紺屋の白袴

香が鼻歌交じりで台所に立っている。まぁ、そんなことはいつものことだ。
旨そうに醤油の匂いを漂わせながらぐつぐつと煮立っている鍋の中身が筑前煮だとしても。これだって、おせち以外の季節も作っている。そんなにしょっちゅうではないにしても。
肝心なのは、あいつが割烹着姿だということだ――いや、問題はその中身だ。
香が着ているのが和服だということだ。

冴子に連れられ呉服屋に行ったとき、1枚に絞りきれなかったらしく結局数着買ってきたらしい。当然帯も必要だし、その下に身につける長襦袢とかも言わずもがな。もっとも、この時期では誂えだと新年までに間に合わないので、いわゆるプレタの既製品である。だからこそあいつも何枚も買えたのだが。

でも、買っただけでは着物は着られない。当然着付けを教わる必要がある。本を見ながら独学で、という手もあるが、さすがに香も馬鹿ではないようで、身近に格好の師匠を見つけて弟子入りしてきた。
歌舞伎町のママさんたちにとって着物は毎日のユニフォーム、自分で素早く着られないようでは仕事にならないし、着付けられたにしてもあまりきつすぎては働けないし、かといって緩めてしまえば着崩れの元だ。日々身につけるものだからこそ、たまのお呼ばれにしか着ない有閑マダムには知りえないツボというのもわきまえている。そんな彼女たちに実は大いに気に入られている香が頭を下げて教えを請うたのだ、手取り足取り伝授してやらないわけがない。
それに、もともと器用で頑張り屋のあいつのこと、直接教わるだけでなく家でも鏡の前で見よう見まねで自主練を繰り返し、その結果、ほんの数回通っただけで一通りのことはものにしてしまった。本人としては今でも時間短縮に余念のないようだが、傍から見る限りではほんの数週間前までずぶの素人だったとは思えないほどだ。

そして今日も、「こういうのは何回もやって身体で覚えないと」といって着付けたのを、もったいないのでそのまま台所に立っているというわけだ。
どうせ大掃除も12月に入ってからこまめに済ませてしまったのでほぼやることは無いし、年越しの準備もおせち作り程度だからできる芸当だ。
とはいえ、いつもと同じく独楽鼠のように動き回っているというのに苦しそうなそぶりを見せず、かといってぐずぐずになることもないのはさすがは新宿の綺麗処直伝といったところだ。

だが、香が彼女たちから授かったのは着付けの技術という目に見えないものだけではなかった。実はその界隈に男女・オカマ問わず大いに受けの良いあいつらしく、ママさん方の要らなくなった着物まで頂けることになったとのこと。
もちろんそれはただ単に香びいきの為せることではない。芸能人と一緒で水商売も前と同じ格好でそうそう人前には出られない。なのでこまめに衣装を新調しなければならず、数回袖を通しただけでお払い箱になったものがあいつに回ってきただけの話である。
当然ながら、夜の世界特有のギラギラした訪問着などは丁重にお断りしたというが、煌びやかな帯は普通の着物と合わせても案外面白いとのことで、そんなこんなで香のコレクションもいつの間にか膨れ上がってしまっていた。

今締めている帯はそれではなくて、前に浴衣と一緒に買った半幅のものだ。普段に家で着るにはそれで充分らしい。朱緋色に同系色で麻の葉模様を一面にあしらった帯は藍染めの浴衣に合わせたものだが、赤ともオレンジともいえない――柿色、とでもいうのだろうか――着物ともよく合っていた。
その着物は柿色の地に格子状の絣模様が入っていて、オーソドックスながらどこか懐かしい雰囲気を漂わせていた。
その上にかぶっている割烹着は、某日曜夕方の国民的アニメのおっかさんのような白く糊の利いたものではなく、それ以前から香が冬場にエプロン代わりに使っている白黒チェックの今どき普通のだが――
それらを身にまとって台所に立つ香を傍目で見ているだけで、どこからか込み上がってくる感情はいったい何なんだ?

