――はぁっ、はぁっ………
―――はぁっ、はぁっ、はぁ…… 船に乗るには出航の15分前までに手続きを済ませなければならない。そのぎりぎりの時間に俺たちは客船ターミナルに駆け込んで、その足で船へと飛び乗ったのだ。サマードレスに合わせて選んだ香のサンダルが、走れば転ぶような華奢なものでなくて本当によかったのだが、 「おまぁのせいだ」 港近くの駐車場とターミナルの間に、埠頭に面した公園があった。 「それだって撩が言ってくれれば――」 そう、海を眺める香を、俺もまた時間を忘れてずっと見入ってしまっていた―― ――まずい。このまま言い合いを続けていれば、いつもと同じになってしまう。 「ねぇ、リョオ!」 香の視界から外れると、デッキ上を巡回するウェイターに軽く手を挙げる。そして―― 「つめたっ」 火照った頬にフルートグラスを押し当てた。 「シャンパンがいい? それともジンジャーエール?」 淡い琥珀色のグラスのうち、アルコールの入っていない方を手渡す。 「どうしたのよ、今夜は」 とグラスを軽く掲げる。 「言ったろ、今日はパートナー孝行するって」 ああ、まだ言っていなかったな。こうしてギリギリまで行先を伏せてしまうのは俺の悪い癖。 「サマーナイトクルーズ、要は納涼船ってことだな。 というと、船上ビアホールのようなノリかと思っていたら、こうしてウェルカムドリンクなんてのが振る舞われているように、どちらかといえばドレスコード・カジュアルの、誰でも参加可能なクルージングパーティーといった雰囲気だ。 「ちなみに食いもんのメニューは香ちゃんの大好きなバイキング♪」 とはしゃぐ姿は相変わらずなのだが。 「でも、こういうのって予約制でしょ。 と言うと、手を香の顎の下に挿し入れてくっと上を向かせる。 「ほら、早く行かないとバイキング無くなっちゃうでしょ!」 と俺の手首をしっかと握ると、照れ隠しするように、船室へぐいと引っ張った。 「わぁー……ローストビーフに、中華点心に、ちらしずし!――見て見て、撩! ケーキもこんなに!!」 料理は船のメインダイニングの中心にずらりと並んでいた。和洋中と豪華メニューが節操なしだが、ランチやディナークルーズも運航しているともあって、そのどれもが陸の一流レストランのものとも見劣りがしなかった。香の目の色が変わるのも当然だろう。といっても、仕事柄面倒なパーティーにも潜り込むことも多い俺たち、そこで並ぶ見た目は豪華だがやる気のない立食メニューですらおいしそうにパクつくのが香なのだが。 「にしてもずいぶん盛り過ぎじゃねぇのか? いくらバイキングでも」 人もすでに料理のテーブルの周りにずらりと並ぶ。その長蛇の列からようやく抜け出してきた香の皿の上はこれでもかとご馳走がうず高く積み上げられていた。 「違うわよ、これは撩の分」 確かに皿の上のメニューは肉料理中心、それも俺の好きそうなやつだ。 「あんた、並ぶの嫌いでしょ」 普段、こいつの作ったものを食って生活しているのだ。好き嫌いも全部把握済みに決まっている。 「あとお酒はあっちのカウンターね。ビールの他にワインもカクテルもあるみたい」 と言ってずっしりと重い皿を渡すと、今度は自分の分を取ってくるために再び長い列に飛び込んでいく。って選んでいる料理は俺のとあまり変わらない。まぁ、あいつも肉好きだしな。そんなことでもキラキラと目を輝かせて品定めしている横顔を遠くから眺めながら、ここに連れてきてよかったと心から思った。そのときだった。 《お客様に、本日のイベントをお知らせします》 とチャイムの後に入った館内放送。 《7時30分よりオープンデッキで、本場タヒチのダンサーによるポリネシアンダンスのショーが開催されます》 その瞬間、俺の脳裏にヴィヴィッドな映像が飛び込んできた。 