もともと踊りに行くのは好きだった。
新宿界隈の、いわゆる『クラブ』には何軒か行きつけのハコもあったし、
そういうのが似合う年齢になる前から、それとこれとは別物かもしれないけれど、カラオケにはしょっちゅう行っていた。
要するに、音楽に合わせて歌って踊って騒いではじけるのがあたしにとって何よりのストレス発散法だった。
だからあたしがよく行く店も、音楽を聴きながら飲んでまったり、という感じではなく、
同じアホなら踊らにゃ損とばかりに誰もかれもフロアに押し寄せるような、そんな踊る気満々の店だったりする。
大音量にノッてノッてノリまくってひたすら踊りまくっていれば、変なクスリを使わなくても頭の中が真っ白になって
嫌なことも何もかもその瞬間だけは忘れられる。そう、忘れたかったのだ。
さっきの惨敗――数字上は惜敗ではあったが――も、思わずムキになって今夜の目的を忘れそうになった自分も。
ここもまた、バブル華やかなりしころの『ディスコ』を完全再現したと銘打つ店だった。
当時『ウォーターフロント』に林立した大バコをイメージした店内にはミラーボールが四方八方に煌びやかな光を投げかけ、
フロア全体には往年のユーロビートが響き渡っていた。
さすがに“ジュリ扇”よりはコンセプトとして前の時代だけれど、一応『お立ち台』もあったりする。
そして、店の奥にはVIPルーム。あの当時に憧れる一人としては、リアルタイムで経験したかった世界でもある。
リック・アストリー、デッド・オア・アライヴ、マイケル・フォーチュナティ…… 最近のカヴァーやリヴァイヴァルで覚えたクチじゃない。
小さい頃からママのレコードやカセットで染みついて、もはや身体の一部になっているビートだ。それに身を任せていればステップを踏み外すことはない。
客層といえばあたしのような80’sびいきの若者と、それをリアルタイムで経験した世代が半々だろうか。
間違いなく後者のパパはそんなあたしをすっかりフロアの片隅から遠巻きに眺めていた。
何しろこっちは、スイングタイプのピアスも未だ慣れないヒールも忘れて、センターですっかり踊り狂っていたのだから。
「ねぇリョオ!こっち来て一緒に踊らない?」
そう大音響の中、声をかけても彼は苦笑いを浮かべて手を振るだけだった。そう、立ち位置で年齢層も楽しみ方もきれいに別れていた。
あたしのいる中心付近やお立ち台上はけっこうマジに踊っている、必然的に若い世代が中心となる。
一方、そこから外れたパパのいる辺りは、あたしに言わせれば音楽に合わせて体を揺すっているだけの、バブル現役世代のエリアだった。
でも、今夜の目的は踊ることではない、それを忘れてはいけないのだ。
さんざんパパに気を持たせておいて、後で実の娘だとバラしてがっかりさせてやること。
だったら今は思いきりいちゃいちゃして期待させるだけさせてやらないと。
ということであたしは同世代の輪を離れて、アラフォー〜アラフィフエリアに足を踏み入れた。
さっきより意外と人口密度の高いそこは、まるで満員電車のように距離を詰め合わなければ立っていられないほどだ。
するとパパはあたしの腕をつかむと、さっきより近くに引き寄せた。注意してステップを踏まないとパパの足を踏みつけてしまうほど、それでも他人の足を踏むよりはましだ。
「こういうときはいちゃつくのもマナーのうちだろ?」
確かに、ぎゅうぎゅう詰めの車内だったらべたべたしているカップルもむしろ有り難いくらいだ。おかげでその分スペースが空くのだから。
もちろん、今日会ったばかりのただのナンパ男だったらここまで詰められたくないくらいだけど
正体は実の父娘だから多少のパーソナルスペースの侵犯も気にならない。
でも当の父親はといえば、そうとは気づいているのかどうなんだか、すっかり楽しそうだ。
それもそうだ、いい齢したオヤジでも、いや、オヤジだからなおさら、若い娘とデートなんて嬉しくないわけがない。
ということは、これも親孝行のうちか、うん。
そんなあたしの心の内も知らずに、パパがあたしに笑いかける。でも、それはあたしに笑いかけてくれているわけじゃない。
だって、パパの目の前にいるあたしはあたし――ひかりじゃないもの。
お屋敷から逃げてきたお嬢様のカオリ――ううん、違う。
パパが笑いかけているのは目の前にいるあたしですらないのだ。その向こうにある遠い影。
そう、パパはあたしと――カオリとデートしているわけじゃなかった。
気づいてた、ずっと前から。パパがあたしのピアスに触れたときから――
そのとき、派手な照明ががくんと落ちた。音楽もスローダウンする。
「さ、チークタイムだよ」
パパがあたしに手を差し伸べた。気がつけばフロアの密度はさっきより格段に落ちていた。
こうして寄り添い踊るのは、周囲に親密な関係を見せびらかせるようなもの。今どきの若い子たちには流行らない。
だから、残っているのはほとんどパパと同世代らしき面々だった。でもまさか、ここまで忠実に当時を再現してるだなんて……
Careless Whisperという選曲もベタといえばベタすぎる。
あたしは差し伸べられた手を取った。二人、抱き合うようにフロアに揺れる。
でもきっと、パパの中で抱きしめているのはあたしではないのだ――そう思うと胸の中で何かがちくりと痛んだ。
それは――ジェラシー?何故?なんであたしがその見知らぬ誰かに嫉妬しなければならないの?
