ーー険しきゆえに
  待つものはVery Happy

あれから同じ夢ばかり見る。
男の汚らしい手が香の肌を這い回る。自分自身が触れられている以上のおぞましさが全身を走る。

「香から離れろ!」

パイソンの銃口を男に向ける。だが、このままでは香に当たりかねない。
ようやく男が体を起こす。そして俺へと視線を向けた。

それは俺だった。
血に飢えた眼、好色そうに歪められた口元。ただ左頬の傷跡だけが俺とは違っていた――“俺”とは。
奴も“俺”じゃないのか。“俺”に向かって俺は銃爪を引くことができるのか。
人差し指に力を入れようとする。だが指は一ミリも動こうとはしなかった。
奴の眼が俺をじっと見据える。その瞳のなかに俺が映る。左の頬に傷を負った俺が――
俺は奴なのか、奴が俺なのか?瞳の中の俺が妖しく嘲う。

――っっっっっ!!

叫び出したくなるのを必死に堪えた。


vol. 9 あなたは一人じゃない


「冴羽さん、最近どうなの?」

行きつけの喫茶店の女主人が尋ねた。
行きつけとはいえ、ここに通い始めてからまだ数週間と経っていない。
以前は出入りをはばかる事情があった。だが、店のあまりの居心地のよさに今ではすっかり常連面をしてしまっている。
まるで長い間この席を自分のために空けてくれていたような。

しかし、それ以前に撩行きつけのこの店にあいつは現れていないらしい。

「まだショックから立ち直れていないようだな。依頼のチェックにも行ってないらしい」

とはいえ依頼人からのSOSであるXYZを見落とすわけにはいかず、麗香が代わりに確認しているようだが
今はまだ依頼を受けられる状況ではない。

「そうよね・・・目の前で香さんがあんな風にされたら――」

彼女は窓の外から一部始終を見ていたのだ。そしてそのことについて真っ先に知らせてくれたのも美樹だった。

撩の部屋に乗り込んでいったのは、房総のホテル跡で銃撃戦があった翌朝だった。
玄関に上がるや否や、冴子を取り残して階段を駆け上がる。
リビングのドアを開けるとソファの上の撩めがけ突進していった。そして奴に掴みかかった。

「撩っ!お前は・・・お前って奴は!!」

未遂で済んだからよかったようなものの、一足遅ければ香の体に、そして心に一生消えない傷跡を残してしまっていたのだ。
頭の中ではありったけの罵詈雑言を並べ立てていた。
だが溢れそうな激情は狭い出口に殺到し堰き止められてしまっていた。口について出るのはその断片ばかりだ。
言葉が思いについていかない。その歯痒さすら撩に向かってぶつけていた。しかし、

「――殴りたきゃ殴れよ」

そう撩は力なく呟いた。彼の目はまるで死んだ魚のようだった。
唾のかかるほどの至近距離でもその目は俺という像を結んではいなかっただろう。

ああ、撩もまた――いや、俺以上に傷ついているのだ。
最愛の恋人が、守るべき者がまさに辱められようというところを目にしてしまったのだから。
憤怒、絶望、後悔・・・その内面は察するに余りあった。
思わず襟首の手を緩めた。

「槇村!」

その声に撩がぼんやりとした視線を向ける。

「それに撩」
「冴子・・・」
「今一番傷ついてるのはあなたでもなければあなたでもないのよ」
と鋭い眼差しで二人の男を見遣った。

「今は香さんにとって何が最善か考える方が先じゃないの、せっかくこの場に揃ったんだから」
「そういえば香は?」
「・・・まだ寝てる」
「そうか。じゃあ起こさない方がいいな。撩、邪魔したな」