「――撩、お待た……あれ、どこ行っちゃったんだろ。リョオ!」 嫌な予感はしていた。館内放送でポリネシアンダンスなんて聞いて、絶対撩が好きそうだろうなと思ったらこのザマだ。近くのテーブルに料理の皿は置きっぱなし、ほとんど手がつけられていなかったのが哀しかった――食い気より色気かい。 「――パートナー孝行じゃなかったのかよ」 ぽつりと言葉に出すと余計に淋しくなる。あたしのためにって連れてきてくれたはずなのに、結局あたしのことなんてどうでもいいんだ、放っといてもかまわないんだって。すると、途端に船内のカップルばかりがやたらと目に入ってきた。こういう日常を離れたシチュエーションだから、デートにはうってつけだろう。といっても、もちろんそれ以外のお客も多いけれど、まるで見えない丸で囲まれているように幸福そうな男女ばかりに目が行ってしょうがない。あたしたちもさっきまで、そんな風に映っていたんだろうなぁ……なんて思っていると涙が出そうになってくる。すると―― 「やっぱり肉料理には赤ワインですよね」 と、真っ赤なワイングラスが差し出された。それを手にするのは、優しげな微笑を浮かべた若い男性。 「あ、他のがよかったですか?」 ウェイターさんかな、とも思ったが、格好がそれとは違う。すらりと細身で、背は撩ほどではないけれどあたしよりは高そうだ。整ってはいながらどこかあどけなさが残る顔つきは、もしかしたら年下かもしれない。 「ありがとう……」 と受け取っても、彼はあたしの傍を離れない。 「お一人ですか?」 その問いに答えるのに多少躊躇があったが、 「え、えぇ」 と人懐こく笑いかける彼に不思議と悪い気はしなかった――撩が楽しませてくれないなら、自分一人で楽しんでしまえばいい。これを目にした撩がやきもきしてくれるんだったら願ったり叶ったりだ。もちろん、撩に愛想を尽かしたわけじゃない。 「ああ、そうだ。この船から花火が見れるって知ってます?」 ひとしきり当たり障りのない話題で談笑したのち、彼がこう切り出した。 「花火って、今日どこかでやってるんですか?」 そして彼はあたしの耳元にそっと口を近づけた。格好いい男性にそんなことをされると相手が誰であれ、無条件にドキドキしてしまう。 「穴場、知ってるんです」 そう囁かれた。 出足でつまずいた。 「もーいっかなぁー」 香サービスのためにここに来たはずなのに、これじゃいつもと同じ。そもそもその肝心の香を置いてけぼりにしてしまっているのだ。これからでも本腰を入れて挽回しないと、と船室へ戻ろうとしたとき、なかなか美人な二人連れが目の前を通り過ぎた。気になったのは彼女たちの容姿やスタイル以上に、その話している内容だった。 「――ほら、あたしがついてきてよかったでしょ」 とっさに俺の中の警戒アラームがけたたましく鳴り響く、香を一人にしておくなと。 こっちですよと連れられたのは、従業員用の通路と思しき場所だった。さっきから料理を持ったウェイターたちがここから出入りしていたから間違いない。それに、どんな場所でも入ったらその出入り口と、そこがどこに繋がっているのかを大まかに、人の流れを見ながら確認するのはあたしの習慣になっていた。 ――撩にお灸をすえるつもりが、痛い目に遭うのはあたしみたいね。 軽く掴まれたはずの手首が、いつの間にかがっちりと振りほどけないようになっていた。そもそもの発端は総て撩のせいだと責任を押しつけるようなことはしない。 「かおりっ!」 暗い通路の闇がいっそう深くなる。撩の長身が影を落としたのだ。 撩の表情は影の中はっきりとは見えない。でも、その眼がこう言っているのだけは判った――どうなの、さぁどうするの?と。
|