを保つためにはこうやってこまめに化粧直しをしなくちゃならない。
この仕事はお洒落に見えて意外と肉体労働だからなおさら。顔に浮いた脂を押さえて、ファンデーションを叩く。
絵梨子に「化粧しないで外に出るのはストリーキングと同じ!」と言われて
(だったらほとんど化粧らしい化粧をしていなかった今までのあたしは何なの?と言いたいのだが)
徹底的に叩き込まれただけあって、仕上がりは完璧。どこからどう見ても素顔にしか見えない。
まさかまだ右頬にうっすらと――顔を近づけなければ見えないくらいだが――傷跡が残っているとは誰も思わないだろう。
そこには重点的にコンシーラーを塗りこんであるのだから。

そして、誰もあたしの心の中には右頬のように傷跡が残っているとは誰も思わないだろう。
鏡で笑顔を確かめると化粧室を後にした。

「やぁ香ちゃん、今日も元気そうだね」
「あっ、長谷さん」

長身に――それでも撩の方が上だが――シンプルなスーツを無造作に羽織る。
それが絵梨子も一目置くぐらい様になっている。もちろんそのスーツもイタリアの一流ブランドなのだが。
その中にはシャツではなく無地のTシャツ、なんていうと撩の普段着と大して変わらないように思えるが
これがまったく雲泥の差なのだから不思議だ。

(やっぱり高い物着てるからかな・・・)

なら撩も高級なスーツ――例えば前に絵梨子が着せたようなもの――を着れば
あの体形だもの、結構それなりに見えるんじゃないか、と考えついたのをまた即座に振り払う。

「タカシにエツコにタカボーにユキも、全員ちゅうもーく」
と言って頭上で手を鳴らした。

この『ハセ・キヨヒデ・オフィス』は少人数ゆえかアットホームな雰囲気でスタッフ同志はもちろん、
こうやって長谷さん自ら名前やあだ名で呼んでいる。
むしろあたしの「香ちゃん」という呼ばれ方の方がよそよそしいくらいなのだ。だけどやっぱりこそばゆい。

「みんなには秋冬コレクションに引き続き
北原エリの銀座店オープン記念ショーの準備にと本当に頑張ってもらってると思ってる。
だがショー本番まであともう少しだ。今日は前祝いってわけじゃないが、いつもの西麻布の店を予約してある。
今夜ばかりは残業は抜きで英気を養ってもらいたい。じゃあ、本日はこれで解散!」

そう締めくくるとみんな手に持った書類や小道具を放り上げそうな勢いで喚声を上げた。
だがあたしはそうは言っていられなかった。外はまだ明るい。明るい内に帰れるのであればこれ以上のことはない。

「あ、香ちゃん帰っちゃうの?」

タカボーと呼ばれてるスタッフの一人――いかにも業界人というノリだが仕事はできる――が声をかける。

「そうよぉ、香の歓迎会やってなかったじゃないのぉ」
「ごめんなさい、まだ荷物片付いてないから――」

他のスタッフが引きとめようとするのをすり抜ける。だが、

「香ちゃん、ちょっと話、いい?」

長谷さんに呼び止められた。

「そろそろ仕事にも慣れた?」
「ええ、なんとか・・・」
「新しい職場で仕事覚えるのだけでも大変かもしれないけど、
もうちょっとスタッフのみんなと打ち解けてもいいかな」
「すいません」
「そう、その敬語も。僕にもそんな言葉づかいしなくてもいいから」
「あ、はい」
「そうそう、本題なんだけど、エリのショーの仕事が終わったら、一緒にパリに行かないか?」
「パリに!?」

それはどういう意味なのか、一瞬泡を食ってしまった。

「いや、変な意味じゃないんだ。ただ5月であっちの方で大きい仕事がある。
それで、現地のスタッフと、こっちからも何人か連れていくんだけど、それに加わらないか、って言ってるんだ」
「でも、まだあたしはそんな・・・」
「もちろん戦力としては計算していない。ただ、仕事ぶりを見るだけで勉強になるはずだ。
君はこの仕事でいい線いってる。この仕事はセンスとかそういうもの以上に求められてるのは細やかな心配りだ。
それを君は持っている。現場の雰囲気に触れれば君はもっともっと延びるはずだ」

