梅雨の晴れ間の緑が目に眩しかった。
あれからもう1ヶ月以上経っていた。
ユニオン・テオーペの残党勢力として最大規模を誇った国際的麻薬組織・シンセミーリャを壊滅に追いやってから。
いくらトップダウンの組織とはいえ、首領一人を屠ったからといって全世界に散らばる組織を根絶やしにするのは容易ではなかった。
だが、タイミングよくウィークリー・ニューズ誌にリークされるトップシークレットから次々に事実が明るみにされ、
それに引きずられる形で各国の捜査当局がいたるところで幹部たちを逮捕していった。
その中でも日本警察の奮戦は国際的シンセミーリャ捜査網の中で特筆すべきものだっただろう。
その間、決して表舞台には出なかったが、この壊滅劇の立役者の一人であったフェルナンド・ミナミこと槇村秀幸は
『教授』と呼ばれる老翁の屋敷で人知れず治療を受けていた。チルフルジアゼパム・通称『シルフ』の禁断症状に侵されていた。
このベンゾジアゼピン系抗不安薬は彼がフェルナンドと呼ばれるようになってから――もう7年以上も投与されていたものだ。
『ロータス』によって槇村秀幸としての記憶を封じられていた彼が、記憶の混濁によって現れる症状を防ぐために。
7年という長期間の服用のためだけでなく、東京に――かつて槇村と呼ばれていたころの記憶が眠る新宿に来て以来
さらに服用量が増したため、彼の体はもはやシルフなしではいられなくなっていた。
急激な断薬は激烈な禁断症状を生む。全身の痙攣、幻覚、せん妄・・・
その彼を支えたのがかつての同僚であり恋人であった野上冴子だった。
東新宿署の署長という要職にありながらも、彼女は毎日教授の屋敷を訪れ遅くまで槇村の病室で時を過ごした。
彼が小康状態の時には7年間の出来事を語って聞かせ――話題に事欠かない連中が周りにいるのだから話が尽きることはない――
そして発作の際にはただひたすら彼の手を握り名前を呼び続けた。あなたは槇村秀幸なのだ、もうそれを忘れないでと言うように。
二人が7年の歳月を乗り越えたのも当然の結果だった。
だが二人の前には更なる壁が立ちふさがろうとしていた。もはやお互いの気持ちや若さだけでは越えられない壁が。
「で、どうするんだよ冴子とは」
めったに顔を出さない元相棒が訪ねてくるなりこう訊いてきた。
「どうするって、何を」
「だから冴子と結婚するのかどうなのか、さ。お前にその気がないんならこっちは手の出し放題だしぃ♪」
冴子との結婚――7年前も考えなかったといえば嘘になる。
だが彼女はエリート警察官で、槇村はといえば刑事を辞めた、今は裏の世界に生きようとする身だった。
あまりに住む世界が違いすぎた。違うながらも恋人という曖昧な関係に長居していた。
長居しすぎて鳶に油揚げを攫われそうになって――あの日が来てしまった。
1985年3月31日。
いくら7年という歳月を乗り越えたとはいえ、早い話が二人の関係は振り出しに戻っただけだ。
だが、昔の彼ならそこで無理やりにでも壁をよじ登るか来た道を引き返すかしたはずだ。だが今は――
「結婚は・・・無理だろうな。だからといって『はいそうですか』と別れるつもりはないが」
今の彼には「壁の前で立ち止まる」という選択肢もあった。
かつての――生真面目で(自称)常識人な彼にとっては到底許しがたい優柔不断な答えであっただろう。
だが今の槇村は形式にこだわる必要性など感じていなかった。
「でもお前はそれでいいとして、冴子はどうするんだ?あいつは一応エリートだぜ。
それがこんな男と中途半端な関係結ばれちゃ――」
「まぁバレないようにやるさ。それこそお前こそどうしてくれるんだ?」
「槇ちゃん、何のこと・・・?」
「香のことだ。結婚しろとは言わん、入れる籍もないというのは前に聞いたからな。
だがな、それなりの責任をとってもらわんと」
「責任って・・・俺はまだ香に指一本たりとも触れてねぇぞ!」
「そんなことは関係ない!ネタは冴子から上がってるんだ」
「あの女狐め・・・!」
そう、槇村の悩みの種もその『女狐』だった。
彼女が今この関係をどう思っているのか。この危ない橋を渡り続ける覚悟があるのかどうか。
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