What the eyes saw


いつの間にか、気がつけば彼女のことを目で追っていることが増えた。
好意を持つ相手を人はついつい見つめてしまうらしい。そして、ふとした瞬間に彼女と目が合うことも。それは、彼女も俺と同じ気持ちということなのだろうか。
無理もない、こんな人生に一度あるかないかの非常事態で、自分のことを文字どおり身体を張って護ってくれている男に心を動かされるのは当然のこと。
一方の俺も――彼女に、心を奪われていた。

香という“相棒”がいながら、依頼人の美人に惚れてしまうのは俺の悪い癖。
それでも、自分の身に降りかかった不幸に心を痛めて、他に頼るものも無く俺の許に助けを求めてきたか弱い、可憐な小鳥に対して、自分のできることなら何だってしてやりたい、彼女を護るため、彼女に笑顔を取り戻させるためなら、と思うのは人として当たり前の感情じゃないだろうか。
もちろん、あわよくば一発、なんて下心はあくまでその場の潤滑剤に過ぎない。
だからといってこの感情は許されるべきものでもないだろう。たとえプラトニックでも、そのために生命すら容易に危険にさらしてしまう分、性質が悪いったらありゃしない。

彼女のためなら総てを投げ出したってかまわない――という勝手な想いをあいつ――香は、気づいているのだろうか。いや、そんなことはないだろう。じゃなければ、あんなに甲斐甲斐しく彼女の面倒を見てやったりはしないはずだ。
香は、俺のことを誰よりも信頼している。それは相棒として当然のこと。決して自分を裏切るようなことはしないと。そして、目の前に困っている人がいると居ても立ってもいられないのがあいつの性分でもある。
だからせっせと、俺とは違うやり方で彼女のことを護ろうとしていた。こんな非常事態の中でも、それを少しでも忘れられるように、普段と同じように明るく日々を過ごせるように。同じ女同士というのもあるのだろう、いつしか彼女も香のことを長年の友人のように信頼を置いていた。
それは香も同じで、俺と二人でいるときも彼女のことばかり話していた。あの子がああした、あの子がこう言ったと。それはまるで本当の友達のように、心から楽しそうに。まさかその彼女が、俺に心惹かれているとは知らずに。

さて、ようやく彼女を苦しめていた厄介ごとも片づいた。だからといって「依頼は解決しました、報酬はこれこれこのとおりです。それではお元気で」とビジネスライクに放り出してしまうようなことはしない。冴羽商事はアフターサービスも万全、お別れに最後のわがままを聞いてやるのも仕事のうちだ。いつの間にか、ボディーガードとその依頼人という枠を心が飛び出してしまったのだから、そのままお別れなんてできるわけがない。

彼女のわがままは「海に行きたい」だった。といっても、もう台風が何度も押し寄せている夏の終わり、代わって砂浜にはクラゲの大群が襲来してきていた。もう水着で波と戯れられる季節ではない。でも、こんなトラブルの間にそんな季節はとっくに終わってしまった。だからこそ、その名残りだけでも淋しげな砂浜に探しに行きたいのだ。

俺たちは当然、彼女に付き随った。クーパーにビーチパラソルとバーベキューグリルを載せて。もう海の家すら畳んでしまった浜辺で俺たちは、海にはもちろん入れなかったけれど、寄せては退く波に足首を浸しながら、子犬のように追いかけ合ったりじゃれ合ったり、無邪気な時間を過ごしていた。
それはまるで、目の前に迫りくる別れから懸命に目をそらそうとするかのように。夕方には迎えがやってきて、彼女は明日からもとの毎日を暮らさなければならない。