だって、あたしはパパの娘、そういう好きとか恋とか、自分には関係ないはずなのに――
もう、何が何だか判らない。ただ、胸が苦しいよ……。

ジョージ・マイケルの歌声が流れ出すと、周りのボックス席からでもフロアの様子が見通せるようになった。
香さんの勘は大当たりだ。さすが母親、というのとはどこか違う気もするが。
見ていてひときわ人目を惹くのは、長身の美男美女。
それはオレたちの監視のターゲットだからというのでもなければ、
客観的に見てもほぼ唯一の年の差カップルだからというわけでもなかった――
ああ、お似合いだよ、オレの眼からも。
とっくに気づいていたさ。ひかりの眼に映る撩は、ただの父親以上の存在だったってことも。
女が強い男に惹かれるのは、人間以前の動物としての本能。人でいえば、英雄色を好む、といったところか。
それゆえ、裏の世界No. 1スイーパーであるシティーハンター、冴羽撩に対して数多の女たちが心を奪われてしまうのも無理はなかった。
だが、それがひかりにとって最大にして最悪の悲劇だった。
女の心を捕えてやまない世界最強の、それゆえ最高の男は、よりによって実の父親――禁忌の対象。
それゆえその想いが恋愛感情に発展することはない。
だがそれは、ただの娘の父親に寄せる思慕の念というには大きく則をはみ出していた。
その危ういグレーゾーンにずっとやきもきし続けてきたのだ。
嫉妬、と呼んでしまっては何かが大きく壊れてしまいそうなそれに、俺も――そしてきっと、香さんも。

いつからだろう、あの子と撩の間にあたしには割って入れない何かがあることに気づいたのは。
もちろんあたしと撩との間にもあの子とは分かち合えないものはある。こっちの方がずっと長く時間を共にしているのだから、
と張り合っている時点で娘を意識していないとはいえなかった。
それはたとえ、数としてはわずかでも、何か決定的なもの――。
あの子――ひかりは、あたしの娘というより撩の娘だった。
ちょうど20年前――生まれて間もなく、ようやく人間らしい顔つきになってきた頃、ふとそんな感慨にかられたものだった。
あたしは自分の子を産んだんじゃない、撩の子供を産んであげたのだと。
それでもひかりはあたしの方によく懐いてくれたが、それだって撩があたしに惹かれたのと同じ理由だったのかもしれない。
そして、長じるにつれて彼女は父親の背中を追いかけはじめた。
それはあたし自身が追いかけたかった、でも許されなかったもの。
けれども撩は娘にその道を許した。
それはたとえ、運命がそう強いたものであったとしても――
二人だけが見られる世界は同じ道を歩む者だけが目にすることのできる世界、
あたしが見たくても見ることのできなかった世界。
まるで、自分一人だけが取り残されてしまったかのような――
嫉妬、と呼ぶにはいささか筋違いな感情であったとしても。

まるでデジャヴュだ。我が目を疑った。バーのカウンターであの子の――ひかりの姿を見たときから。
あのときと寸分違わぬ格好に、長い髪。それでも瓜二つとはならなかったのは俺自身のDNAのせいか。
でもまさか、ひかりがこんな格好の似合う年頃になったとは――俺の腕の中にすっぽりと抱き上げられるほどだったあの小さな赤ん坊が。
バラードに合わせて身体が揺れるたびに、あの子の胸が俺の胸板に触れる。
赤ん坊の頃はともかくとして、ちょっと前まで背ばっかりすくすくと伸びただけの痩せっぽちだったのが。
腕を回した腰つきも見事にくびれ、その下にはつんと上を向いた小ぶりのヒップが足取りに合わせてスイングする。
そこから伸びる脚だって、昔は棒切れみたいに真っ直ぐなだけだったのに――
もちろん、そんな我が子の成長した体つきにいちいちもっこりすることはなかった。
それは理性で抑えつけているというわけではない。もっと無意識的な――本能というべきだろうか、
血が濃くなりすぎることを種として恐れるがゆえの。