じゃあ、考えといてくれと彼はあっさりあたしを送り出した。
駅まで歩いていくに連れて、胸の中にじわじわと嬉しさが溢れていった。
絵梨子は長谷さんがあたしのことを気があるとか言ってたけど、そういうことじゃない。
むしろ仕事上の部下としてあたしを認めてくれたことの方が嬉しかった。
それは今までの8年間で決して得られなかったものだったから。

だがそんな喜びは、電車が代々木上原に着いた途端に消えうせてしまった。
周りはさっきまでより暗くなってるような気がする。この辺は住宅街だから人通りはまばらだ。
だからただ単に同じ方向へ帰るだけの足音にも過敏に反応してしまう。
そんなこと、普通の一人暮らしの女性ならしなくてもいいのに。
新宿の街を闊歩していたとき以上に神経を研ぎ澄ませて歩く。
駅から13分。不動産屋は5分と言っていたのに・・・それは今のあたしには神経が耐えられるギリギリの距離だった。

できるだけ足音を立てないように階段を上り、鍵穴にキーを入れてその手応えにほっとする。
やっと我が家にたどり着いたのだ。
もともと一人暮らしを始めたときから、誰かに見られてるような、監視されてるような気がした。
最初は気のせいだと思ったが、次第に彼らは小さな痕跡を残し始めた。おそらくわざと、警告のつもりで。
そして最近になってそれはエスカレートしてきた。郵便受けに入れられていた弾丸、消えていたゴミ袋、
そして玄関の前に置かれていたいつ撮られたか判らない――でも最近の――写真は
顔のところにナイフがグッサリと刺さっていた。今日は何も無い。何も無かった、そのときまでは。

テーブルの上には置いたはずのない紙が置かれていた。
その裏側にはワープロ打ちの文章。それは機械で書かれた文字らしく淡々と書かれていた。
――X.Y.Z.もう後がない、あたしには。
あとは余白だらけの紙を握り締め、その場に力無くへたり込んだ。
部屋の中には誰かが足を踏み入れた形跡は無かった。ドアにはもちろん鍵がかかっていたし、窓も総て二重ロックされたまま。
その事実がかえってこの状況を薄ら寒いものにしていた。
たとえこの次に何が来ようと、たった一人で耐えなければ――撩の力を借りるつもりはなかった。
借りられるわけがなかった。




ターゲットが自宅から出てくるのを確認、直ちに尾行に入る。
その表情は硬く、険しいあたかも世界中の不幸を一身に背負っているかのようだ。
だが、だからといってこっちの存在に気づいていないとはいえない。あれでも職業柄、他人の気配には敏感なのだから。

彼は吸い寄せられるように夜の街へ。通りの客引きに捕まっては二言三言会話を交わす。
さっきまでとは打って変わって時折り笑顔も混じるが、それは上辺だけの作り笑顔。
誘い文句に鼻の下を伸ばしながらもそれに乗せられることはなく、また悠々と歌舞伎町の人込みの中に揉まれていった。

撩を見張るよう姉から依頼があったのはデリヘル嬢殺しがあってすぐだった。
犯人の真の狙いは撩だと『警視庁の女豹』は踏んのだ。だが私は別の理由で彼のことが気にかかっていた。
一見表向きには変わりはないように映るが、香さんがアパートを出ていってからかなり荒んだ生活を送っているようだ。
最近では昼間は今までのように街往く美女にナンパしては毎日肘鉄を喰らっているが、
夜ともなると綺麗なお姐さんのいる店に行くのでも向かいのミックと飲み歩くでもなく
毎晩のように破滅的な深酒をしては、ときどきアルコールの他に硝煙の匂いをさせてアパートに帰ってきているようだった。
隣人という、彼女がいなくなってからは最も近いところにいるのだ、それくらいのことは判る。
でも、判っていながらどうすることもできない。かすみちゃんのように彼のテリトリーに飛び込んでいくこともできない。
ただ見守り続けること、それが今私がやるべきことなのだから。

