――はぁっ、はぁっ………

―――はぁっ、はぁっ、はぁ……
すっかり息も絶え絶えだが、決して色っぽい話などではない。
ここは船のデッキ上、といっても東京港をぐるりと一周するだけの日帰りクルーズ船だ。海から臨む港の景色が売りで、特にこの夕刻出航の船はロマンティックな夜景を楽しめるとあって、ちょっと贅沢なデートスポットとなっているようだ。
もちろん乗客はそればかりではないが、クルージングという華やいだ雰囲気から今の俺たちは浮いているのは間違いなかった。
膝に手をつくほどではないが、二人ともまだ息が荒い。特に香は肩で呼吸するようだった。

船に乗るには出航の15分前までに手続きを済ませなければならない。そのぎりぎりの時間に俺たちは客船ターミナルに駆け込んで、その足で船へと飛び乗ったのだ。サマードレスに合わせて選んだ香のサンダルが、走れば転ぶような華奢なものでなくて本当によかったのだが、

「おまぁのせいだ」
「え、なんで?」
「お前があんなところで道草くってるからだろ」

港近くの駐車場とターミナルの間に、埠頭に面した公園があった。
その海側のデッキからは一面、港とオーシャンフロントの景色を眺めることができたのだが、その眺めに香はすっかり時間を忘れてしまったのだ。

「それだって撩が言ってくれれば――」

そう、海を眺める香を、俺もまた時間を忘れてずっと見入ってしまっていた――
もちろんあのときとは場所も景色も違う。だが「港の風景」と「着飾った香」という要素に、あの夜のことを重ねずにはいられなかった――香と気づかないふりでの、一夜限りのデート。あのとき手の中から零れ落ちてしまったものをようやく手にしかけているのだが、もしあそこでその手を離さなければ、もし「香」とその名を呼んでいれば……巡る思考に、気がつけば夏の夕日はだいぶ傾いていた。

――まずい。このまま言い合いを続けていれば、いつもと同じになってしまう。

「ねぇ、リョオ!」

香の視界から外れると、デッキ上を巡回するウェイターに軽く手を挙げる。そして――

「つめたっ」

火照った頬にフルートグラスを押し当てた。

「シャンパンがいい? それともジンジャーエール?」
「んー、ジンジャーエール」

淡い琥珀色のグラスのうち、アルコールの入っていない方を手渡す。
もちろんあれだけダッシュで駆け込んできたのだから、カラカラの喉にキンと冷えた炭酸の刺激が快い。そして、慌てて飛び乗ったにしてはデッキ上の良い場所をとることができた。船縁で、手すりに背中を預ければ潮風が頬を優しく撫でていく。
香もようやく人心地がついたという感じで、

「どうしたのよ、今夜は」
「ん?」
「撩がこんなことしてくれるなんてさ」

とグラスを軽く掲げる。

「言ったろ、今日はパートナー孝行するって」
「そういえば、ここ――」

ああ、まだ言っていなかったな。こうしてギリギリまで行先を伏せてしまうのは俺の悪い癖。

「サマーナイトクルーズ、要は納涼船ってことだな。
まぁこうして飲んで食って、船の雰囲気と港の夜景を楽しむってわけだ」

というと、船上ビアホールのようなノリかと思っていたら、こうしてウェルカムドリンクなんてのが振る舞われているように、どちらかといえばドレスコード・カジュアルの、誰でも参加可能なクルージングパーティーといった雰囲気だ。
船という日常から切り離された場所がそうさせるのだろうか、カップルもそれ以外の客も、どこか背伸びをしたような面持ちだった。
だが、香もその中で決して見劣りはしなかった。白地にシアンブルーの大輪の花が描かれたワンピースは、夕闇の海によく映えた。それ以上に、華やいだ雰囲気に染められたのか、香がいつも以上にいい女に見えた。放っておいたら他の男に口説かれやしないか、心配になるほど。

「ちなみに食いもんのメニューは香ちゃんの大好きなバイキング♪」
「え、やったーっ」

とはしゃぐ姿は相変わらずなのだが。

「でも、こういうのって予約制でしょ。
大変じゃなかった?週末のチケット取るのは」
「そう思うんだったら少しは労ってくれてもいいんじゃないかなぁ」
「ね、労うって……」
「だからぁ」

と言うと、手を香の顎の下に挿し入れてくっと上を向かせる。
まだまだ清い仲だがようやくキスは慣れてきたといったところだ。香は釈然としないようだったが、意を決すると目をつぶり、顔を俺の方へと近づけるべくぐっと背伸びをする。そして……柔らかな感触が触れたのは、唇ではなくてその90°横。わざわざ回り込んで頬にキスしてきたようだ。目を開けると耳まで真っ赤な香。

