あれから同じ夢ばかり見る。 「香から離れろ!」 パイソンの銃口を男に向ける。だが、このままでは香に当たりかねない。 それは俺だった。 ――っっっっっ!! 叫び出したくなるのを必死に堪えた。 |
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vol. 9 あなたは一人じゃない |
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「冴羽さん、最近どうなの?」
行きつけの喫茶店の女主人が尋ねた。 しかし、それ以前に撩行きつけのこの店にあいつは現れていないらしい。 「まだショックから立ち直れていないようだな。依頼のチェックにも行ってないらしい」 とはいえ依頼人からのSOSであるXYZを見落とすわけにはいかず、麗香が代わりに確認しているようだが 「そうよね・・・目の前で香さんがあんな風にされたら――」 彼女は窓の外から一部始終を見ていたのだ。そしてそのことについて真っ先に知らせてくれたのも美樹だった。 撩の部屋に乗り込んでいったのは、房総のホテル跡で銃撃戦があった翌朝だった。 「撩っ!お前は・・・お前って奴は!!」 未遂で済んだからよかったようなものの、一足遅ければ香の体に、そして心に一生消えない傷跡を残してしまっていたのだ。 「――殴りたきゃ殴れよ」 そう撩は力なく呟いた。彼の目はまるで死んだ魚のようだった。 ああ、撩もまた――いや、俺以上に傷ついているのだ。 「槇村!」 その声に撩がぼんやりとした視線を向ける。 「それに撩」 「今は香さんにとって何が最善か考える方が先じゃないの、せっかくこの場に揃ったんだから」 そう言ってその場から立ち上がった。 「槇村、もう帰るの?」 いや、本当のところは香の姿を直視する自信がなかったからかもしれなかった、俺が。 「撩はまだ腑抜けてるのか」 「ファルコン!」 そう彼はサイフォンを磨く手を止めた。 「お前の言ったのが事実ならばナーガ――大藪辰彦はもう一人の撩、それもお前や香に出会う前の撩だ。 自分との闘い・・・それはおそらく撩が今まで闘ってきたものとはあまりにも違う敵だろう。 「大丈夫よ、今の冴羽さんなら・・・きっと。 美樹の問いに肯定も否定もできなかった。撩は今、選択を迫られているのだから。 |
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今まであれほどまでに決断を下すことを、どちらかを選ぶことを恐れていた。 だが、まさかこんなことで選択肢が決まってしまうとは。 香を、表の世界に返す。 油断していたのだ、俺は。 捕虜の女はどうなるか、俺自身判りきっていたはずだ。ときに悪鬼のような執行人として。 だが、今の香は違う。俺と過ごした歳月が男勝りの少女を大人に変えていた。 この世界は香にとって危険すぎる、彼女を無傷な、無垢なままでいさせるには。 とはいえ、そのようなことをぼろぼろに傷ついた香に言えるわけがなかった。 ――誰かに穢されるくらいならいっそこの手で・・・! という感情すら湧きあがった。 「撩、お願いがあるの」 もしかしてあいつから口を開いたのは戻ってきてから初めてではないのか。 「何だ、言ってみろよ」 それは予想もしてない願いだった。 「判った、見てやるよ」 すると香は控えめながら顔をほころばせた。 長い間――今まで組んだどんなパートナーよりも長い間、香と組んできたが 地下の武器庫で香が選んだのは当然のようにコルト・ローマンMkIII――パートナーを解消する際に彼女から返された物。 「それはやめとけ」 肩越しに掴むと棚に戻させた。 「なんで?」 しばし目で探しながら、棚から一回り大きい銃を選ぶ。 「スミス&ウェッソンか・・・確かに撃ちやすい銃だがな、どうせなら慣れてるコルトの方がいいだろう。 取り出したのはコルト・ポリスポジティブ。 人型の標的もあるが香には使わせたくない。ターゲットをセットし、銃に弾を込める。 「香、力抜いて」 それでも彼女の体は固まったままぴくりとも動かない。触れれば余計身を強ばらせるだけだろう。 「じゃあ大きく深呼吸してみろ。吸ってぇ、吐いてぇ、吸ってぇ」 「吐いてぇ、はいストップ!」 肩が極限まで下がったところで手を叩いた。そのまま銃を構えさせる。 「そんなに強く握らなくても銃は逃げないぞ」 逆にブレが大きくなる。仕方なくグリップにかかった指を一本一本緩めていく。 「よし。全身をリラックスさせて、顔を前に突き出す」 そして照準を合わせる。フロントサイトに焦点を合わせ、そこにリアサイトを重ねる。 「じゃあまずはシングルアクションで撃ってみろ」 大抵の銃は撃鉄を上げなくても銃爪を引くだけで弾は発射される。これがダブルアクションだ。 「一気に引くな。少しずつ力を入れていって、絞るように」 香の銃が火を噴いた。ローマンに比べれば反動は小さく、彼女の体は全身でそれを受け流すことができた。 「ほら、銃の重みで腕が下がってるぞ」 それでも弾数を重ねるごとに銃弾の跡が徐々に中心のブルズアイへと近づいていっていた。 (フリンチングか・・・) 最初のうちは反動を意識せずに素直に受け流すことができる。 ――まるで、今の俺たちのようじゃないか。 あの頃はまだこの世界がどんなに悪意に満ちたものか知らなかった。 今はとりあえず香の銃を安定させるのが先だ。 「香、もう一発撃ってみろ」 フォーム、グリップ、照準とも申し分ない。だが銃爪を引く瞬間、彼女の手がぴくりと痙攣した。間違いない。 「・・・いいの?」 とはいえ、香の手――華奢だが、長い指をしている――にもこいつは大きすぎるようだ。 「でも反動――」 あくまで俺は手を添えるだけ、そして支えてやるだけだ。 もちろん狙いは大きく上――標的の紙のはるか上――にずれた。 香は静かに銃を置いた。 「いいのか?」 使った銃は手入れをしないと錆の元だ。いったんポリスポジティブを預かる。 「ローマンでも38スペシャルは使える。 ――何をアドバイスしてるのだ、香はもう銃を持つことなどないのだから。 |
