紺屋の白袴 |
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香が鼻歌交じりで台所に立っている。まぁ、そんなことはいつものことだ。 旨そうに醤油の匂いを漂わせながらぐつぐつと煮立っている鍋の中身が筑前煮だとしても。これだって、おせち以外の季節も作っている。そんなにしょっちゅうではないにしても。 肝心なのは、あいつが割烹着姿だということだ――いや、問題はその中身だ。 香が着ているのが和服だということだ。 冴子に連れられ呉服屋に行ったとき、1枚に絞りきれなかったらしく結局数着買ってきたらしい。当然帯も必要だし、その下に身につける長襦袢とかも言わずもがな。もっとも、この時期では誂えだと新年までに間に合わないので、いわゆるプレタの既製品である。だからこそあいつも何枚も買えたのだが。 でも、買っただけでは着物は着られない。当然着付けを教わる必要がある。本を見ながら独学で、という手もあるが、さすがに香も馬鹿ではないようで、身近に格好の師匠を見つけて弟子入りしてきた。 そして今日も、「こういうのは何回もやって身体で覚えないと」といって着付けたのを、もったいないのでそのまま台所に立っているというわけだ。 だが、香が彼女たちから授かったのは着付けの技術という目に見えないものだけではなかった。実はその界隈に男女・オカマ問わず大いに受けの良いあいつらしく、ママさん方の要らなくなった着物まで頂けることになったとのこと。 今締めている帯はそれではなくて、前に浴衣と一緒に買った半幅のものだ。普段に家で着るにはそれで充分らしい。朱緋色に同系色で麻の葉模様を一面にあしらった帯は藍染めの浴衣に合わせたものだが、赤ともオレンジともいえない――柿色、とでもいうのだろうか――着物ともよく合っていた。 「いいのかよ、せっかくの着物が汚れちまうんじゃねぇのか?」 とふんわりと微笑む横顔も、どこかいつもと違って見える。 普段なら台所に立つ香を目にして湧き上がってくるものといったら、明らかにそっち方面でぷりぷりと小気味良く揺れるヒップに思わずむしゃぶりついてしまいたくなる。そうなったら実際にむしゃぶりついてしまうわけなのだが、今日はなぜか実行に移そうと思えないのだ。それに、もし仮にそうするにしても、むしゃぶりつくというより、何というか、すがりつきたくなるというか―― ――おふくろさん、ってのはこういうもんなのかねぇ。 「えっ、撩、何か言った?」 慌てて打ち消したが、どうやらぼんやり呟いてしまったようだ。 それにしても香を母親に重ねてしまうとはね――もっとも、家のことや俺の面倒の一切合財を見て、ときには厳しく叱りつけるさまは間違いなく「おかん」で、俺はというと大きな子ども扱いだ。それに、何だかんだいって男というのはいつまで経っても母親に甘えたいのだ。マチズモと伊達を気取るラテン男だってママの前ではからっきしなのだから。 そう自分を正当化してしまうと、甘えたい欲求にますます歯止めが利かなくなってきた。だからといってストレートにお願いしてしまうのは男のプライドが許さない。何とかいい方法は無いものか―― 香はというとおせちを一通り重箱に詰め終えたらしく、出来栄えに自分でも満足そうだ。仕事がひと段落したのを見計らってさりげなくアピールをする。 「しょうがないわねぇ」 とソファの窓際、ひときわ日の差し込む席に腰を下ろすと、まるで母親が幼い子供にするように小さく手招きした。その膝にごろんと頭を委ねる。 「重っ」 などと言いながら、そっと耳たぶに触れる。 「お手柔らかに」 午後の柔らかな日差しの当たる陽だまり色の膝からは、どこか暖かく柔らかな匂いがした。香の根こそぎ優先の少々手荒な耳掃除ですら、思わずうたた寝しそうになるほどの。 ――そういえばこの一年、依頼人にすがられ香にすがらればかりだった。もちろんそう頼りにされるのは男冥利に尽きるのだが、あまりにすがりつかれてばかりだとくたびれてくるのだ、こっちも誰かにすがりたくなるくらいに。 というわけで『彼女がキモノに着替えたら』第2弾でございます。
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