そう言ってその場から立ち上がった。

「槇村、もう帰るの?」
「ああ。昨日の今日だ、香も俺とは顔を合わせづらいだろう。冴子、じゃあ後は頼んだ」
「槇村!」

いや、本当のところは香の姿を直視する自信がなかったからかもしれなかった、俺が。
3日前のことだ。

「撩はまだ腑抜けてるのか」
と海坊主が加わった。

「ファルコン!」
「今度ばかりは奴も手こずるかもしれないな」

そう彼はサイフォンを磨く手を止めた。

「お前の言ったのが事実ならばナーガ――大藪辰彦はもう一人の撩、それもお前や香に出会う前の撩だ。
いつも闘いを探し求め、その中でしか自分を見出せなかったような。
あいつはナーガと闘うと同時に過去の自分とも闘わねばならん」

自分との闘い・・・それはおそらく撩が今まで闘ってきたものとはあまりにも違う敵だろう。

「大丈夫よ、今の冴羽さんなら・・・きっと。
だってもうそのころの冴羽さんとは違うんだから。ねぇそうでしょう?」

美樹の問いに肯定も否定もできなかった。撩は今、選択を迫られているのだから。
今まで来た道をこれまで通り進んでいくのか、それとも元へ戻るのか。




今まであれほどまでに決断を下すことを、どちらかを選ぶことを恐れていた。
だが、まさかこんなことで選択肢が決まってしまうとは。

香を、表の世界に返す。

油断していたのだ、俺は。
甘く見ていたのだ、この世界を。
あのようなことはいつ起こっても不思議ではなかったのに。

捕虜の女はどうなるか、俺自身判りきっていたはずだ。ときに悪鬼のような執行人として。
だが組み始めたときは、図体ばかりすくすく育っていてもまだガキだった。
磨けば光るものを秘めていても、幸か不幸か悪漢たちはそれを見落としてくれていた。
それ以上にその格好、その言動からしてまさしく『男』だった。今まではそんな上辺に誰もが騙されていたのだ。

だが、今の香は違う。俺と過ごした歳月が男勝りの少女を大人に変えていた。
そして短いながらも表での生活で年相応の女らしさを身につけていた。
なのに俺は今までどおり高をくくっていた。
それはあくまで幸運が重なっていただけのこと、これからもそれが続くという保証は何一つ無いのだから。

この世界は香にとって危険すぎる、彼女を無傷な、無垢なままでいさせるには。
そんな判りきっていたはずのことに今まで気づかなかったのだ。

とはいえ、そのようなことをぼろぼろに傷ついた香に言えるわけがなかった。
彼女は俺のそばにいたときとはまるで別人だった。
いつも何かに怯え、表情からは笑顔が消えた。
ナーガに狙われ、最初この部屋に戻ってきたときはまだ俺の前では強がる余裕もあった。
だが今の香はうつろな眼で力なくソファにうずくまっているだけだった。
そして偶然俺の手が触れただけでも身をこわばらせた。
憔悴しきったあいつをこの手で抱きしめてやりたかったが、それすら香の傷ついた心は拒むだろう。
そんな姿を見るたびにここまで香を傷つけたナーガへの怒りが沸々と込み上げる。と同時に、

――誰かに穢されるくらいならいっそこの手で・・・!

という感情すら湧きあがった。
だが、今となってはそんな早まった真似をしなかったと安堵すべきだろう。
そんなことをすれば香を手放せなくなってしまう。
今はそばに置いておく、彼女の傷が癒えるまで。それが俺たちの下した結論だった。
傷が癒えればここから出ていけばいい、鳥籠の扉はいつでも開けられるのだから。
そのときは今度こそ香を送り出す覚悟は出来ていた。
だからそのときまではあいつの我が儘を何でも聞いてやろうと。

「撩、お願いがあるの」

もしかしてあいつから口を開いたのは戻ってきてから初めてではないのか。
だったらどんなお願いでも聞いてやらねばなるまい。

「何だ、言ってみろよ」
「撩に射撃を見てほしいの」

それは予想もしてない願いだった。
今の香に銃など必要ない、むしろ遠ざけておくべき物だと思っていたのだから。
だが、その声は未だ弱々しいものの、俺を見つめる眼は真剣だった。かつての香のような真っ直ぐな瞳。
それで彼女が立ち直れるのならしてやったって構わない。香もこれで撃ち納めという覚悟は出来ているのだろう。

