――真実の愛、真実の人生を
  歩もうじゃありませんか

深夜の東京湾、そうじゃなくても埋立地の夜は早い。
新宿が未だ不夜城のネオンを瞬かせている頃も、すでにここは漆黒の闇だ。
灯りといえば対岸のビルの灯り程度、そこに息を潜めて俺たちは隠れていた。
捜査車両のバンはヘッドライトを消して、サイドは全てカーテンを引いてある。
その中で車内灯だけは点けてあるがその光だけでは心もとない。
だがこの埋立地で俺たちの存在が知れてはならないのだ。
この先にあるのはナーガらが立てこもる廃工場。橋一つ隔てた向こうだが、奴らのロケット弾なら充分射程の範囲内だ。
そしてそれに対峙する警視庁の特殊急襲部隊に知れても、それはそれで厄介なことになろう。

ルーフから身を乗り出して周囲を確認する。手には私物の暗視装置付き双眼鏡。
いくら権限のない俺たちが出張ってきたところで手も足も出せないのは目に見えている。
だが、それでもここにいることで俺たちにも何かできることはあるのではないだろうか。
それは一縷といえばたった一縷の希望であった。


vol. 11 True Love, True Life


「運河付近に警察の警備車両発見。おそらくあの中に特殊部隊が乗っているものと思われます」

黒塗りのバスと、黒を基調とした彼らの出動服はノクトヴィジョン無しでは夜の闇に紛れてしまうだろう。

「槇村、いいもん持ってるじゃねぇか。『潜入捜査』時代に買ったやつか?」

そう北方課長が声をかけた。この人は一体どこまで俺の過去を知っているのかと、ときどき思うことがある。
そのとき、一台の車がライトも点けずに近づいてきた。ポルシェの赤は闇の中でも映える。

「野上か?いや、今は槇村夫人だな」
「冴子、よく来てくれたな」
「何よ、呼んだのはあなたでしょ」

スライドドアを開けて乗り込もうとする彼女に手を差し伸べる。結構車高がある。
レディーファースト以前にマタニティ・ファーストだ。

「それで状況は?」
「まだ偵察ってとこだな。敵の配置を確認して突入のタイミングを図る段階だろう。
だが、この様子じゃ中の様子も窺えないだろうな」
「おいおい、夫婦の会話は家でやってくれねぇか」
との声が飛んでくる。

「あ、すいません」
「いいのよ、槇村。独居老人のやっかみに付き合うことないわ」

さすがに冴子は課長との付き合いは俺より長い。
そういえば課長のプライベートについてはほとんど知らないのだ。

「ところで、連中の配置はどうなってるんだ?」
「ちょっと待ってください」
と言ってテーブル――二列目のシートを倒したもの――の上に地図を広げる。

「この埋立地は4本の橋と2本のトンネルで外部と結ばれてます。
そして中は廃工場と、現在稼働中の倉庫――ここは夜は警備員がいるだけですが、
それ以外は更地になってます。そして現在はそれぞれ橋とトンネルの入り口で待機してるところです」

暗い車内で地図の上を小さなマグライトで照らしながら説明する。

「それで、こっちは?」
と冴子が工場の敷地内を指さす。

「ああ、こっちは奴らの配置を俺なりに予想してみたものだ」

もし俺があっちの陣営にいたならどう部隊を分けるだろうかと考えてみただけのこと、
素人考えであり正解とはいえないだろう。
だが――こんな自分の過去を半分さらけ出すようなものを北方課長に見せてよかったのだろうか?
だが課長はこの配置図が意味するところを知ってか知らずか、丹念に見入っていた。

「お、どうやら連中が動いたようだ」

その声に再び立ち上がって双眼鏡を覗く。
停車していた警備車両が再び動き出す。そしてあるものは橋を渡り、またあるものは暗いトンネルに飲み込まれていく。
それを連中も見逃すはずがない。車両が敷地を仕切るフェンスに近づいてきた時点で見張りが銃弾を浴びせてきた。
すかさず警官隊は車両の中から応戦した。

「始まったようだな」

遠くのマズルフラッシュがまるで花火のようだ。今まではプロを相手に善戦しているようだ。
手薄なところでは閉ざされた門を銃弾の中、強引に警察の車両が突っ込んでいった。そこからは白兵戦だ。
どうしてもそこに戦力が割かれるので他の個所が手薄になる。その隙に乗じて各門が次々に破られていった。

――心配するほどのことはなかったか?

