Top of the World


朝、目が覚めると不思議と身体が軽かった。何の気力も要さずにベッドから上体を起こすことができた。これが昨日までなら「起きなければ」という義務感から何とか起き上がっていたのに。

一時期の、床を出るのも厭わしいほどの強烈な倦怠感からは脱し切れたものの、まだまだ離脱症状から解放されたわけではなかった。何をするにも気が重い、頭の中もまるでうっすら霞のかかったような状態の中、それでも入院患者なりの日々の営みを続けてこられたのは、一つには持って生まれたクソ真面目な気性のせいもあるのかもしれない。おかげで、自分の体調は置いておいて、ただただ人としての体面を保とうと必死になっているのが今の現状だろうから。それが自分自身の回復にプラスになっているのか、それともマイナスに働いているかはともかくとして。

槇村秀幸としての記憶を失っている間、すっかり精神安定剤漬けにされてしまっていた。それを抜くための治療に「教授」と呼ばれる老医師の屋敷兼研究施設に放り込まれて、もうどれだけ過ぎただろうか。その間に世間では梅雨入りの宣言がなされたようだが、そんなことなど病床の自分の耳には入ってこなかった。
だが、起き上がって部屋の窓を開けると、数日降り続いていた雨はそこには無く、代わりに薄雲はかかっているものの穏やかな日差しが庭に降り注いでいた。
暑からず寒からず、ちょうどいい天気だ。それが体調に幸いしたのかもしれなかった。

ベッドから起き上がれるようになってからは、リハビリの意味で着替えて病室の外で一日を過ごすよう言われている。といっても服は皆、7年前に処分されてしまっていた。無理もない、香は「死んだ」と聞かされていたのだ。なので部屋にあるのは戻ってきてからバタバタと買い揃えたものだった。
コットンのシャツに袖を通すと、用意されていた朝食を摂る。

さて、これから何をしようか。

それまでは本を読もうにも字を追えないので画集や写真集を眺めたり、頭の訓練に将棋やチェスなどを教授相手に指したり、天気が良ければ庭を歩いたりしていた。
でも今日なら久々に活字の本も読みこなせそうな勢いだが――それ以上に外の陽気に心惹かれていた。本なら雨の日も読める、でも日差しの下で外の空気を味わうのは今日のような日にしかできない。
そのときすでに、屋敷の外に出てみようと心に決めていた。出口のありかは庭歩きのついでに確認済みだ。まぁ、疲れたら大人しく来た道を戻ればいいだけのこと。

そんなわけで、この屋敷が東京のどの辺なのかすらよく判っていないまま、一歩敷地の外へと足を踏み出した。それからはただ好奇心の赴くまま、当てもなくふらふらと歩き続けていた。坂道に心惹かれ、狭い路地に誘われ、小さな古い木造建築や、逆にこんな裏通りには不似合いな小洒落た店に引き寄せられるように。
おかげで当初の目論見とは外れてすっかり来た道を見失ってしまったが、それとは裏腹に心はなぜか穏やかだった。

ベッドから起き上がれなかった頃は身体だけでなく頭も全く働かず、目を開けていながら半ばぼんやりと眠っているような状態だったが、多少なりとも脳細胞が活動しだすと、今度は憂い事ばかりが頭を埋め尽くすようになっていた――将来への不安、罪悪感。だが今は不思議と、歩いているときだけはそんな考えは湧き上がってこなかった。心を動かすのは、ただ目の前の風景だけ。
それは無為な時間かもしれない。けれどもその無為さが今の自分には必要に思えた。それは世間一般の常識では理解しがたいことかもしれないが――

(こんな奴が住宅街を昼間っからうろうろしていれば
昔の俺なら職質をかけただろうな)

なんてことがふっと頭をよぎる。そのとき、近づいてくる自転車の気配にびくりとしたのは、ほんの数週間前まで世界的シンジケートの一員だったという不本意な前歴ゆえか、それともそれ以前の撩の相棒という裏稼業の片棒担ぎだったときからか。
そんな後ろめたさは明らかな不審感として表に出ることは刑事時代に学習済みだったにもかかわらず。

「あれ、秀幸君じゃないか」

そのブレーキ音はかつて自分も制服警官だった頃に乗っていたものだと一聞きで判った。だがその声はおおよそ不審者を呼び止めるものではなかった。
俺を下の名前で呼ぶのは、かつて父の後輩だったという、今となってはベテランの警察官だった。