「判った、見てやるよ」

すると香は控えめながら顔をほころばせた。

長い間――今まで組んだどんなパートナーよりも長い間、香と組んできたが
あいつに銃を教えてやったのは数える程度しかない。
いくら相棒とはいえ、彼女を自分と同じ世界に引き込みたくはなかった。
だからわざとローマンの照準を狂わせていた。これならばどんな名手でも当てることはできない。
上達しなければきっと銃の練習も諦めるだろう。しかし、それは間違いだった。
どんなに『射撃下手』であっても香は事あるごとに勝手に一人で射撃場に入っては何十発も練習を重ねていた。
ときにはCat'sの地下室で美樹の教えを乞うて。
照準を直したローマンを与えたのは、今にして思えばそんな香に根負けしたからかもしれない。
だが、それ以後も俺はまともに香に銃の撃ち方を教えてやらなかった。

地下の武器庫で香が選んだのは当然のようにコルト・ローマンMkIII――パートナーを解消する際に彼女から返された物。
だが、

「それはやめとけ」

肩越しに掴むと棚に戻させた。

「なんで?」
「お前には言ってなかったかもしれないが、こいつは初心者には不向きな銃だ。
パイソンと比べて銃身が短いだろ?こういう短銃身のはスナブノーズといって、小さい分反動を銃自体で吸収できない。
まして反動の大きいマグナムならなおさら。ミックはどれを選んだんだ?」

しばし目で探しながら、棚から一回り大きい銃を選ぶ。

「スミス&ウェッソンか・・・確かに撃ちやすい銃だがな、どうせなら慣れてるコルトの方がいいだろう。
排夾のやり方とか細かいところが違うし、銃そのもののクセもやっぱり違ってくる」

取り出したのはコルト・ポリスポジティブ。
銃身は4インチとパイソンと変わらないが、使用するのは38スペシャルだからその分反動は少ない。
香はしばらくの間、棚のローマンとそれとを見比べていた。
当然だろう、銃という道具である以上に彼女にとっては兄の『形見』であったのだ。
それゆえの愛着もあるだろうし、だからこそ不向きなのを知っていて香に持たせていたのだ。
しかし香はポリスポジティブを手にしてシューティング・レンジへと向かった。

人型の標的もあるが香には使わせたくない。ターゲットをセットし、銃に弾を込める。
そして香はポリスポジティブを標的に向けた。
だが、久々に握った銃のせいかがちがちに緊張しているのが目に見えていた。こんな様子じゃ当たる弾も当たらない。

「香、力抜いて」

それでも彼女の体は固まったままぴくりとも動かない。触れれば余計身を強ばらせるだけだろう。

「じゃあ大きく深呼吸してみろ。吸ってぇ、吐いてぇ、吸ってぇ」
との言葉に素直に肩が上下する。

「吐いてぇ、はいストップ!」

肩が極限まで下がったところで手を叩いた。そのまま銃を構えさせる。
握りは間違えていない。ただ、やはりグリップを固く握りしめていた。

「そんなに強く握らなくても銃は逃げないぞ」

逆にブレが大きくなる。仕方なくグリップにかかった指を一本一本緩めていく。
俺の手が触れるたびにびくりと肩が揺れるが、不安に慄きながらも黙って俺のするままに委ねようとしていた。

「よし。全身をリラックスさせて、顔を前に突き出す」

そして照準を合わせる。フロントサイトに焦点を合わせ、そこにリアサイトを重ねる。
その二つを結んだ直線の延長上に的の中心を持ってくればいい。ここまでは上出来だ。

「じゃあまずはシングルアクションで撃ってみろ」

大抵の銃は撃鉄を上げなくても銃爪を引くだけで弾は発射される。これがダブルアクションだ。
だがその場合、銃爪が重くなる。だから素人の場合、最初はシングルアクションで撃たせた方がいいだろう。

