1982年のバレンタイン〜聖ヴァレンティヌスの綱


社会人になって10ヶ月、これから新人を迎えるまでの時間を数える方がもう早いくらいだ。すでに『社会の壁』には一とおりぶつかって、あとはもうすぐ入ってくる後輩に「自分も最初のうちは大変だったんだ」と大きな顔をする準備も万端という同期も多いはずだ。もっとも、私の場合は少々特殊で採用後半年はみっちり座学で仕込まれて、ようやく3ヶ月前から現場研修なのだけれども。
それでも最近、少しは慣れつつあり、周りとも打ち解け大抵のことには動じなくなった。でも、こういう時期の慢心こそが大きな落とし穴で、それは一般の一新人OLも同じことだろう。社会人歴1年を前にやってくる大きな「初めて」、それが2月14日・聖ヴァレンティヌスの祝日なのだ。

ここでぶち当たる最後にして最大の壁が、義理チョコである。
もっとも、学生時代でも本命以外に義理チョコのやりとりを行っていたはずだろう。だがそれも、今となっては子供のままごとに過ぎなかったといっても過言ではない。
どうせ相手も先輩後輩とはいえ同年代の仲間内、それが社会に出れば上司や歳の離れた同僚といった、自分の生殺与奪を握る立場も含まれるのだ。些細な失敗も決して許されない。

では一体どうすればいいのだ。
署内が極秘の潜入捜査でぴりぴりしている中、私の頭のごくごく片隅にずっと居座り続けていたのは、場違いにもそんな悩みだった。
それもまたそれで重要な悩みだ。何の考えもなしに今までどおりメデルやコティパなどを用意すれば、ようやくただの愛称に落ち着きつつある「お嬢」という綽名にまた棘が生えてしまいかねない。だからといってあまりに庶民的なものだと、あっちも私が正真正銘の“お嬢”だと判っているのだから、失礼を通り越して嫌味ですらある。
いっそほかの婦警と連名で……と思ったら、彼女たちはすでにお金を出し合って買ってしまっていたのだ。この職場に他に女性がいないわけではない。だが、彼女たちはみな制服を着た庶務であり、言ってしまえばお茶くみである。
その彼女たちにとって私は仲間とも、同じ女とも思われていなかったのだ。

それは男性刑事たちも同じだろう。私のことを決して同類と思っていないはずだ、キャリアであるというだけでなく。だからといって内勤の婦警と同じように扱うわけにもいかない私という存在が最初のうちは大変煙たかったに違いない。
その彼らと私をうまく結びつけてくれたのが、コンビを組む槇村だった。
彼は私のことを女扱いしなかった。一新米刑事として、その能力だけに即して扱ってくれた。それがとても心地よかった。
もちろん彼だって私のことは最初は押しつけられたお荷物だと思っていたのだろう。だが、槇村が私を認めてくれたことで他の刑事たちも次第に私のことを認めてくれたのだ。

そんな彼に、他の刑事たちとは別に個人的に感謝の気持ちとして何か贈り物をしたいというのは当然のことだろう。でもまたここで、彼らとの兼ね合いという新たな事情を勘案しつつ、どのくらいのグレードのものを贈ればいいのかという当初の問題に逆戻りしてしまう。

何しろ実は、こちらは初めてなの。父親以外の男性にチョコレートを贈ること、それ自体が。高校まではずっと女の園で、自分で言うのもなんだけれど、成績優秀にして運動部の主将、そして生徒会長と、ついた綽名が「S女のオスカル」【笑】、あげるより実は貰う方だった。大学時代は共学だったもののずっと高嶺の花で通していたのだからそのようなイベントとは無縁だった。しかも――

「チョコレートか……できるなら勘弁してもらいたいな」

と言われてしまったのだ。

「え、甘いもの苦手?」
「ってわけじゃないんだが……」

件の極秘捜査では、私たちは潜入役の婦警との連絡係という、下っ端ながら捜査の中心的立場にいた。だから二人だけで行動することも多く、時折そんな無駄話をすることもあった。

「妹が貰ってくるんだよ」
「妹って、香さん……だったかしら」

そう、彼自慢にしてご寵愛の、齢の離れた妹。でも、弟ならともかく……

「あいつが、俺が言うのも何なんだがスポーツ万能でね、
あっちこっちの部活に助っ人で呼ばれて活躍してるようで、
おかげで男にはもてないんだが女子にはもてるようなんだ。
それで中学の頃からずっとこの時期はチョコレートの山を持って帰ってくるんだ。
別に嫌いってわけじゃないんだが、その1ヶ月で
ほぼ一年分のチョコを消化してるようなもんだから」

まるでどこかで聞いたような話、と内心苦笑いが浮かぶ。

「しばらくは見るのもこりごり、ってわけね」
「そうそう、それよりも――」

と彼が口にしたのが、その婦警の名前だった。
いや、もちろん彼女の身の安全を案じるのは彼だけでなく私にとっても当然の責務だったが、このタイミングで出されると胸の中に何かもやもやしたものがつかえてしまう。それは、彼女が槇村に向ける眼差しが、ただの捜査の同志に対するものだけじゃないせいだろう。判ってしまうのだ、同じ女として。
もしかしたら、槇村にチョコを渡したいという気持ちもそんな嫉妬からなのかもしれなかった。同僚としての感謝の気持ちというのは所詮後付けの言い訳で。

「でもなぁ野上、もし俺にチョコをくれるっていうんだったら、
撩にくれてやった方が喜ぶんじゃないのか?」
「撩!?」

それは、彼が最近知り合ったといううさんくさい男だ。
私も何度か会ったことがあるが、そのたびに身体の線を舐めるように見られてはやたらとモーションをかけられて、正直困っている。ああいう女を「女」としてしか見ないような男が一番嫌いなのだ。
なのに最近、ことあるごとに槇村は彼の話ばかりする――って、妬いているのは彼女にではなく、実は撩になのかもしれない。出逢ったばかりだというのにすっかり槇村の心を奪ってしまったあの男に。
どこかで恐れているのかもしれない、彼が槇村をどこか遠くに、私の手の届かないところへ連れ去ってしまうのではないかと――

だからこそ、それを繋ぎとめる綱が欲しい。カカオ色の綱が。
だがその綱を、どうやって向こうに放り投げればいいのか……
投げても届かなくなってしまう、その前に。

というわけで、ハッピーバレンタインです♪
ほぼ冴子さんの独り言となってしまいましたが【苦笑】
お正月から1ヶ月経って、前作よりは打ち解けた感が出てればいいんですが……
同時に『Another Face』(“Carefree”献上)および『Endless Game』も
読んでいただければ、よりお楽しみになれるかと……


City Hunter