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雲の流れが速い。太陽が顔を出したと思ったらすぐ分厚い雲がそれを遮る。 地上18階建ての屋上は風が強かった。 「まずは妹さんの無事救出、おめでとうございます」 そう言いながらも落合――大藪の顔は寿いでいない。 「それにシティーハンターとファルコンの活躍、私からも公安に代わって礼を言います。 撩が香を救出した後、伊集院夫妻の活躍によって奴らのアジトであったホテル跡は 「しかし――我々の最終目標は囚われの姫の救出ではないんですよ」 「まだ闘いは終わっていないんです。そのことをくれぐれもお忘れなきよう」 それでもなお撩をこき使うつもりか、今も自分を責め続けている撩を・・・ 屋上から特捜課に戻ると部下の一人が受話器を持って待ち構えていた。 「奥様――東新宿署の野上署長からお電話です」 自分のデスクで受けた。 「代わった。俺だ」 その答えに夫としてどこか釈然としないものを感じてしまう。 《安心して、槇村。あんなボンボンエリートこっちから振ってやったけど、 香にとってのミックみたいなものか。そうは言っても冴子にとっては体のいい『奴隷』の一人なのだろう。 《本名・大藪邦彦。公安部公安一課所属の警部、ってとこまでは嘘をついてなかったみたいね。 それもおそらくは交付されたことだろう、偽の死亡証明書によって。 《でも落合――大藪と呼ぶべきかしら、あなたに結構似てるんじゃない?》 あんな男と比べられていい気はしない。 「どうして」 受話器の向こうからぐしゃり、と紙を握りつぶす音が聞こえた。 「管轄外ってことは、おそらくは弟絡み」 生きているかもしれない自分の弟を死んだことにして見捨てたのだ。そんな日本という国家に忠誠を誓えるわけがない。 《あなたは彼とは違うわ、槇村》 そんな考えを見透かしたように冴子が言った。 《あなたはどんなことがあっても道を踏み外したりはしない。 そうだ、俺には冴子や、撩や、香や、彼らを通じて連なる大勢の仲間がいる。 《でも、大藪にはそれがいない》 彼の眼に映るのは弟の姿だけだ。 《ねえ槇村》 ああ、判ってる。そんな狂犬と一蓮托生なんて危険すぎる。 |
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中心が撃ち抜かれた標的を部屋の壁に貼ってみた。中心だけでなく、円の内も外も穴だらけだ。 あまりいい趣味とはいえない。だけど、これはお守りなのだ、これからあたしが胸を張って生きていくための。 射撃を教えてくれと言ったのは、依頼人扱いの開き直りもあったのかもしれない。 そして、久々に触れた銃――銃ってこんなに重かったの? ――あたしは今まで真正面からそれに抗おうとしていたのかもしれない、自分自身の弱さに。 だけど、受け流してしまえばいい。あたしは撩みたいには強くはなれないと。 今までたった一人で闘ってきた、撩にふさわしいパートナーとなるために。 背中から伝わる力、それがあたしにパイソンの銃爪を引かせてくれた。 「――ああ、香はだいぶ落ち着いてきた」 リビングでは撩が誰かと電話で話しているようだ。部屋を抜け出し、そっとドアに耳を当てる。 「そろそろそっちに戻れるんじゃないか」 その言葉に、扉に縋りつくように崩れ落ちた。 「荷物も引き取ってもらわにゃならないからな、日にちが決まったら連ら――かおり・・・」 気づいたときにはドアを蹴とばし、撩の目の前に立っていた。 「絶対にここから出ていかないわ」 撩は何も言わず通話終了のボタンを押した。そして、 「お前と俺とは住んでる世界が違うんだ」 「ううん、違わない」 撩の腕を掴むと、あたしの頬を挟むように触れさせた。 「住んでる世界が違うっていうのなら、どうしてこうやって触れられるの? あたしは撩の手をぎゅっと頬に押し当てさせた。 撩とあたしは今までこのアパートで同じ空を眺め、同じ空気を吸い、同じものを見つめ続けてきた。 「確かにあたしは撩みたいに強くないし、撩はあたしみたいなありふれた幸せを知らない。 いつも嫌だった、彼が依頼人たちと、世の中と、そしてあたしとの間に一線を引きたがるのを。 撩の手もあたしの手も体温を増していく。 撩に会おうと思い立ったのは真夜中の3時を過ぎていた。 「撩、さっきのことで話があるんだけど・・・」 さりげなく、しかし控え目に。喧嘩の続きを持ち出す気はない。 「撩・・・?」 だが、眠りの浅い彼のこと、この程度の物音ならとっくに気づいているはずだ。 その表情は苦悶に満ちていた。額には脂汗が浮かぶ――うなされているのだろうか、悪い夢に。 「――香を、放せ!」 いったいどんな悪夢を見ているのか、うわごとのように叫んだ。 「きゃっ!」 強い力でベッドに抱き寄せられる。 ――いいよ、撩。あたしでよかったらいつでもあんたのことを守ってあげる。 そっと毛布の端をめくり、その隙間に体を滑り込ませる。そして撩の頭を優しく掻き抱いた。 |
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featuring 『Purity〜ピュアティ』 撩に先立って、カオリン復活です。 |