「一気に引くな。少しずつ力を入れていって、絞るように」

香の銃が火を噴いた。ローマンに比べれば反動は小さく、彼女の体は全身でそれを受け流すことができた。
だが弾は標的の円の中に収まったものの、いちばん外側のバームクーヘンの中だ。
それでもあの頃に比べれば大きな進歩だろう、照準を狂わせた銃を乱射していた頃よりは。
そのままシングルアクションであと5発、続けてダブルアクションでも撃たせてみた。

「ほら、銃の重みで腕が下がってるぞ」

それでも弾数を重ねるごとに銃弾の跡が徐々に中心のブルズアイへと近づいていっていた。
しかしその歩みがぴたりと止まった。途端に狙いが下へとぶれ出す。

(フリンチングか・・・)

最初のうちは反動を意識せずに素直に受け流すことができる。
しかし徐々にその反動に慣れてくると、体が無意識のうちにそれに備えてしまう。
つまり反動で跳ね上がるのを見越して撃つ瞬間に銃をやや下ろしてしまうのだ。
これではせっかく合わせた照準も狂ってしまう。
だが、これの厄介なところは無意識のうちの反応であるというところだ。
人間、最初は誰でもある意味怖いもの知らずだ。
たとえ恐るおそるであっても、本当の怖さを知らないから思い切ったこともできる。
だが、物事を知るようになるにつれてその恐ろしさというのも判ってくる。経験を重ねれば重ねるほど臆病になっていく。

――まるで、今の俺たちのようじゃないか。

あの頃はまだこの世界がどんなに悪意に満ちたものか知らなかった。
だから香と共に生きるなどと無謀なことも誓えたのだ。だが、この世に満ちる悪意を知ってしまった今となっては
危険を避けるためには香を遠ざけておくしかない。あらかじめ体が反動に備えるように。
――馬鹿馬鹿しい。フリンチングなら克服することができる。でもこればかりは克服できないのだから。

今はとりあえず香の銃を安定させるのが先だ。

「香、もう一発撃ってみろ」

フォーム、グリップ、照準とも申し分ない。だが銃爪を引く瞬間、彼女の手がぴくりと痙攣した。間違いない。
香の手からポリスポジティブを外させると、ジーンズに差していたパイソンを握らせた。

「・・・いいの?」
「一度反動の大きい銃で撃っておけば、小さい反動くらい何ともなくなる。
それにこいつは銃自体に重みがあるからローマンほどは跳ねたりしないぜ」

とはいえ、香の手――華奢だが、長い指をしている――にもこいつは大きすぎるようだ。
鈍く黒光りする銃身におずおずと香の白い指が絡む。しっかりと固定するように彼女の手に手のひらを重ねた。

「でも反動――」
「俺が受け止める」

あくまで俺は手を添えるだけ、そして支えてやるだけだ。
ずしりと重いパイソンをまっすぐに構え、照準を合わす。
ああ、そういえばこんなことが昔あったな、とそれほど前のことではないのに懐かしく思い出される。
そして教えた通りにゆっくりと銃爪を引き絞った。
発射の瞬間、357マグナムの反動で銃身が大きく上に跳ねた。
その衝撃は腕を伝い背中に達する。それを胸板でがっちり受け止めた。
決して重くはないがずしりと来る香の体重。それは今俺が全力で支えてやらねばならないものだ。

もちろん狙いは大きく上――標的の紙のはるか上――にずれた。
だが続けざまに、シリンダーが空になるまで撃たせ終わると
それでも外周の外ではあるが、少しずつそこへと近づいていた。
再びポリスポジティブを握ると、357マグナムの反動に慣れていた体は38スペシャルに対して素直に構えた。
もともと運動神経は悪くない。そのうえ負けず嫌いで努力を厭わない性格だ。
短くアドバイスを与えるとそれ以上の成果を出していった。
外周からその一つ内側、そのまた内側と徐々に弾痕は中心へと近づいていった。
そして――ダン、というひときわ大きな音を立てて、香の放った弾丸はブルズアイを撃ち抜いていた。

