「おーい、まだかー?」

とある夏の週末、俺は香の部屋の前で待ちぼうけを喰らっていた。

「んー、もうちょっと」

ドアに隔てられて少しくぐもった声が返ってくる。って、さっきも同じセリフだったじゃねぇか。女ってやつは支度が長いというが、あいつに限ってはそんなことはあまり感じさせなかった。いつもきびきびと手短に身支度を整えて、俺の方がせっつかれるほど。でも――香もやっぱり女だったんだな、とこんなときに思う。
まぁ、良い格好していけと言ったのは俺の方だが。でも、それにしても遅い。
いっそ部屋に踏み込んで様子見がてら直接――なんてことができるほどには、まだ深い仲じゃない。それに、覗き見なくてもだいたい中は見当はつく。どうせ鏡に向かってああでもないこうでもないとやっているんだろう。だから、

「どうせ時間かけて化粧したってしなくても同じだろ?」

なんて憎まれ口を叩くから、ドアに何かが投げつけられた衝撃がこちらにも響いてくる。こりゃ5tハンマーってとこか。でも言い方はともあれ、中身は大体事実だ。
夏だというのに白い肌に長い睫毛、ぱっちりとした大きな目、紅く潤んだ口唇。
あれこれ手間を掛けなくたって「女のなりたい顔」ってのがすっぴんのままでもう整っているのだから。って、そんなことをストレートに言えるほど素直な男じゃないのだが。

いくら壁に背中を預けていてもいい加減立っているのも嫌になってきた。そのままずるずると腰を下ろし、ジーンズのポケットに手をやる。そこから煙草とライターを引っ張り出すと、一本咥えて先に火を点けた――そうしようとした矢先だった、あのときあいつがくってかかってきたのは。

灼熱のアスファルトの上、いくらナンパでも外にはいられないとさっさと切り上げた。
アパートのリビングで鬼の居ぬ間にキンキンに冷房をかけ、ソファに寝そべりながらのんびりだらだらと午後のひとときを過ごす至福、これぞ無職の醍醐味!なんて聞かれたら香に烈火のごとく怒られるのがオチだが、まぁそれはともかく。
これといって何をするでもなく横になったまま何本目かの煙草に火を点けようとした、ちょうどそのとき。

威勢のいい足音に続いて、勢いよくドアが開け放たれた。パブロフ的にとっさに身構える。お叱りを受けるのは下げまくった設定温度か、それともテーブルの上に噴煙を上げる灰皿の山か――

「りょう」

その声の響きに棘は無かったが、そういうときの方がかえって後々恐ろしいことは経験上想像がついた。吸い殻の山はとっさに如何ともし難かったが、とっさに手元のエアコンで設定温度を26℃まで一気に上げた。けれども部屋の空気がキンとしたものになっていたのは、そんなにすぐに室温が上がるものではないからか、それとも――

「ねぇ、今年の夏って何か予定ある?」

バッグを部屋の定位置に置くと、香はソファの短辺側に腰を下ろす。
そう訊いてくる口調は普段と変わりなかったが――その眼は、戦いを挑む者のそれであった。思わずこちらもソファの上で居ずまいを正す。

「予定って言われても、依頼入ったらどうせ潰れちまうだろ」

それでも内心の動揺を気取られぬよう、なるべくいつもどおりの口ぶりを貫く。

「それだっていいの。日付とかはどうせもいいから、何か考えてる?」

考えていたところで、それを前もって言ってしまったら面白くもなんともない、とはさすがに口には出せない。

「花火はこないだ行けなかったしなぁ……あ、海まだ行ってなかったよな」
「海、ねぇ……」

香の冷やかな眼差しが俺をえぐる。そう、海なんて俺たちにとっては恒例行事の既定事項。ことさら口にするほどものではなかった。

「それに、仕事じゃなかったら神社の縁日だろ、あと野外ライヴ!」

と、言えば言うほど自分が劣勢に追い込まれていくのは判らないわけではなかった。それら総てがやはり「いつもの夏」なのだ、少なくとも香が求めているのはそれではない。もっと特別な――俺があいつに「愛する者」と言って初めての夏に相応しい何か。例えば……一泊旅行とか!?――いやいやいや、まだ俺の中にそこまでの覚悟はできていなかった。だが、香が欲しているものがその覚悟だとしたら――