「ほら、早く行かないとバイキング無くなっちゃうでしょ!」

と俺の手首をしっかと握ると、照れ隠しするように、船室へぐいと引っ張った。

「わぁー……ローストビーフに、中華点心に、ちらしずし!――見て見て、撩! ケーキもこんなに!!」

料理は船のメインダイニングの中心にずらりと並んでいた。和洋中と豪華メニューが節操なしだが、ランチやディナークルーズも運航しているともあって、そのどれもが陸の一流レストランのものとも見劣りがしなかった。香の目の色が変わるのも当然だろう。といっても、仕事柄面倒なパーティーにも潜り込むことも多い俺たち、そこで並ぶ見た目は豪華だがやる気のない立食メニューですらおいしそうにパクつくのが香なのだが。

「にしてもずいぶん盛り過ぎじゃねぇのか? いくらバイキングでも」

人もすでに料理のテーブルの周りにずらりと並ぶ。その長蛇の列からようやく抜け出してきた香の皿の上はこれでもかとご馳走がうず高く積み上げられていた。

「違うわよ、これは撩の分」
「俺の?」

確かに皿の上のメニューは肉料理中心、それも俺の好きそうなやつだ。

「あんた、並ぶの嫌いでしょ」
「あ、あぁ……」
「何か、嫌いなもの入ってた?」
「いや、全然」

普段、こいつの作ったものを食って生活しているのだ。好き嫌いも全部把握済みに決まっている。

「あとお酒はあっちのカウンターね。ビールの他にワインもカクテルもあるみたい」

と言ってずっしりと重い皿を渡すと、今度は自分の分を取ってくるために再び長い列に飛び込んでいく。って選んでいる料理は俺のとあまり変わらない。まぁ、あいつも肉好きだしな。そんなことでもキラキラと目を輝かせて品定めしている横顔を遠くから眺めながら、ここに連れてきてよかったと心から思った。そのときだった。

《お客様に、本日のイベントをお知らせします》

とチャイムの後に入った館内放送。

《7時30分よりオープンデッキで、本場タヒチのダンサーによるポリネシアンダンスのショーが開催されます》

その瞬間、俺の脳裏にヴィヴィッドな映像が飛び込んできた。
小麦色の肌、波打つ黒い髪、エキゾティックな瞳。ココナツの殻で覆われただけのたわわな胸、激しいリズムに合わせて揺れる腰蓑、くねる腰! これぞ南国の陶酔、楽園の官能!!――居ても立ってもいられず俺は船室を飛び出した。

「――撩、お待た……あれ、どこ行っちゃったんだろ。リョオ!」

嫌な予感はしていた。館内放送でポリネシアンダンスなんて聞いて、絶対撩が好きそうだろうなと思ったらこのザマだ。近くのテーブルに料理の皿は置きっぱなし、ほとんど手がつけられていなかったのが哀しかった――食い気より色気かい。

「――パートナー孝行じゃなかったのかよ」

ぽつりと言葉に出すと余計に淋しくなる。あたしのためにって連れてきてくれたはずなのに、結局あたしのことなんてどうでもいいんだ、放っといてもかまわないんだって。すると、途端に船内のカップルばかりがやたらと目に入ってきた。こういう日常を離れたシチュエーションだから、デートにはうってつけだろう。といっても、もちろんそれ以外のお客も多いけれど、まるで見えない丸で囲まれているように幸福そうな男女ばかりに目が行ってしょうがない。あたしたちもさっきまで、そんな風に映っていたんだろうなぁ……なんて思っていると涙が出そうになってくる。すると――

「やっぱり肉料理には赤ワインですよね」

と、真っ赤なワイングラスが差し出された。それを手にするのは、優しげな微笑を浮かべた若い男性。

「あ、他のがよかったですか?」

ウェイターさんかな、とも思ったが、格好がそれとは違う。すらりと細身で、背は撩ほどではないけれどあたしよりは高そうだ。整ってはいながらどこかあどけなさが残る顔つきは、もしかしたら年下かもしれない。

「ありがとう……」

と受け取っても、彼はあたしの傍を離れない。

「お一人ですか?」

その問いに答えるのに多少躊躇があったが、

「え、えぇ」
「そうですか、僕もなんですよ。一度乗りたいなって、思い切って乗ってみたんですけど、やっぱり一人じゃ肩身が狭くって」

と人懐こく笑いかける彼に不思議と悪い気はしなかった――撩が楽しませてくれないなら、自分一人で楽しんでしまえばいい。これを目にした撩がやきもきしてくれるんだったら願ったり叶ったりだ。もちろん、撩に愛想を尽かしたわけじゃない。
好きだからこそ、あいつの気を引きたいからこそ、こうして他の男と一緒にいるってのも矛盾しているような気もしないでもないけど……