香は静かに銃を置いた。

「いいのか?」
「うん、これでもう済んだ」
「そうか・・・」

使った銃は手入れをしないと錆の元だ。いったんポリスポジティブを預かる。

「ローマンでも38スペシャルは使える。
普段使うときはそっちを入れておけばいざというとき外すことはない。
口径が小さくても当たるところに当たればダメージは与えられるからな」
「――うん」
「練習のときはマグナムにすれば、スナブノーズでも反動をコントロールできるようになるだろう」

――何をアドバイスしてるのだ、香はもう銃を持つことなどないのだから。
でもあいつは真剣な面持ちで肯いていた。




雲の流れが速い。太陽が顔を出したと思ったらすぐ分厚い雲がそれを遮る。
地上18階建ての屋上は風が強かった。

「まずは妹さんの無事救出、おめでとうございます」

そう言いながらも落合――大藪の顔は寿いでいない。
それに「無事」という言葉は判って言っているのなら皮肉にも程がある。

「それにシティーハンターとファルコンの活躍、私からも公安に代わって礼を言います。
おかげでナーガの戦力を半減することができたんですから」

撩が香を救出した後、伊集院夫妻の活躍によって奴らのアジトであったホテル跡は
そこにいた戦闘員もろとも壊滅的な被害を受けた。
そこがひとしきり燃え上がった後、ぞろぞろと警視庁公安部――千葉県警ではない――がやってきて
燃え残った証拠を掻き集めていった。これでナーガを追うだけの証拠はそろっただろう。
しかし、撩たちの味方としては警察に上前をはねられたような気さえ感じた。

「しかし――我々の最終目標は囚われの姫の救出ではないんですよ」
と釘を刺す。その通りだ。組織に甚大なダメージを受けながらもナーガは彼らの手中から逃れた。

「まだ闘いは終わっていないんです。そのことをくれぐれもお忘れなきよう」

それでもなお撩をこき使うつもりか、今も自分を責め続けている撩を・・・
だが、これも警察を利用しようとした代償なのか。
今はあの二人に休息を、そして自分の心に向き合うだけの時間を与えてやりたかった。
だが、『お礼奉公』はまだ続く。

屋上から特捜課に戻ると部下の一人が受話器を持って待ち構えていた。

「奥様――東新宿署の野上署長からお電話です」

自分のデスクで受けた。

「代わった。俺だ」
《ああ、よかったわ。ちょっと耳に入れたいことがあったの、公安の落合って刑事について》
「落合のか?でもよく公安の情報が手に入ったな」
《昔の見合い相手がそっちにいたのよ》

その答えに夫としてどこか釈然としないものを感じてしまう。

《安心して、槇村。あんなボンボンエリートこっちから振ってやったけど、
それで逆に心酔しちゃったらしくて今じゃ警視庁内『ファンクラブ』会長らしいわ》

香にとってのミックみたいなものか。そうは言っても冴子にとっては体のいい『奴隷』の一人なのだろう。

《本名・大藪邦彦。公安部公安一課所属の警部、ってとこまでは嘘をついてなかったみたいね。
彼の話通り父親は外交官で彼が中学生当時東南アジアに赴任している。
そこで殉職、家族と使用人の現地人もろともね》
「そして弟については」
《ええ。弟・辰彦、当時6歳。やはり死亡扱いになってるわ》
「遺体が帰ってこなかったにもかかわらず、か?」
《それについては書かれてないわ。埋葬許可書なんかを当たってみれば判るかもしれないけど》

それもおそらくは交付されたことだろう、偽の死亡証明書によって。
現地は無政府状態だったのだ、そのくらいの混乱はありうる。
だが、それを信じなかった兄はたった一人弟を捜す決心を固め、刑事となった。

