caffeine - holic

うららかな春の昼下がり、しのぶは午前中からかかりきりであった書類を仕上げると

小さく伸びをした。そのとき

 

「ふわぁ・・・」

と彼女らしからぬ声が漏れた。

慌てて残りのあくびをかみ殺すと、気付かれていないかとあたりを見回す。

といってもこの隊長室にいるのはしのぶともう一人、後藤だけなのだが。

当の彼は今日も仕事そっちのけで競馬新聞をチェックしながら、大きく口をあけて堂々とあくびをしていた。

 

(わたしのが移っちゃったかしら)

 

昼食からおよそ1時間、一番眠くなりやすい時間帯だ。

まして「春眠暁を覚えず」というこの時期、窓からさんさんと春の日差しが差し込む窓際の席は

絶好の居眠りスポットであった。

 

それではいけない、と頬を軽く叩くと、しのぶは立ち上がって言った。

 

「後藤さん、コーヒーでも飲まない?」

 

返ってきた返事は、少し意外なものだった。

 

「うん、いーけど、しのぶさん、そのコーヒーで今日何杯目?」

 

そういえばこれで朝から何杯飲んだだろうか。

まず朝、当直勤務明けの目覚めの1杯、

後藤が出勤してきてご相伴でもう1杯、

出動帰りにまた1杯。

10時のお茶の時間にひろみのお土産のサーターアンダギーが出てきたので、それをつまみながら。

昼食には日本茶だったが、半日だけでもう4杯だ。

 

「じゃあ、他のがいいかしら」

と流しの上の作り付けの戸棚の中を探してみたが、茶葉はあいにく切らしていた。

それに、ティーバッグなどという小洒落たものが隊長室にあるわけがない。

 

「あ、いーよコーヒーで。何だかちょっと眠くなりかけてたとこだし」

 

席に座ったままの後藤から声がかかる。

 

「本当に寝ちゃわないでね」

 

自分の小さな失態を棚に上げてしのぶが言う。

これで出動でもかかれば眠気が吹っ飛ぶところだが、

なぜか今日は午前中に第1小隊と第2小隊がそれぞれ1回ずつ出動しただけで

そのおかげでしのぶも書類作成に専念することができたのだが。

 

「こんな陽気だと居眠り運転の事故とかがありそうだけれど」

「あー、それだったら年度末の工事が終わって、レイバーの稼働台数も減ったからじゃないの?

それに、おれたちがヒマだってことはむしろいいことなんだしさ」

と、後藤はいたって気にしていない。

 

やかんの注ぎ口から勢いよく蒸気が上がる。

ガスの火を止めると、インスタントコーヒーが入れられたカップにお湯を注ぐ。

いくらインスタントとはいえ、鼻孔をくすぐるにおいが心地いい。

一つずつ両手に持つと、後藤の散らかったデスクの上に一つを置いた。

後藤は、やはり散らかった引き出しの中から生クリームのポーション

(どうやらそれはある喫茶店チェーンのものらしい)を取り出した。

 

「あれ、しのぶさんはブラック?」

「ええ、わたしも眠気覚ましだし」

「でも胃に悪いよ。最近残業ばっかで疲れてるんだから」

と引き出しから生クリームをもう一つと、やはり同じロゴの入ったコーヒーシュガーを取り出した。

 

「じゃあ、お言葉に甘えて。クリームだけ頂くわ」

と言うと、しのぶも席についた。

3月中は悪名高い年度末工事のせいでレイバーの事故も相次ぎ、お互い多忙な日々が続いていた。

だから、こうやって落ち着いてコーヒーを飲む時間もほとんどなかった。

降り注ぐ春の日差しに一杯のコーヒー、会話すらなくても、しのぶは何か満ち足りたものを感じていた。

 

満ち足りた沈黙を破ったのは後藤であった。

 

「しのぶさんって結構コーヒー好きだよね」

「え、まぁ、普通だと思うけど」

「でも1日1杯は飲まないと落ち着かないでしょ」

「そんなこと・・・」

 

はない、と否定しかけてしのぶは口をつぐんだ。

前からコーヒーは好きな方だったが、特に最近は多忙な毎日の中

一杯のコーヒーが手近なリフレッシュの手段であり、貴重な小休止となっていた。

 

「そうね、1日2杯ぐらいは飲んでたかしら」

「じゃあさ、もしかしたらもうカフェイン中毒になりかけてるんじゃない?」

「ちょっと、一緒にしないでよ!」

 

何度か禁煙を宣言しながら一向にやめようとはしないニコチン中毒者に言われるのは、この上なく癪(しゃく)だった。

 

「後藤さんとは違って、いつでもやめられますよ、コーヒーぐらい」

 

少しムキになって言い返した。しかし後藤はというと

「ムキになった顔がまたかわいーんだから」と言わんばかりの笑みを浮かべていた。

 

またまんまとノセられた。

 

しのぶはあからさまに顔をしかめると、バツが悪そうにカップに口をつけた。

 

「そりゃまぁ、カフェインなんてお茶にも含まれてるし、みんな毎日摂ってるから気にもしてないけど、

軽−く麻薬とおんなじような成分なんだって」

 

後藤がカフェインの弊害について切り出す。

 

「中枢神経をダイレクトに刺激するらしいからね。それに、依存性っていうのはそれほどないらしいけど、

耐性ってのがあるから。おれの昔の知り合いに、コーヒー飲んで昼寝できるっていう猛者がいたんだよ」

「それは間違いなく行っちゃってるわね、中毒まで」

 

しのぶはあくまで他人事めかして答えた。自分がその域にまで達してるとは思えなかったし思いたくなかった。

 