もともと本能だけで生きているようなものだ、これくらいのメリットはあってしかるべきだろう。
そうでなくても娘の姿に、父親としての感慨の方が先に立った――
槇村、今ならあのときのお前の気持ちがよく判る。お前は香に惚れていたわけじゃなかったんだな、たとえ血が繋がっていなくても。
――まったく、それにしてもいい女に育ってくれたものだ。まぁ、俺と香の娘だから当然の結果なのだが。
これじゃ他の男にくれてやるのが惜しいくらいだ、たとえ相手が秀弥――ガキの頃からよく知った、可愛い甥であったとしても。
だが俺は父親、いくら地団太を踏んだところで手放さざるをえないのだ。
手元に置いておいたところで手の出しようもないのだから――
「俺が唯一もっこりしない女」と、かつてこいつの母親をそう呼んだこともあった。
遠い昔の話だが、まさかこいつがその名を襲名しちまうとはな。

ずっと楽しかった、あのとき、パパに声をかけられてから。
もちろん、二人だけでいろいろなところに行ったこともあった。さすがに本格的な夜遊びに付き合わせたことはなかったけれど、
飲みに行ったりもしたし、もっと小さい頃からママに内緒で夜の街に連れてもらったこともあった。
でもそれと、今夜のことは全く別物だった。今のあたしは、パパの娘のひかりじゃないから。
あたしにとっての目標は、パパに認められることだったのかもしれない。プロとしても、そして――女性としても。
もちろん、パパに恋心を抱いていた、なんてわけじゃない。
隠れファザコンだなんて言われてるけど、一応それくらいの分別はある。
でも、女を見る眼も超一流のパパのこと、その眼に適うような女になりたかった。あたしが娘に生まれてきたことを後悔させるような。
それだって、ママには遠く及ばないことはわかっているつもりだ。だけど――
ねぇ、見て、パパ。今のあたし、きれい?
もし娘じゃなかったら、声をかけたくなるくらい?
ママと出逢っていなかったら、好きになっちゃうくらい?
――ねぇ、そんな願いでさえ、娘のあたしにはいけないことなの?
「――君みたいな素晴らしい女性には今まで出逢ったことがないよ……と言いたいところだけど」
そうパパが耳元で囁いた。
「一度――そう、一度だけ出逢ったんだ。たぶん、君が生まれるより前に」
その声は優しく――甘く、そんな声音で口説かれたらどんな女性も陥ちてしまうくらいだ。
でもその声遣いから紡がれるのは口説き文句ではなかった。
「君と同じきれいな長い髪でね――そう、まったく同じようだったよ。
あのときもこうして、ダンスフロアで抱きしめあっていた」
その声を聴きながら、あたしの中に何かふつふつと湧きあがるものがこみあげていた。
それは嫉妬というほどどろどろしたものではなく、むしろ義憤というべきものだろうか。
パパがこうしてあたしの前で――娘だと判っていないにもかかわらず
ママ以外の女のことを懐かしげに語るのを黙って見過ごすわけにはいかなかった、娘として。
たとえそれで正体がばれてしまおうとも。
「あのとき――想いを伝えていられれば――」
ぱしっ、という衝撃音が一瞬フロアを走った。
その瞬間、音楽が止まったような気がした。
喧噪とは無縁のチークタイムだ、その場にいるほぼ全員の耳にそれは聞こえただろう。
もちろん次の瞬間には何もなかったかのようにCareless Whisperは流れ続けていたけど、フロア中の足という足はすっかりステップを止めてしまった。
あたしは逃げるようにその場を立ち去るしかなかった。
パパの頬に思いきり平手打ちをくらわして、いったいどの面さげて『デート』を続けられるだろうか。
どれくらい走っただろう、慣れないヒールで。きっとマスカラもアイラインも汗と涙でぼろぼろだった。
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