あれから同じ夢ばかり見る。香を凌辱しようとする――もう一人の自分。 「香を放せ!」 そいつに向かって銃を向ける、しかし銃爪を引くことはできない。まるで腕をがっちりと掴まれたかのように。 奴に組み敷かれた香の瞳がまっすぐ俺を見つめていた。そして――こともあろうに微笑んで見せたのだ。 |
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vol. 10 壊れないものが愛なら |
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目が覚めると、ベッドの中には相客がいた。
「香・・・?」 夢の中のもう一人の俺に変じてあいつのことを襲っちまったかと一瞬ひやりとしたが、彼女の衣服に乱れはない。 とはいえ、こんなに穏やかな朝を迎えられたのはいつ以来だっただろうか。 香の与えてくれた温もり――それは遡ろうにも記憶以前まで追いかけなければならないものだった。 太陽はいつもの朝より低い、まだ世間では朝と呼ばれる時間帯だ。だが意識はいつもの『朝』以上にはっきりと醒めていた。 |
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そのドアベルの音はいつも通りにもかかわらず、久々に聞いた音色だった。
「香さん、もう大丈夫なの?」 「Congratulations, Kaori!」 彼女の回復を待ち構えていたかのように、Cat's Eyeには常連たちが集まっていた。 「伝言板は見てきたの?」 そう愚痴をこぼしながらも笑みを浮かべる彼女は私の知る香さんだった。 「はいこれ、あたしからの復活祝い」 「ありがとう、美樹さん。わぁ、いい匂い・・・」 じゃあ、いただきますと一口つけた。そして馥郁たる香りを味わっているようだ。 「けっ、ロクにコーヒーの味を知らないヤツにブルマンなんてもったいないんじゃねぇの?」 「でもナーガにさらわれて、冴羽さんも一度救出に失敗したなんて聞いて、どうなることか心配だったけど 詳しい事情を聞かされていないかすみちゃんの言葉に香さんは一瞬眉をひそめたが 「だが、香が帰ってきただけではまだ何も終わってないぞ」 だが、これからの話は香さんのいないところでするべきでは・・・彼女の方に眼をやると、 「いいわ。あたしだって当事者の一人だもの」 「なら、異論は無いわね」 すかさず冴子さんがこの場を仕切る。 「確かに冴羽さんとファルコンや美樹さんのおかげでナーガたちに壊滅的な被害を与えられた。 「とにかく奴を探し出さないことにはな。あいつとの決着はまだついてない」 そう言って冴羽さんはコーヒーを一口含む。その口調には気負いが無かった。 「でもどうやって――」 麗香さんの言葉をぴしゃりと遮ったのは香さんだった。 「彼の狙いは撩よ、ナーガ自身も撩との決着を望んでいる。なら彼の方から接触してくるわ」 その落ち着いた物言いは被害者のそれではなかった。冷静な、シティーハンターの片割れとしての言葉。 |
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連続暴力団事務所襲撃及び警察官襲撃事件の捜査会議といえば、公安主導になってからは形骸化が著しかった。 我々特捜課を含む刑事畑は末席を占めるのみ。会議で知らされる情報は当たり障りのないもの、 捜査方針は密室で決められていた。我々の手の及ばないところで。 そして、居並ぶお偉方といえば管理官か、せいぜいが課長クラスであったが今日は違った。 幹部たちの面前で朗々と熱弁をふるうのは落合――大藪警部。 「今日の捜査会議に担当部長方の列席をお願いしたのは、他でもない、ナーガの潜伏場所を突き止めたからであります」 思わぬ発言に刑事、公安の両捜査官が騒然となる。 「先日千葉のアジトで押収された資料を注意深く分析した結果、ナーガは現在――」 東京湾岸の地図が大写しになる。 「14号埋立地の廃工場に潜んでいるものと思われます」 有明のホテルの高級スイート、リゾートホテル跡の廃墟と比べれば居住環境としては格段に落ちるな、と一人ごちる。 「そして幹部の皆さま方にお出でいただいた最大の訳は、彼らの逮捕に特殊急襲部隊の出動を要請するためです」 刑事畑が大きくどよめいた。無理もない、機動隊の精鋭を集めた特殊部隊の存在は未だ公には秘匿されていたのだから。 「千葉のアジトから押収した武器です」 スライドには次々と彼らの武器が映し出される。 「奴らは敗れたとはいえ、内戦を生き抜いてきた根っからの兵士であります。 公安部長と警備部長が耳元で囁き合っていた。もともと数合わせで呼ばれた刑事部長は蚊帳の外で憮然としていた。 ――罠だ。 刑事の、そしてさらに裏の世界で磨かれた直感がそう告げていた。そう考えれば今までの奴らの動機がはっきりと判る。 「――判った。出動を許可しよう」 警備部長の言葉に落合が深々と頭を下げる。 |