「ああ、そうだ。この船から花火が見れるって知ってます?」

ひとしきり当たり障りのない話題で談笑したのち、彼がこう切り出した。

「花火って、今日どこかでやってるんですか?」
「いや、それが毎晩見られるんですよ。ほら、浦安の――
あそこで毎日打ち上げてますから」
「ああ、そうか」
「だからそれ目当てで来るカップルも多くて
その時間帯はデッキが混雑するんですけど――」

そして彼はあたしの耳元にそっと口を近づけた。格好いい男性にそんなことをされると相手が誰であれ、無条件にドキドキしてしまう。

「穴場、知ってるんです」

そう囁かれた。

出足でつまずいた。
最初、この日に予約を入れたときにそんなイベントがあるとは知らなかった。
知っていたら――いや、さすがに香を放ったらかしで自分だけ、とは考えなかっただろうが、敵は然るもの。ショーが始まる前からすでに最前列には人垣が出来ていた。ってここはストリップじゃねぇんだぞ。それでも彼らは夜景も料理もそっちのけで、タヒチガールの腰つきだけをじっと待っていたというわけだ。
そして、俺はというと遠巻きから彼女たちの舞いを眺めることしかできなかった。
この距離からでも一糸乱れぬフォーメーションやダンサーとしてのテクニックは伝わってくるものがある――本来はそれを味わうべきなんだろうが、あいにくそれは俺のお目当てではなかった。

「もーいっかなぁー」

香サービスのためにここに来たはずなのに、これじゃいつもと同じ。そもそもその肝心の香を置いてけぼりにしてしまっているのだ。これからでも本腰を入れて挽回しないと、と船室へ戻ろうとしたとき、なかなか美人な二人連れが目の前を通り過ぎた。気になったのは彼女たちの容姿やスタイル以上に、その話している内容だった。

「――ほら、あたしがついてきてよかったでしょ」
「でもさっきの、ただのナンパじゃん。大したことないよ」
「けどね、前にあたしの友達が男に襲われそうになったんだって」
「この船で?」
「うん。『花火の穴場教える』って、変なとこに連れ込まれて」
「えーっ」
「だから絶対リサ一人じゃ危なかったって――」

とっさに俺の中の警戒アラームがけたたましく鳴り響く、香を一人にしておくなと。
もちろんこの狭いようで広い船の中、そんな不埒なナンパ野郎とあいつが鉢合わせする確率はごく僅かだろう。だが俺にとって第二の本能ともいうべきこの危険察知能力を無視するわけにはいかなかった。

こっちですよと連れられたのは、従業員用の通路と思しき場所だった。さっきから料理を持ったウェイターたちがここから出入りしていたから間違いない。それに、どんな場所でも入ったらその出入り口と、そこがどこに繋がっているのかを大まかに、人の流れを見ながら確認するのはあたしの習慣になっていた。
その従業員用通路と厨房を結ぶ廊下からさらに一本脇に入ったところ、それがあたしの今の居場所だった。繋がっている先は何かの倉庫だろうか、人通りはあまり無さそうだ。そして、この船の見取り図まではさすがに知らないが、この先がどこか外に通じているとは考えられなかった。

――撩にお灸をすえるつもりが、痛い目に遭うのはあたしみたいね。

軽く掴まれたはずの手首が、いつの間にかがっちりと振りほどけないようになっていた。そもそもの発端は総て撩のせいだと責任を押しつけるようなことはしない。
窮地に追い込まれたのは、全部あたしの判断ミス。でも反省は後で、今はここを抜け出すことを全力で考えないと――

「かおりっ!」

暗い通路の闇がいっそう深くなる。撩の長身が影を落としたのだ。
リョオ!と上げようとした声を喉元でぐっと抑え込む。逆光の中で、撩の表情が少し落ち着いたのがほのかに見えたから。どうせ大した敵ではないと踏んだのだろう。
それでも、助けを乞うのは簡単だ――デッキや船室内で見かけた幸福そうなカップルの姿が目に浮かぶ。今夜くらいはあたしたちもそんな二人になれるんじゃないか、そんな期待を抱いていた。そして、危機に陥った恋人を救い出すヒーローなんて、見ようによってはロマンティックこの上ないシチュエーションでもある――
けれども、あたしたちはそうじゃない。ただの恋人同士じゃなくて、二人でシティーハンターなのだから。ものは考えよう、撩に今までの成果を見せつける良い機会じゃない。

撩の表情は影の中はっきりとは見えない。でも、その眼がこう言っているのだけは判った――どうなの、さぁどうするの?と。


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