5月の青い薔薇 |
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西新宿にそびえ立つ超高層ビルの森の一角、夜景を望むホテルのバー。ここを見下ろせるのはこの新宿(まち)ではあの偉そうな都庁ぐらいのものだ。 ここに何で俺が着慣れぬ一張羅のスーツなんぞ着て(もちろんこれ一着というわけではないが)周囲へ視線を泳がせているかというのは、話せば長くなるから理由は後に置いておくとして、これもまた本能か、それとも習い性というべきか、視野の中から野郎は勝手に弾き飛ばされ、残る異性も瞬時に値踏みされ、ふるいに掛けられる。窓辺の、眼下に街の灯りを眺める席は若い男女と女女が半々(またはそれ以上)というところか、贅沢にもスピーカーからではなくグランドピアノの天板の中から流れる音色にも彼女たちは耳も傾けず、ただただきゃいのきゃいのと嘴を黄色くして囀っているだけだ。そんな光景に背を向け、カウンターに眼を向けると――その眼は一人の女に釘づけにされた。 長いストレートの髪は、落とした照明の中では推測の域を出ないが、おそらくは俺に劣らぬ艶やかな黒。齢の頃は――と自分もとやかく言える年齢じゃない。未だに「万年ハタチ」とうそぶいてはいるが、どアップで迫られれば言い訳も利かなくなりつつある。だが、目の前の彼女は見た目も中身もお子様な最近の20代よりは数段、「いい女」という古臭い褒め言葉の似合う美人だった。 彼女の前に置かれたシャンパングラス、それが空けられるのを見計らって俺はバーテンダーに声をかけた。 ――いつからだろう、「槇村香」の仮面をつけるようになってしまったのは、撩の前でも。いつも笑顔を絶やさず、前向きで気が強くて――そんな表面を取り繕って。 実際、「幸福」なんだろう、傍目から見れば。 「――チャイナブルーです」 透き通った水色のコリンズグラスがすっと目の前に差し出される。そしてベテランのバーテンダーは恭しく、カウンターの端に佇む男を手のひらで指し示した。 「わたしがそんなに憂鬱そうに見えて?」 と、自分がまさかこんな笑い方ができるのか、というような笑みを彼へと向ける。 「まさかスカイダイビングって気分でもないだろう?」 見たところ、身投げしたくなるほどってわけではなさそうだし、と悪戯めいた表情を浮かべる。それ以前に、同じ青でもあのラムベースのカクテルじゃ、あたしには強すぎて飲めたものじゃない。 「いや、そのドレスに目を奪われてね」 夜を思わす濃紺の地に、微かに青みががった白の薔薇が全身に咲き乱れるラップドレス。何かの(主に仕事の)とき用にと前に買ったものだけど、あたしの赤い髪には色味がそぐわなかったらしい。でも、こうしてそれを封印してしまえば、そこそこ似合ってはいるようだ。 「それはどうも、ドレスだけでも褒めてもらえて光栄だわ」 そうやって回りくどいレトリックを操りながらも、眼差しはぎらついた本音を覗かせる。そんなスリリングな遣り取りに胸が躍る。交わされる言葉に宿るのは確かな手ごたえ、普段の当たり障りのない会話からは薄れてしまったもの。それはときに、油断すれば怪我をしてしまいそうな鋭さを潜ませているけど、その危うさも醍醐味の内なのだから。 「でもいいのかしら、素直に頂いても」 そして、 「もうちょっと俺を楽しませてくれないかな?」 なんて台詞を吐かれてしまっては、背筋から頭のてっぺんまでぞくぞくとしてしまう。 「まぁ、連れがいるっていうんだったら と、ウィンクせんばかりの笑みを浮かべる。もちろん彼を――撩を、この場に呼びつけたのはこのあたし。もちろん撩は判ってるはずだ、目の前の髪の長い女が見慣れたパートナーだということは。だとしたらずいぶんな茶番だ、彼をそれに付き合わせてしまっているのが申し訳ないくらい。でもそれが撩の優しさなのだ。だからあたしもこのシチュエーションを心置きなく楽しむことにしている、「香」じゃない「あたし」を。 「だから君と同じ、今夜はフリーさ」 ちなみにこの店だって、撩と何度か来たことがある。バーテンダーだって顔馴染みだ。きっとこの遣り取りを、内心苦笑いを浮かべながらポーカーフェイスで傍観してくれていることだろう。 「でもいけないな」 ――とっさに左手を右手で覆った。もちろん指輪やらマニキュアやらで手元も充分に飾り立ててきたのだけれど、肝心なところで「引き算」を忘れていた。