指揮を執るのはあの落合、なかなかの策士だ。
少なくとも俺が踏んだように、弟逢いたさに血迷っているわけではないのかもしれない。
ゲリラ・傭兵相手にも警察官が勝てるだけの策を用意してきたのかも――そう思った、そのときまでは。

突然、視界の隅で巻き起こる爆発。とっさに双眼鏡から目を離していないと視神経が焼きつくところだった。

「橋が落ちた・・・」

それだけでない、それと同時にトンネルの出口が崩落した。これでもう彼らは袋の鼠だ。
そしてさらに廃工場の建物内から敵の第二陣が飛び出してきた。戦況は一気に逆転された。

「万事休す、だな

思わず高価な双眼鏡をバンの天井に叩きつけた。
奴らは兵士だ、相手が素人であっても容赦はしない。確実に敵を無力化――つまりは殺害――するだろう。
そこで今、行われているであろう殺戮に対して何もできない――覚悟していたはずだ、彼らの出動が決まったときに。
だが、現実はその覚悟を補って余りあった。

「ああ・・・くそっ」
「待って。まだ手はあるわ」
と冴子が大ぶりのバッグから何枚かの地図を取り出した。

「埋立地は今も工事中よ、刻一刻とその形を変えつつあるわ。
それに、一般供用されていないトンネルもあるはず」
と言って地図を広げる。

「その地図は?」
「建設省にいる知り合いから分けてもらったの」
「また見合い相手か・・・」

そう言うと、肯定も否定もせずに冴子は微笑んだ。

「ここなら入口はすぐそこよ。だから増援を送れば――」
「この馬鹿野郎がっ!」

課長の罵声が飛んだ。幸い、それは自動車電話の受話器に向けられたものらしい。

「どうしたんですか」
「どうしたもこうしたもあるかい、くそっ」

いらいらとした手つきで咥え煙草を灰皿に押し付けた。

「勝島の八機に電話したが、あのチビ
緊急事態への待機組を除いて全員こっちに引き連れちまったんだとよ!」

何てことだ、これでは増援は望めない。
そもそもリスクは分散させる、これが危機管理の鉄則のはずだ。組織の金庫番だったときに嫌というほど叩き込まれた。
それは何もマネーゲームに限らないはずだ。

「Hijo de puta(あの馬鹿が)...!」

思わず当時の言葉で小さく罵る。質で劣るが機動隊を投入して数で勝負という手もある。
だがそれも昼間に限られるだろう。この暗闇の中ではジャングルのゲリラ戦で揉まれた奴らの方が極めて有利だ。
――結局俺たちは何しに来たんだ。高みの見物?来てみたところで何もできないじゃないか。

そのとき、北方課長が自動車電話を差し出した。

「お前さんには切り札が残ってるんだろう?」

そして俺は悟った、すべてこの人はお見通しだったということを。




今夜ばかりはいくら呑んでも呑んだ気がしなかった。酔うに酔えない。
これでは呑み代の無駄だ、と香が知ればどやすだろう。
おそらく引っ掛かっているのは槇村のこと、
あいつが戦場で無力感に苛まれている最中にひとり酔ってなどいられないのだから。

あいつは起きて待っていた。

「今日はずいぶんと早かったんじゃない」
「だってぇ、ミサキちゃんが休みだったんだもぉん」

行ってもいないキャバクラのホステスの名前を挙げてみた。
しかし香は俺の態度にどこか平穏ならざるものを感じていたようだ。もちろん表情には出さずに。
ならこっちも普段の俺を装うまでだ。だが、ふとポケットの中の銃弾が気になった。手を突っ込んで数をかぞえる。
――ローダーに入れておいた方がいいか?そんなことを内心で考えている俺の表情を香はじっと見ていた。

そのとき、電話のベルが鳴った。

「いい、俺が出る。――ああ、槇村か。
・・・判った、すぐ出る。場所は・・・14番埋立地だな。ああ、それまで大人しく待ってろよ」

受話器を置くと香がなおも俺を見つめていた。だがその眼は心配そうに潤んでいた。
ああ、こいつは勘付いている、これから俺が死地へ向かおうとしているのを。
そして彼女が何より恐れているのは、自分のせいで俺が傷つくこと、命を落とすこと。

