掴まれた左手を敢えて自分側に引き寄せるようにして、さらに一歩前に回り込む。射程圏内に入った時点で、反対の右肘を思いきり奴の顔面に喰らわせた。それも目のあたりに入ったから、そこまで計算の範囲内なら大したものだ。あそこは痛い。その痛みに奴は手を離すとそのまま目を押さえて暗い通路にうずくまった。
「逃げるぞ!」 次の瞬間、香の腕を掴んで駆け出した。船内の狭いクルー用通路を――俺だって船内の見取り図まで判っているわけじゃない、ただ誰かに出くわさないようにひた走る。突き当りの小さな扉を開けると―― 「ああ、こりゃ花火見物は無理そうだな」 物資の搬入用だろうか、狭いデッキへと続いていた。あいにくテーマパーク側とは反対の舷のようで、台車の出し入れができる程度の幅はあったが、俺と香という規格より大きめの男女が並べば定員ぎりぎりといったところだ。 「でも、風が気持ちいーっ!」 と香が手すりに思いきりもたれかかった。確かに、今度は船内を疾走する羽目になってしまったが、熱を帯びた身体を涼やかな潮風が包み込んでくれる。 「あれ、でも放ったらかしにしといてよかったのかな……」 ようやく一息つけたのだろう、お優しいことに香はさっき自分で伸した相手のことを気にし始めた。 「いーんじゃねぇの? 少なくとも船が着いたら誰かが気づくだろうし」 きっとあれが常習犯だと知ったら、今度は「だったらなおさら警察かどこかに引き渡さなきゃ!」となるだろう。それはそれで俺としては面倒だし、少なくとも奴には今回良いお灸になったんじゃないだろうか。「窮鼠猫を噛む」というのを文字どおり“痛感”すれば、また同じことをやろうにも多少の躊躇は生まれるに違いない。 闇と静寂が二人を包む。メインデッキのざわめきは風向きのせいか、どこか遠くのように感じられる。耳に響くのは静かな波音のみ。狭いデッキだから自ずと二人の距離も近くなる。 ――こりゃ、本当に穴場を教えてもらったようなもんだな。 手すりに置いた手を滑らすようにして香の背中を通り、ウェストへと伸ばす。 「そういえば、撩にはお礼を言わなきゃならないね」 と香の方から俺の頬を、手のひらで挟むように手を伸ばした。 「これは、あたしからのお礼」 そう言う表情は確かに暗くてよくは見えなかったが、それでもその眼は真っ直ぐに俺の両目を射抜いていた。何の迷いも衒いもない、澄み切った眼差し。 あいつが背伸びをしただけでは届かないので、こちらからも背中を屈めてやる。
「東京湾の納涼船に行ったんですって?」 Cat'sでかすみちゃんにそう訊かれたのは、よりにもよって香と一緒に来たときだった。 「さっき美樹さんから聞いたんですよ。 さすがに若い娘はそういう情報は聞き逃さない。でも香はその問いにきょとんとしていた。 「撩、花火見えたっけ?」 わざとらしくすっとぼける。今度はその答えにかすみちゃんの目が点になる。ただ美樹ちゃんだけが総てを察した笑みを浮かべていた。 featuring TUBE『夏は女も…』(1993“浪漫の夏”)
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