窓の外には桜が咲いていた。都心の桜はあらかた散ってしまったが 「ここなら部屋から一歩も出ずに花見ができそうだな」 |
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vol. 4 会いたいのに 恋しいのに |
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「ゴメンねアニキ、せっかくの休みなのに引っ越し手伝わせちゃって」 「いや、たった一人の妹のためなら休日のただ働きくらいなんてことはないさ」 まさか本当のことは言えない。いてもいなくても大した違いはない閑職に追いやられているなんて、香には。 さっきまで部屋中を占領していた段ボール箱はほとんどが潰されて香の足元に積み重ねられていた。 この代々木上原のアパートは絵梨子さんの仕事場にも近く、 「あ・・・ここからも新宿が見えるんだな」 北東の向きについた窓からは西新宿のビル群がはっきりと見えた。 「確か反対側の角部屋もあったんだろ?なんでそっちに――」 そうは言うがこれから先、香はどんな想いでこのビルを見つめるのだろうか。 「これからおそば茹でるから、食べてってくれるでしょ?」 そういえば俺は帰ってきてから、香とろくに話していないことに気がついた。 「香、俺のいない間せっせと“墓参り”行ってくれたんだってな。ありがとう」 墓といっても中身は空っぽで、その中に入るべき人間は今もこうやってぴんぴんしているから 「何言ってんのよ、アニキ。 香は“墓参り”に来るたび、墓石に向かって話し掛けるようにじっとその場を動かなかったそうだ。 「だから今、お前の思ってることを少しでも話してくれないか? 香は背を向けたまま動かなかった。怒っているのか、泣いているのか背中からは見当がつかない。 ――撩には、ホント感謝してる。撩がいなかったらあたし、アニキの・・・ 墓石になる、と約束した以上口を挟むことはできない。それでも香は言葉を続けた。 ――でも撩がいてくれたからあたしは乗り越えられた。 何も言わなかった、何も言えなかった。 (でも、兄妹だろ?) 香はもう立派な大人だ。もう手助けは必要ないのかもしれない。 |
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スタジオは〆切前の編集部のようにバタバタしていて、急な来訪者になど構ってはくれなかった。 こっちはもう2週間以上前からアポイントを取っているというのに。でもそれは仕方ない、ある意味あっちも〆切前、 目前に迫ったショーのためにフィッティングやら仮縫いやらに追われているのだから。 「あっ、ミックじゃないの!」 こんな修羅場の中にでも真っ先に来客に気づくのがまさにカオリのカオリたるところ。 「何でこんなところに?まさか、撩のヤツに偵察頼まれてるんじゃないでしょうね」 「この人は・・・?」 そう言って手を差し出す彼女を怪訝な眼で見る。 「Oh,カオリ。心配しなくていいよ。彼女は言うなればオレのお目付け役、 ・・・そこまで言われちゃ淡い期待も水の泡かもしれない。 そんなカオリを見ていると複雑な気分だ。 が、あろうことかあのバカはカオリを手放した。それで彼女が泣き暮らしているというのなら でも、それでいいのか? 「どうだい、仕事は?もう慣れた?」 風の噂に、というかWeekly Newsの編集者から聞いたことがあった。 「引っ越したんだってね」 カオリの表情に暗雲が立ち込めた。 「最近、帰り道につけられたり、家にいても誰かに見られてるような気がするのよ」 まだこの言葉が日本語になる前の話だ。 「Yes.スキな異性に付きまとったり監視したりするクラーイ人のことです。 カオリが怯えた表情を見せた。 「Don't worry.カオリなら前から狙われることには慣れてるんだから、自分の身ぐらい自分で守れるさ」 コンテクストが掴めずきょとんとしているパレツキーに 「Uh-huh」 一瞬の剣幕に気圧されてしまった。 「Is he Kiyohide Hase(彼、ハセ・キヨヒデじゃない)?」 そう言ってパレツキーが一人の男を指差した。 「パリコレでも活躍しているショー専門のdirectorデス」 その彼がカオリを見つけるとにっこりと笑いかけた。その笑みにオレと同じものを感じた。 「もしかして、ミックが取材にきた本当の理由って、冴子さんのときみたいなことにならないようにチェックするため?」 ただし、別の心配ならしなくちゃならないかもしれないが――。 |
