――割り切れたつもりでも
 病める心はzing zing切ない

窓の外には桜が咲いていた。都心の桜はあらかた散ってしまったが
このアパートの庭の八重桜は出始めた緑の葉に混じって濃いピンク色の花をつけていた。

「ここなら部屋から一歩も出ずに花見ができそうだな」
なんて冗談にも妹は
「そうだね」
と背中で答えながら引越しの荷物を片付けていた。


vol. 4 会いたいのに 恋しいのに


「ゴメンねアニキ、せっかくの休みなのに引っ越し手伝わせちゃって」
「いや、たった一人の妹のためなら休日のただ働きくらいなんてことはないさ」

まさか本当のことは言えない。いてもいなくても大した違いはない閑職に追いやられているなんて、香には。

さっきまで部屋中を占領していた段ボール箱はほとんどが潰されて香の足元に積み重ねられていた。
若い女性の一人暮らしにしては物が少ないような気がするが、そのうち増えていくことだろう。
持ってきた荷物といえばあの部屋を出るときに持って行いったごくわずかな服と、残したままだったこまごまとした物たち。
大きな家具の類は「客間として使うのに必要だから」と撩のところに置いていったままだ。
そして一人暮らしをはじめるのに買い揃えた必要最低限の家具がこれから始まる日々に新鮮さを添えていた。

この代々木上原のアパートは絵梨子さんの仕事場にも近く、

「あ・・・ここからも新宿が見えるんだな」

北東の向きについた窓からは西新宿のビル群がはっきりと見えた。

「確か反対側の角部屋もあったんだろ?なんでそっちに――」
「南西向きだと西日が差し込んで暑いのよね」

そうは言うがこれから先、香はどんな想いでこのビルを見つめるのだろうか。
そんな兄の心配をよそに、香はそそくさと台所に立ってしまった。

「これからおそば茹でるから、食べてってくれるでしょ?」
「あ、ああ」
「やっぱり引越しはおそばよね♪」

そういえば俺は帰ってきてから、香とろくに話していないことに気がついた。
まともに話をしたのは俺が撃たれて記憶を取り戻して、そのときくらいじゃないだろうか。
あの後あれよあれよと復職、そして冴子との結婚が決まり、周囲の環境に慣れるのに忙しく
香が我が家にやってきても冴子に気を使っていたのだろう、
二人きりで面と向かって話をする機会にはついぞ恵まれなかった。

「香、俺のいない間せっせと“墓参り”行ってくれたんだってな。ありがとう」

墓といっても中身は空っぽで、その中に入るべき人間は今もこうやってぴんぴんしているから
とても墓とはいえない代物だったが。

「何言ってんのよ、アニキ。
あの頃はまさかアニキが生きてるなんて思ってもみなかったから・・・」
「でも俺のことを忘れずにいてくれたってことだろう?
こっちなんて自分で自分のこと忘れてたんだから。
ほんと、ありがとうな」
「アニキ・・・」
「あのときお前が言ったことをちゃんと聞けてやれればよかったんだが」

香は“墓参り”に来るたび、墓石に向かって話し掛けるようにじっとその場を動かなかったそうだ。
きっとそれは誰にも言えない、撩にすら言えないことだったのだろう。

「だから今、お前の思ってることを少しでも話してくれないか?
なんだったら俺のことを墓石だと思ってくれたっていい」
「アニキ、それは縁起悪いって」
「香、本当は撩のことをどう思ってるのか?」

香は背を向けたまま動かなかった。怒っているのか、泣いているのか背中からは見当がつかない。
だがようやくゆっくりと、重い口を開いた。

――撩には、ホント感謝してる。撩がいなかったらあたし、アニキの・・・
アニキがいなくなったのをずっと引きずったままだったと思うから。絶対そこから前に進めなかったから。