「お前のせいじゃない」

そう言ったところで嘘になる。
確かに俺はナーガとの決着をつけなければならない、俺自身のために。
だが俺と奴との因縁に香は深く巻き込まれすぎていた。
それでも俺は赴かなければならない、涙ながらに止められても。
香を守るためならばこの身がどうなろうと構わない。
もちろん「何が何でも生き延びる」との約束は果たすつもりだが。
しかし、彼女の口から飛び出したのは予想もしていない台詞だった。

「撩、あたしも連れてって」
「かおり・・・」

その瞳は涙に濡れながらも強い輝きを放っていた。
それは怒りの炎、いつもの香のようなきらきらした正義感とは全く違うものだった。

「ナーガのところに行くんでしょう?だったらあたしも連れてって!
あたし、このままじゃ終われないの。この手で決着をつけたいの!
もちろん、あたし一人じゃ奴には敵わないのは判ってる。でもっ――」

たとえ体は傷つけられなくても、シティーハンターのパートナーとしてのプライドが踏みにじられたのだ。
表向きは平静を取り戻していたようでも、彼女の中ではナーガへの怒りは燻り続けていた。
だが、香に奴の息の根を止めさせるわけにはいかない。
それこそ、槇村に頼まれたのだ、義兄(あいつ)に合わす顔がなくなる。

「なぁ香」

宥めすかすようにソファに座らせる。

「お前は強いよ」
「撩・・・」

彼女の目から一筋の涙がこぼれた。

「俺がお前を守ってるように、お前が俺のことを守ってるんだよ。判るか?
お前がそばにいることで俺がどれだけ救われてるか・・・」

あの度重なる悪夢から俺を助け出してくれたのは香の与えてくれたぬくもりだった。
俺にだって、裏社会のNo. 1にだって敵わないものは山ほどある。
例えばそんな悪夢、例えば真っ暗闇の過去の亡霊。
だがそんなものを香はものの見事に蹴散らしてくれた。
銃の腕なんてまだまだからっきしの、お人好しの素人が。
だから香、もっと胸を張っていいんだぜ。
お前はお前が思ってるよりももっとずっと、俺にふさわしいパートナーなんだから。

「お前が笑っていてくれればそれでいい。笑っていてさえくれればそれだけで俺は嬉しいんだ」

香の笑顔が、香の存在そのものが俺に幸福というものを教えてくれたのだ。
自分には手の届かないものだと思っていた。
今さらそれを捨てることなんてできやしない、たとえそれであいつの身に危険がせまろうとも
――だったら俺が守ればいい。

「だから香、お前の笑顔を俺に一生守らせてくれないか?」

そして頬に手を当て、そっと口づけた。
最初は軽く、啄むように。それが次第に深いものとなっていく。
舌先に触れたら素直に舌を絡ませてくる。香の体からも力が抜け、胸板にそっとしなだれかかった。
名残惜しそうに唇を放す。
香の目がとろんとしているのは官能に与えられた陶酔のためだけではない。

「続きは帰ってきたらだ、な」

そのまま瞼が落ち、ソファの上に崩れ落ちた。
即効性の睡眠薬、俺が口の中に仕込んでいるものだ。
PCPの後遺症でこの手のものが効きづらくなっているので重宝している。
だがこれを香に使う日が来るとは思わなかった。

――だから、必ず生きて還ってくる。

そのためにはこうする他はないのだ、二人揃って明日という日を迎えるためには。




真っ赤なクーパーがヘッドライトを点けずにゆっくりやって来た。

「香は?」

ひとり運転席から降りてきた撩に尋ねる。

「家に置いてきた。もちろん留守番もつけてある。
少々不埒な奴だが、まぁもう一人見張りがいるから迂闊なことはしないだろう。
で、あっちの状況は?」
「もう銃声は聞こえなくなった。おそらくは全滅・・・か、それに近い状況だろう。
捕虜に取られているだけならいいんだが」

