1982年のホワイトデー〜そして、スタートライン〜 |
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その声を聞くのは、いったいいつぶりだっただろうか。 《――野上か?》 まだ留守番電話が一般に普及していなかった頃だ。 《毎日忙しいみたいだな。夜遅くにかけても全然つながらなかったから》 まだ彼が刑事だった頃のことを忘れてしまうほど時間が経ってしまったわけではないのに。あれからまだ1ヶ月も無いはずだ、彼が警察を辞めてから。そして、私が彼の声を聞けなくなってから。 多忙な刑事だって休みくらいはちゃんとある。そもそも、大小問わず事件の絶えない新宿が管轄となると、それが解決するまでは出ずっぱりになってしまうが、それも片づきようやく定時退社ができた夜。風呂上りというのもラッキーだった。それよりほんの数分かかってきたのが早かったら、たとえ彼からのコールであっても出ることができなかっただろうから。 《大丈夫か、身体壊してないか?》 ああ、そうだ。彼はこういう兄貴風を吹かせたがるお節介な性質だった。私だってそんなことすら忘れてしまっていた。あんなに毎日一緒に過ごしていたというのに。 ――っくしゅっ 受話器から聞こえてきたのは、いかにも槇村らしい控えめなくしゃみ。 「槇村こそ、大丈夫?」 嘘おっしゃい、と否定するだけの材料は無いけれど、おそらく寒風吹きすさぶ中で外の公衆電話からかけている様はありありと脳裏に浮かんでいた。 「ところで用件は?」 そんなところで長電話をさせるわけにもいかない。 《あ、あぁ、そうだな。今度の日曜は空いてるか?》 壁に掛けられたカレンダー、その14の文字は確かに赤かった。 《せっかく君から貰ったから、お返ししないわけにはいかないだろう。 嘘おっしゃい、と今度ははっきりと言える。あの慎重な槇村が迂闊に高価なチョコレートの箱を妹に見せるはずがない、他の義理チョコだったらともかく。それに彼の場合、どうでもいいような嘘をつくときは決まって少し早口になるのだ。あの誠実な槇村のこと、本当はそんなことは言いたくはない、だからさっさと言うだけ言ってしまおうというばかりに。それくらいずっと一緒にいた分、見抜けるようになっていた。もっとも、本気の嘘はどうだか知らない、それは私だって見抜いたことはないのだから。 《――いや、忙しいっていうんだったら無理には言わん。あんまり俺みたいなのと逢っていると、何かと言われかねないからな》 彼の声にコイン切れのブザー音が混じる。このまま無言のNoで通話を打ち切るわけにはいかなかった。 「待って――日曜の、何時にどの店?」 ――逢いたかった……逢って、積もる話もたくさんあった。 でも、彼の声を聞いただけで、抑え込んでいた想いは一気に噴き上がってしまった――逢いたい、槇村に逢いたい、逢って、そして…… 判っていた、彼への想いはただ警察官としての先達への敬意ではなく、一人の恋する女のものだということは。それすら目を背けて、封じ込めた。 「ええ、ええ……判ったわ。楽しみにしてるわね」 急いで店の名と時間をメモに取る。彼の返事を待たずに通話は切れた。最後のコインも尽きてしまったに違いなかった。 人生の岐路に立たされたとき、背中を押すのは考えに考え抜かれた末の真っ当な良識などではなく、案外全くの考え無しの蛮勇なのかもしれない。 続きは実は拙作『手折られるなら貴方がいい。』
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