さっきまでの取り澄ましていた淑女然とした表情が、一瞬もとのあいつを覗かせた。その変貌ぶりにふと笑みがこぼれる――そうそう、こう来なくちゃ。このギャップがとてつもなくたまらない。 ときどきこうして香から一方的に呼びつけられるのだが、いつだって俺の眼が真っ先に探し出すのはあいつだ。別にそれが今夜の本来の目的だからというわけじゃない。こういう店なら他に美人の一人客などいそうなものだけど、彼女たちすら押しのけていつも視線が向かってしまうのだ、まるで俺にしか見えないスポットライトか矢印が、香に向けられているように。 「でも、あなただって――」 ――ああ、俺も誤算だった。普段は人目に触れないところに身につけている揃いの指輪も、こうしてそれなりに着飾っているときは指につけるのが半ば癖になっていた。何というか、無いと重みに欠けるというか。 「判ったよ、じゃあこの話はこれで終わり」 そう頬杖を突きながらこっちに蠱惑的な笑みを向ける香なんて、今まで想像できただろうか。口説き落とすどころか、まるで俺の方が手解きされるガキのようじゃないか。 「ならお言葉に甘えさせていただくけど 気を取り直して、再び「余裕綽々の、遊び慣れた大人の男」の貌を作る。もちろん目の前の女は香だと気づいている上で、でもその「嘘」に付き合ってやるのもなかなか楽しいゲームだ。これもまた、あいつの望んでいることなのだから。 「まぁ、そういうところかしら」 すると、ふっと彼女が哀しげに視線を伏せた。 「――ケンカできる方が、まだマシかもしれないわね」 それは彼女の演じている何者かの台詞などではなく、香自身の本心に違いなかった。 「そもそも、会話も無ければケンカは始まらないでしょ」 ――ああ、間違いなく俺たちのことだ。いたたまれなくなって視線を目の前のバーボンに落とした。氷が解けて、琥珀の海の小さな氷山が傾きを変える。 「もっと、突っ込んだ話もしたいのに、しなきゃいけないのに…… そして彼女は、カウンターの上に崩れ落ちんばかりにがっくりと首を落とした。 「前からって……?」 吐き出してしまいたいのなら総て吐き出してしまえばいい。だから言の穂を継ぐ。 「――彼と一緒になる前、兄と二人暮らしだったの」 と、まるで初対面の赤の他人に聞かせるように語り始めた。ああ判ってるさ総て、そのアニキとは血が繋がっていないことも含めて。 「仲のいい、兄妹だったんだろうな」 それは、やはり実の妹ではないという負い目からだったのだろう。 「――Days of Wine and Roses...」
――酒とバラの日々は 笑いながら駆け抜けていった 聞きかじりの歌詞が口をついて出る、ピアノの音色に合わせて。 「――カーディナル、でございます」 目の前に差し出された深紅のグラスに、現実へと引き戻された。さっきのチャイナブルーはすっかり空になっていた。 「これはわたくしからです。もっとも、この曲を聞きながら となぜか撩が謝る。 「君のためにリクエスト、ってのも少々気障すぎたかな」 そう何も知らない行きずりの恋人のように微笑む彼に、なぜだか胸がいっぱいになってしまう。 「――もう、あたしたちも戻れないのかもしれない」 涙が零れそうになって、固く目を閉じた。瞼の裏に広がるのは、あの頃の無邪気な笑顔、幸福だった日々、恐れるものなど何も無かった――カウンターの上に置かれていた撩の左手を、しがみつくように握りしめた。
ああ、よく覚えているさ、あの映画は。どこで見たのかは定かじゃないが、そんなのは些細なこと。ただ隣に香がいたことだけ記憶の中に留めてあればいい、あの残酷な結末に怯えるように、あいつが身を寄せてしがみついてきたことを。 ――こうして呼び出されるたびに、胸の中に浮かんでは消える問いがある―― 「――俺の知り合いに、馬鹿な男がいてね」 と酒の席で切り出すのはたいてい自分の話。それをあいつは判っているのかどうかは無視して言葉を続ける。 「そいつは若い頃はずいぶんあっちこっち遊び歩いてて 彼女は髪を掻きあげると、興味深そうにこちらに視線を向ける。まぁ、その辺は話の本筋には関係ないのだが。 「だからときどき、今でも思ってるらしい。 一瞬の曇りも、香は「大人の女」のポーカーフェイスで覆い隠した。 「それで、奥さんがいなくなれば心置きなく遊び放題ってこと?」 だがそれも限界に来たようだ。彼女は柳眉をひそめ、視線を落とした。 「あたしがその人だったら、ずっと傍にいたい。 自分でも残酷だと思うほど、容赦なく核心を突いた。それはまた、俺自身にも向けられた刃なのだから。 「そう……ね、それで 香の選択をとやかく言う向きもあることだろう。だが、実際に一度、愛する者を失ってしまったあいつに危ない橋を渡れと言うのは俺にはできない。でも人の心はそんなに単純なものではない。それゆえ今ここに俺たちはいるのだ。 「でも本当は、さらけ出したいんだろう?」 香の瞳が――心が、揺れる。 「だったらダンナの代わりに、俺を思いきり傷つければいい」 どうせ一夜の夢なのだから――と抱き寄せて耳元で囁いた。
茶番もここに極まれり、だろう。撩にぶつけたくてもぶつけられない思いの丈を、今こうしてぶつけているのは紛れもなく撩になのだから。でも、いつもの自分のままじゃ素直になれそうにない。それは彼も同じなのかもしれない。 「部屋ならもう取ってある」 撩がカウンターの上でちらりとカードキーを見せる。ふわりとカウンターから立てば、絶妙のタイミングで手を差し伸べた、まるでエスコートするかのように。 自動ドアが廊下へと続く視界をシャットアウトすると、どちらともなく抱きしめあい、口唇を重ね合う。エレベーターとともにあたしたちは深い夜へと堕ちていった。 featuring TUBE『Blue in Summer』
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