正規の軍隊ならともかく、神出鬼没を旨とするゲリラたちがお荷物に過ぎない捕虜など取っただろうか。
その点のことは撩の方が詳しいはずだ。

「それで、どこから中に入れるんだ?」
「こっちよ、撩」

冴子が少し離れたフェンスの囲いまで案内した。

「この下にライフラインの管理用のトンネルが走ってる。ここはそれの通気口よ」

小さな囲いの中には土管が半分土の中に埋まったようなものが地面から生えていた。
入口のところが90°に曲がっていて、そこに金網が張ってある。

「ここから二つ目の同じような通気口が、廃工場の裏手にあるわ」

ポルシェのボンネットに地図を広げ、マグライトで照らし出された視野を指し示す。

「撩、あなただけが頼りなの。必ずナーガを倒してきて。香さんのためにも・・・」
「ああ、判ってるさ」

撩は金網を外すと、足からその中に入っていく。そしてその姿は穴倉の中に消えていった。
静寂が耳に痛い。遠くで波の音が聞こえるだけだ。わずかに磯の匂いが漂ってきた。そのとき、

「槇村、電話だ」

ひとりバンに取り残された課長が身を乗り出した。車内に戻り、受話器を受け取る。

《シティーハンターが来たようだな》
「・・・ナーガか?」

撩の言ったとおりの声だ。少なくとも俺より若いのではないだろうか。
そして、ねっとりとした嫌みな口調は落合を思わせるものだった。血は争えない。

《彼とまた闘えるのが楽しみだよ。今度は一対一でやりあえるからな》
「今の撩はあのときの撩とは違う。覚悟するんだな」
《そりゃますます楽しみだ》

受話器の向こうから笑みがこぼれた。その声が癪に障る。

「ナーガ、今の撩には香がついている。たとえそばにはいなくてもな。
香はお前らの言うようなシティーハンターのアキレス腱じゃない。竜の逆鱗だ。そのことを地獄でよく思い知るがいい」

そこまで言い捨てて電話を切った。
確かにナーガは難敵だ。実力も互角、それ以上に撩にとっては乗り越えなければならない『過去の自分』なのだ。
だが、香と出逢って撩は変わった。香がいれば過去の自分も、ナーガも乗り越えられる。そう固く信じた。




肩幅ぎりぎりの狭い縦穴を降りていくと、天井の低いトンネルへとたどり着いた。
ここから二つ目の縦穴か。地図は頭の中に入っている。
トンネルの壁には何本もの管が並んでいる。その一つひとつに電線やガス管が入っているのだろう。
聞こえるのは自分の足音のみ。真っ暗闇では距離の感覚も掴めない。
二つ先の通気口がすぐそこにあるのか、それとも果てしなく遠くなのだろうか。
いずれにせよ、その先にナーガがいる。そう思うだけで全身の血がふつふつと沸き立った。強敵とやりあえる興奮。
だが、今はそれだけではない。

目を瞑る。
視界と変わらぬ暗闇の中で光のように浮かび上がったのは、香の笑顔。
それを守らなければならないのだ、俺が、この手で。再びその笑顔が曇ることのないように。
その決意が俺に力を与える。
静かに、ゆっくりと、しかし止め処なく溢れ出す力。それが体中の細胞に沁み渡っていく。
そして俺という輪郭線を容易にすり抜け、外側からも俺を包みこむ。
それはまるで香の与えてくれるぬくもり――俺はひとりじゃない、
そう想うだけで果てしなく強くなれそうな気がした。




「静かね・・・」
「ああ・・・」

俺たちはまたも暗い車内で息をひそめていた。だが、今は無力感は無い。
自分たちのできることはすべて手を尽くしたという達成感はあった。
人事を尽くして天命を待つ、というのだろうか。あとは総てを撩に託すだけだ。

「なぁ槇村」
「・・・はい」

その穏やかな静寂を破ったのは課長だった。

「お前、仲間に恵まれたな」
「はい・・・」
「お前がうらやましいよ。俺にもせめてあれだけの心強い味方がいればな・・・。
だが、若いもんをうらやんでも始まらねぇ。老兵は消え去るのみ、だ」
「課長、まさか」
「そうよ、定年にはまだ間があるわよ」
「いや、早期退職制度ってやつのお世話になろうかと考えてるところだ。
俺みたいな偏屈ジジィが居座ってると上の連中もうるさがるからな」
「そんな、課長にはまだまだ頑張ってもらわないと――」
「それはお前さんの役目だよ、槇村。お前がいるから俺は安心してバトンを渡せるんだ。お前ならできるさ」