「いいのかよ、せっかくの着物が汚れちまうんじゃねぇのか?」
「大丈夫、これウールだから家で洗えるのよ。セーターと同じなんだから」

とふんわりと微笑む横顔も、どこかいつもと違って見える。

普段なら台所に立つ香を目にして湧き上がってくるものといったら、明らかにそっち方面でぷりぷりと小気味良く揺れるヒップに思わずむしゃぶりついてしまいたくなる。そうなったら実際にむしゃぶりついてしまうわけなのだが、今日はなぜか実行に移そうと思えないのだ。それに、もし仮にそうするにしても、むしゃぶりつくというより、何というか、すがりつきたくなるというか――
そんな願望、口にできるわけがない。あいつに知られてしまったら最後、男の沽券に関わるというか……そう思うとただじぃっと近くで眺めているしかない。

――おふくろさん、ってのはこういうもんなのかねぇ。

「えっ、撩、何か言った?」
「いやっ、なんでも」

慌てて打ち消したが、どうやらぼんやり呟いてしまったようだ。
もちろん俺は日本育ちではないからそういうステレオタイプとはあまり縁が無かった。というか、母親というイメージ自体があまりにも希薄だった。でも、自分の齢を考えれば――万年ハタチというのはもちろん半分冗談だ。半分は本気だが――俺を実際に生んで途中まで育ててくれた、つまり実の母親が普段から着物姿であったとしても確率的にはおかしくはないだろう。
そんな、物心つくかつかないかと遠い記憶の断片がふとしたきっかけで欠片のまま呼び起されたとしても、また何の不思議もないはずだ。

それにしても香を母親に重ねてしまうとはね――もっとも、家のことや俺の面倒の一切合財を見て、ときには厳しく叱りつけるさまは間違いなく「おかん」で、俺はというと大きな子ども扱いだ。それに、何だかんだいって男というのはいつまで経っても母親に甘えたいのだ。マチズモと伊達を気取るラテン男だってママの前ではからっきしなのだから。

そう自分を正当化してしまうと、甘えたい欲求にますます歯止めが利かなくなってきた。だからといってストレートにお願いしてしまうのは男のプライドが許さない。何とかいい方法は無いものか――

香はというとおせちを一通り重箱に詰め終えたらしく、出来栄えに自分でも満足そうだ。仕事がひと段落したのを見計らってさりげなくアピールをする。
手には耳かき、その先端のもふもふ――梵天、というらしい――をこれ見よがしに振ってみせた。もちろん何をしてほしいかは口には出さないが、それくらい読めない女じゃない、香は。

「しょうがないわねぇ」

とソファの窓際、ひときわ日の差し込む席に腰を下ろすと、まるで母親が幼い子供にするように小さく手招きした。その膝にごろんと頭を委ねる。

「重っ」
「脳味噌詰まってんだから、しょうがねぇだろ」

などと言いながら、そっと耳たぶに触れる。

「お手柔らかに」
「それだとあんまりきれいにできないけど」

午後の柔らかな日差しの当たる陽だまり色の膝からは、どこか暖かく柔らかな匂いがした。香の根こそぎ優先の少々手荒な耳掃除ですら、思わずうたた寝しそうになるほどの。

――そういえばこの一年、依頼人にすがられ香にすがらればかりだった。もちろんそう頼りにされるのは男冥利に尽きるのだが、あまりにすがりつかれてばかりだとくたびれてくるのだ、こっちも誰かにすがりたくなるくらいに。
今年も残すところあと僅か、その間くらいは思う存分香にすがりついて甘えることにしようか。

というわけで『彼女がキモノに着替えたら』第2弾でございます。
ようやく時期的に「らしい」話になったでしょうか。
キモノは買っただけでは着られないのが少々面倒なのですが
そういえば香ちゃんのご近所にはキモノを着る職業の
お姐さま方(元お兄さま含む)がたくさんいらっしゃいますよねw
大丈夫、カオリンなら着られますって
店主だって何とか格好にはなっていますから。


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