「いやぁ、久しぶりだなぁ」
「しばらくこちらを離れてたもんですから。でも最近また近くに戻ってきたので」

その説明に嘘は無いものの、良心がちくりと痛む。

「そうかそうか。じゃあまた顔を合わせることもあるだろうな。
実は今、この近くの駐在所勤務なんだよ」
「駐在さんなんですか」
「ああ。ま、そこで定年ってとこだろうな」

7年、という時の流れを突きつけられた思いがした。いや、その間だけではない。
周囲の風景が目に飛び込んでくる。そこは自分が少年時代を過ごし、香と二人肩寄せ合って暮らした団地のすぐ近くだった――意外とあの屋敷が自分たちのテリトリーの近くだったことに驚く。

「老兵は消え去るのみってことさ。そこだって、ほら」

と彼が指差したのは、他でもない自分たち兄妹の部屋があった棟。そこは今、覆いですっぽり囲まれていた。

「建て替えできれいになるそうだけど、ここもどんどん変わってきちゃうのかねぇ」

確かにそこは団地の中でも古い建物で、7年前の時点でも老朽化が進んでいた。
一時期は地上げが横行し、新しいビルも建ち、都庁まで引っ越してきたほどだ。
この街の景色が移り変わっていくのもまた時代の変化なのかもしれない。
老警官は真昼の散策者の理由も質さずに、再び自転車に跨りパトロールを再開する。
取り残された自分の行先はもう決まっていた。

公園の水飲み場で喉を潤すと、さらにその中へと分け入っていく。
都内の、それも都心とは思えないほどの豊かな、鬱蒼とした木立を抜けるとそれは今も変わらずそびえ立っていた。

戸山公園内の「箱根山」。築山とはいえ、実は山手線内で一番の高さだ。
その登山道(といっても階段なのだが)を大きく息をつきながら登る。
ここには何度も来た。香を連れての一番近場のピクニックだったり、思春期ゆえの独りになりたいときだったり。頂上に辿り着いて一気に開ける視界は、2,3のビルが加わってもその頃とは変わらなかった。

――そんな気持ちに襲われると
 目にするもの総てが驚きに満ちてくる

吹き渡る初夏の風が、汗ばんだ肌に心地いい。さすがは標高44.6メートル、木々の合間から遠く見えるのは新宿の高層ビル群――この“故郷”同様、俺にとって愛してやまない場所。だからこそここから見るこの眺めは格別だった。

 空には雲一つなく 日差しが目に飛び込んでくる
 これが夢でも不思議じゃないくらい

 『トップ・オブ・ザ・ワールド』という脳内ジュークボックスの選曲はこのシチュエーションでは少々安易ではある。だがカーペンターズは昔、ちょうどここにいた頃よく聴いていた。どこかで彼らと自分たち兄妹を重ねていたところもあったのかもしれない。だからか、妹の方が亡くなるとぷっつりとレコードを手に取ることもなくなっていた。まさか自分の方がカレンになりかけるとは思っていなかったが。

 世の中こうだったらいいのになと思うことが
 叶っていく 特に自分にとって――

あの頃より格段に語学は堪能になっていた。一時期、日本語など全く忘れてしまうほどに。それゆえ、口ずさむ歌詞の意味もより鮮明に心に突き刺さってくる――
今の自分とは正反対だ。悪魔に魂は売らないと豪語しておきながら、流されるままに、記憶を失っていたとはいえ、その悪魔の所業の一端を担っていた。自分の手こそ血で染めることはなくても、何百、何千という人々を不幸のどん底に叩き落とした。「槇村秀幸」であれば躊躇なく断罪したであろう、最もこうはなりたくなかった人間、それが今の俺だ。

それでも撩は言ってくれた、「元気になったら、また前みたいに仲良くやろうや」と。
その言葉が嬉しかった。またあいつと一緒に仕事ができるとすれば、確かに奴のお守りは骨が折れるが、どんなに楽しいだろうと――心は揺れる。
でもそれは今の俺には叶わぬ夢だ。今の自分には、一度はどっぷりと闇に浸かったこの身には、新宿の街を守る資格など無い。けれども――身の程知らずの、自分勝手な願いを、他ならぬ己自身の正義感が打ち砕く。何も無かったかのような顔をして戻ってくることは決して許されないと。

――あーにきーー!!

