Top of the World |
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朝、目が覚めると不思議と身体が軽かった。何の気力も要さずにベッドから上体を起こすことができた。これが昨日までなら「起きなければ」という義務感から何とか起き上がっていたのに。 一時期の、床を出るのも厭わしいほどの強烈な倦怠感からは脱し切れたものの、まだまだ離脱症状から解放されたわけではなかった。何をするにも気が重い、頭の中もまるでうっすら霞のかかったような状態の中、それでも入院患者なりの日々の営みを続けてこられたのは、一つには持って生まれたクソ真面目な気性のせいもあるのかもしれない。おかげで、自分の体調は置いておいて、ただただ人としての体面を保とうと必死になっているのが今の現状だろうから。それが自分自身の回復にプラスになっているのか、それともマイナスに働いているかはともかくとして。 槇村秀幸としての記憶を失っている間、すっかり精神安定剤漬けにされてしまっていた。それを抜くための治療に「教授」と呼ばれる老医師の屋敷兼研究施設に放り込まれて、もうどれだけ過ぎただろうか。その間に世間では梅雨入りの宣言がなされたようだが、そんなことなど病床の自分の耳には入ってこなかった。 ベッドから起き上がれるようになってからは、リハビリの意味で着替えて病室の外で一日を過ごすよう言われている。といっても服は皆、7年前に処分されてしまっていた。無理もない、香は「死んだ」と聞かされていたのだ。なので部屋にあるのは戻ってきてからバタバタと買い揃えたものだった。 さて、これから何をしようか。 それまでは本を読もうにも字を追えないので画集や写真集を眺めたり、頭の訓練に将棋やチェスなどを教授相手に指したり、天気が良ければ庭を歩いたりしていた。 そんなわけで、この屋敷が東京のどの辺なのかすらよく判っていないまま、一歩敷地の外へと足を踏み出した。それからはただ好奇心の赴くまま、当てもなくふらふらと歩き続けていた。坂道に心惹かれ、狭い路地に誘われ、小さな古い木造建築や、逆にこんな裏通りには不似合いな小洒落た店に引き寄せられるように。 ベッドから起き上がれなかった頃は身体だけでなく頭も全く働かず、目を開けていながら半ばぼんやりと眠っているような状態だったが、多少なりとも脳細胞が活動しだすと、今度は憂い事ばかりが頭を埋め尽くすようになっていた――将来への不安、罪悪感。だが今は不思議と、歩いているときだけはそんな考えは湧き上がってこなかった。心を動かすのは、ただ目の前の風景だけ。 (こんな奴が住宅街を昼間っからうろうろしていれば なんてことがふっと頭をよぎる。そのとき、近づいてくる自転車の気配にびくりとしたのは、ほんの数週間前まで世界的シンジケートの一員だったという不本意な前歴ゆえか、それともそれ以前の撩の相棒という裏稼業の片棒担ぎだったときからか。 「あれ、秀幸君じゃないか」 そのブレーキ音はかつて自分も制服警官だった頃に乗っていたものだと一聞きで判った。だがその声はおおよそ不審者を呼び止めるものではなかった。 「いやぁ、久しぶりだなぁ」 その説明に嘘は無いものの、良心がちくりと痛む。 「そうかそうか。じゃあまた顔を合わせることもあるだろうな。 7年、という時の流れを突きつけられた思いがした。いや、その間だけではない。 「老兵は消え去るのみってことさ。そこだって、ほら」 と彼が指差したのは、他でもない自分たち兄妹の部屋があった棟。そこは今、覆いですっぽり囲まれていた。 「建て替えできれいになるそうだけど、ここもどんどん変わってきちゃうのかねぇ」 確かにそこは団地の中でも古い建物で、7年前の時点でも老朽化が進んでいた。 公園の水飲み場で喉を潤すと、さらにその中へと分け入っていく。 戸山公園内の「箱根山」。築山とはいえ、実は山手線内で一番の高さだ。 ――そんな気持ちに襲われると 吹き渡る初夏の風が、汗ばんだ肌に心地いい。さすがは標高44.6メートル、木々の合間から遠く見えるのは新宿の高層ビル群――この“故郷”同様、俺にとって愛してやまない場所。だからこそここから見るこの眺めは格別だった。 空には雲一つなく 日差しが目に飛び込んでくる 『トップ・オブ・ザ・ワールド』という脳内ジュークボックスの選曲はこのシチュエーションでは少々安易ではある。だがカーペンターズは昔、ちょうどここにいた頃よく聴いていた。どこかで彼らと自分たち兄妹を重ねていたところもあったのかもしれない。だからか、妹の方が亡くなるとぷっつりとレコードを手に取ることもなくなっていた。まさか自分の方がカレンになりかけるとは思っていなかったが。 世の中こうだったらいいのになと思うことが あの頃より格段に語学は堪能になっていた。一時期、日本語など全く忘れてしまうほどに。それゆえ、口ずさむ歌詞の意味もより鮮明に心に突き刺さってくる―― それでも撩は言ってくれた、「元気になったら、また前みたいに仲良くやろうや」と。 ――あーにきーー!! そんな決心を遮るような声が、麓から耳に届いた。声は足音へと変わる。そして、 「やーっぱり、ここにいた」 妹に引き続いて、撩、そして冴子までこの小高い山を登ってきた。 「かずえさんが心配してたわよ、お昼になってもアニキが ああ、もうそんな時間か。といっても時計はつけていないから全く気づかなかった。今度腕時計を買ってきてもらおうか、なんて考えていると途端に胃袋が空腹を訴え始める。 「でもよく判ったな、ここが」 と、俺の隣に腰を下ろした撩が言葉を挟む。 「そりゃ山の上から歌ってるのが聞こえてくれば、一発で判るわよ」 そう冴子は、俺を挟んで撩の反対側に座った。 「確保って、人を犯罪者か何かみたいに――」 ――私は今、世界のてっぺんにいて そうサビから口ずさみ始めたのは、撩の隣に座り込んだ香で、 「撩、その『お前が』ってのだけ余計。 そして、 あなたと出逢って初めて知ったこの気持ち いつの間にか4人揃ってのユニゾンとなる。 「もー、アニキったら相変わらず調子っぱずれなんだから」 だが、歌の文句そのもののように、彼らが傍にいるだけで悩みも葛藤も嘘のように消えていく――ここからの眺めは確かに格別だ。だが、香や撩、そして冴子と一緒に眺めるこの景色の何と心躍ることか。 ああ、俺はやっぱりこの街が好きなんだ。 理由はそれだけでいい、小賢しい根拠は要らない。かくあるべしといった堅苦しいモラルも体面も見栄もどうだっていい。ただただ心の赴くままに、この街で泣いて、笑って、自分の思いを真っ直ぐに貫くだけだ。 撩のやつがあんな表情を浮かべられるようになったのは別として、あの頃と変わらない笑顔で「明日も今日みたいに素晴らしい日であれば」と歌う彼らを見ていると、自分も昔に帰ったような気がする。法もルールも関係なくただ剥き出しの正義感だけで突っ走っていた頃のように。ただ、そのときはまさかこの面々が一堂に会する日が来るとは思ってもみなかった。そして全く違う世界にいたはずの撩と香が、並んで同じ歌を口ずさんでいるとは。そう考えれば7年という月日にも意味はあったに違いない。 ――I'm on the top of the world looking たかだか山手線内のちっぽけな最高峰に過ぎなくても、ようやく迷いを捨てることができた今の気持ちは、天にも昇るかのようだった。 featuring TUBE『Back to Good Days』(2015『灯台』c/w)
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