《でも落合――大藪と呼ぶべきかしら、あなたに結構似てるんじゃない?》

あんな男と比べられていい気はしない。

「どうして」
《上司の受けは良くないようよ。しょっちゅう管轄外のことに首を突っ込んでは叱責を喰らってるわ》
「それでも公安を追い出されないということは」
《ええ、刑事としての腕はかなりのものね。今までにかなりの大物テロリストを挙げてるのよ。
中には特捜が逮捕寸前まで追い詰めてたホシをかっさらってったこともあるわね、悔しいけど》

受話器の向こうからぐしゃり、と紙を握りつぶす音が聞こえた。

「管轄外ってことは、おそらくは弟絡み」
《そう。何度も外事に転属を希望しては撥ねつけられてるようよ》
「――奴も警察の、国家の大義ってものを信じてないんだろうな」

生きているかもしれない自分の弟を死んだことにして見捨てたのだ。そんな日本という国家に忠誠を誓えるわけがない。
彼がそこに身を置くのはただ弟を見つけ出すため、そして今となってはテロリストとなった弟をこの手で逮捕するためだけ。
そのためならどんな奸計も厭わないだろう、俺が妹のためなら手段を選ばないように――。

《あなたは彼とは違うわ、槇村》

そんな考えを見透かしたように冴子が言った。

《あなたはどんなことがあっても道を踏み外したりはしない。
たとえ警官としてのルールは破っても人間として守らなければならないことを決して破ったりはしないわ。
だってあなたにはわたしたちがいるんだもの》

そうだ、俺には冴子や、撩や、香や、彼らを通じて連なる大勢の仲間がいる。
たとえ独りよがりな正義で暴走しようとも、彼らが力づくでも止めてくれるはずだ。

《でも、大藪にはそれがいない》

彼の眼に映るのは弟の姿だけだ。
それが手の届く範囲まで近づいた今、どんなきっかけで暴走してもおかしくはない。

《ねえ槇村》

ああ、判ってる。そんな狂犬と一蓮托生なんて危険すぎる。
だが今さら退くに退けない、兄弟が再び邂逅を果たすまでは。




中心が撃ち抜かれた標的を部屋の壁に貼ってみた。中心だけでなく、円の内も外も穴だらけだ。
あまりいい趣味とはいえない。だけど、これはお守りなのだ、これからあたしが胸を張って生きていくための。

射撃を教えてくれと言ったのは、依頼人扱いの開き直りもあったのかもしれない。
今まであたしが射撃場に入るのをあまりいい顔をしなかったくせに、何人かの依頼人は喜んで迎え入れていたのだ。
亜紀子さん然り、愛子さん然り。

そして、久々に触れた銃――銃ってこんなに重かったの?
それはあたしを拒絶するかのように冷たく、ずしりと重たかった。
その重みは裏の世界で生きていくことの重み。それをあたしはあまりにも無自覚だった。
銃はColt(若駒)の名に違わず、意に反して手の中で暴れる。
それを乗りこなせなければ――あたしは、前に進めない。一人で生きるにせよ、撩と共にあるにせよ。
抗おうとはせずに、反動を受け流す。

――あたしは今まで真正面からそれに抗おうとしていたのかもしれない、自分自身の弱さに。
だからいつも背伸びして強がっていた、何もできないお嬢さんなんかじゃないと。
そしていつか撩も驚くような一人前の相棒になってあいつの鼻をあかしてやろうと思い続けていた。
パートナーを解消した後、一人でやってこれたのも撩を見返してやりたかったからかもしれない。
でもあたしは撩になれない――判っていた、そんなことは最初から。
判っていてなおその事実に抗い続けていたのだ。認めてしまえばシティーハンターのパートナーの資格をなくしてしまうから。
だが、真正面から向かっていけばそのうちぽきりと折れてしまう。
そして、思い知らされたのだ、ナーガに。あたしは自分の身すら守れない、無力なただの女なのだと。
あたしを支え続けてきたものが、音を立てて崩れ去った。