尾行にかけてはこれでもプロだが、相手は裏の世界でNo.1と呼ばれる男、バレていないとは思えなかった。

「人の後尾けるなんて趣味悪いんでないの、麗香」

いつものように口調は軽かったが、その奥に背筋を凍らせるような何かがあった。

「あら、偶然よ。たまたまこっちの方に用事があったから」
「夜の歌舞伎町に?」
「情報屋に呼び出されてね」
「もっこりお嬢さんをこんなところに呼び出すなんて碌な情報屋じゃないな。
なんなら俺がついていってやろうか?」

撩の視線は真っ直ぐ私へと向けられていた。その眼をそらさずに嘘を吐き通せる者などいるのだろうか?

「それなら大丈夫、もう会ってきたとこだから」
「――俺が何も気づいてないと思ってるのか?」

そして路地の壁際に追い込まれた。

「誰に頼まれた。冴子か、それとも――」
「自分で勝手に追いかけてるだけよ、あなたのことがもっと知りたくて。
せっかく『夫婦スイーパー』に邪魔が無くなったんだもの」
「じゃあこういうこともしていいわけね」

と言うと撩の唇が迫ってきた。
ずっと望んでいたことだった、初めて彼と出会ったときから。だけど、

――あたしが望んでいたのはこんなのじゃない。

撩の眼は私という女を、野上麗香という人間を見てはいなかった。
その眼は獲物を見据える捕食動物の眼そのもの、
その前では哀れな獲物は動くこともできずただ震えているしかない。
しかし、渾身の力を振り絞って私は撩の胸板を押し返した。

「ここじゃ嫌っていうのか?」
「――これじゃ香さんが愛想尽かしたのも当然よ!」
「あいつから出ていったわけじゃない。俺が追い出したんだ」
「いいえ。もし香さんがあなたのことを想っていたなら、何が何でも出ていかなかったはずよ。
なのに撩、あなたは――香さんの気持ちを利用していただけ。
彼女を愛そうとはせずにただ香さんから愛されることを望んでいた。違う?
自分を愛せない人間が誰かを愛せるわけがないもの」

何かに駆り立てられたように一気に捲し立てた、腹を空かせた猛獣相手に。

――殺される。

そう本気で覚悟した。
だが撩の眼は――狼狽(うろた)えていた、銃か何かを目の前に突きつけられたかのように。
たとえ目の前に銃口を突きつけられようとも余裕の笑みを浮かべる、それが冴羽撩だったはずだ。
しかし彼は大きく目を見開いて、動きを封じていた手を解くと、後ずさりするようにそのまま街の雑踏へと消えていった。

彼の目の前に突きつけられたもの、それは私の瞳に映った撩自身の醜い姿だったのかもしれない。




「自分を愛せない人間が誰かを愛せるわけがない」なんて甘っちょろいことが俺に通用すると思うのか?
誰かを傷つけ、誰かを殺すことでしか生きていけないこの俺が、俺自身を愛せると思ってるのか?

鏡を見る。
目の前に映るこの男は誰だ?冴羽撩と呼ばれる男だ。
かつては『暗い瞳の死神』と渾名され、今では裏の世界でNo.1といわれる殺し屋だ。

それは俺の望んだ姿か?

いや、俺は何も望んでなどいなかった。
何になりたいとも、どうしたいとも望んだことは一度としてなかった。
総て、運命に流された結果だった。

両親とともに乗っていた飛行機が墜落し、拾われたのは反政府ゲリラにだった。
生きていくためには銃を取るしかなかった。殺されないために数多くの敵を殺した。
そこに選択の余地はなかった。

戦争は終わり、それじゃ俺はどうやって生きていけばいいんだ?闘うことしか、人を殺すしか能のない俺は・・・。
当然のごとく裏の世界に道を求めるしかなかった。
そこでめきめきと頭角を現し、今ではここじゃNo.1だ。
だが、なりたくてなったわけじゃない。
今まで何かになりたいなんて思わなかった。なりたいものになれるなんて思いもしなかった。