墓石になる、と約束した以上口を挟むことはできない。それでも香は言葉を続けた。

――でも撩がいてくれたからあたしは乗り越えられた。
そこから立ち直れたし、それ以上に強くなれた。
撩と一緒にいろんな修羅場くぐってきて――あ、でもあいつが美人の依頼人に夜這いかけようとしたとか、
ツケ溜め込んで借金取りに踏み込まれたとか、その程度の修羅場だけど
それに立ち向かえるだけの強さを身につけられた。
それに学校と家とアニキしか知らなかったあたしにもっと広い世界を見せてくれたのは撩だった。
あたしの知らないことをいっぱい教えてくれたのは撩だった。
だからあたしは、撩から卒業しなきゃならないと思ってる。
もうあたしは撩やアニキに守ってもらわなきゃいけないほど弱くないから。
一人で生きていけるぐらいには強くなれたと思ってるから。
だから、撩といた日々を否定したくない。撩を恨みたくないの。
あの日々があったから今のあたしがいるわけだし、あたしにとって大切な想い出だから・・・。

何も言わなかった、何も言えなかった。
香の声は毅然としていた。ただ、目からは一筋の涙がこぼれていた。
どこまでが強がりでどこからが本心なのかは、長い間留守にしていた不良兄貴には判らない。
ただその不良兄貴が言えるのは、妹は懸命に乗り越えようとしているのだ、撩の不在を。今度は、誰の助けも得ずに。

(でも、兄妹だろ?)

香はもう立派な大人だ。もう手助けは必要ないのかもしれない。
でも、今度は自分が力になる番だ。今の香に、どれほどのことをしてやれるのかは判らないが。




スタジオは〆切前の編集部のようにバタバタしていて、急な来訪者になど構ってはくれなかった。
こっちはもう2週間以上前からアポイントを取っているというのに。でもそれは仕方ない、ある意味あっちも〆切前、
目前に迫ったショーのためにフィッティングやら仮縫いやらに追われているのだから。

「あっ、ミックじゃないの!」

こんな修羅場の中にでも真っ先に来客に気づくのがまさにカオリのカオリたるところ。
いつものように動きやすそうなジーンズ姿だったが、アイツと一緒のときより少し垢抜けて見えた。

「何でこんなところに?まさか、撩のヤツに偵察頼まれてるんじゃないでしょうね」
「Not on your life(そんなことないさ)、れっきとしたWeekly Newsの取材だよ。
『世界にはばたく日本のクリエイター:未来のパリコレの主役を見据えて』ってね」
「でもシンセミーリャの追跡取材で名を上げた敏腕ジャーナリスト、ミック・エンジェルが
何でわざわざファッション関係なんかに?」
「こうでもしなきゃ仕事が限られてしまうからさ。
シリアスな事件ものばっかじゃ息が詰まりそうだよ。それに――」
「Your business is not about a model without clothes but a model with clothes
(アナタの仕事は服を着てないモデルじゃなくて服を着たモデルでしょ)!」
と後ろから釘を刺すワルキューレの末裔のような金髪の大女。

「この人は・・・?」
「ああ、カオリ、紹介するよ。Weekly Newsのフォトグラファーで
主にファッション関係の記事を担当してるミズ・パレツキー。こう見えてもモード雑誌からヘッドハンティングしてきた凄腕だ」
「Sue Paretskyデス、ヨロシク」

そう言って手を差し出す彼女を怪訝な眼で見る。

「Oh,カオリ。心配しなくていいよ。彼女は言うなればオレのお目付け役、
男を見る眼にかけてはキミよりシビアなくらいだ。それにオレにはカズエっていうワイフがいることだし――」
「Yes,カレがよそ見しないように編集長から監視するように言われてキマシタ」

・・・そこまで言われちゃ淡い期待も水の泡かもしれない。
だが、この業界にかけては彼女の方が先輩だ、半ば襟首を引きずられるようにモデルやスタッフ、
そしてデザイナーのミス・エリコにインタビューをして回る。そんな様子をカオリは遠くから、どこか羨ましそうに見ていた。
俺とパレツキーの凸凸コンビにかつての自分たちを重ね合わせていたのかもしれない。

そんなカオリを見ていると複雑な気分だ。
確かに一度は本気で惚れた、リョウから奪い取ってしまおうと思った。
でも今は違う。オレもカズエという最愛のパートナーを得たが、カオリを幸せにしてやれるのは
あの熱しやすく冷めやすい元相棒をおいて他にいない、と気付かせられたのが一番の理由だった。
その事実に気付いたとき、オレはあの二人のAngelもといCupidになってやろうと心を決めた。
それがカオリを幸福にするためにオレのできる唯一の方法だった。
そして彼女の笑顔を端から見られればそれでいい、それがオレが手にすることのできる一番の幸福なのだから。

