綾蝶 〜AYA HABERU〜 |
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同じ新宿区内といっても、神楽坂と俺たちの普段いる新宿駅周辺とでは、雰囲気がえらく違う。それもそのはずで区内といっても、新宿は南西の端、神楽坂は北東と対角線上の隅と隅だ。それにうちの近所ではすっかり死に絶えてしまった古き良き和の情緒などというのがまだこの街では生き残っているようだ。 といってもこの神楽坂には花街という一面もある。つまり男の欲と下心があからさまになっているか、それとも粋と艶とできれいに覆い隠されているか、の違いしかないのかもしれないが。 そんな普段の行動範囲外に何で俺たちがいるかというと、 「浴衣で行けば特別サービスなのよ!」 折しも街は年に一度の夏祭り。それを盛り上げるために地元の商店街ぐるみで、浴衣で来た客には何かしらのサービスをしてくれるという趣向らしい。 「うーん、何がいいかなぁ。ビール1杯無料ってのもいいけど、 といっても相変わらず香は香で、パンフレットを手に欲張りにも迷っている姿からは大和撫子らしい奥ゆかしさってものが一向に伝わってこない。 「夕飯なんて屋台でいいんじゃねぇの? 店もけっこう出てるみたいだし」 だいたいあんたは屋台で飲み食いしてもまだおなかに入るかも知れないけど、あたしはいつもほどは食べられないんだからね、と文庫に締めた朱緋の半幅帯をぺちぺちと叩く。それに合わせた浴衣は白地の紅型、南国らしいとりどりの色遣いで唐花や蝶の模様が一面に舞っていた。 俺はというと、鈍色の地に黒の太縞の入った浴衣に、淡い青灰に深縹で絣縞の入った沖縄のミンサー織という角帯だ。浴衣もよく見れば、灰がかった地のところは細かな縞が入っている。 「それに、あんまり食べすぎるとあんただって苦しくなっちゃうかもね。 と言った香が、俺の帯に目を留めた。さっきまで縁日にはしゃぐ子供のような表情がにわかに掻き曇った。 「何むくれてんだよ」 とは言うものの、あまり面白くなさそうなのは見え見えだ。その辺のところはまず、今日俺たちが着ている浴衣の顛末から語り始めなければならないだろう。 最初はよくあるXYZだった。ただ、いつもと違っていたのは依頼人がはるばる沖縄からやってきた南国美人のもっこりちゃんということだった。 しかし、話はそれで終わらなかった。 「これか?」 と俺が指し示したのは、青の絣縞の中に織り込まれた市松格子のような模様。それぞれ白の四角形が5つと4つ描かれていた。 いつもどこか華やいだ街も、提灯と、祭りに合わせて街の中心・毘沙門天を祀る寺で開かれているほおずき市にちなんで、紙風船のような赤い花で彩られた竹籠が通りに吊るされ、街往く浴衣の老若男女の姿と相まって、夏の夕時の、どこか心湧き立たせるようなハレの空気が漂っていた。 「あ」 その香が突然声を上げた。 「撩、あんた何履いてきてんのよ」 何って、いわゆるビーサンである。あいにく下駄とか草履とかいうものは持ち合わせておらず、できるだけそれらしいものを見繕ってきたつもりだ。が、 「あーもう信じらんない、今すぐ買ってきなさいよ。 と再びパンフレットを開く。だが、ただでさえ不機嫌な香の火に油を注ぐと厄介だ。この場は三十六計逃げるに如かず、それが正しい戦術だ。 「あっ、どこ行くのよ撩! まだお参りにも行ってないんだから――」 もともと新宿なんかより着物美人が絵になる街ではあるが、祭りの夕暮れ時ともあって普段と比べれば結構な人数が浴衣姿であった。といっても、年に一度のこんな時ぐらいでしか袖を通さない連中ばかりだろう、着慣れていないというのは傍から見ても一目瞭然だった。 ――そもそも、柄がなぁ。 以前は浴衣といえば白地か藍染かぐらいしか色の選択肢は無かったような気がするが、今は着物同様色とりどりで、かつけばけばしいのが珠に疵だ。たまに桜柄の浴衣など目にすると思わず苦笑してしまう。 そんな浴衣のもっこりちゃんを目で追っているうちに、いつの間にか表通りを外れてしまったらしい。神楽坂も新宿の盛り場同様、一歩奥に入れば細かい路地が張り巡らされている。ただ歌舞伎町なんかと違うのは、その辺に薄汚いポリのゴミ容器やビールケースが転がっていないのと、足元が石畳になっていること。それだけでも自分がいつものテリトリーの外にいることを思い起こさせる。 いくつめかの角を曲がって視界が開けると、そこに浴衣姿の美人がしゃがみ込んでいた。濃藍の総絞り、菱重ねの浴衣に、貝の口に結んだ白地に紺の博多献上の帯は、さっきまで表通りで目にしていた華やかな――だからこそ安っぽく見える――色柄と比べると、まるで男物といってもいいくらい飾り気に欠ける嫌いもある。だがそれはむしろマレーネ・ディートリッヒのタキシードのように彼女の女性らしい清楚な艶っぽさを際立たせていた。 