1982年元日〜あるいは弁財天の誕生

社会人になって初めての新年は、意外なほどいつもどおりだった。
妹たちと並んで父の「有難い」話を聞き(普段家に寄りつかない次妹も、残り364日引き合いに出されないためだけに顔を出したようだ)母がお手伝いさんと年末いっぱいかけて作ったおせちをつつく。ただ、惰性でお年玉が出そうになったのだけには閉口したけれども。
しかし、今年の私には行かなければならない所があるのだ。
一度も外で働いたことのない母は「せっかくなんだから晴れ着でいいじゃないの」と言われたが、そんな格好で出かけてしまってはようやく薄れてきた「お嬢」のあだ名がまた復活しかねない。カシミアのコートを羽織ると、元日早々車のハンドルを握った。

ここに来たのは、管轄内とはいえ初めてだった。
研修生の特権で年末年始の警備の応援は免除されていたが、自分の名前の載っていない割振り名簿で彼の名前だけは確認しておいたのだ。
槇村刑事の受け持ちはこの神社だった。何となく、どこにでもあるようなお社を想像していたが、広い境内に朱塗りの本殿と、思った以上に立派であったことに驚いた。そして、そこにはすでに大勢の初詣客が押し寄せ、彼ら目当ての屋台も数多く並んでいた。私も今年一年の幸福と、遅ればせの挨拶に参拝の列に加わった。冬晴れの空は麗らかで風もなく、こうして群がっているとさほど寒さも感じない。それ以上に新しい年を迎えたということで――1981年12月31日からは一日しか経っていないのに――どことなくその場総ての表情が晴れやかに感じられた。

「――なぁ、おみくじどうだった?」

隣の若いカップル――もしかしたらどちらもまだ10代じゃないだろうか――が人ごみの中で肘をぶつけ合う。

「あたし大吉ー」
「えーいーなぁ、オレ中吉だったよ」
「いいじゃない、大吉の次ってことだから」

そんなやりとりも今日は微笑ましかった。

現地の警備本部は社務所の一角に設けられていた。雅な本殿とはうってかわってのコンクリート造りの建物、その一室が警察のために割り当てられていた。
どこか会議室を思わせるその部屋は正月の神社という外の風景とは対照的に少々殺風景で、寒々としているのは何も見た目の雰囲気だけではなかった。元々の神社の備品が置いてある中に折りたたみの机と椅子を並べ、そこに暖かみを添えるのは数台の石油ストーブだけ。その潤いに欠ける空気を何とか和らげようと、ストーブの上には金盥が置かれ、中には並々と湯が張られていた。それでもなお、中に居並ぶ住人がそろいもそろって強面ばかりなのだから致し方ないのかもしれないが。
それでも、まだ多少は柔和な方な槇村刑事はといえば、いた。ストーブの傍の椅子に陣取って、向かいに座る女性の話を聞いているようだった。

「――つまり、賽銭箱に辿り着くまでに被害に遭ったということですね」

はい、という代わりにそれが精一杯というように、女性は弱々しくうなずいた。そして膝に置かれた手だけが悔しそうにスカートを握りしめる。和服でこそなかったが正月らしい一張羅が、居並ぶくすんだ色の刑事たちと相まってますます彼女の窮状を際立たせていた。腕章をはめた槇村の手は膝の上の帳面の上を滑らかに走っていたが、時折その動きを止めて彼女の方を見遣り、真っ直ぐ目を見てその消え入りそうな声を親身に受け止めていた。

「見つかりましたらすぐに連絡いたします。
お気落としの中、ご協力ありがとうございました」

女性が立ち上がるとそう彼も立ちあがって、深々と頭を下げた。それに合わせて彼女も頭を下げると、さっきまで深くしかめていた眉を少しだけ緩め、部屋を後にした。

「思ったより忙しそうですね」
「あ、ああ、野上。来てたのか、今日は休みだろ」

と言うと槇村はさっきまで被害者が座っていた席を勧めた。

「槇村さんが忙しくしてるのに、わたしばっかりゆっくりしてちゃ悪いでしょ。
これ、陣中見舞い」

と菓子折りを差し出し、他の刑事たちにも会釈する。決して高いものではないつもりだが、カシミアのコートと相まって場違いな居心地の悪さを感じずにはいられなかった。くすんだ色の刑事たちの視線が痛い。もはや頼りは目の前の相棒兼師匠しかいなかった。

「そうはいっても、ほとんど盗犯係の手伝いってところだからな。
酒が入っての殴る蹴るなら強行犯係おれたちの仕事だが
それも今のところは間に合ってるよ」
「さっきの人は?」
「ああ、掏りだよ。この人込みだから、本庁の方からも出張ってる」