こんな男が自分を愛せるだろうか?愛せるわけがない。
望んでなった自分ならば自分自身に胸を張れるだろう。たとえ人を傷つけ、殺めることが生きる糧であったとしても。
だが、流されるまま、この街にたどり着いて香と出会い、香を捨て、燻っている今の俺はどうだ?
自分でも判っている、俺は最低の人間だと。
生きるために、ただ食うために憎くもない人間の命を奪う殺し屋。
でもそうすることでしか生きていけない自分がいる。
そして、俺は俺を蔑み、卑しみ、憎み続ける。
そんな俺が誰かを愛し、愛される資格などない。




ランウェイには色とりどりの照明が瞬き、会場にはビートの利いた音楽が流れる。
これでステージ上に最新モードに身を包んだモデルたちが並べば
エリ・キタハラ銀座店開店記念ファッションショーそのものだったのだが、

「ごめんなさいね長谷さん、肝心の衣装が間に合わなくって」
「いいよいいよ、君のことだ、ギリギリまで手直ししたいんだろ?同じクリエイターとして判るよその気持ち」

表参道近くのアトリエを兼ねたブティックをはじめ、すでに何店かの店舗を構えているが
これが銀座進出ともなると意気込みも違ってくる。その絵梨子の気合はアトリエ中のスタッフにも充満していた。
そしてここ、会場となるオープン直前の店の中でも。
内装デザイナーが最終チェックを繰り返し、販売スタッフは商品の配列に奔走する。
そしてまだシャッターの下りたウィンドウの中ではディスプレイの試行錯誤が繰り返されていた。
その中をあたしたちオフィス・キヨヒデ・ハセの面々がショーの準備に明け暮れていた。
オープンまであと1週間を切っていた。誰もが時間に追われていた。

ショーの演出プランは絵梨子の承諾を得て決定し、あとはリハーサルを重ねて形にしていくだけだ。
しかし主役であるはずの衣装どころか、モデルすらフィッティングのためにアトリエに取られてしまっていた。
彼女たちがステージ上を歩くだけでも雰囲気が見えてくるのに。

「仕方ない。香ちゃん、ちょっとステージの上を歩いてみてくれないかな」
「ええっ、あたしがですか?」
「背格好的に丁度いいんだよ。ね、ライティングの角度見るだけだからさぁ」

とっさに周囲を見回してみる。長谷さんのスタッフの中にはあたしぐらいの背丈はざらだ。
モデルと見紛うほどスタイルもセンスもいい人ばかりだった。
しかし、この本番直前の慌ただしさの中、だれもが自分の仕事で精一杯だった。
ただ一人、新入りのあたしだけが手持ち無沙汰に立ち尽くしていた以外は。

ジーンズと動きやすいようにスニーカー履きだが、前に絵梨子のショーで
ステージに立ったときのことを思い出しながらランウェイを歩く。背筋をぴんと伸ばしながら
そういえばあのときは撩にエスコートしてもらったりもしたっけ、と思いだすと胸の奥が締めつけられるように痛んだ。

頭上では下からの指示を受けながら、照明専門のスタッフがライトの角度を微調整している。
ステージの先端、目印のテープ――さっきまであたしが貼っていたもの――の前でターンを決める。そのとき――

「香っ」
「香ちゃん!」

ガシャーンという轟音を立ててライトが落下してきた。
落ちたら死ぬとリハーサルの初日から口を酸っぱくして言われてきたあたしは
間一髪のところで避けることができたが、もし直撃していたら――。

「大丈夫?」
「ケガは無かった?」

ショーのスタッフもそれ以外も、みんな騒然としてステージに駆け寄る。
そんな中、照明のキャットウォークからスタッフが一人駈け降り、人波に逆行するように店の奥へと消えていった。
まさか、と思ったが体が動かせない。震えが止まらない。全身から力が抜けていった。

