One for the Road

その夜、俺はゴールデン街の場末のバーで酔いつぶれていた。潰れていたといっても呑まなきゃやってられないというようなわけではない、むしろ思う存分羽を伸ばしていたのだから。

「りょおー、それじゃもう帰るね」
「ああ」
「洗濯機セットしてあるから、脱いだら中に入れといてね」
「おお」
「そのまま放ったらかしにしちゃって。朝来たら干しておくから」
「おお」
「あ、でもふたはちゃんと閉めてよ。じゃないと脱水できないのよ。
こないだだって――」
「へぇへぇ」

あれから一夜を共にしたとはいえ、それまで住んでいた部屋を片づけなければならないとかで香は朝、俺が寝ている頃からこの部屋に来て朝飯の支度やら洗濯やらをして、それから前のようにここで家事をこなし、夕飯を作って一緒に食べて一緒にテレビを見たりして、10時過ぎになると一人住まいの部屋に帰るという生活を送っていた。何てことはない、ずいぶん前に戻っただけだ。あいつが客間に居座る前のことに。ただ1フロア分の階段が電車4駅になっただけで。
当然、香はここで夜を過ごしていないのだから、俺たちはあのときのことを除けば清い関係のままだった。もちろん真っ昼間から押し倒しても俺としては一向に構わないのだが、初心者にいきなり中級者以上コースというのも気が退けた。
そうやって、一見元通りの平穏な日常が過ぎていく。ほんの少し前の俺たちを振り返れば、嘘のような日常が。

「ああ、そういやそろそろ荷物は片づいたのか?」
「うん、使わないものはみんな段ボールに詰めちゃったわ。
といっても昼間はずっとここにいるからあっちの物はほとんど使わないけど」

そんな日々ももうすぐ終わる、香がこのアパートに戻れば。

「じゃあね、撩。また明日!」

そう明るく手を振りながら香は玄関のドアを閉めた。
途端に、この部屋がやけに広く感じられた。さっきまではあいつの笑い声が響いていたリビングも、テレビもいつの間にか消されていて(つけっぱなしには煩いからなぁ)しんと静まりかえっている。たった一人ここからいなくなっただけなのに――
外玄関のドアが軋む音が下から聞こえた。ベランダに出るとまたもあいつは俺に手を振り返す。フィアットはここのガレージに置きっぱなしのまま出て行ってしまったので、ここから新宿駅まで出て電車で帰るのだが、前は夜道は厄介だからとクーパーで送り届けていたのだが、いつの間にか止めてしまったのはお互いに見送るのも見送られるのもどこか心苦しく思えたからだろうか。

――さぁてと、むふふ♪

いつまでも感慨にふけってはいられない。何しろ朝になるまで香はいないのだ。
鬼の居ぬ間になんとやら、いくらぐでんぐでんになって帰ってきても、東の空が白々と明け始めていても、香のカミナリ&ハンマーが落ちることはないのだから。
そんな天国のような日々も残すところあとわずかとなってしまったのだから、それまで遊んで遊んで遊び倒すしかない。

「今日はどっこで遊ぼっかなぁ♪」

やっぱ『ねこまんま』か?いや、久々に『マリリン』ってのもいいな。『エロイカ』はやめておくとして、あ、そうそう、最近新しく出来た、確か・・・。

で、結局。俺はそれらの店(『エロイカ』は除く)を全部回ってから、ここのカウンターで突っ伏しているのだ。

「マスタぁ、あと一杯だけぇ」
「はいはい、撩ちゃん」

そういえばこの店ともマスターともずいぶん長い付き合いだ。

「一杯だけ一杯だけって、撩ちゃんの一杯は『いっぱいいっぱい』の一杯かい?」
「だぁってさぁ、いうだろ?『人生は結婚の墓場』って」
「ああ、『結婚は人生の墓場』ね」
「そそ」

客が頼んだというのにマスターは一向にシェイカーを手にするでもなく、カウンターの向こうで優雅に煙草をくゆらせる。見れば客は俺一人。とっくに閉店時間は過ぎてしまったのだろうが、長っ尻の客のせいで閉めるに閉められない。店にとってみれば一番ありがたくない客の一人だろう。

「まぁ、俺には縁のないことだけどさ。
それでもあいつが帰ってくればまた地獄に一歩近づかなきゃならないわけよ。
判るぅ?」
「まぁね。つまり撩ちゃんは毎日がスタッグ・パーティということだろうね」

スタッグ・パーティ、またはバチェラー・パーティともいう。結婚式前日に新郎とその友人たちが集まって独身最後の夜を呑み明かすのだ。明日にはその座の主役は『墓場』の住人となってしまうのだから。