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もう夜も更けた、人気の無い特捜課の刑事部屋で、
「すまん、大澤・・・もう誰もお前みたいな目には合わさないと決めたのに――」 白いユリの花が差さった花瓶の水を変える。だがすでに萎れかかっているのを止められそうにない。 「槇村、ここにいたの」 それはここで聞くとは思わなかった声だった。 「冴子・・・なんでここに」 そう言ってふわりと微笑む。その柔らかさは特捜課での激務から解放されたからだろうか、 「ところで、サッチョウに呼ばれたって」 警察庁での仕事となればデスクワークが中心となる。俺も以前のような閑職ではないのだから 「でも、いいのか?これで本当に現場とは縁を切らなきゃならなくなるぞ」 所轄の署長は捜査の一線に触れられるぎりぎりのポストだ、それ以上出世すれば現場に出ることは叶わなくなる。 「現場に未練は無いわ。だって・・・あなたがいるもの」 冴子・・・。 「あなたがここにいてくれる限り、きっとわたしたちの信じた正義を貫いてくれる。ときには撩たちのことを利用してね。 具体的に言えば、あなたの暴走を揉み消せるぐらいにね、と悪戯っぽく笑う。 ――自分は無力だ、落合の暴走を止めることはできない。刑事を続けることに意味を見出せなくなることもある。 「じゃあ冴子、現場の見納めにちょっと付き合ってくれないか?」 |
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あの後、アパートに一本の電話が飛び込んできた。
「誰だ?」 彼の方から接触してくる、昼間の香の言葉に臨戦態勢を布いてしまっていた。 「で、用件は何だ。『香の声が聞きたい』とかいうんだったらさっさと切れよな。こっちはキャッチホンついてないんだ」 あのとき、海坊主たちの活躍でナーガの戦力は半分近くにまで追いやられた。 《ファルコンの戦友の間にもスカウトがかかってるらしい。ついでに連中のギャラの出所まで調べてみたが》 香をああまで追い詰めた礼もしてやらなきゃならない。 《あとこれは悪友からのアドバイスだが・・・リョウ、お前手ぇ伸ばしてみろよ》 手を伸ばす・・・?奴の真意が掴めない。 《お前、昔っからそうだったような。なんというか・・・自分から幸福に背中向けてるっていうか、 何を人生の先輩面して偉そうに語ってるんだ。そう冗談半分に受け流そうとしたが 《お前たちの関係はそんなことじゃ壊れない、このMick Angel様が保証するぜ。 そう言うなり電話が切れた。 「ったく、いらぬお節介を・・・」 そうだ。ミックだけじゃない、海坊主も、冴子も、槇村も (ほかに心配することもあるだろうが) だが、心配されている以上、今は俺が香のことを守ってやらねばならない。 |
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数日後の午後のこと。
「香ー、お客だぞー」 ぶっきらぼうに撩が呼ぶ。リビングに通されたのは、 「まさかあんな目に会ってたなんて・・・ ――そうだ、あのショーの後フランスでの仕事が入ってたんだ。 「香ちゃんが誘拐されたって聞いてすぐエリとも連絡取ったんだけど――」 そして、長谷さんもまたあたしにとって遠い存在でしかなかった。 ふと撩を見遣る。彼の眼には何の感情も宿ってなかった。 「あの、あたしコーヒー淹れて――」 視線だけであたしを座らす。 「コーヒーなら俺が淹れてくる」 そう撩が席をはずし、あたしと長谷さん二人きりになった。 「でも、思ったより元気そうで安心した」 キッチンに引き籠っても、きっと耳のいい撩のこと、あたしたちの会話は筒抜けだろう。 「もし落ち着いてからでいいんだけど、また一緒に働く気は無いかな。事務所のみんなも君のことを待ってるんだ」 即座に答えは決まった。