「あ、雨……」

マンションの窓ガラスを、雨粒が叩く。夜の静寂(しじま)、といっても眠りを知らぬこの街。それでも通り過ぎる車の音も雨音越しにくぐもる。
そんな、まるであの夜を重ねてしまいそうなときは、そっとオルゴールの捩子を巻く。微かに聞こえる黄金色の甘いメロディーが、まるで傘のように私を包み込んでくれるような気がして。

  Melody for You


待ち合わせは新宿駅東口の伝言板の前。変化の著しいこの街でも、そこだけは今も変わらないから、あの頃と。でも療養中の彼とは違って、こっちは多忙――というほどではないけれど、一応は署長職。今日だけは運悪く、定時に仕事が終わらなかった。駅に向かうのにわざわざタクシーを捕まえ、改札方面へと急いだ。
なにしろ7年前の3月最後の金曜日、それ以来の逢瀬なのだから。

彼が私たちの前から忽然と姿を消した後、槇村はそれまでの記憶を奪われた。
そして7年後、彼は戻ってきた。元ユニオン・テオーペ、そしてその残党組織の幹部「フェルナンド・ミナミ」として。組織は壊滅し彼も記憶を取り戻し、けれども記憶喪失の混乱を封じるために安定剤漬けにされていた槇村は現在、教授のもとでその治療に当たっている。一時期は寝たきりに近い状態だったけれども、今はもうほぼ日常生活に支障はないほどの回復を遂げていた。

これまでも仕事の合間に教授のもとをたびたび訪れては、槇村の身体に障りのない範囲でそれまであったことや、現在の他愛のないことを話すなどの時間を共に過ごしていた。それは端から見れば充分「デート」だったかもしれない。
でも彼の体調が安定し、こうして束の間の外出もできるようになったと聞いて私の胸は高鳴った、まるで恋を覚えたばかりの少女のように。昨夜だって、「明日になればまた彼に逢える」と思うだけでなかなか眠れなかったほどだ。

外は梅雨空、それだけで行き交うラッシュアワーの学生や勤め人のいつも以上の憂鬱がコンコースを満たす。そんな中、ひときわ目を引いたのは――普段はあまり気づかないけれどこうして見ると結構な長身の、すっかり銀髪交じりになってしまった髪。それでも冴えないツーブリッジ・フレームの眼鏡は相変わらずだ。
いつも羽織っていたようなベージュのレインコートは、傘とともに腕に掛けていた。
そしてネイビーのジャケットにグレーのサマーウールのスラックス――意外な姿に、思わず目を疑った。

今まで二人で逢うときはいつも仕事帰り。それは彼が警察を辞めてからも同じだったから槇村の格好はというと、普段の着古した背広――
スーツ、というよりこっちの方がよりしっくり来る。
わざわざ私に逢うためにいつもより着飾るということは今までに無かった。
そして意外と、そういう格好も様になっていた。こっちが一瞬恥じ入ってしまうくらい。
ずっと「警察官らしからぬ」服装だと言われ続けているけれど、これだって一応私にとって仕事着なのだ。それでもいつものスーツではなく、シンプルなジャケットの下にはボディラインにフィットした、シックな小花柄のワンピース、なんて人には気づかれないような”おめかし”かもしれないけれど、でもせめて彼に逢うのだからマニキュアも違うのをしてくればよかったかもしれない、香水も変えてくればよかったと――

「ごめんなさい、待たせちゃって」

思い切って彼へと駆け寄った。

「いや、それほどでもないさ。こっちこそ――」
「えっ?」
「すまなかった――長く、待たせて」

そう、待ったのは私、7年もの間――それでも雑踏の中で、彼が触れ合えるほど傍にいるのが嬉しかった。もちろん病室でも同じくらいの距離にいたことはあった。
けれどもそこには私たち二人を隔てる見えない壁のようなものがあるように感じられた。まるで彼の存在をガラス越しにしか感じられないような。
でも、今なら私たち二人はきっとデートを楽しむ少しとうの立った恋人たちにしか見えないだろう。

にしても――間近で見ればよりいっそうはっきりと判る。
クリーム色のシャツに、濃いワインレッドのスカーフをアスコット風に襟の中にたくし込むなんて、いくら7年の間、それまでと全く違う世界に身を置いていたとしても、彼一人のセンスじゃなさそうだ。