が、あろうことかあのバカはカオリを手放した。それで彼女が泣き暮らしているというのなら
向かいのアパートに乗り込んでダーツを1ダース、いや、1グロスほどお見舞いしてやるつもりだったのだが
彼女はそこそこ幸福そうだった。決してリョウの側にいたときのような総てを委ねきった、安心した笑顔ではなかった。
しかし今の彼女はたった一人で自分の人生に立ち向かおうとしていた。
あのとき、リョウに何も言わずオレに決闘を申し込んだときのように。

でも、それでいいのか?
カオリがリョウなしでも幸せになれるというのなら、あのときのオレの決断は間違っていたのではないか?
そう今さら決心が鈍るときもある。だが今さら、カズエを手に入れた今となってはどうすることもできないのだが。

「どうだい、仕事は?もう慣れた?」
「まぁ、ね。コピーやらパソコンやらいろいろ壊しちゃったりしたけど」

風の噂に、というかWeekly Newsの編集者から聞いたことがあった。

「引っ越したんだってね」
「うん、そうなの。絵梨子のとこのスタッフに教えてもらったんだけど、
ここからも近くて日当たりもいいし。でも・・・」
「でも・・・?」

カオリの表情に暗雲が立ち込めた。

「最近、帰り道につけられたり、家にいても誰かに見られてるような気がするのよ」
「監視されてるってこと?」
「判らない。気のせいかもしれないし・・・ほら、一人暮らしって初めてだから自意識過剰になってるのかもしれないわ」
「もしかしたらstalkerかもシレナイわね」
「ストーカー?」

まだこの言葉が日本語になる前の話だ。

「Yes.スキな異性に付きまとったり監視したりするクラーイ人のことです。
でも、escalateすると傷害や殺人に発展することもアリマス」

カオリが怯えた表情を見せた。

「Don't worry.カオリなら前から狙われることには慣れてるんだから、自分の身ぐらい自分で守れるさ」

コンテクストが掴めずきょとんとしているパレツキーに
「She's been a partner of... a kind of a detective(彼女は探偵のパートナーみたいなことをしてたんだ)」と説明する。

「Uh-huh」
「それに、もしものときはリョウに頼めばいいわけだし――」
「それだけはダメっ!」

一瞬の剣幕に気圧されてしまった。
それはあのときと同じ眼、オレに銃を突きつけたときと同じ眼だった。

「Is he Kiyohide Hase(彼、ハセ・キヨヒデじゃない)?」

そう言ってパレツキーが一人の男を指差した。
ミス・エリコや他のスタッフたちに囲まれ何かを話している優男。
着ている服のセンスも、なるほど、あのエリコが一目置いているわけだ。

「パリコレでも活躍しているショー専門のdirectorデス」
「そうなの。今度の絵梨子のショーも長谷さんが演出なんですって」

その彼がカオリを見つけるとにっこりと笑いかけた。その笑みにオレと同じものを感じた。
もちろん、彼は堅気だ、素人だ、アサクラのときとは違う。
しかし、オレとはもう一つのところで共通していた。カオリに好意を抱いている。

「もしかして、ミックが取材にきた本当の理由って、冴子さんのときみたいなことにならないようにチェックするため?」
「Exactly(いかにも)、さすがカオリだ。でもキミにはそんな心配は必要ないみたいだね」

ただし、別の心配ならしなくちゃならないかもしれないが――。
尚も視線を向けてくるハセに向かって厳しい一瞥を送った。お前なんかにカオリをくれてやるものか。
お前にやるくらいならこのオレが――
なんでオレがリョウとカオリを柄にもなく応援してやろうと思ったのか判った。
カオリを手の届かないところへ連れていってほしかったからだ。オレの手の届かない、遥か遠くへ――。




――待ってろ、リョウ。お前の返答如何じゃ今度こそカオリを口説き落としてオレのものにしてやろうじゃないか!
と憤りのあまりすっかりカズエのことも忘れてそんなことを念じ続けながら階段を上がっていく。

「あら。ハイ、ミック」

そう軽く手を挙げて途中ですれ違ったのはヤツの隣人のレイカだった。
そういえばそういう意味ではオレと利害が共通してるといえるかもしれない。

「やっぱりリョウのことが気になるのかい?」
「そんなんじゃないわ、あくまで隣人として、ね」
「で、リョウの様子は?」
と訊くと彼女はアングロサクソン風に肩をすくめてみせた。