だけど、受け流してしまえばいい。あたしは撩みたいには強くはなれないと。
奔流に逆らうことなく、飲み込まれることなく、それに身を任せればいい。
パイソンの、357マグナムの反動はさっきまでの38スペシャルとは比べ物にならなかった。そのパワーに圧倒される。
それを乗り越えなければ――あたしは、一人の人間として生きていけない。
だが、そんな決意を嘲笑うかのように反動はあたしを吹き飛ばした。
後ろに倒れこむあたしを逞しく、しかし優しく受け止める――撩の胸板。
そのとき気づいたのだ、あたしは一人じゃないと。

今までたった一人で闘ってきた、撩にふさわしいパートナーとなるために。
そのために彼の力を借りるのは本末転倒、対等な、頼れる相棒になるためには、そう思っていた。
だけど撩はいつもあたしのことを見守り、支え続けてくれた、あたしの気づかないところで。
撩がいたからこそあたしは強くなれたのだ。
でも、その強さを自分自身のものだと勝手に勘違いしていた。
撩がいなければあたしは危険に怯えることしかできなかったのだから。

背中から伝わる力、それがあたしにパイソンの銃爪を引かせてくれた。
だから中心のブルズアイも自分一人の力じゃない、撩が撃たせてくれたものだ。
その瞬間、あたしの心は決まった。
撩と共に生きていく。
撩がいるからこそ、あたしはあたしでいられるのだから。

「――ああ、香はだいぶ落ち着いてきた」

リビングでは撩が誰かと電話で話しているようだ。部屋を抜け出し、そっとドアに耳を当てる。

「そろそろそっちに戻れるんじゃないか」

その言葉に、扉に縋りつくように崩れ落ちた。
ああ、撩はまだあたしを手放したがっている。表の世界で幸せになれと。
でも、表も裏もそんなことはもう関係ない。
あたしのいるべき場所はただ一つ、撩のそばなのだから。

「荷物も引き取ってもらわにゃならないからな、日にちが決まったら連ら――かおり・・・」
「出ていかないわよ、あたし」

気づいたときにはドアを蹴とばし、撩の目の前に立っていた。
彼の手の中の受話器からは「撩・・・?」とのアニキの声が聞こえていた。

「絶対にここから出ていかないわ」

撩は何も言わず通話終了のボタンを押した。そして、

「お前と俺とは住んでる世界が違うんだ」
とお決まりの言い訳を繰り返す。

「ううん、違わない」
「香!」

撩の腕を掴むと、あたしの頬を挟むように触れさせた。

「住んでる世界が違うっていうのなら、どうしてこうやって触れられるの?
ねぇ撩、あたしたちは同じ世界に住んでるのよ。
同じ世界の同じ国の、同じ街にこうやって住んでるの。ねぇそうでしょう!?」

あたしは撩の手をぎゅっと頬に押し当てさせた。
撩はその手を引き剥がそうとするが、渾身の力でそれをぎゅっと抑えつけた。
必死だった、このままその手が離れてしまったら撩すら遠くに離れていってしまうようで。

撩とあたしは今までこのアパートで同じ空を眺め、同じ空気を吸い、同じものを見つめ続けてきた。
そして喜びも悲しみも、同じ感情を分け合ってきたのだ。
たとえ一つ屋根の下に住もうとも、違う世界の人間同士なら何で同じものを感じることができたのだろうか。

「確かにあたしは撩みたいに強くないし、撩はあたしみたいなありふれた幸せを知らない。
でも、あたしたち同じ血の通った人間じゃない!
流れる血の色が違うわけじゃない、その目に見えるものが違うわけじゃない。ねえ撩!」

いつも嫌だった、彼が依頼人たちと、世の中と、そしてあたしとの間に一線を引きたがるのを。
自分はあんた方とは違う人間だと一歩退こうとするのを。
そんなことはないのはあたしが一番よく知っている。
撩は闘うことしか知らない人殺しなんかじゃない。
人の弱さも、哀しみも、そして強さも知っている、温かい血の通った人間なのだ。