そうはいっても、やはり同じようにバトンを冴子にも託されたところだ。正直荷が重すぎる。

「この半月、お前さんの実力はしっかり見定めさせてもらった。それとその前の半年の間もだ。
できる人間は何やらしたってできるもんだよ」

あの現場に出ることのなかった日々の間も、北方課長は俺に眼をかけ続けていたのか。

「若いヤツだってお前のことを慕ってくれてる。
だからな、槇村。俺に代わってあいつらのことを鍛えてやっちゃくれないか。それが大澤にとっての何よりの供養だ」

彼の名前を出されてしまっては引き受けざるを得なくなる。

「それより今はお前さんの親友の活躍を見届けにゃならん」

そうだ、あいつは俺以上の重荷をたった一人で背負っているのだ。
警察の雪辱、大澤の仇、そして香を傷つけた報い。
それこそ最後のには俺や冴子や香を知る者総ての思いが託されているのだ。
俺がこの程度でへこたれてはなるまい。

――撩、お前にしかできないんだ、

香の笑顔を守るのは。




通風口を上がっていくにはロープも梯子も必要なかった。
両手両足を壁につけて一歩一歩体を支えながら登っていく。金網も内側から蹴とばしたら簡単に外れた。

目の前にそびえる建物は、確か地図によれば工場の管理棟。
人質を抱えているとするならば、ナーガはここの小さく仕切られた部屋で人質を見張っているだろう。
だが今、奴は身軽。最前線で兵士の指揮に当たっているに違いない。
敵を迎え撃つには――敷地内で一番大きな工場。そこに奴はいるはずだ。
ただ、正面から乗り込んでいくのはこの戦力差だ、あまりに危険すぎる。
ほぼ3階の高さにある窓に狙いをつけてよじ登る。
ロープなど無くとも、わずかな手がかり、足がかりを頼りに登りきることができるだろう。
これがもっこりちゃんのためだったらもっとスイスイ行けるのだが。

中の様子は、大きな機械類はすべて撤去され広い空間となっていた。
2階の高さに壁に沿ってキャットウォーク(狭い廊下)がめぐらせてある。
そしてそこと1階のいたるところに銃を持った兵士たちが配置されていた。
3階の窓から真下の廊下に飛び降りる。そして兵士の一人の背後に立つと、銃のグリップを頭に叩きつけた。
不意の衝撃に崩れ落ちる。
すると、さすがに歴戦の猛者ぞろいだ、わずかな異変に一斉にカラシニコフの銃口がこちらを向いた。

「誰だ!」

誰何の声は奴らの母国語だった。

「日本に来るんだったら日本語ぐらい勉強してこいよ」
「銃を下ろせ」

がらんとした工場に奴の声が響く。
その声に兵士たちはみな――彼に付き従うゲリラの生き残りも、彼らとは多少毛色の違う新入りも――従った。

「奴は私の獲物だ。よく来たなシティーハンター」

多少誤算だったのは、奴の立っている位置がほぼ俺の対角線上だったことだ。

「今まで退屈だったよ。優秀な日本警察の誇る特殊部隊と聞いて楽しみにしていたが
所詮は平和惚けした警官どもだ、我々の敵ではなかった」

下を眺めればあちこちに動かなくなった隊員たちが転がっていた。
――彼らの存在は公には秘匿されていると聞いた。ならばその死はどのようにして家族に伝えられるのか。
そんなことにふと思いを馳せる。彼らにも小さな、しかしかけがえのない幸福があったはずだ。

「これなら自衛隊のレンジャー部隊でも連れてきてもらった方がよっぽど手応えがあったよ。
だが実践経験の無い連中など本気でかかればひとたまりもないだろうがね」

廃工場にナーガの高笑いが響く。
そのとき、俺は心の底からナーガを軽蔑した。そして憐れんだ。

「そうすることで己の生を実感しているつもりか」
「闘いの中でしか己を見出せない。それはお前も同じはずだ」
「俺はお前とは違う!
幸福の何たるかを、愛の何たるかを、生きることの何たるかを知らないお前とはな!!」
「戯言を抜かすな!」

ナーガが銃を抜いた――ブローニング・ハイパワー。
キャットウォークの上では細い手すり以外遮るものは何もない。弾筋を見切ってかわす以外は。
最初の一発をすり抜けると奴を追って走り出した。
しかし奴もまた俺を追いかける。
まるで自分の尾を追う犬のように、ナーガと俺は狭い回廊の上で互いを追いかけ続けた。
兵士たちは指揮官の命令に忠実に、ただ眺めているだけだ。
――もしナーガが銃弾に倒れたら、そのときはまた一斉に銃口がこっちに向けられるんじゃないか?
そんなことを心配しても始まらない。止まったら死ぬ、それだけだ。

