逃げ場ナシ

「ねぇ、煙草吸わないでくれる?」

そう香が物憂げそうに、眼も合わさずに言った。
あいつは俺の喫煙が不満でも止めさせようとも思ってはいない。ただ、クーパーに備えつけの灰皿はすでに満杯だった。

国道16号、通称・東京環状。その名の通り神奈川・埼玉・千葉の東京近郊をぐるっと囲む環状道路だ。新保土ヶ谷で東京から湘南方面へと向かう旧東海道・国道1号線と交差するが、すでにそこから渋滞は始まっていた。
江ノ島まで約20km、時間は・・・一体何時間かかるやら。

会話のネタもすでに底を尽き、ラジオからは能天気なサマーチューンがしきりに真夏の海への招待状を送りつけていた――バカ野郎、こんなのに乗せられたからこのザマだ。おんぼろクーパーにはヒーターは付いていても冷房は無く、普段だったら窓を開けてかっ飛ばせばそれなりに涼しいものを、さっきからじりじりと動けない状況では外から入ってくるのは排気ガスとアスファルトで温められた外気だけ。
おかげで不快指数は100%の針を振り切りっぱなしだ。

香のリクエストで、毎年どんなに忙しくても一日だけは海へ行くのが恒例行事となっていた――今まではこんなことはなかったのに。
たとえ何十kmの渋滞にはまっても香とならば長いとは思わなかった。
始終一緒にいるくせに話には事欠かなかったし、それすらネタ切れになってもカセットのボリュームを上げて、それに負けじと二人して声を張り上げて歌っていたし。
窓をからから開けていたのに、バカだな俺たち。
そして「この暑さでダメになっちゃうといけないから」と車内で弁当を広げたり、その結果海に着いたのが日が傾きかけてからであっても、それなりに満足して家路に就いたものだった。

なのに今は――香と狭い車内に二人きりでいることが、何よりも苦痛だった。

隣の2シーターは、まさに今が楽しくてしょうがないというようなカップルがエアコンの効いた密室でいちゃついている。

「あーあ、昨年の夏は楽しかったのになぁ」
「昨年行ってない」

窓枠に頬杖をつきながら、むすっとした声で返事がかえってきた。
ああ、そういえば・・・ヤブヘビだったか。

香の言うように、昨年の夏、一緒に海に行ったのはあいつ以外の女とだった。もちろん依頼人のもっこり美人だ。そうだ、確かクーパーじゃなく彼女のリムジン――折り紙つきのお嬢様だった――で。
それは決して楽しいだけの夏の海ではなかった。彼女にとって普通の女の子でいられる最後の一日だった。まるでどこかで聞いたような話だが。
夕日が沈み、浜辺から人が消える頃、俺は別れを切り出さなければならなかった。もともと住む世界の違うもの同士、二度と逢うことはないだろうと。
彼女は涙ながらに海岸を去っていった、件のリムジンに乗り込んで。
結果、俺は湘南の海に置いてけぼりを喰らったというわけだ。
そのまま真っ直ぐ帰ればいいものを、そこから立ち去り難かった。
アシなら無いわけではない、格好悪くても電車一本で行けなくもない所だ。
だが結局、俺は日が沈んでもずっとそこに立ち尽くしていた。帰路に就いたのも終電の時間に追われて、それもガラガラの各駅停車に揺られて白河夜船では嘘のようにあっという間だったのを覚えている。
そして、駅の地下から通りに出た瞬間、じわっとした空気に包まれた感触も。
東京と湘南では気温が数度は違うというのは判っている。だが、それ以上にあの空気感はあのときの本音の表れだったのだろう。

帰りたくなかった、新宿に。あいつの待つアパートに。

依頼人のいる間は、スイーパーとそのパートナーでいられた。
だが彼女が去り、二人きりになったらそれぞれ向き合わざるを得なくなる。お互いのことに、そして自分の本心に。

そう、今の俺たちのように。

あいつの眼が真っ直ぐに見られないのだ。何かを訴えかけてくる眼が。
いや、何を求めているのかは俺にだってわかる。あの無意識の、危険な上目遣い。それを判っているのに、判っているからこそ知らないふりをして、眼を背けて、その場を逃げだして。

なのに今、渋滞に閉じ込められた。
一向に動かない車の列は今の俺たちそのもの。何の変化の無いまま時間ばかりが過ぎていき、苛立ちだけが募っていく。

――ああっ、畜生!

「クラクション押される馬鹿に押す阿呆」という言葉が過ぎりながらも、思わずハンドルに手がかかる。だが、聞こえてきたのは鉄と鉄とがぶつかる衝撃音。とっさに後ろを振り向く。クーパーの中でもMk-Iタイプはその名のとおり骨董品、お釜なんて掘られた日にゃ果たして修理ができるやら。

「ずっと前の方みたいね」

そう香が窓から身を乗り出しながら目を凝らす。どうやら同じような苛立ちを抱えていたのは俺だけではないようだ。そいつはそれをアクセルペダルにぶつけてしまったようだが。

「熱くなったら負け、か」

それは俺も同じこと。だがそれは誰に対する負けなのか。
敵は香か、それとも俺自身か。
じりじりと長くなった煙草の灰を、窓の外のアスファルトに落とした。

featuring TUBE『灼熱らぶ

すっかり恒例となってしまいました、TUBEのシングル曲での暑中見舞い。
今年のは書かないだろうなぁと思ってましたが、思いついてしまいました【笑】
さすがTUBE、イメージが掻き立てられるというか。
ということで、寸止め限界ぎりぎりの撩のモノローグです。
襲っちまえ!と言いたいとこですが、ムリですよねぇ、うちのヘタレ撩には。


City Hunter