撩の手もあたしの手も体温を増していく。
しかし、懸命の抵抗むなしく、撩の手はあたしから離れた。
そのまま彼は自室へと消えていってしまった、憮然とした表情で。
どんなに思いの丈をぶつけても、撩の頑なな心を溶かすことはできない――結局は自分の独りよがりだったのだろうか?
たった一人、客間という名の自室のベッドで眠れないまま迷っていた。
撩のそばにいたいという気持ちは変わらない。だが、お慈悲で置いてもらうのならば・・・それでは今までと変わらない。
パートナーとしてであれば、少なくとも撩に求められるようでなければ。
じゃあ今のあたしに何ができるだろうか?撩のパートナーとしての資格はあるだろうか?
一つ心が決まっても、また次の迷路に迷い込んでしまう。

撩に会おうと思い立ったのは真夜中の3時を過ぎていた。
謝るつもりはない、あたしは間違ったことは言っていないのだから。
ただ、撩の言葉を聞きたかった。このまま一人で思い詰めていてもここから抜け出せそうになかった。

「撩、さっきのことで話があるんだけど・・・」

さりげなく、しかし控え目に。喧嘩の続きを持ち出す気はない。
だが、ドアをノックしても返事は無かった。

「撩・・・?」
(寝ちゃった・・・のかな?)

だが、眠りの浅い彼のこと、この程度の物音ならとっくに気づいているはずだ。
狸寝入りを期待してそっとノブを回した。
真っ暗な部屋には外のネオン以外に光源は無い。
そのうっすらとしたほの灯りだけが部屋の中を、そしてベッドの上の撩を浮かび上がらせていた。
そこにいたのはあたしが今まで見たこともない、そして予想もしたことのない撩の姿だった。

その表情は苦悶に満ちていた。額には脂汗が浮かぶ――うなされているのだろうか、悪い夢に。
時折、地を這うような呻き声が響く、まるで悲鳴を押し殺したような。
撩がここまで弱い自分を人にさらしたことはあっただろうか?
あたしの知っている撩はいつも自信に充ち溢れて、決して弱みを見せることはなかった。
・・・いや、飛行機、そして風邪をひいた夜。でも、そのときですらここまで痛々しくはなかった。
今の撩は見えない敵に対してあまりにも無力だった。

「――香を、放せ!」

いったいどんな悪夢を見ているのか、うわごとのように叫んだ。
虚空を狙うかのように伸ばされた腕を思わず掴んだ。
その震えが握った手のひらを通して伝わる。
怯えているのだ、撩が。誰にも屈することのないシティーハンターが。
その恐怖は決してパイソンを以ってしても払えるものではない。
撩の強さが敵わない相手。
あたしにできることは――ただ、この手を握りしめてやることだけ。
不意に撩が握りしめた手を引き寄せた。

「きゃっ!」

強い力でベッドに抱き寄せられる。
あの夜感じた悪寒が再び背中を駆け上がった。
だが相手は撩、これで彼を悪夢から救えるのならばパートナーとして本望だ。
だが――撩はそのまま、あたしの胸に顔を埋ずめた。まるで何かに怯える子供のように。

――いいよ、撩。あたしでよかったらいつでもあんたのことを守ってあげる。
だってあたしはあんたにいつも守ってもらってたのだから、これくらいおあいこ。
いや、まだまだ返し足りないよ。

そっと毛布の端をめくり、その隙間に体を滑り込ませる。そして撩の頭を優しく掻き抱いた。


featuring 『Purity〜ピュアティ』
      『世界で君だけが・・・』by TUBE

撩に先立って、カオリン復活です。
ちなみにこのシューティング・レッスンの場面のためだけに本買いました。
なんでコルトには銃身3inchの38口径って無いんだ?4inchじゃ少々大きすぎるような・・・。
でも美樹さんのキングコブラもバランス的に4inchっぽさそうだし。
こっそりそのシーンの中に官能小説的レトリックを織り込んだのは確信犯【爆】

Former/Next

City Hunter