そんな決心を遮るような声が、麓から耳に届いた。声は足音へと変わる。そして、

「やーっぱり、ここにいた」
「かおり……」

妹に引き続いて、撩、そして冴子までこの小高い山を登ってきた。

「かずえさんが心配してたわよ、お昼になってもアニキが
姿を見せないからって、こっちにまで電話がかかってきて」

ああ、もうそんな時間か。といっても時計はつけていないから全く気づかなかった。今度腕時計を買ってきてもらおうか、なんて考えていると途端に胃袋が空腹を訴え始める。

「でもよく判ったな、ここが」
「だろ? そう思うよな」

と、俺の隣に腰を下ろした撩が言葉を挟む。

「そりゃ山の上から歌ってるのが聞こえてくれば、一発で判るわよ」
「それでも、なんで俺がこの公園にいるって思ったんだ?」
「んー、なんとなくここかなって。ほら、今日みたいに天気のいいときは
よくここに連れてきてもらったし」
「って香、いつのときの話だよ」
「まぁいいじゃない、こうして無事確保できたんだし」

そう冴子は、俺を挟んで撩の反対側に座った。

「確保って、人を犯罪者か何かみたいに――」

――私は今、世界のてっぺんにいて
 あらゆるものを見下ろしてる
 そう思える理由はこれしか思いつかないの

そうサビから口ずさみ始めたのは、撩の隣に座り込んだ香で、
「よく覚えてんな、お前が、英語の歌詞なんか」

「撩、その『お前が』ってのだけ余計。
アニキが昔よく聴いてたから、なんとなくね」

そして、

 あなたと出逢って初めて知ったこの気持ち
 あなたを想うと世界のてっぺんにいるみたい

いつの間にか4人揃ってのユニゾンとなる。

「もー、アニキったら相変わらず調子っぱずれなんだから」
「いや、すまんすまん」

だが、歌の文句そのもののように、彼らが傍にいるだけで悩みも葛藤も嘘のように消えていく――ここからの眺めは確かに格別だ。だが、香や撩、そして冴子と一緒に眺めるこの景色の何と心躍ることか。

ああ、俺はやっぱりこの街が好きなんだ。

理由はそれだけでいい、小賢しい根拠は要らない。かくあるべしといった堅苦しいモラルも体面も見栄もどうだっていい。ただただ心の赴くままに、この街で泣いて、笑って、自分の思いを真っ直ぐに貫くだけだ。

撩のやつがあんな表情を浮かべられるようになったのは別として、あの頃と変わらない笑顔で「明日も今日みたいに素晴らしい日であれば」と歌う彼らを見ていると、自分も昔に帰ったような気がする。法もルールも関係なくただ剥き出しの正義感だけで突っ走っていた頃のように。ただ、そのときはまさかこの面々が一堂に会する日が来るとは思ってもみなかった。そして全く違う世界にいたはずの撩と香が、並んで同じ歌を口ずさんでいるとは。そう考えれば7年という月日にも意味はあったに違いない。

――I'm on the top of the world looking
 down on the creation
 And the only explanation I can find
 Is the love that I've found ever since
 you've been around
 Your love's put me at the top of the world

たかだか山手線内のちっぽけな最高峰に過ぎなくても、ようやく迷いを捨てることができた今の気持ちは、天にも昇るかのようだった。


featuring TUBE『Back to Good Days』(2015『灯台』c/w)
もう1曲は言わずもがなw

Ba.の角野さん作詞・作曲・歌唱のこの歌はやっぱり
同じ「ヒデユキさん」=槇兄だなと思いまして
「気持がいい 眺めがいい ここが好きなんだ」のフレーズで
思い浮かんだ風景は、以前ロケハンに行った箱根山。
そのときも定点観測でタイトルに使ったのが、この曲名【苦笑】
いくら山手線内最高峰とはいえ、安易な……

原作とは違い、心ならずも生き延びてしまった当店の槇村は
それゆえの、一方で悪を憎むが故の葛藤もあったはずです
いっそあのとき(原作どおり)死んでしまった方がマシだったというほど。
でも、その矛盾や迷いも含めてうちのアニキなんだと思います。


City Hunter