轟音とともに放たれたマグナム弾はむなしく追い風になびく奴の髪を幾筋か切り裂いただけだ。
そして、カーン、と高い音を立ててナーガの銃弾は手すりに弾かれた。
それでも彼我の差は一向に狭まらない。
向かい側を走る奴の姿に、悪夢の中のもう一人の冴羽撩が重なる――
俺が俺を追っているのならその差が詰まるはずがない、
その力は――速さも、銃の腕も、この俺と全く同じなのだから――
そんなわけがない。奴はナーガだ、俺じゃない。
あいつごときに俺が負けるはずがない、闘うことしか知らぬ狂犬ごときに。
――ハイパワーの銃弾が肩口をかすった。
すかさずパイソンが走り続ける奴の数瞬後に狙いを定める。
シリンダーの6発を撃ち尽くすのに時間はかからなかった。

「確かにリボルバーはジャム(排夾不良)が無い、銃爪を引けば確実に弾が飛び出す。暴発もしづらい。
だが装弾数はたった6発!」

さすがはハイパワー――世界で初めて弾倉を二列の『ダブルカアラム』とし、
13発の装弾数を実現したのがその名の由来だ、ここぞとばかりに弾数にものを言わせて撃ちまくる。
俺はその間、居並ぶ兵士たちを盾の代わりに銃弾を込め直すので精一杯だ。
だが、俺の意識は驚くほどに醒めていた。全体を瞬時に見渡すことができた。
ナーガの位置、兵士たちの配置、そして奴の弾数ですら冷静に数えることができた。
一方のナーガの目に映っているのはおそらくは俺だけ
自分の部下たちの姿ですらおそらくは見えていないだろう。それはただ血に飢えた野獣。
そして14発目――チェンバー(薬室)に入っている弾を含めて――の銃声が鳴った。
奴の弾倉はもう空だ。マガジンを交換するわずかな隙をねらって銃口を向けた、そのとき、

「ナーガ、あなたの相手はあたしよ!」

重い鉄の扉が音を立てて開いた。そこに立っていたのは、

「香・・・」

その足取りは薬を与えられたとは思えないほどしっかりしたものだった。
そしてその傍らには、彼女の見張りにつけていたはずのミック。

「何でここに――」
「知り合いにボートをチャーターしたんだ。橋が落ちても水路は使えるからな」

こいつを見張りにつけていたのは間違いだった。香に懇願されたらこいつが聞き入れないはずがない。
1階へと飛び降り、香のそばに駆け寄った。

「撩、これはあたし自身の問題でもあるの。
このままナーガとの決着がつけられないままじゃ、あたし、胸を張って撩のパートナーとしていられない!」
「香、お前は俺のそばで――」
「護られて、ただ笑ってればいいの!?」

彼女の眼は真っ直ぐに俺を見つめていた。

「あたしは女神様でも何でもないわ、そんなことできない!
自分の心に嘘ついたまま、それでも笑っていなきゃいけないなんて!」

香の唇には――血の出るほど噛みしめた跡。
そうやって消え入りそうになる意識を奮い立たせながらここまでやって来たのか・・・。
香はこういう女だ。いつも本気で笑って、本気で泣いて、本気で怒って――
だからこそ、何のわだかまりもない笑顔が誰をも幸せにするのだ。
あいつの本気の笑顔を取り戻す以上、こうする他はなかった。

香がゆっくりとローマンを構える。
これを手渡したとき、この銃で人を殺させるようなことは絶対にさせないと誓ったはずだ。
だが香が心の底からそれを望んでいるなら――
そしてそうしなければ二度と立ち直れないほど傷ついてしまっていたというのなら、俺もまた手出しはできなかった。
だが、ローマンの照準が定まらない。未だ睡眠薬が効いているせいか。
キャットウォークの上のナーガがにやりと笑う。
そして、ローマンは床の上に転がった。
なおもハイパワーの射線は香を――今度は彼女の額をまっすぐに狙っていた。