「そのとおりっ。マスター、いいこと言うねぇ」
と空になったボトルを差し向ける。

「でもさ、そんなに呑んで騒いでしてて、家に帰ってきたとき淋しいと思わない?
自分で鍵開けて、玄関の灯りをつけて。
誰かが待ってくれてるわけじゃないんだから」

ふと、いつもリビングで俺を待ち続けていた香の姿を思い出した。
待ちくたびれて、風邪ひくっていうのにソファで眠りこけて・・・そんなあいつを気遣って、いつしか夜が明ける前に帰ってくるようになった。(当たり前だって?)
今はそんな心配をせずに朝まで遊んだって気にすることはない。だが、しかし――

「酔ってないととてもじゃないが一人の部屋には帰れないんじゃないのかい?」

そう言うとマスターはようやくシェイカーを手に取った。
ブランデーにコーヒーリキュール、それと牛乳と卵白。

「ワン・モア・フォー・ザ・ロード、いや、撩ちゃんには『ワン・フォー・ザ・ロード』だな」

one for the road――最後の一杯か。クリーミーなブラウンの見た目どおり甘ったるく、さほどアルコールも強くないが、どこか懐かしい、暖かなものを感じるのはなぜだろう。早く家路を急ぎたくなるような、たとえそこで誰も待っていないにせよ――。

「マスター、呑み代はツケといてくれ」
「大丈夫かい、撩ちゃん。一人で――」

いや、酔いつぶれていたというよりは酔っぱらいを演じていたという方がいいのかもしれない。そのうち酔いで演技かどうかも判らなくなってしまうのだから。
足腰は意外としゃっきりしていた、これなら途中どこかでひっくり返って夜明かしせずに済みそうだ。香が翌朝来てみてもベッドが空だと驚いて死ぬほど心配するだろうから。

真っ暗な部屋に帰りつくと、何かが赤く点滅していた。留守番電話か。こいつが香の代わりに俺の帰りを待っててくれたというわけか。
キッチンに向かい、やかんを火にかける。そのままアルコールの余韻の中で眠りに就いてもよかったのだが、それだと叩き起こしに来た香が嫌な顔をするに決まってる。シャワーで酒の匂いを洗い落として、その前にコーヒーで少ししゃっきりするか。あいにく、インスタントしか選択肢は無いが。

ピーッ 
 《あ、撩?今こっちに着いたとこ。これからお風呂入って寝るね。
撩も早く帰ってきて寝なさいよ。なーんて言ってもムリか、
どうせ聞くのは帰ってきてからだもんね。
でも、これを聞いたらすぐ寝なさいね。じゃあね、撩。おやすみ》

再びピーッという音とともに再生が終わった。ついいつもの習慣で消去ボタンに手が伸びそうになるが、寸でで思い直して香の伝言をリピートする。

《あ、撩?今こっちに着いたとこ。これからお風呂入って――》

そして、インスタントのコーヒーに口をつけた。あいつの声をもう少しアルコールの抜けた耳で聞きたかったから。でも、その声だけで不味いコーヒーがいつもの香が淹れたもののように思えるのが不思議だ。

窓の外、カーテンの向こうではしらじらと夜が明け始めていることだろう。
また朝が来る、俺たちを隔てる夜が終わる。そして、また香に逢える。
そう思うと朝が来るのが待ち切れなかった、このまま眠ってしまうのがもったいないくらい。

10,000hitキリリク企画第2弾ということで、れにゃんこさまから
「アフターから後、お引越しでみんなに告白までのリョウの行動」
とのリクエストを頂きました。
cbcから、同じくれにゃんこさまキリリクの『Moving on!』までの間
夜の街に消えていたのか?それとも早々に帰宅?が気になったとのこと。
こうして作品世界を愛してくださるお客さまがいるのは書き手冥利に尽きます。
そして、今回は自分に無い視点だったので、より視野を広げることができました。

『ワン・モア・フォー・ザ・ロード』というのは実際にあるカクテルです。
それとは別に『ワン・フォー・ザ・ロード』というのはカクテル名ではなく
撩の言うように「最後の一杯」、帰りづらいときの景気づけだそうです。
この言葉を初めて聞いたのは『相棒』の……と、話せば長くなりますが【苦笑】
ほんの少し、TUBEの『青いメロディー』が入ってしまったような。

ということでれにゃんこさま、こんなんでよろしかったでしょうか?
これからもHard-Luck Cafeをどうぞご贔屓にm(_ _)m


City Hunter