「Ryo, are you here(リョウ、いるんだろう)?」

返事が無い。ただ、気配は感じるのだからアパートにいるのは確かなのだが。
香がいなくなってどんなすさんだ生活を送っているのかと思っていたが、意外と部屋は片づいていた。
オレの知っている最悪の惨状はもっとひどい、ドアを開けてベッドまでの間に脱ぎ散らかされた服やら(女物の下着を含む)
開かれたままのハードコア・ポルノやらが散乱していたのだから。
むしろあの頃の荒廃ぶりと比べると、今のアイツの部屋は空虚さだけが目立つ。そして、おそらくアイツの内面も。
こんなhome(家、家庭)というよりroost(ねぐら)と呼ぶ方が相応しい部屋で
リョウは人間らしい生活を送れているのだろうか。
まともに飯を食ってまともに寝て、まともにカオリのことを考えているのだろうか。

「Hey, Ryo! いるんだったら返事しろよ」

ヤツは階上の自室にいた。そこで惰眠を貪るでもポルノ雑誌に涎を垂らすでもなく、ただぼんやりと天井を見つめていた。
こりゃ重症だ。

「テメェごときに返事をする筋合いはねぇ。で、何の用だ」

視線を天井から離さずに問いかけた。

「美味い酒が手に入ったんでな、バランタインの12年物。
で、お姐さんが隣ってのもいいけどたまにはサシでじっくり飲もうと思って」
「用件を手短に言え。先約がある」

言葉とは裏腹にこれから起き上がろうというそぶりは見せない。

「――OK.この間、取材でカオリに会ってきた」

リョウの眉がぴくりと動いたが、次の瞬間それを打ち消すかのようにまた元の表情に戻った。
しかし、それを見逃すほどこのミック・エンジェル、落ちぶれてはいない。

「それで?」
「ああ。頑張ってたぜ、エリコのスタッフとして。
仕事には大分慣れてきたようだし、仲のいい友人もできたみたいだ。男女問わず、な」

ヤツの顔色を窺うが、憎たらしいほどぴくりともしない。

「カオリは新しい世界にちゃんと向き合っている。それに引き換えお前はどうだ、リョウ。
ちゃんと向き合ってるのか?カオリのいない世界に」
「――お前、そんなにヒマか?」
「What?」
「ここ最近続いてるヤクザの組事務所襲撃、お前も知ってるだろ。新宿だけでも一週間に4件だ。
お前もジャーナリストの端くれなら昔の女追いかけるより命知らずの襲撃者を追いかけるべきなんじゃないのか?」

判っているさ、それは。しかしそれとカオリとは話は別だ、勝手に論理をすり替えるなと言いたいところだ。
言うだけ言うと撩はようやく身をもたげてベッドから起き上がった。

「Hey,どこへ行くんだ」
「言ったろ?先約があるんだ」

そう言うとヤツはいつものくたびれたジャケットに袖を通し、俺を置き去りにして部屋を出て行った。

「What a fuckin' escapist!(あの馬鹿、逃げやがって)」

もしかしたらカオリの言っていたストーカー、あのnegative野郎のこと
もしかしたらアイツ本人かヤツの情報屋かもしれない。
だとしたら依然未練たらしい悪友の背中を思い切り蹴飛ばしたい衝動に駆られていた。




彼は慎重の上にさらに慎重を重ねる性質だ。自分からこちらと接触してくることはない。
自分自身が監視下にあるということを充分理解しているのだから。
彼から連絡を取りたいときはいつもの店にくればいい。ただし相手は気まぐれだからその店に顔を出すとは限らない。
だが、三日も通い詰めているともなれば狭いこの街のこと、話はこっちの耳にも入ってくる。

「待たせたか?」

2つ席をおいてスツールに腰掛けた。

「いや、約束はしていないんだから。俺が勝手に来て勝手にお前を待っている、それだけだ」

彼は視線を合わそうとせず、一人かなり薄くなった水割りを舐めるように飲んでいた。
バーテンダーにバーボンのロックを頼む。

「最近ヤクザの組事務所が何者かに襲われてるらしいな、系列関係なく。
それもどこでも皆殺しっていうじゃないか、上野での一件と同じ。
東京中のヤクザ、小さい抗争はみんな手打ちにしてその命知らずの馬鹿どもと戦争始めるつもりらしいぜ」
「そんなことを言いに来たんじゃない、撩」