「ふぅん。他には?」
「他にはって――」

答えに詰まる。チェックメイト。すると香はソファから立ち上がると、

「それって何も考えてないってことよね!? 撩、ちょっとたるんでるんじゃないの!?」

さっきまでの冷やかな口調から一転、火の出るような勢いでこちらを責め立てる。
といっても香の武器は言葉以外には人差し指一本だけ。だがそれを突きつけられ、俺はソファの上に仰向けに倒れ込むしかなかった。
するとあいつは一転、背中を向けると電話のコードレス子機へ手を伸ばす。そしてダイヤルを押すと、

「あ、ミックー?」

香の視線は、今度は窓の向こうの向かいのビルに向けられていた。

「――うん、そうなのよ。だからさっきのお誘いOKしちゃおっかなーって」

その言葉にバネのように跳ね起きると、香の手から子機をひったくり、

「おい、てめぇ、ミック!」

と叫んでみても返事は無しのつぶて――そりゃそうだ、回線は繋がっていないんだから。それを見ていた香は俺に向かって見えない舌をぺろりと出していた。

そんなわけで、俺は香をどこかに連れ出さざるを得なくなってしまった。もちろんどこに連れて行くかなんてことは癪だから絶対に言わないつもりで、ただ「今度の金曜」とだけ告げて。それが今日だった。

「撩、お待たせー」

との声と同時に重いドアが開く。そこからすっと現れたのは、普段滅多に目にすることのない、サマードレス姿の香だった。ノースリーブに膝丈までのAラインを描く裾は、くるりと俺の前で身を翻すとふわりと広がる。化粧も結局、ほんのりとピンク色のルージュを引いてきただけのようだ。

「あ、撩ずるー」
「何がだよ」
「あたしには良い格好して来いって言っといて、自分だけいつもと同じ」

まぁ実際そこまで改まった場に行くつもりじゃないし、これだってTシャツはきれいな新しいのを下ろしてきたのだ。

「うるせぇ。じゃあ行くぞ」

と言って腕を差し出す。

「何これ」
「いいだろ、たまには」

すると、怪訝そうな顔をしながら香は腕を絡めてきた。

「たまには、ね」

そして長い階段をエスコートして下りると、ガレージのクーパーの助手席の扉を恭しく開く。戸惑いながらもあいつはその雰囲気を楽しむと決めたようだ。カセットデッキには好きな歌だけ。

「ねぇ、それでどこ行くのよ」

と、少し傾きかけた陽の光を受けつつ軽快にクーパーを走らせながら、これで今日だけで何度目の質問だろうか。行くと決めてからずっとはぐらかし続けてきたが、

「ま、たまには香ちゃん孝行しようと思ってね」

それくらいはもう言ってもいいだろう。バックミラーに映る頬がぽっと赤らんだ。
それはもちろん俺の正直な気持ちだった。あれから――奥多摩での海坊主の結婚式、図らずも俺が香を「愛する者」と宣言してからも、内心はともかく普段の俺たちにこれといった変化は有って無いようなものだった。まぁ、要は釣った魚に餌をやっていなかったわけだ。あいつに弛んでると責められるのも無理はない。
だから今日はその“餌”を大盤振る舞いしてやろうと思ったのだ。とはいえ、そう素直に香のことを「恋人」扱いすることには今さら照れもある。それゆえのこのザマなんだが……ならば日常を離れ、この街を離れてみればきっと俺自身、いつもよりずっと素直になれるんじゃないか、そんな気がして。

「あぁーーーっっ!!!」

いきなり助手席で素っ頓狂な声が上がったから、思わずブレーキをベタ踏みしてしまう。

「どうしたんだよいったい!」
「伝言板!!」
「あっ!?」
「依頼無いか見てこないと!」

ったく、仕事熱心なやつだ。こっちはそういうことは今だけでも一切忘れて、忘れさせてやろうというのに。そんなことを言ったら「依頼人にとっては生きるか死ぬかの大事なことなのよ!!」とお説教を喰らいそうだが。

「心配すんな! さっき見てきたけど書いてなかったぞ」

それに行く先は駅とは反対側、今さら引き返すつもりはなかった。ああよかったと、いつもとは反対にほっと胸を撫で下ろす香。その横顔に気が引き締まる思いだった。今夜のデートがうまくいくかどうかは、俺が香に素直になれるか次第なのだから
――どうなの、さぁどうする俺!?


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