想像できなかったからだ、表の世界に、撩のいない場所にいるあたしを。 「ごめんなさい・・・期待、持たせたくないから言うんですけど ついつい言葉が他人行儀になる。 「そっか・・・」 彼は出されたコーヒーにも口をつけずその場から立ち上がった。 「そりゃ残念だな。いや、僕もこんなこと言うつもりはなかったんだけど・・・ きっとその言葉をひと月、いや、半月前に聞いていればどんなに嬉しかっただろう。 「いいのか、香」 その口調は凍てつくように冷たい。 「撩、誤解しないで。あたしがここにいるのは計算でも何でもないの。 思わず右手がうなりを上げた。ハンマーなんかじゃなく直接撩を叩きのめしたかった。 「馬鹿っ!あたしが撩を好きなのは、強いからでもなければ優しいからでもない。撩が撩だからよ! そして彼の胸に顔を埋ずめた。気がついたらそこで泣きじゃくっていた。 |
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突然のことの戸惑いをよそに、香の体は俺の腕の中にすっぽりと収まっていた。 あたかもそこが彼女にとって約束された場所であるかのように。 思えば俺は幾度となく香をこの腕で抱きしめてきた。飛び交う銃弾から身を護るため、怯える彼女を宥めすかすため、 総てが終わった喜びを分かち合うため――これが俺たちにとって自然なのだろうか? たとえ闇の世界に染まりきった男と、そこに身を置きながら決してそれに染められない女とであっても。 「いいのか・・・それだけで」 そばに置いてやったところで何もしてやれない、何も与えてやれない。むしろ奪ってしまうばかりだろう。だが、 「いいの!あたしがそう言ったんだから」 涙声ながらいつものような意地を張って香が答えた。 「本当にいいんだな。だらしがなくてもっこりスケベでツケばっか溜めて無駄飯喰らいで、 俺もまた、自分の意志で香と生きる道を選んでやりたかった。 「撩、あたしは撩の全部がひっくるめて好きなの。 俺の・・・嫌いな自分。そんなの嫌いな自分ばかりだ。いや、冴羽撩という人間自体、俺自身が愛せない俺の塊だ。 「でも、嫌なところは無くせなくても減らすよう努力してね」 照れたように香が言った。 「・・・努力はします」 できるだけ平静を装ってそう答えた。そして香の背中をあやすように撫で続けた。 |
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「新宿中の噂だぜ、お前が夜な夜なシンちゃんの店で朝まで飲んだくれてるって」
入ってくるなりカウンターに向かう背中にそう浴びせる。 「あっ、槇村・・・てめぇ嘘のネタ流したな!」 「だいたい俺に用があるんなら直接言やぁいいだろ?桜田門お墨付きなんだからな」 俺の目の前には何も言わずともいつものバーボン。 「で、いつだ」 見れば槇村の前にはグラスは置かれていなかった。 「だから今お前に会えなきゃこの三日間の飲み代が無駄になるところだった」 そんなことは織り込み済みというような笑みを槇村は浮かべていた。 「おい、まさかお前――」 言葉が詰まる。バーテンダーがボトルを差し出そうとしたが、それをあいつは手で制した。 「今回は見え透いた負け戦だ。それが判っているのに手も足も出せない。 唐突にそう切り出した。 「それで、任されちまったんだよ、現場を。俺たちの信じる正義って奴を。でもこれが荷の重い話でな。 それは槇村に向かってというよりは自分自身に対しての言葉だったのかもしれない。 「お前にはお前にしかできないことがある、警察に身を置きながら警察の論理に染まりきってないお前にしかな。 そう、だから今まではそこから目を背けて生きてきた。そんなことは俺には関係ないと。 「だがな、槇村。俺にできないこともきっと誰かができるはずだ。 そうヤツは悪戯っぽく笑う。 「いや、お前だよ。おたがい持ちつ持たれつ、な?」 そうは言いながらも、瞼に浮かぶのは香の笑顔だった。 「そうか・・・」 そんな俺の内心すら見通したように槇村が肯く。 「じゃあな。頼んだぞ、香のことを」 そう親友は席を立った。立ち去り際に俺の前に置かれたチェイサーのグラスを飲み干して。 ――頼んだぞ、か。 そんなもの、とっくの昔に頼まれてたさ。 |
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featuring 『世界で君だけが・・・』 |