そう言うと槇村はほとんど水同然のグラスの中身を一気に口の中に流し込んだ。

「他でもない、香のことだ」
「また香かよ」
「また?」
「いや、こっちのことだ」
「冴子だって心配してるんだ、お前たちのことを」

ドアベルが微かに鳴り、二人の間の2つの空席に客がちらりと目をやる。しかしバーテンダーが視線で制した。

「香がいくら成長しても、そこにはいつもあいつが初めて我が家に来たときの
まだ1歳にも満たない赤ん坊の頃の面影があった。
高校生になって、高校を卒業し大人びた表情を時折見せるようになっても
俺にとってあいつはまだまだ幼い妹だった。兄として守ってやらなければならない存在だった」

確かに、槇村の妹への過保護ぶりは異様なほどだった。
いつもはあれだけ冷静な相棒が、彼女のこととなると目の色が変わるのだから。
だが、彼の目に映っていたのは小さな赤ん坊だった香だと知ればその変貌ぶりも納得ができた。

「でも今は違う。今、香の姿には赤ん坊のときの面影はもう重ならない。
離れていた7年の間にそんなのが似合わないほどすっかり大人になっていた。もう、その二つが結びつかないほど。
だがな、撩。お前の香を見る目には今も19歳の香の姿がちらついているんじゃないか?」

図星だった。いや、ちらついていたのはもっと前、まだシュガーボーイだった頃のあいつの姿だった。
俺の眼に怯え、銃撃戦に腰を抜かし、だがそれでも真っ直ぐな眼で俺を見据えていた
16歳の香の姿が今も目に焼きついている。
目の前のバーボンを一気に飲み干した。
あれから10年以上経ち、今や裏の世界でシティーハンターのパートナーとして名の売れたあいつを
俺は未だほんの素人の小娘としか見ていなかった。余りにも近くにいたがために香の成長を認識できなかった。

「撩、認めろ。あいつはもう立派な大人だ。
この7年間の成長は俺が認める。お前が、香を立派に成長させてくれたことも」
「――いつかとは正反対だな、お前が香を大人扱いするなんて」
「ああ、香は成長した。今にお前すら追い抜いていくさ――香がな、お前のことを卒業したいんだそうだ」
「卒業、か・・・」

都合のいい別れのメタファーだ。

「お前はどうなんだ、撩。
香がお前のことを過去のものにしたいというなら兄としてそれは止められん。
だがな、お前もいずれあいつのことを過去にしなきゃならない、想い出にしなきゃならない。
今のお前にそれができるか?香のことを思い切れるのか?」

確かに俺は香に別れを告げた、「パートナーを解消しよう」と。しかしそれは総てを香に委ねてのことだった。
冴子の言うとおり、俺は卑怯者だ。
俺の小娘扱いにコンプレックスを膨らませていた香の負い目につけこんで、自分から出て行くように仕向けたのだ。
あの頑固で強情で、今まで何度も別れを決意しながらも俺の側に居座り続けた香を。
そして自分自身の胸を痛めることはなく――他人のために手を汚す『掃除屋』のくせに何たる仕打ち。
だから、今度こそ己が手でこの胸を引き裂かねばならない。
そうしなければこれからずっとこの胸は香を求めて疼き続けるだろうから。
それが、自分自身に科した別れの儀式だった。




とはいうものの今さら自分は卑怯なだけでなく臆病者であることを気付かされた。
香と会わなければ、面と向かって別れを告げなければとは思っていたが、今日も変わらずナンパの日々だ。
だが、前は満喫していたはずの自由な生活を、今は心から楽しめなくなっていた。
確かに、ナンパは楽しい。通りを見渡しながら好みのもっこりちゃんを探す期待感、
そしてターゲットを決めたらあの手この手、ときには直球勝負でモーションをかける駆け引きのスリル。
しかしそんな楽しみも、今となっては何かを紛らわすための虚しいものでしかなかった。
そんな心構えでは掛かる魚も掛からない。
というわけで今日は河岸を変えて表参道まで足を伸ばしてみた。
さすが、世界一美しい女性たちが集うというこの街。そんな美女たちは男を見る目も超一流で・・・。