「しかも禁断症状が、吐き気、頭痛、疲労感、集中力の低下に抑うつ――」

「やめてっ」

 

しのぶの声が症状の羅列をさえぎった。

 

「――ごめん。まぁ、コーヒー飲みながらする話じゃないわな」

「そうよ、本末転倒よ。気分転換にならないじゃない」

と言うと彼女はコーヒーを飲み干した。

後藤の話のせいか、まだ頭がはっきりとしない。

耐性ができたのかしら、と思ったがその考えを瞬時に振り切った。自分はまだ中毒じゃないはずだ。

 

「んじゃお口直しにいいの教えてあげようか。コーヒー占いって知ってる?」

 

それはしのぶも聞いたことがあった。

 

「本当は受け皿でやるんだけど・・・」

 

普段使いのマグカップなので、そんなものは付いていない。

後藤は流しにおいてあった、まだ洗っていない小皿をもってきた。

その上にうっすらと、沖縄風ドーナツの食べかすがある。

 

そして後藤は彼女のカップを手に取ると、皿の上に逆さにした。

 

「残ったコーヒーが垂れてきて、皿の上に模様ができるんだよ、っと」

 

頃合いを見て、カップを元に戻す。

 

「さぁて、人に見える?鳥に見える?花に見える?それともただの形?

 

しのぶは皿をじっと見た。いや、凝視したと言ってもいいだろう。

そのあやふやな形は、何か木のようにも見えたし人間にも見えた。

 

「人・・・かしら、それともなんかの植物?あーもう、判んない」

 

すると後藤は、何だかうれしそうにニヤニヤとしていた。

 

「何?一体どうしたっていうの?結果を教えなさいよ」

「いや、しのぶさん、最近お疲れかなぁって」

と結果ともつかない曖昧なことを言うだけで、何かニヤつきを抑えられないといった表情を浮かべていた。

しのぶは釈然としないまま小皿を見つめている。

 

コーヒーを飲み干すと、後藤は突然真顔で言った。

 

「そーいや再編成って話、聞いてない?」

 

そんな話、しのぶはまだ聞いていない。

 

「えっ?うちに秋から新機種が入るんじゃないかって話は前に聞いたけど・・・」

「そっか。しのぶさんだったらおれより先に上からそういう打診みたいなもの聞いてるんじゃないかって思ったんだけど」

 

彼の言葉が尻つぼみになる。

 

「そういう話だったら、後藤さんのほうがまたいつものネットワークで先に知ってるんじゃないの?」

 

そう切り返すと、後藤が表情をしかめる。

いつもと変わらない、彼なりのポーカーフェイスのようにも見えるが、

しのぶにとっては「そういう話に持ってかないでよ」とでも思っているのが判った。

 

「まぁまだ『らしい』って噂で、再編成っていってもどうなるのかはまだ全然耳に入ってこないから、

心配するような話じゃないかもしれないけど」

 

それにまだ噂だから、本当かどうかわかんないしさ、と作り笑いにも似た軽い笑みを浮かべた。

 

しのぶにも思い当たる節がある。

警察官というのは、癒着を防ぐという意味で異動・転属が付きものの仕事だ。

しかし、少なくともしのぶら第1小隊は3年近くこの埋立地でやってきた。

そろそろ潮時、という考えがよぎる。

それに、彼女たちの努力と活躍によってレイバー部隊が警備の花形となって

(その実態はさておき)志願者が年々増加しているという。

研修所も次々と隊員候補生を送り出しているが、彼らにあてがうポストがないというのが問題だった。

レイバーを増やすといっても、何せ『金食い虫』だからそう簡単にはいかないだろう。

最も手っ取り早い方法は、トコロテンのように前任者を追い出すことだ。  

「別に、心配なんかしてないわ。異動は警察官の常だから」

 

彼女の言葉が、後藤には殊にそっけないよう聞こえた。

 

「そう、ならかまわないんだけど」

と言って席を立った。

 

「どこに行くのよ」

「ちょっと一服。ほら、おれってもうニコチンがないと生きていけない体だから」

 

そう言っておどけることが、彼にできる精一杯のことだった。

 

そしてしのぶは、独り隊長室に取り残された。

突然そんなことを聞かされて、頭がすっきりしないまま、もう1杯飲もうと思い席を立ったが

中腰のまままた座ってしまった。彼にカフェインの弊害について説かれたのが一因になったかもしれない。

 

「なによ、コーヒーぐらいいつでもやめられるわよ」

 

独りつぶやく。しかしその声は彼女自身、強がりにも聞こえた。

 

コーヒーならいつでもやめられる。

自分にはそうするだけの意志の強さがあると思っているし、そうできる自信があった。

しかし、一杯のコーヒーが与えてくれる安らぎというものを、思い切ることができるだろうか?

しのぶは横の席を見た。

乱雑に散らかった机の上に、まだ湯気を立てているマグカップがあった。

そして自分の手の中にあるもう一つのカップ。

決してお揃いというわけではないが、この2つの、大きさも違うカップで2人は同じ時間を共有していた。

そしてきっと、これからも。

 

そんな期待はしないほうがいいのかもしれない。離ればなれになることは、この職務に付きものなのだから。

でも、この、ときに過酷でもある職務の中での他愛ない時間を、思い切りたくはなかった。

 

たとえコーヒーはやめられても、この一時ばかりははやめられそうもない。

 

そう思うとしのぶは、片手にカップを2つ、もう片方に小皿を持つとそれらを流しに片付けに行った。

 

 

Afterword

 

" Patlabor "