ああ、道理で。見慣れない顔だと思ったら。

「まだ境内をうろついていれば彼女の財布も返ってくるだろうけど
もし河岸を替えていたら難しいだろうな」

そうしかめ面で腕組みをしたかと思うと、

「ああ、すまない」

と言って、盥の中から缶コーヒーをつまみ出した。常にぐらぐらと火にかかっているから、いい保温になっているらしい。

「熱いから気を――」

それに金属だから、当然手のひらでしっかり掴むには熱すぎたはずだ。そんなことにも気づかずに受け取ろうとしたので、慌てて床の上に落としてしまった。

「あっ、ごめんなさい」
「いや、いいんだ」

そう槇村は、ハンカチでくるんで拾い上げると、今度はそれごと手渡した。

「今日は、妹さんは?」
「あいつか? 香だったら友達と初詣で、明治神宮だそうだ」
「というより目当ては表参道、竹下通りってところかしら」
「だろうな。じゃなきゃわざわざあんな混むところ……
ってまさかあいつ、財布掏られてないだろうな?
そしたら帰りの電車賃も無くて困ってるだろうに………」

さっきまでの落ち着き払った刑事ぶりはどこへやら、見る見るうちに表情に暗雲が立ち込めていった。彼とはすでに1ヶ月コンビを組んでいるけど、こんな顔をした槇村刑事を目にするのは今日が初めてだったので、おかしいどころかむしろ呆気にとられてしまった。彼が、あの槇村さんが妹のことになるとこんなに冷静さを失ってしまうのかと。

「――あ、いやすまない」
「妹さん、大切に思ってるんですね」
「あ、ああ……君だって、いるんだろう下に」
「槇村さんほど可愛がってませんよ。今日だってお年玉せびってきたし……
唯香はともかく麗香はいくつしか違わないと思ってるのよ」
「まぁまぁ。そういえば、まだ礼を言ってなかったな」
「えっ」
「クリスマス、おかげで久々に妹と過ごせたよ」

そう、それを聞きたかったのだ。もちろん、そのためだけに今日ここに来たわけではない。それでも26日以降、数日間チャンスはあったのに、その顛末はとうとう聞けずじまいで年が明けてしまったのだ。

「それで、どうでした?」
「その日、あいつが昼間何をしてたと思う?」

質問には質問で返されてしまった。てっきり、私の想像では友達と楽しく過ごしていたと思っていたのだけど……

「友達の一人がケーキ屋の娘でね、
その子に誘われていたんだそうだ、店の手伝いに。
それは昨年もだったらしいけど、妹は早生まれで
そのときはまだ15だったから、今年はようやく念願叶ってというわけだ」

もっとも、ほんの一日だけの手伝いなら労基法も関係ないと思うんだが、と呟くと、彼もすでに口を開けていた缶コーヒーを口元に運んだ。そういうところはきっと、妹さんも兄に似たに違いない。

「それで帰ってきて言ってたよ。最初のうちは外でずっと立ってたから寒くて
楽しそうに買って帰る人が恨めしかったって。
でもそのうち、お客さんの笑顔の何分の一かは
自分が売ってるケーキのおかげって思うと
そんなの気にならなくなったそうだ」

それは、可愛い妹の小さな成長を誇らしく語る兄の些細な自慢話に過ぎなかったかもしれない。でもそれ以上にその言葉は、私の胸の中にずしんと、鉛のように重く響いた。

「俺たちのクリスマスだって似たようなものさ。
人が楽しそうにしている間も警邏したり、犯人追ったり書類に追われたり。
でも帰ってご馳走の残りで一杯やると、その酒が旨いんだよ」

――クリスマスは家族で過ごすもの、それができないのは可哀そうと思い込み、お節介にも休みを譲ってあげた自分が、今さらながら恥ずかしく思えた。

「――まるで、サンタクロースね」
「ああ、そうだな。サンタもきっと、プレゼントを全部配り終えたら
さぞかし旨い酒を飲んでるんだろうな」

そんな私の内心の動揺を、あの槇村はさらりと受け流した。いや、彼なら気づいていないはずがない、判っていて敢えて気づかないふりをしたのか――
そのとき私の脳裏に浮かんだのは、参拝の列に並ぶ晴れやかな表情の人々、あの幸福そうなカップル、そしてそれとは対照的に、新年早々災難に見舞われたさっきの女性の暗く沈んだ表情。
今の私の居場所は決して彼らと同じところではない、警察官として一歩を踏み出した以上、その笑顔を守るために正月とはいえ汗を流す側に立たなければ。
サンタクロースはもう間に合わないけれど、せめて福の神に――

私はもう飲みごろになった缶コーヒーの残りを一気に流し込むと、やおら折りたたみ椅子から立ち上がった。

「槇村さん、腕章はある?」

それは彼をはじめ、警備の私服刑事が巻いているものだった。

「あるにはあると思うが……」

今日は非番だろうと言いたげな彼を視線で制した。

「だってわたしも今日は、帰って美味しいお屠蘇を飲みたいもの」

その言葉に槇村刑事は、苦笑いを浮かべながら余りの腕章を一つ差し出した。

ということで、明けましておめでとうございますm(_ _)m
実はクリスマスの際「家族と過ごせないクリスマス=可哀そう」という
いくらそれが世間一般の“定型”とはいえ
自分が常日頃考えていることとは正反対の偏見をもとに
ストーリーを展開してしまったことの反省がありました。
それについてあげつらうこともできましたが
駄文書きの端くれなら作中で語るのが筋かと。
というわけで半分以上クリスマスのときの話になってしまいましたが【苦笑】

詰所内の光景はあくまで店主の想像の産物ですが
これがどこの神社だか、新宿ラヴァーな方なら
描写で判ってしまいますよね……


City Hunter