真夢逆夢

夢を見た。
「何やらすっごく幸せな夢」だったのは覚えているんだが、何がすっごく幸せだったのかは思い出せない。ただぼんやりとした幸福感だけが空虚に胸の中に広がっていた。夢というのは目覚めた瞬間から、まるで砂で出来た城のようにさらさらと崩れていってしまうものだから。

眠りを妨げたのは下から響く香の声だった。

「りょー、朝ごはんが冷めちゃうから早く起きてきて!」

ったく、いつもはハンマー片手に乗り込まれるまで爆睡しているというのに。何で今朝に限って目が覚めちまうんだ。
部屋はすっかり朝の光に包まれていた。寝起きの習慣である煙草すら咥えず――頭がしゃっきりしてしまうと忘れてしまいそうで――寝ぼけ眼で階段を下りる。

「撩、おはよ。先にコーヒー要る?」

だぁぁっ、だから俺に喋りかけるんじゃねぇ!
必死で記憶の欠片を拾い集めようとしているのに、現実の情報が入るとそれだけ夢の記憶がところてんのように押し出されてしまうのだ。
眩い朝陽、香の声、朝食の匂い――それすら今の自分には邪魔なだけだ。

――朝食の匂い?

キッチン兼ダイニングにはいつもの安物の食パンとは違う芳醇なバターの匂いが漂っていた。それは軽くトーストされることによってより芳しさを増していた。

「ああ、このパンこの間ガソリンスタンドの福引で当てたんだ。
ね、いいでしょ。だから冷めちゃう前に食べてほしかったんだよね」

このバターの匂いを嗅ぐだけで幸せになれちゃう♪とすっかりご満悦そうだが、幸福感とは別の部分が胸の中で疼いていた。
プルーストの『失われた時を求めて』の冒頭を持ち出すまでもなく、匂いの記憶は理性よりももっと奥深いものに結び付いているという。まさか――。
香はというとすでに朝食を済ませた後らしく、俺の向かいのいつもの席にはマグカップだけが置いてあった。そのカップの口元はいつも以上に鮮やかに艶めいていて――

「なんかテカってるぞ、唇」
「あ、多分フライドエッグかな」

朝食がパンのときは卵料理と付け合わせに、栄養のバランスを考えてサラダと、あればときどきフルーツというのがいつものメニューだ。だから変わり映えといったらサラダか卵料理のバリエーションくらいで、フライドエッグといっても早い話がいつもより油多めの目玉焼きだ。
そんな朝っぱらからぎとぎとした料理のせいで香の唇はまるでグロスを塗ったように光沢を帯びていたのか。だが、その唇から眼が離せない。まさかこれも夢と何か関係があるのだろうか?
そのとき、香の唇が寂しげに動いた。

「――撩には物足りないよね、きっと」
「えっ?」
「あっ――これだけじゃ足りないよね。もっとパン焼く?」
「あ、ああ・・・頼むわ」

――あれから俺たちの仲はわずかばかりの進展を見せた。といってもようやくキスを交わせるようになった程度だ。AからB,Cと進んでいかない。
HからIというような関係しか今まで築いてこなかった自分にとってまどろっこしいこと極まりないが、今まで男とまともに付き合ったことのない香にいきなり大人の関係を迫るのもどだい無理な話だ。だからいい年して10代のガキのように一歩一歩少しずつお互いの距離を詰め合っている最中だった、俺たちは。

突然、思い立ったように香はカップを持って立ち上がると俺の隣に腰かけた。そしておずおずと触れあいそうな距離までにじり寄る。
そんな香らしからぬ行動に、またも胸の奥が疼き始める。
こんなあいつを今まで見たことがあっただろうか?
――だが、どこかで見たことがあるような気がする。
そんなはずがない、香がこんなことするはずが――つまりは、デジャ・ヴュ。
だが、果たしてその一言で片づけていいのだろうか?
疑問が頭の中を渦巻いて、美味いパンどころではない。

香も珍しく積極性を見せたものの、慣れないことをするものではなく、食卓は居心地の悪い沈黙に包まれていた。

「――そういえば、正夢って見たことある?」

焦れたように香が口を開いた。ってめちゃくちゃ俺にとってタイムリーなネタじゃねぇか。

「あんのかよ、おまぁは」
「ううん、無い。逆に『正夢になってほしいなぁ』っていうほどの
いい夢って覚えてないんだよねぇ」

まさしく今の俺だ。

「逆に覚えてるのっていつも悪い夢ばっか」

カラ元気を装うようにつとめて明るく口にする。
だが、香が悪夢にうなされるのも想像に難くなかった。きっとあいつの夢の中で俺は数えきれないほど死んでいるに違いない。
こんな仕事をしている以上、いつもどこかで最悪の事態を想像してしまうのも当然だ。その度に香は生きた心地がせずにベッドから飛び起きるのだろう。
足さえ洗えばそんな心配もしないで済むのだろうが、それだけはできない。

「だからね、そういう夢は逆夢になるようにってお願いするの」
「さかゆめ?」
「現実で起きないよう夢の中で起きたんだって思うようにしてるの」

確かにそう考えれば悪夢だって吉兆へと変わる、現実の俺が死ぬ代わりに夢の中の俺が死んでくれているのだから。
ものは考えよう、ポジティヴ・シンキングだ。香らしいっていっちゃ香らしい。だが、

「でもそれって都合よくないか?
いい夢ばっかり正夢になりますようにってお願いして、
悪い夢はそうなりませんようにってのは」

いい夢まで逆夢になってもらっては困る。夢の中で味わったえもいわれぬ幸福感が、それがどんなものだったのか見極められることなく夢のままで消えてしまっては。

「そっか・・・そうだよね・・・」

その間にも俺は目の前の朝食をすべて平げた。
いつもだったら香が空になった皿を撤去するのだが、今朝は触れ合いそうなほど近くに立ち去り難くもじもじと座ったままだ。何かを切り出そうとしたいのに切り出せない、その緊張感がこっちにも伝わってきて、俺まで鼓動が速くなる。

「あのさ・・・やっぱり女の側から迫るのって、はしたないとか思うよね」

香の声が記憶の中の声と響き合う。だから、

「いいや。人によるかもしれないけど撩ちゃんだったら大歓迎♪」

と自ずと口をついて出る。なぜならそれは夢の中の自分の台詞だったから。

「そう・・・なの?」

こっちを向き直ってほっとしたような、でもまだ不安そうな表情で俺を見つめるのも全く同じ。そう、さっきまで俺を覆っていた霧のようなもやもやはすっかり吹き飛んだ。逆に、いきなり視界が開けすぎて怖いくらいだ。

「じゃあ・・・迫ってみても、いい?」
「もちろん」

なぜなら俺が見た幸せな夢っていうのは、香からキスされる夢だったのだから。


十波さまから2000hitということでリクエストを頂きました。
お題は『何やらすっごくいい夢を見た撩ちゃん』でしたが、
その肝心カナメの「何やら」を言葉どおり最後まで引っ張ってしまいました。
おかげで話がすごく散漫になってしまったような【泣】
でも、夢って起きて朝ごはん食べて顔を洗うと忘れてしまいますよね。
たまに面白いのを見て「ネタに使える!」と思ってもorz
久々に原作ちょいな二人も書いてて楽しかったです。

ということで十波さま、こんなんでよろしかったでしょうか?
リクエストありがとうございました。これからも当店をごひいきにm(_ _)m


City Hunter