だが、暦の上では秋とはいえ、夏の夕日は傾いたと思ってもなかなか沈まない。はしゃぐのにも飽きた俺は、彼女たちの輪から一人離れてぼんやりとオレンジ色の海を見ながら突っ立っていた。――あー、煙草吸いてぇ。
バーベキューグリルからもくもく煙が上がっているにもかかわらず、香のやつ、人前での煙草に煩いもんだから、副流煙がどうたらこうたらと。
でも、一人でいる分には別にかまわないだろう。ポケットに手を伸ばし、包みを取り出すと一本咥えてライターで火を点ける。ふと――本当に水平線に日が沈むんだったら、一瞬で海水なんて蒸発しちまうだろうに、と思ったのはジッポーの炎からの連想だろうか。そのとき

「なんだか、ジュッて音がしそうですよねぇ」
「――なんだ、君か」

振り返らなくても声で判る。同じものを見て、同じようなことを考えていたことに、まるで運命じみたものを感じてしまいそうになる。

「香は?」
「そろそろ日が暮れてくるからって、帰り支度始めてました。
私も手伝うって言ったんですけど、追い返されちゃいました」

確かに、彼女は香一人が忙しく立ち働いているのを黙って見ているような子じゃない。

「お客様の手を煩わせるわけにはいかないって」
「はは、あいつらしいや」
「でも、今までは夕飯の支度とか手伝わせてもらっていたのに、
いきなり他人行儀じゃないですか」
「まぁな。でも今日は一日君をおもてなしする日だから
メインゲストをこき使っちゃいけないだろ?」
「そう……なんですかねぇ。それよりもみんなでぱぁっと遊んで、
楽しく騒いで、みたいな方が良かったのに――」

些細な気遣い一つでも、それが近づく別れを否応なしに思い起こさせる。
そんな目の前に突きつけられた現実に俺も胸がぱんぱんに詰まっていた。紫煙すら吸い込めないほどに。それは彼女も同じはずだ。
いつものように、発せられる声は快活な若い女の子のそれであるのだけど――無性に気になった、今の彼女の、声にならない表情が。
そのときになってようやく振り向いた。そして、俺が目にしたのは――必死になって涙を堪えながらも、笑顔を浮かべていた彼女だった。

何かを言ってやりたかった。優しい言葉を。
でもその笑顔が語りかけてきた、何も言わないでと。
言うって、どんな言葉を? 
行くな、と? 好きだ、と? 
愛してる、と? 
それ以外の言葉はみな、口から出た瞬間、嘘になる。
でも、心からの言葉をもし口にしてしまったのなら、それまでの日々が総て音を立てて崩れ去ってしまう。俺と、彼女と、そして香と、危険に怯えながらも、それすらスリルに換えて笑顔で彩った日々を。
でも――もし、俺たちが違う時、違う場所で初めて出逢えていたのなら――俺がスイーパーで、彼女がその依頼人でさえなかったら、俺たちは今離れ離れになることなく、同じ月日を過ごすことができたのだろうか?

そのとき――海沿いの国道から、クラクションの音がした。

一台の車が止まり、後部座席のドアが開く。そこに彼女を迎え入れるために。
彼女が座席に収まれば、ドアを閉めそのまま走り去ってしまうだろう。彼女がもといた世界へと。そこには、少なくともあの車の中には、彼女の帰りを待っていた人がいるのだ。俺たちのもとに彼女がいる間、ずっと。
彼らのいる場所が、本来彼女のいるべきところなのだ。ここではない、俺たちの傍では。

そもそも、彼女が俺のところにいる理由だってもう無いのだ。
トラブルはもう解決した、きれいさっぱり。彼女を脅かすものはもう何も無い。だから俺が護ってやる必要もない。それに、こんな男の傍にいていったい俺が何のためになるっていうのだ。商売柄、他人の危険を一身に背負ってやらなければならない。当然、多少の生傷はつきものだ。俺の傍にいればその巻き添えだって喰らいかねない――今となっては、彼女のためになれることなんてない。むしろ疫病神だ。

だから、もうお別れだ。依頼はすべて片づいたのだから。
彼女は遠くの車に目を遣ると、振り返って俺の目を見つめる。何かを言い出そうと口唇がわずかに動く。だが、言葉を発しようとすると一緒に本当のことまで飛び出してしまいそうで、まるで酸欠の金魚のようにピンクのグロスが揺らめくだけだった。