「その格好、まさか――」
「こないだ香が外出許可を勝手に取って俺のこと連れ出したんだよ。
せっかくのデートなんだからって。どこに引っ張られたと思う?」

相変わらず仲のいい兄妹に、わずかながら嫉妬してしまいそうになる。

「――宇勢丹?」
「いや、表参道」
「絵梨子さんのとこ!?」

エリ・キタハラの服は私も雑誌などで目にはするけれど、それにしてはベーシックというかオーセンティックというか……

「北原さんも新作のもう少し格好いいの着せたかったみたいだけどね
やっぱり俺にはこれが関の山ってところだな。
香も言ってたよ、『アニキに一番似合うのは結局こういうやつだ』ってね」

そして、ふっとわたしの腕を取った。

「で、今日はどこに連れて行ってくれるんだい?」
「槇村――」
「楽しみにしていたんだ。冴子ならさぞいい店を知ってるんだろうって。
あ、勘定はもちろん君持ちだよな、俺は無職の身なんだから」

こういう無駄な見栄を張らないところは昔も今も変わっていない。

「じゃあ、おなか空いてないんだったら先に映画にしない?
でも上映までにまだ時間があるからコーヒーでも飲みましょ」

と、雨空の下に彼を連れ出した。


「今頃大丈夫かなぁ、アニキ」
「これから冴子としっぽりってとこじゃねぇの」
「し、しっぽりって……///」
「外泊許可もちゃんととってあるっていうからな」
「外泊って、『外出』じゃなくて?」
「ああ、香ちゃん。教授の退院許可の目安って知ってる?」
「……何よ」
「無事に一発ヤれたら」
「/////////」
「もっこりもああ見えてけっこうハードな運動だからなぁ。
まぁでも俺の場合、最近は実地でクリアしたわけじゃないが」


歌舞伎町の表通りの喧騒から通り一本奥まった雑居ビル。その地下の踊り場で水滴を払いながら傘を畳む。

「まさか『らんぶる』に連れて行かれるとはね」
「あら、意外?」
「意外も何も、全部俺が教えたところじゃないか。
武蔵野館も中村屋も、そしてこの店も」

そう、さっきまで回ってきた喫茶店も映画館も、ディナーを楽しんだレストランも全部槇村に初めて連れて行ってもらった、そしてそれからはよく二人で足を運んだ店ばかりだった。確かに研修で彼のいる署に配属にされるまで、新宿の街とはさほど縁があるわけではなかった。その街の表も裏も初めに教えてくれたのは、他でもない槇村だった。今では目をつぶってでも通りを歩けるほどに。

「でもなぜ」
「教えてあげたかったのよ、あなたに。
この街はそんなに簡単には変わらないって」

病室でも事あるごとに言っていた。自分のいない間に新宿はずいぶん変わってしまったと。確かにその間に都庁はこっちへ移り、「副都心」から「新都心」と呼ばれるようになった。西口にも新しいビルがずいぶんと建った。それでも伝えたかった、槇村の知っている「新宿」は消えてしまったわけではないと。

「さ、行きましょう」
と、かつての行きつけの扉を開けた。

「ね、あのときのままでしょ?」

カウンター席だけの小さなバー。もうすでに時間も遅く、店はほぼ貸切状態だ。
私たちに気づくとマスターは、グラスを磨きながら会釈する。それに合わせて槇村は、

「その節は大変申し訳なかった」
と頭を下げた。

「いえ、仕方ありませんよ。それよりお身体の方、だいぶ良くなられたようで」
「ああ。おたくにも心配かけたみたいだな。
じゃあまずは、あのときのをお願いしようか」
「かしこまりました」

と、スツールに腰を下ろしながら、私抜きでやりとりが進んでいく。
目の前でバーテンダーは緑色のリキュールとウォッカ、そしてミルクを合わせ、鮮やかな手さばきでシェーカーを振る。その手つきを槇村は柔らかな眼差しで見守っていた。