通りを行き交う美人の群れの中、俺の目が釘付けになってしまうのはいつも
くせのある栗色のショートカットの、すらりとした背の高い後姿。
昔はともかくカラーリングが当たり前になってきたここ最近では明るい髪色が街に増えてきている――
あいつはそんなけばけばしい髪じゃない。もっと自然で、艶やかで、鮮やかで・・・。
だが、惹きつけられても声をかけられるはずがない。
むしろ目ではいつまでも追いながら、ナンパのリストからは素早く外していた。
そして今日も、この目が意識とは裏腹に香によく似た姿を捉える。
降り注ぐ陽射しを浴びて赤銅色に輝く髪は襟足がかすかに白いシャツに掛かる。
くるぶしまである長いラップスカートはスレンダーな長身をさらに引き立たせ――
神は俺に味方したか、それとも敵に回ったのか。彼女は紛うことない、香その人だった。

「あら、撩じゃない」
「ああ・・・」
「久しぶりね」

青山通りに面したオープンカフェ、美しく着飾った男女が行き交う通りに面したテラス席はまるでステージのようだ。
そこで寛ぐ客たちも皆見られることを最大限意識している。
こういう店は苦手だった。よく俺のような客を“ステージ”に上げたもんだ。
しかし、そんな中でも香は店の、通りの雰囲気に完全に溶け込んでいた。
飾り気の無い白いシャツはそのままの彼女の魅力を最大限に引き出し、
襟元を飾るチョーカーは揺れるオーナメントの先の胸元へと男たちの視線を誘う。
タイトな黒のロングスカートは香の均整の取れたスタイルによく映えたが、
スイーパーのパートナーなどしていたら一生着ることはなかっただろう。
そしてナチュラルな――そうは見えるが実際はかなり手の込んだ――メイクアップ。
すっかり彼女は表の世界の女だった。

「で、仕事は?うまくいってんのか、絵梨子さんの手伝い」
「絵梨子のところはもう辞めたの。今は長谷さんのところで働いてるわ」
「長谷?」

知らない名前に思わず眉間にしわが寄る。

「長谷清秀、海外のショーなんかも手がけてるファッションショー専門の演出家よ。絵梨子のショーも彼が演出してるの。
デスクワークより現場で体動かしている方が性に合うでしょって、絵梨子が紹介してくれたのよ」
「で、性に合ってるのか?」
「まぁ、まだ仕事には慣れないけど、充実はしてるわね」
「そうか・・・」

変わったのは外見だけじゃない。口調、態度、俺を見る眼も。
いつも香は俺に熱心に話しかけてきた。今日見たテレビの話、Cat'sでの出来事、情報屋から聞いた話。

――ねえ撩、今朝のワイドショーでやってたんだけど・・・
――さっき伝言見に行ったらね・・・
――あのね、撩・・・

でも今の香は違う。訊かれたことを淡々と話すだけ。
身を乗り出して俺に聞いてもらおうとは思ってもいないようだ。
なぁ香、それが今のお前にとっての俺なのか。
香が遠かった。二人を隔てるテーブル以上に。

「そうだ、撩。言っておきたいことがあるの。
今もあたしに情報屋、監視に付けてるでしょう。もう止めてほしいの。あたしと撩は何の関係も無いんだから」

そう言って香は席を立ち去った。二人分の伝票を持って。
彼女が言ったことは事実だった。今も情報屋を付けさせていた、香に何かあったときのために。
もちろんあいつには見抜かれないように、のはずだった。
だが香はそんな俺の自己欺瞞すら見破り、軽やかにその庇護から抜け出そうとしていた。
完敗だった。初めて香に敗北を喫した。
彼女を20歳から見守ってきた身としては、その成長を喜んでやるしかなかった。取り残された苦い痛みとともに。


featuring 『冬の海岸通り』by TUBE
>長いラップスカート
そういえばこの頃流行ってましたよね、93年ごろ。
ちょいキャラのつもりのミズ・パレツキー、口調がジョディ先生のようだ@名探偵コナン。

撩が余りにもヘタレでヘタレで書いてるほうとしても気が滅入ってきます。

Former/Next

City Hunter