「――元気でな」
「――冴羽さんも、お元気で」

とだけ言えばいい。もうこれ以上の言葉は要らない。
続けようとすれば、口に出してはいけないことまで連なってしまいそうで。

「また、何かあれば新宿駅の伝言板にXYZって書いてくれればいい。
そのときはまた俺たちが助けにいく」
「はい……今まで、本当にありがとうございました」

そう言いながら、二度とXYZが無ければいいと願った。当たり前だ、それこそが彼女にとっての幸福なのだから。そう、これでいい。これが最良の結末なのだ。俺にとっても、そして、彼女にとっても。
今はたとえ胸が千切れそうなくらい痛くても、これで良かったんだと思えるときがきっと来るはず。いつか彼女が元の世界で落ち着きを取り戻して、新たな出会いを見つけて、本当に幸福と思えるときが来れば、きっと。

彼女は深々とお辞儀をして、顔を上げるとそのまま、大切な人が待っているであろう車へと駆け寄っていった。そのとき、何かが一瞬きらめいたのがこの目に映った。堪えて、堪え続けて、堪えきれずにあふれた涙が夕日の最後の輝きに瞬いたのだ。
車の中でどんな会話が交わされたのかは知る由もなかった。そして、彼女と誰かを乗せた車は海岸沿いの国道を跡にした。

終わったのだ、総てが。

こみあげてくる何かを押し戻そうと、くっと顔を上に向ける。だが、咥え煙草のままだったことを迂闊にも忘れていて、煙がいつもと違うところに流れ込んでしまった。誓って言う、あふれた涙は咳き込んだせいだ。

「あーあ、もう帰っちゃったか」

愁嘆場に似合わぬ浅薄な言葉が背中に投げかけられた。
振り向いた俺の表情は相当無様だったに違いない。それもそうだ、勝手に依頼人の美人に惚れこんで、叶いっこないのに熱を上げて、そしていつものように振られてしまっただけなのだから。香という女がいるにもかかわらず。
それでも、なけなしの男としての矜持を持って香を睨みつけた、何も言うんじゃねぇぞと。それに香は、呆れ半分の微笑みで応える。まるで出来の悪い子供を見つめる母親のように。

――ああ、あいつは全部判っていたんだ。
その榛色の瞳は総てを見通していたのだ。俺の相変わらずの恋心も、彼女が俺に寄せる想いも。じゃなかったら見送りの場に出てこないなんて非礼をあいつがするはずがない。俺と彼女と、二人きりにするためにわざと――

「間が悪ぃんだよ。おまぁが撤収作業やってる間に
彼女もう行っちまったじゃないか」
「ごめんごめん、意外と手間取っちゃってさぁ」
「んなの後にしときゃいいだろうが。こんな大事なときに」

ふと足はクーパーの方へと向かう。香もその斜め後ろをついて歩く。

もし彼女と俺が、スイーパーとその依頼人としてでなく出逢っていたら、いや、ただ香より先に彼女と出逢っていたら、俺たちは同じ月日を過ごすことができたのだろうか? 俺と香が今までそうしてきたように――
いや、今となってはそんなことは考えられなかった。
たとえ違う時、違う場所で初めて出逢ったとしても、俺はきっと、間違いなく、香を選んだだろう。そしてこうして、同じ月日を過ごすに違いない。同じ想いを分け合いながら。

振り返れば2対の足跡が点々と砂浜に続いているのを夏の残光が照らしていた。それはまるで、俺たち二人の軌跡のようだった。

featuring TUBE『瞳は知っている』(2009“Blue Splash”)
R×K的には、こういう展開はNGなんでしょうが
個人的には撩には、一生あっちにふらふらこっちにふらふら
してほしいと思っています。
そして香には、それをずっと見守っていてほしいと。


City Hunter