「グリーンフィールズです」

差し出されたのは、エメラルドグリーンのカクテルグラス。それをしみじみとひとしきり眺めたのちに口を付ける。

「さすがだな。見た目ほど甘ったるくない。ちゃんとウォッカが利いてるよ」
「ありがとうございます」

カウンターの向こうでマスターが深々と頭を下げた。

「じゃあ、わたしも同じの頂こうかしら」
「グリーンフィールズですね。かしこまりました」

気がつけばグリーンフィールズがジントニックになり、ジントニックがマティーニになり、早い話がかつてのように、とりとめのない話で時間はあっという間に過ぎていった。その間に槇村はというとカクテルからすでにウィスキーに移り、煙草片手に水割りをちびりちびりと、相変わらずのマイペースでやっていた。

「ねぇ、そういえばアルコールはもう大丈夫なの?」
「それならこの日のために教授にOKは貰ってるよ。もちろん煙草も」

そうさらりと言うけれど、周りから聞く分には彼の回復はそう容易な道のりではなかったという。自ら、医学的に推奨される範囲内で一番早いペースで減薬を進めようとしているそうだ。もちろん一度は依存状態になってしまった身体は、急激に薬を減らされればあちらこちらに不具合が生じる。それゆえときには減薬のペースを落としたり、再び量を戻したりというコントロールも必要になるが、離脱症状を彼はほぼ精神力だけで耐え抜こうとしていると聞いた。生真面目な槇村らしいといえばそうなのだが、こちらとしては心配になってしまう、居ても立ってもいられないほどに。

「――確かに、辛くて心が折れそうになったこともあったさ」
と、まるで胸の内を見透かしたように彼は切り出した。

「でもそんなとき、冴子が来てくれるだけで励みになるんだ。
ここにこうして、ちゃんと俺の帰りを待っててくれる人がいるんだって
。そう思えば不思議なもんだよ、辛さなんて吹っ飛んじまうんだから」
「――槇村……」
「だからもう心配するほどのことじゃないさ。
こうして外出許可も貰えるようになったんだし。
それより冴子、期待してたんだけどな」
「何をよ」
「てっきり君ならおしゃれないい店を知ってるんじゃないかって。
例えば――西新宿の、夜景を望むイタリアンだとか」

まるで女性向け雑誌のような発想に思わず苦笑いを浮かべてしまう。

「イタリア料理ならあなたの方がさぞ美味しいのを食べてきたんじゃないの?」
「そりゃあ、シチリアマフィアの接待はいつもそうだったけど……」
「まぁ、わたしだって知らないわけじゃないわ、そういう店も。
実際、デートで連れて行ってもらったこともあったし」

ポーカーフェイスの眉だけがぴくりと動いた。

「でも、きれいな店できれいな格好をして、
取り繕った会話を交わして、結局それだけ。
心まで見せ合える相手じゃない――気づいたのよ。
本当に一番大切な人って、こういう飾らない時間を
一緒に過ごせる人なんじゃないかって」

確かに、雑誌によくある「おしゃれなデートコース」からは程遠いかもしれない。
でもいつもの、慣れ親しんだ街の慣れ親しんだ場所で、ありのままの自分をさらけ出せる、そんな相手は彼しかいない。

「それに、レガルじゃご不満?」

中村屋の中でもちょっと高級で、コース料理なんかもあるそっちのフロアは、槇村も私以外連れてきたことがないという。いつも香さんと来るときは、もう少しカジュアルでお手頃なフロアの方だというから。ちなみに今飲んでいる『ゴッドファーザー』も、他の男の前では絶対にオーダーしないカクテル。
それも空になって、次のを頼もうとしたときようやく、小さな異変に気がついた。
マスターはずっと一人でカウンターの中で忙しそうに立ち振る舞っていたけれど、どうやらそれに店じまいの準備の忙しさも加わっていた。
それでも私の様子に「どうぞご注文ください」と言わんばかりの笑みを投げかけるが、店の客もすでに私たちだけになってしまっていた。

「今夜は楽しかったよ、冴子。おかげで忘れられない夜になりそうだ。
今日の映画も、コーヒーも、そして君の笑顔も」

そう槇村まで言う。

「そのお礼、というにはつまらないものだけど――」
と上着のポケットの中に手を突っ込む。そこから抜き出した手を、私の前で開いた。

「――開けても、いい?」
「もちろん」

リボンの掛かった小箱の中には、アンティーク風のエナメル細工の施された小さなケース――柄じゃない、と言われるかもしれないけれど、育ちが育ちなだけにこの手のクラシックな少女趣味は嫌いじゃないのだ、レースのハンカチだったり、銀細工の手鏡だったり。