「もし目の前で恋人が殺されたなら、そのときは愛だの幸福だのと言っていられるかな?」

パイソンで奴の右手を狙う。ハイパワーは2.5m下のコンクリートの床へと落下した。

「撩、邪魔しないで!」
「邪魔するつもりはないさ、ただ・・・撃てるのか?今のお前に」

俺を見る目の焦点すらおぼつかない。
崩れ落ちそうになる香を抱きかかえ、その手にパイソンを握らせた。
香はそれを掴むと、重い鉄の塊をゆっくりと目の高さに構える――まるで、いつかの逆だ。
そして俺の手が後ろから抱きかかえるようにその照準を
殺してやりたいと思わせるほどに彼女のプライドを、その心を踏みにじった憎むべき宿敵に定めた。
あとはもう銃の重さを支えてやるだけだ。
香の細い指が銃爪にかかる。震えながらもその指が銃爪を引き絞ろうとした瞬間――

ガラスの割れる高い音、それとほぼ同時に銃声が響く。
そしてナーガの体が傾くと、そのまま手すりを乗り越え、どうっという音を立てて地面へ叩きつけられた。

割れた窓ガラスの向こう、倉庫の屋上に二つの人影が見えた。
一つはライフルを構える狙撃手と、その傍らに立つ小柄な影が。

香の手がパイソンから離れると、そのまま地面に座り込んだ。
その目は大きく見開かれたまま、堰を切ったように涙が流れ出ていた。

終わったのだ、悪夢が。




生きるか死ぬかの緊張感で睡眠薬の効果が飛んでしまったのか
埋立地から新宿へ戻る道すがらも香の目は冴えたままだった。
もともと即効性は強いが、それだけ持続作用には欠けたやつだ。とっくにその持続時間は過ぎてしまっていたのかもしれない。

あの後俺たちはミックの用意したモーターボートを拝借して埋立地を脱出した。
ナーガが倒れた後も廃工場に立て篭もる兵士たちには、陸路が駄目なら空路があるさとばかりに
ヘリで降下してきた自衛隊のレンジャー部隊がお相手するというおまけを残して。
まったく、嘘から出た真。下手なことは口にはできない。しかも、これを呼び寄せたのは槇村と冴子の(元)上司である
北方という爺さんの個人的なコネだというのだから驚きだ。さすが槇ちゃんの師匠、侮れん。
補充の傭兵たちはもともと金が目当てなのだから、報酬が出ない以上は命あっての物種と全員が投降してきた。
残った元ゲリラの一部は工場を爆破させ城を枕に討ち死にを遂げたが
その爆発を眺めたのは対岸に置いてきたクーパーのそばでだった。

薬の効き目が切れたとはいえ、階段を上る香の足元は弱々しい。
片手を手すりに、もう片方を俺に巻きつけて一段一段上っていった。

あのとき狙撃手のそばにいたのはナーガの実兄だと槇村は言った。
今回の玉砕覚悟ともいうべき突入劇の立案者であり
30年も前に行き別れた弟を探し出すためだけに警察官になったのだという。

「いくらシティーハンターとそのパートナーが相手でも
弟だけはこの手で捉まえたかったんだろうな。たとえ殺してでも――」

槇村がそう呟いた。その気持ちは俺にも判らないことはない。

「俺だって一歩間違ってたらこうなっていた。香を助けるためだけに警察を利用してきたんだからな」
「お前はあんな馬鹿な真似はしないさ」
「どうだか。落合が――大藪邦彦が暴走していなければ
俺がこの手でナーガを殺していたかもしれない。刑事という則(のり)を超えて・・・」

だが、これでよかったのだ。
あのとき、狙撃手の放った銃弾がナーガの頭を貫いたとき、そう思った。
確かにあのとき、香に復讐を許した。
だがもし銃爪を引かせていれば俺は必ず後悔しただろう。
いくらそれが彼女自身を踏みにじった報いとはいえ、殺しは殺しだ。
香の心に奴がつけた以上の傷を、一生背負わなければならない十字架を背負わすところだったのだ。
たとえ一生そばに置いておくにせよ、シティーハンターのパートナーとしての重荷を背負わせるにせよ、
香に直接人を殺させるわけにはいかない、今までも、そしてこれからも。
あいつの手を血に汚させるわけにはいかない。
そのために俺のような男がいるのだから。

「コーヒー、飲むか?」

部屋に戻ってきて、一言も交わさずソファに座りこんでいた。
いったいどれだけそうしていたのだろう。結構な時間が経ったような気がしたが
未だ夜は明けていないのだからそれほど経ってはいないのだろう。

「あ、あたしが淹れる」
「いいから座ってろ」

――俺はそれでよかった。だが、香はどうなのか?
ナーガとの決着をこの手でつける、そのことで香はこの痛手を乗り越えようとしたのだ。
それが鳶に油揚げをさらわれるようにその機会が目の前で立ち消えになった。
これであいつはまた笑えるようになるのだろうか?