「どうしたのかな、いったいこんなところで」 少なくとも非常事態であるのは見てとれた。そこに手を差し伸べなければ男の名折れ。彼女の傍らに腰を落とし、視線を合わせる。 「鼻緒が――切れてしまったんです。 確かに、足元の艶やかな塗りの下駄の、黒地に目も鮮やかな緋縮緬の鼻緒がぷつんと切れてしまっている。彼女はそういうものの、ハイヒールのかかとが片方折れてしまったのと同じようなこと、その状態で歩くのは難儀なことだ。となれば男として取れる方法はほぼ一つ。 「お構いな――きゃっ」 彼女の背中と膝の裏に腕を差し入れると、一気に腰の高さまで持ち上げる――つまりは「お姫様抱っこ」というやつだ。洋服だったら背中におぶってやることもできたが、着物ではそれも無理だ。ちなみに、相手が香だったら米俵のように担ぎ上げたところだったが。 「そっ、そんな――悪いですわ。見ず知らずの方に――」 とっさに拾い上げた片方の下駄を胸元に抱えたまま、申し訳なさそうに眉をしかめた。 「俺の名前は撩、冴羽撩。君は?」 そんな俺の少々強引さに呆れたような表情を浮かべながらも、「あや」さんは恥ずかしげに頬を染めていた。てっきりその筋の人かと思ったが、「あや」なんて名前はいかにも素人じゃないか。それとも源氏名は他にあるけど、俺には本名の方を教えてくれたとか……? だとしたらナンパ冥利に尽きるじゃないか! 「毘沙門様の御利益は大したもんだな」 彼女の傍らには門前で買ったであろうほおずきの籠が転がる。 「困ったとき、こうしてちゃあんと助けが現れたんだからな」 その籠を、彼女の膝の下の左手で掴み上げた。 「俺なんて、お参りしてないのに君みたいな美人に巡り合えた」 なんて歯の浮く台詞に、ようやくあやさんは表情をほころばせた。 「あ、この帯――」 その道すがら、彼女が小さく声を上げた。 「沖縄のですよね、ミンサー織」 ちょうど抱き上げられて、視界の近くに入るというのもあるのだろう。 「『いつの世までも、末永く』って」 彼女に南国のリゾートはあまり似合わなくもある。だが、 「えぇ、何度か、ですけど。 日焼けすると白粉が肌にのりづらくなる、とどこかで聞いたことがある。やはりそっちの方の女性なのだろうか。 「あっ、冴羽さん、こっちです」 角に行き当たるたびに腕の中の彼女が指示を出す。 「そういや誰にも遭わないな、お祭りだっていうのに」 そう上目づかいで俺の顔を覗き込むさまはどこか嫣然として、その声もとろりとした蜜のようだ。耳にするだけで頭の中がぼんやりと霞がかる。そして、 ――吾がおなり御神の 節の有るような無いような、有るとしても聞き慣れた節回しとは異なる節で彼女が口にした言葉は、まるで何かの呪文のようですらあった。 「沖縄ではおなり神といって、妹が兄の守り神になるんですって。 きっと、帯の絣模様と一緒に、そこに描かれている蝶も目に入ったのだろう。 「ねぇ、今度お逢いしたときにはお礼をさせてくださいな」 私の気が済みませんもの。そう囁かれるように言われて、ぐらりと来た。 そのとき、視界が急に開けた。通りに出たのだ。そして、そこには香が佇んでいた、蝶の浴衣を身にまとった――あやは香の姿を目にすると、再び俺の帯へと視線を落とす。 「出てすぐのところが履物屋さんですから、もう大丈夫ですわ。 あやさんはようやく地面に降り立つと、行儀よく一礼して、下駄を片方手に、もう片手にはほおずきの籠を提げながら人波へと消えていった。さっきまでの妖艶さがまるで嘘のように。 「もぉ、どこ行ってたのよ。ってどうせほいほい と香がちょいちょいと袖を引っ張る。まだこいつといったん別れてから陽もそんなに傾いていないし、今となってはそれほど時間が経った気がしなかった。 「さて、飛んで火に入る夏の虫だ。 ――蝶が兄を護る妹の化身だというのなら、香の護るべき相手はもういない。護りきれなかったのだ、おなり神失格だ。その後悔は、あいつ自身が一番感じているだろう、身を裂かれるほどに。でも、だからこそ護りたいのだ、今度こそ。同じ痛みを二度とは味わいたくないのだから。 ということは俺はアニキの代わりっていうことか。そこから一歩抜け出したいところではあるが、さっきまで他の女に鼻の下伸ばしといて言うことではないのだけれど。でも、今は大人しく護られてやるとしよう、全身全霊で、親友の分までも。 「その代わり、フレンチか和食か、夕飯の選択は任せた」
蝶といえば(アニメ版由来ですけど)CHを代表するアイコン それに絡む物語があれば何はともあれチャレンジせねば。 護り神といってもドンパチ避けというのはよくあるパターンなので 撩にとってのもう一つの危険、ということでこんな展開にw でも和の風情と一緒に夏の夕暮れ、逢魔が時の 妖しげな雰囲気も感じていただけたら幸いでございます。
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