「これって――」
「店に引っ張り込んだのは香だけれど、選んだのは自分でだ――開けてごらん」

ずっしりとした蓋を開くと、流れてきたのはか細いメロディー。

「すまない、まだ中身は買えそうにないんだ」

見れば中は指輪入れになっていた――彼の退院が決まっても、その後の身の振り方は未だ固まっていない。それは同時に、私との関係もどうなるかまだ判らないということ。結婚ともなれば彼にもそれなりの身分も求められるのだから。

「ううん、この歌だけで充分よ。でも――」
「でも?」
「なんでこの歌なのよ」

そう、耳馴染みのある甘い音色は『アンチェインド・メロディー』。

「これじゃ目の前のあなたが本当は幽霊かもしれないって思っちゃうじゃない」

気がつけば心なしか涙声になっていた。

「なんだ、そんなことか。大丈夫、ちゃんと動いてるだろ?」

と私の手を取り、自分の左胸に押し当てた。とく、とくと確かに刻まれる鼓動。
だがその間にオルゴールは動きを止めてしまっていた。それを察しマスターは、閉店準備の手を止めてジュークボックスを動かした。

――おお、愛しい人 私の恋人
 ずっと君に触れたかったんだ
 長く孤独な時間は ゆっくりとしか過ぎてくれない
 いろんなことがあってもいいくらいに

私たち以外客のいない店なら遠慮することもない。槇村は立ち上がり、私の手をとると狭いフロアへと誘う。そこでたった二人だけのチークタイムが始まった。

――君は今も僕のものかい?
 君の愛が要るんだ
 君の愛が必要なんだ
 願わくば、君の心が僕のもとへ届きますように

映画のシチュエーションは別にして、その歌詞はまさに槇村の心情そのもののはずだ。それは同時に、私の気持ちそのものでもあった――レコードが鳴り止んだ。
それは、この夜の終わりでもあった。

「ありがとう、冴子」
「――いや」

まるで駄々っ子のように、彼のシャツにしがみついた。

「どうしたんだい、いったい」
「また、逢えるわよね――」

ここで別れたらもうそれっきりになってしまうんじゃないか――そんな理由のない不安が私の心を覆い尽くしていた。

「大丈夫だよ」
と、聞き分けのない子供にするように、彼は私の髪を撫でた。

「逢おうと思えばいつでも逢えるさ
明日も明後日も明々後日も、そのまた次の日も。
逢いたいとさえ思うのなら」
「逢いたいと――思う……」
「そう、思うかぎりずっと」

ようやく私は彼の顔を見上げた。眼鏡越し、彼の瞳にべそをかいた私の表情が映る。けれどもその温かな眼差しに、瞳の中の私もようやく笑顔を浮かべた。
これから私たち二人がどうなっていくかは判らない。晴れて世間からの祝福を受けられる日が来るかもしれないし、ずっと周囲の目をはばかって忍び合いを続けていくかもしれない。でも、互いが互いを想い続けているかぎり愛は消えることはない。
そして想い続けていれば、いつかきっと――


「――懐かしいな、アンチェインド・メロディーか」

雨音に混じって、暖かな声が響く。

「ええ、この曲を聴いてると不安な気持ちが和らぐから」

この雨だからな、と彼も呟く。でも、

「でも、俺がいるだろ」

と槇村は後ろから、まるで雨を遮る傘のようにわたしを抱きしめた。
背中に感じる温もりと鼓動、そしてその左手には銀色の指輪。
私の薬指にも同じもの――この雨もいつかは降り止むだろう。
でも私たちの想いは止むことはない、これから先も、ずっと。


featuring TUBE『MELODY―君のために…―』(1989“SUMMER CITY”)
TUBE的には「カックンおかえりなさい」な一曲ですが
CH’的には、そこはやっぱりアニキでしょうw
もう1曲のfeaturingといえば、どうしても『ゴースト』になってしまいますが【泣】
もともとは曲と同名の映画の主題歌、そのストーリーは
妻逢いたさに脱獄した男の逃走劇、なんだとか。
その文脈が無くても、この歌詞はまさに二人の想いそのものですよね。
って、選んだのは曲名に「メロディー」が入っていて
なおかつオルゴールでありそうだったからだけなんですが【苦笑】

時間軸としてはまだ『Promise〜遠い過去、そして未来〜』前ですね。


City Hunter