これまで命を狙われたことは数えきれない。直接銃口を突きつけられたのも、一度や二度ではきかないはずだ。
だけどそのときは撩がいた。きっと助けに来てくれると固く信じていた。
もし今この場で撩がいたら――きっと身を呈してあたしを守ってくれた。
そして恐怖に慄くあたしをそのたくましい胸の中に抱きしめながら、逃げようとする敵の背中に銃口を向けただろう。
しかし今ここに撩はいない。あのぬくもりも、匂いさえも感じることはできない。
たった一人でこの恐怖と立ち向かわなければならないのだ。

とっさに逃げたスタッフの顔を確かめる。キャップの下の顔立ちは日本人じゃないようだ。
じゃあ誰が、あたしを狙って・・・それとも撩?まさか――
数日前に届けられた脅迫状、X.Y.Z。次こそ本当に、「もう後がない」――。
撩の腕の中ならこんな震えなんてすぐに収まってしまった。しかし未だ戦慄は止まなかった。




伝言板を見に行くのが俺の仕事になってもう大分経つ。
依頼の確認と依頼者との接触はアシスタントの仕事、俺は肉体労働専門と長い間役割分担が決まっていた。
それはあいつの兄貴と組んでいたときからだった。
ときどきは女の依頼を断られないようにこっそりと見に行っては勝手に仕事を引き受けることもあったが、
そんなときは当然の如く香のハンマーが飛んだ。俺が美人に鼻の下を伸ばしているのが恨めしかったのではない
アシスタントとしての役割を蔑ろにされたのが悔しかったから。こればかりは香にも充分に務められる数少ない仕事だった。
そんな簡単な仕事にすらプライドを持っていたあいつがいじらしくもあった。

そういや香のやつは一日に二度も三度も見に行っていたが、だからといって依頼があるとは限らない。
こんなのは駅前でもっこり美女をナンパついででも充分だ。一時の依頼ラッシュはどこへやら、
冴羽商事はまた元の開店休業状態に逆戻りであった。まぁいい、俺たちが暇なのは世の中平和な証拠――とは限らないが。

東京中のヤクザが結集して謎の外国人武装集団に勝負を挑んだが
数では劣るものの精鋭揃いの彼らの前に、ヤクザ側の全面降伏という形であっけなく決着がついた。
これで相次いだ組事務所の襲撃とその報復としての外国人狩りの応酬の連鎖はひとまず止み
ここ新宿のアンダーワールドにも平和が戻った。しかし、それは嵐の前の静けさに他ならなかった。
今まで幾度となく修羅場をくぐってきた俺の勘が言うのだから間違いはない。
春の日差しに華やぐ美女たちをよそに、街の空気もどこかピリピリと張り詰めていた。
一触即発、ほんのわずかなきっかけでこの街は火の海になりかねない。

(・・・どっちにしろ今の俺には関係のないことだ)

新宿が火の海になろうとも、自分が命を落とすことになろうとも。
そもそもチンケな殺し屋一人にいったい何ができるのか。今俺がすべきなのは目の前のXYZに応えることだけだ。

目の前のXYZ――それは本当に目の前にあった。
だがまさかここでこれを目にするとは思ってもみなかった。
見慣れた筆跡の――見慣れぬ三文字。よっぽど動転していたのだろう、肝心の名前は書かれていなかった。
しかし誰の字なのかは一目で判った。しかし、その字は掠れそうに震えていた。
彼女の字がこれほどまでに怯えているのは見たことがなかった。
そして、連れの書いたものだろう。やはりどこかで見たことのある文字で「Cat's Eyeで待つ」とあった。
足は自ずと地面を蹴っていた。
まさか、あいつが・・・どうして!
一刻も早く彼女のもとに辿り着かなければならなかった。恐怖に慄き、俺を待っている彼女のもとへ。


長くなってしまいましたが、麗香の非難とネガティヴ撩の自問自答、
これが一番書きたかったんですよ。
そしていよいよ事件モノらしくなってきました。
照明が落ちてくるというのはベタといやぁベタなんですが、
演劇部時代、きちんと金具のネジは止めるように口を酸っぱくして言われました。落ちたら死ぬと。
あと緞帳ね。思えば舞台は危険でいっぱいなんですよ、いやマジで【苦笑】

Former/Next

City Hunter