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――待ってろ、リョウ。お前の返答如何じゃ今度こそカオリを口説き落としてオレのものにしてやろうじゃないか! と憤りのあまりすっかりカズエのことも忘れてそんなことを念じ続けながら階段を上がっていく。 「あら。ハイ、ミック」 そう軽く手を挙げて途中ですれ違ったのはヤツの隣人のレイカだった。 「やっぱりリョウのことが気になるのかい?」 「Ryo, are you here(リョウ、いるんだろう)?」 返事が無い。ただ、気配は感じるのだからアパートにいるのは確かなのだが。 「Hey, Ryo! いるんだったら返事しろよ」 ヤツは階上の自室にいた。そこで惰眠を貪るでもポルノ雑誌に涎を垂らすでもなく、ただぼんやりと天井を見つめていた。 「テメェごときに返事をする筋合いはねぇ。で、何の用だ」 視線を天井から離さずに問いかけた。 「美味い酒が手に入ったんでな、バランタインの12年物。 言葉とは裏腹にこれから起き上がろうというそぶりは見せない。 「――OK.この間、取材でカオリに会ってきた」 リョウの眉がぴくりと動いたが、次の瞬間それを打ち消すかのようにまた元の表情に戻った。 「それで?」 ヤツの顔色を窺うが、憎たらしいほどぴくりともしない。 「カオリは新しい世界にちゃんと向き合っている。それに引き換えお前はどうだ、リョウ。 判っているさ、それは。しかしそれとカオリとは話は別だ、勝手に論理をすり替えるなと言いたいところだ。 「Hey,どこへ行くんだ」 そう言うとヤツはいつものくたびれたジャケットに袖を通し、俺を置き去りにして部屋を出て行った。 「What a fuckin' escapist!(あの馬鹿、逃げやがって)」 もしかしたらカオリの言っていたストーカー、あのnegative野郎のこと |
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彼は慎重の上にさらに慎重を重ねる性質だ。自分からこちらと接触してくることはない。 自分自身が監視下にあるということを充分理解しているのだから。 彼から連絡を取りたいときはいつもの店にくればいい。ただし相手は気まぐれだからその店に顔を出すとは限らない。 だが、三日も通い詰めているともなれば狭いこの街のこと、話はこっちの耳にも入ってくる。 「待たせたか?」 2つ席をおいてスツールに腰掛けた。 「いや、約束はしていないんだから。俺が勝手に来て勝手にお前を待っている、それだけだ」 彼は視線を合わそうとせず、一人かなり薄くなった水割りを舐めるように飲んでいた。 「最近ヤクザの組事務所が何者かに襲われてるらしいな、系列関係なく。 そう言うと槇村はほとんど水同然のグラスの中身を一気に口の中に流し込んだ。 「他でもない、香のことだ」 ドアベルが微かに鳴り、二人の間の2つの空席に客がちらりと目をやる。しかしバーテンダーが視線で制した。 「香がいくら成長しても、そこにはいつもあいつが初めて我が家に来たときの 確かに、槇村の妹への過保護ぶりは異様なほどだった。 「でも今は違う。今、香の姿には赤ん坊のときの面影はもう重ならない。 図星だった。いや、ちらついていたのはもっと前、まだシュガーボーイだった頃のあいつの姿だった。 「撩、認めろ。あいつはもう立派な大人だ。 都合のいい別れのメタファーだ。 「お前はどうなんだ、撩。 確かに俺は香に別れを告げた、「パートナーを解消しよう」と。しかしそれは総てを香に委ねてのことだった。 |
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とはいうものの今さら自分は卑怯なだけでなく臆病者であることを気付かされた。 香と会わなければ、面と向かって別れを告げなければとは思っていたが、今日も変わらずナンパの日々だ。 だが、前は満喫していたはずの自由な生活を、今は心から楽しめなくなっていた。 確かに、ナンパは楽しい。通りを見渡しながら好みのもっこりちゃんを探す期待感、 そしてターゲットを決めたらあの手この手、ときには直球勝負でモーションをかける駆け引きのスリル。 しかしそんな楽しみも、今となっては何かを紛らわすための虚しいものでしかなかった。 そんな心構えでは掛かる魚も掛からない。 というわけで今日は河岸を変えて表参道まで足を伸ばしてみた。 さすが、世界一美しい女性たちが集うというこの街。そんな美女たちは男を見る目も超一流で・・・。 通りを行き交う美人の群れの中、俺の目が釘付けになってしまうのはいつも 「あら、撩じゃない」 青山通りに面したオープンカフェ、美しく着飾った男女が行き交う通りに面したテラス席はまるでステージのようだ。 「で、仕事は?うまくいってんのか、絵梨子さんの手伝い」 知らない名前に思わず眉間にしわが寄る。 「長谷清秀、海外のショーなんかも手がけてるファッションショー専門の演出家よ。絵梨子のショーも彼が演出してるの。 変わったのは外見だけじゃない。口調、態度、俺を見る眼も。 ――ねえ撩、今朝のワイドショーでやってたんだけど・・・ でも今の香は違う。訊かれたことを淡々と話すだけ。 「そうだ、撩。言っておきたいことがあるの。 そう言って香は席を立ち去った。二人分の伝票を持って。 |
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