Darling Darling


まるで雷に打たれたように、あたしはその場から動けなくなってしまった。ただ「かおり」と名前を呼ばれただけなのに。

ごった返した交差点、人波に揉まれて前を歩く撩との距離がだんだん開いていく。
そのとき、彼がふと振り返ってあたしの名を呼んだ、ただそれだけのことなのに。
横断歩道のど真ん中であたしはそこから一歩も前に進めなくなってしまった。

「香」という名前なら今まで嫌というほど呼ばれてきた。
初めて出逢ったときは、撩はあたしの名前なんて知らなかったみたいだけど
知り合ってからはずっと「香」と呼ばれてきたし、あたしも「撩」と呼んできた。
それから何千回、もしかしたら何万回と「香」と呼ぶ声を聞いてきた。
リビングのソファに寝転がりながらぶっきらぼうに投げかけられる「香」という声
銃弾が飛び交う中に響く「香っ」という叫び
ハンマーに潰された下から情けなく漏れる「かおりぃ」という呻き声――
しかし、さっきの「かおり」は今まで聞いた何千、何万とおりの「香」とはどれとも違っていた。
もっと柔らかくて、もっと優しくて、もっと愛おしいような――

「香!」

急かすような声とともに、腕を強く掴まれた。気がつくと信号はチカチカと点滅を始めている。
強引に引き寄せられた勢いであたしは撩の腕の中に飛び込むような格好になってしまったが、それくらいで動じるような柔な胸板ではない。
撩の匂い、撩の体温に包みこまれて、あたしの心臓はまるで青の点滅のようにドキドキと脈打っていた。

「香ぃ――」
――いったいどうしたんだよ。

そう呼ぶ口調はいつもの撩と変わらない。
だけどそれすら甘やかに響くのは耳元で囁かれているような体勢になってしまっているからだろうか、それとも――
気になって盗み見るように視線を上げる。そこに映る撩の瞳はその気があるのかないのか分からないようなポーカーフェイス。
あたし、もしかして撩に踊らされてる?

だけど、ずっと迷っていた。撩にとってあたしは何なんだろうって。
パートナー?恋人?それともただの『都合のいい女』?
一向に変わらない関係を象徴するかのようにいつまでたっても同じままの呼び方に、もしかしたら焦れていたのかもしれない。
でも、撩の呼ぶ声があたしに気付かせてくれた――たった一言の「かおり」の三文字に撩の想いが痛いほど込められていたから。
肩書なんて必要ない。あたしはあたし、ただの槇村香。
それ以上でも以下でもない。それでいいじゃないの。

いつの間にか目には涙が滲んでいた。それを真っ赤なTシャツでごしごしと拭う。そうすればきっとまた笑顔に着替えられるから。

「香?」
――何かあったのか?

もっとあたしの名を呼んで、その声で、その響きで。今まで何千回、何万回も呼んでくれた名前を――
きっとほんの戯れや酔狂だったら今までこんなにも呼び続けてくれたりはしなかったもの。

だからあたしも呼び返してあげる。目一杯の「大好き」を込めて。

「りょう」

――あたしの台詞なら、一つだけ。



featuring TUBE『Darling Darling
TUBEの女唄は『さよならイエスタデイ』のようなスレてるおねーさんが多いのですが
これは珍しく乙女な感じの歌詞で、間違いなくカオリンだろうと【笑】
ウチの二人は清い仲でも一線越えても親になっても「撩」と「香」ですが
きっとそのときどきで呼び方、呼ばれ方も違ってくるんじゃないでしょうか。


City Hunter