牛乳と砂糖をいつもより多めに入れたものを香の前に置いた。

「これで・・・よかったのよね」

その言葉は俺への問いかけというよりも自分自身に言い聞かせるようだった。

「本当は怖かった、銃爪を引くのが――あっちは丸腰、あたしが銃爪を引きさえすればナーガは死ぬ・・・
あのときみたいに思いっきり外れちゃったかもしれないけど。
でも、怖かった、人の命を奪うのが。あれだけ――この世から消えてほしいぐらいに憎い相手だったのに、
涙が出るほど怖かった」

これが香なのだ。たとえ憎むべき敵であろうとも、
それが自分と同じ人間であるということを常に心のどこかに置き続けている。そんな女なのだ、香は。

「撩も・・・怖いの?」

だからこそ、俺もまた人間であることを思い出させてくれる。

「そりゃ、怖くないわけはないさ。だが、仕事だからな」
「そっか・・・あたし、少しだけ撩の気持ちが判ったような気がした。それと撩に依頼する人の気持ちも」
「なあ、本当によかったのか?」

すると香はふっと顔をほころばせた。それは嘘の無い笑みだった。

「もういいの。だって復讐は済んだから・・・あのとき、ナーガは震えてたわ」

震えてた・・・ナーガが?

「あのとき、自分一人じゃ照準も合わせられないほどだったけど、でも彼の様子だけははっきり見えた。
震えてたわ・・・それに怯えてた。あいつに組み敷かれたあたしみたいに。
そりゃ当然よね、まさかあたしみたいな小娘が――って齢じゃないけど、
自分に銃を向けるなんて思ってもみなかったと思うから」

いや、それだけじゃない。あのような真っ直ぐな眼を、
痛々しいほどの真摯な殺意を向けられたことはなかったはずだ、ナーガは。
己のプライドを、全存在を賭けての勝負など受けて立ったことがあっただろうか、たとえ戦場であっても。
捨て身の気迫、それこそが香の最大の強さなのだから。

「でも、撃たれたとき――銃弾が頭にめり込んでいったとき、一瞬・・・彼、笑ったわ」
「大した動体視力だな」
「結局ナーガは闘うことでしか生きられなかったのよね。
傷つけ合うことでしか誰かと繋がれなかった。
そんな地獄のような一生から解放されたんだもの。これで幸せだったのよ、ナーガも」

そう、これでよかったのだ、誰にとっても。
落合はこれだけの犠牲をもたらした責任を問われるだろう。だがそれも本望に違いない、
たとえ多くの犠牲を払っても探し求めていた弟を取り戻すことができたのだから。それが物言わぬ骸であっても。
その弟もまたこの地獄のような生涯に幕を引くことができたのだ。
槇村は組織の中に己を見出し、冴子もそんな夫に後事を託し、心おきなく母親になることができるだろう。
そして俺たちはお互いに半身を――文字通り自分自身の一部を――取り戻すことができた。
もう二度と離すことはない、何があろうとも。そう誓い合ったはずだ。
だが、言葉だけじゃまだ足りない――。

「そうだ、香ちゃん」

不意打ちのようなキスを落とす。
「言ったよな、続きは帰ってきてからって」
「えっ・・・」

途端に全身が真っ赤になる。だが、この機を逃せば後はもう無いかもしれない。
夜明けにはまだ間がある。少々強引に抱き上げると、そのまま一歩ずつ寝室へと続く階段を上がっていった。


ようやくこの二人をくっつけることができました【汗】
そして、祝・寸止め解禁【笑】です。
>BGM
このお姫様だっこで香を抱えながら階段を上がっていく
冴羽氏の幸せそうな背中に『Without You』をかぶせてやりたいです。

少々ハードな展開が続きましたが、信じてついてきた皆様
ご愛読、ありがとうございましたm(_ _)m

Former/Afterwords

City Hunter